5. 海神の調べ

 ……蒼い海のしらべ


 そっと触れた未来 光の向こうへ


 あたたかな歌声が 呼ぶ静寂しじま……


 もう一度 生まれるため 闇にまどろむ


 ……………………


「それ、何? 新しい曲か何か――?」

「……うん。今度起用する新人の作詞家さんの詞につけてみた曲」


 何気なくアコギの弾き語りで歌ってみせた、片言のフレーズ。ヴォーカルの沙原琴音は今回新しくユニットメンバーとして加わることになる帆苅洋介に告げた。今度始まるアニメの曲――そう、例のルミナス・コードっていう。あたしたちが以前、OPオープニング主題歌を担当してた……今度もOP主題歌かどうかは、わからないけど。


「何だか、優しいけど、ちょっと悲しい感じの曲だね」


 で、誰。その新人作詞家って。帆苅の質問に沙原は、そのアニメの監督さんから紹介されて……、ごめん、名前なんて言ったか覚えてないや。まだこの最初のフレーズしか出来てないし。それにまだ正式な決定じゃないしね。


 そんなやり取りをしたのが、ちょうど一ヶ月前。それからしばらくしたG・W《ゴールデンウィーク》後、晴れて曲は完成した。絡み合うようなツインヴォーカルが売りのユニットLuna-Mariaの歌うその曲が再び主題歌としてOPを飾る「ルミナス・コード」第二期“くれない幻影ミラージュ”。どこか忘却の彼方を想うような、その穏やかな冒頭フレーズは、物語のほんの始まりに過ぎなかった。


 ……いつだって、それははじまり。おずおずと、けれど確かな確信で伸ばしたこの手。


 ――たとえそれが誰かを、いや自分自身を傷つけることになっても。決して停められぬ運命という、あらかじめ決められた時のレールさえ捻じ曲げるような、そんな想いの力。最初から飛ぶことを怖れては、鳥は羽ばたけない。空から海へ飛び込んで魚になるくらいの勢いで――いや。海に飛び込んで泳いだのは鳥、そして空を羽ばたいたのは魚かもしれなかった。そう、あたしたちが向かうのは、そんな想像もできない遥かな未来だった。


     *


「……じゃ、彼女とはあちらで会えるんですね? 監督」

『ああ、草薙君。君の方が色々と知っているんだろうがね』


 はは、御謙遜を――竜崎さん。いや、ヴァルゴ。携帯を手に話す後姿の人影。その口元は僅かな、しかし確かな笑いを浮かべていた。


「懐かしいな、熊野……神々の隠れるその神聖なる悠久のもりで、皆さんをお待ちしていますよ」


 白々しい、リベルテのいぬが。そう胸中で呟きながら、それでも竜崎は目に見えぬ距離を越えて相手の思惑を見透かそうとした。草薙那由人なゆと。我々の計画の先にある総てを知る人間。無論、伊勢崎ナミについても……。


「それにしても、どういう風の吹き回しでしょうね? あなた自ら、こちらへ出向くなんて――」


 ああ。ちょっとした息抜きみたいなもんさ。それよりLuna-Mariaの作詞家の君こそ……、いや。そのための熊野だったな。要するにパワースポットなんですよ、熊野も、そして出雲も。極々平凡な人間が、いつしかその本当の力に目覚める――デュナミスとか超能力とか、確かに至極便利な力なんでしょうけどね。


『――いや、案外そんな都合のいいもんじゃないかもしれないがな』

 竜崎の言葉に、草薙はふと眉を顰める。


「彼女がこれから紡ぎ出す物語なら、もう届いていますよ。その一部が既に一ヶ月前に、ね」

 時間を歪める能力、か。いや“その地”では、既に過去も未来もないのかもしれない。


 それでは、楽しみにしていますよ。あなたの大切な小羊さんに逢える瞬間ときを。その言葉を最後に男は携帯を切った。


     *


 その翌日、どういうわけか、あたしは近畿地方行きの新幹線に揺られていた。


 目指すは伊勢、そして熊野。そう、熊野古道をはじめ、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の熊野三山を懐に抱いた霊場である紀伊山塊周辺は日本の世界遺産に登録されている。その熊野に、である。なんで、どうして? ロクに寝ていないせいか正直頭がぼうっとしていて要領を得ないが、その理由を自分自身に思わず尋ねる。しかも一緒に同行しているのは、篠崎さんと、そして水澤ひとみ……そう、そうなんだ。あたしは未だ夢の中にいるように、昨夜のことを思い出していた。


『ごめん……』


 突然のキス。それもファースト……、濡れた瞳のまま、あたしは何が何だか分からぬまま、その初めての感触に、ただただ心を奪われていた。何だか意識が朦朧とする。呼吸が出来ないくらい唇を吸われた気がして、その瞬間、突然気が遠くなる。まるで永遠みたいな、その一瞬の後、そっと唇を離した篠崎さんが、そう謝った言葉も、どこか遠くに聞こえた。


 ぅん……、あたしは声も出せずに、泣きじゃくることもできず、喉を鳴らしてただ俯いた。何だか苦しい、それにどうしていいかわからない。篠崎さんの顔すらまともに見れないのに、本当はこのまま抱きしめていて欲しかった。何もかも忘れて、どこかに連れて行って欲しかった。でも――。


 瞬間、直に感じていた篠崎さんの体温が急に身体から離れる。やっぱり。どこかもどかしげに、躊躇するように、その気配が戸惑っているのが分かった。二人とも言葉をなくしたまま、その場に留まり、本当に随分と長い時間が経過したような気がした。


 ごめんね――、もう一度確かめるように篠崎さんが言った。その泣くような声色に、あたしは改めてぎゅうっと胸が締め付けられるのを感じた。確かにあたしは恋をしていた、篠崎さんに。あたしは、この人が好き――そう思うと、再び涙が溢れ出してくるような気がして、思わず俯いたまま唇を引き結んだ。さっきまで篠崎さんが触れていた口付けの余韻が殺されていく。そう思うと、このまま離れがたい思いに揺さぶられてしまう。


『――やっぱり僕には、ひとみがいる。でも、君を傷つけるつもりじゃなかったんだ』


 そうついて出たその言葉に、そんなこと言わないで……お願い。あたしは胸の中で、そう叫んでいた。そして、『……さん、篠崎……さん、』あたしは小さく呟きながら、背を向けたそのシャツにしがみつくように両の手を添えた。


 ナミ……――、もう一度そう呼ばれる。伊勢崎さん、ではなく。振り返ったその人に優しく抱きしめられる……でも、それは、あたし独りの妄想。それだけで、あたし自身のすべてが溶けていきそうなのに。


 でも、その人はもう、そう呼ばなかった。


     *


 とりあえず落ち着いたあたしたちは、もう一度穏やかに話をした。冷静に、とまではいかなかったかもしれないけれど。


 ――実は円城寺さんに、昨日こんな話をされたんだ。ひとみを連れて、熊野まで行ってくるようにって。確かに向こうは僕の生まれ故郷でもある。熊野三山にも学生時代、何度か足を運んだことがあるし……、でもそれにしたって突然、一体そのことに何の意味が。そう思ったけれど、もしかしたら、それでひとみの意識が元通りになる可能性も、あながちなくはないんじゃないかって。


 要するに、単なる度重なる仕事上でのストレスということも考えられた。それならば一時でも、空気のよい場所へ行って英気を養うという選択もありうるわけだ。


 それはともかく……、篠崎さんの声が瞬間、一層低くなった。君も一緒に連れて行くように、確かに円城寺女史はそう付け加えた。確かに時前に用意され、渡された切符チケットは三枚――。


『私……?』

 思わず篠崎さんと目が合い、不意に互いに視線を逸らす。

『やっぱり今回の件については、納得がいくまで調べて見極めた方がいいと思うんだ』


 というか、これ以上おかしなことに巻き込まれないように――、本来なら君は手を引いた方がいいとは思うけど、もうここまで来てしまった以上。確かに篠崎さんの言う通り、あたしはもう後戻りすることは、かなわないような気がした。それは多分、未玲も。


 そういえば、間もよく時期的に今週はG・W《ゴールデンウィーク》まっただなか。あたしも明日からちょうど一週間休みだった。本当にごめんね、そう篠崎さんに言われて、思わず無言で頭を振る。まだ、さっきのキスの余韻が唇に残っている気がして、少しだけあたしの頬はあかみがかっていたかもしれない。


     *


 ぼんやりと車窓に映る景色を見つめる。ほとんど流線型に流れていく初夏の緑は、それでも瑞々しい色彩を眸の残像に残して過ぎていく。ふと見ると、向かい合って席に座る水澤ひとみも同じように、いや、あたし以上にぼんやりと焦点の合わぬ眼差しを窓際に向けていた。


 一応、実家いえの親には友達と急遽旅行に行くことになったから、とだけ伝言で伝えておいた。確かに、あれから一旦家に戻ったとはいえ、その足で夜が明けきらぬ前に簡単に荷物をまとめ家を出て、そのまま篠崎さんの待つ駅前に向かったんだから、自分でもちょっと常軌を逸していると思う。


 だけど、それ以上にあたしは何かにせかされるように、ほとんど何をおいても、その先に進まざるを得ないような衝動に突き動かされて。それを単に恋のせいだと言うのなら、そう言ってかまわないのかもしれなかったけど。


 目の前の水澤さんは、昨日のアフレコ時の元気のよさが嘘のように、再び深い水底みなそこに沈んでいるような異様な静けさを纏っていた。声をかけようにもかけられない、そんな重たい空気が辺りを包んでいる。篠崎さんは、そんな重い空気を和ませようかとするように、何か飲み物を買ってくる、と席を立った。それが、ついさっきのこと。けれど、本当はこの三人で顔を突き合わせているのに耐え切れなくなった、そんな感じだったのかもしれない。


 それは、あたしだって同じ。まるで呼吸を停めた人形のように押し黙る水澤さんは、それでも確かに息をしてここにいた。そして時折、思い出したように誰かに向かってにっこりと微笑む。それが何だか、何とも言えず息苦しかった。


「ひとみ……ほら、」


 席に戻った篠崎さんがペットボトルのお茶を差し出すと、水澤ひとみは、差し出されたそれを無言で受け取る。まるで篠崎さんのことが見えていないみたいだ。そんな彼女を、切なげな表情で見つめる篠崎さん。そんな二人の様子を見つめる、あたし自身も胸が痛かった。


 彼女がどうしてこうなったのかは、篠崎さんにも本当のところはよく分からないとのことだった。でも、確かに彼女はルミナス・コードの一期最終回を録り終わってから、こうなってしまったことは確かなのだ。しかしその後、一年前の春から、ほとんど音信不通になってしまった。それは恋人である篠崎さんは勿論のこと、世間一般の人たちの目からも。


 たとえ若手声優といえど、彼女は世のトップアイドルに近い存在感で、その世界の通であるオタたちの人気を得ていた。その彼女が――、様々な憶測が一時飛び交った。突然の引退、そして失踪、自殺説まで。けれど、そんなわけがないという強い思いに支えられ、皆じっと待った。ネットでは相変わらず彼女の消息を占い考察するサイトやスレッドがあふれ続けた。


 そして今年の三月。ルミナス・コード第二期の放送が唐突に発表され、そのスペシャルイベントまでが満を持して開かれた。そう、ほとんど用意周到なまでに。


 それから、それほど多くはない公式のインタビューやゲストなど、まともに人の目に姿を現す時には、当たり前のように彼女は以前と何ら変わらぬ眩しい笑顔を周囲に振り撒き、その存在のオーラが未だ健在であることを人々に知らしめた。でも……。


 あたしと篠崎さんは、その笑顔が作られたものであることを知っている。まるで操り人形のように、彼女は何かの人為的な力によって、文字通り「生かされている」。でもそれが、まさかあたし伊勢崎ナミがいるから、キープされている偽りの輝きだなんて――そんなこと未だに信じられないでいる。


「……はい」

 篠崎さんの差し出す飲み物を「……すみません」そう言ってあたしも受け取る。


 確かに何かが歪んでいる。その世界の片隅で生じた歪みの中に、時間と空間ごと放り込まれてしまったような。そんな不可思議な思いに包まれる。その歪な時空の狭間に、既にあたしたちは片足を踏み入れてしまっていた。それがきっとルミナス・コードなんだ。


 それでも多分、この人となら、いいえ「この人だから」あたしはそんなワケの分からない世界の歪みに踏み込む決心をしたんだと思う。そう、突然降って湧いたような、ただの恋の病。そして、そんなあたしをきっと未玲は……本当にごめん、未玲。でも、あたしは篠崎さんを放っておけない。ほとんどそんな確信のようなものに支えられて、あたしは。


 三重県は伊勢まで、あと三時間。とりあえずその玄関口のような、伊勢神宮に詣でてから熊野に向かう。夜明け前に東京を経ったから、もうそろそろあちらに着く頃だろう。その日、生まれたばかりの日の光を浴びて、キラキラと輝く世界そのものが、あたしたちを歓迎しているような気がした。


     *


「本日は、最新アルバム『ひとみんレボリューション』の制作も決定した水澤ひとみさんにゲストにお越しいただきましたぁ!」

「いやーほんとにお久しぶりですねー」

「はい、ファンの皆さんには大変ご心配おかけして、すみませんでした!」

「何かインドの山奥へ修行しにいってたとかいう噂もあるみたいだけど?」

「あっはは、インドですかぁ」

「いやマジで修行かなと……何だか前より日焼けしてるような気もするし」

「ええまぁ、ちょっとね。グラビア撮影とか南の島で」

「それは楽しみですね、古い例えだけど、ひとみんオブ(ピー)ョイトイとか見られるわけですかー」

「いい加減におし!ボヤッキー」

「ぎゃはははは」


 これが今目の前に写っている若手声優アイドルと同一人物なのだろうか。先週放送された某アニメ系ラジオ番組の録音を聴きながら、相澤は思った。数時間前に秘密裏に某駅構内で撮影された一枚のフォト画像。できるだけ人目につかぬよう、ひっそりと行動する男女三人組のその中で、一層青白い表情で人形のように俯く美少女。ま、無理もないか。予定通り例の三人は近畿地方行きの「のぞみ11号」に乗車した。それを追って竜崎円城寺組も、ほどなくしてあちらへ向かうだろう。そして自分はといえば……、本来なら実質、単独行動で某人物の監視を行うため、同時進行でレンタカーを使い、断続的に熊野路を行く予定だった、のだが。


「おい相澤、酒が足りねーぞ、聞いてんのか、コラ!」


 突発事項発生。てゆうか、この酔っ払い女どうにかしてくれ。音楽プレイヤーのイヤホンを外し、相澤は目の前の席で、ふんぞり返る未玲を苦笑いしながら見やった。どうして僕が――とは思いつつ、結局未玲には頭の上がらない自分自身の不甲斐なさを呪った。


「神代さん、昼間からそんなに飲んだら身体に毒だよ」


 うっせーこれが飲まずにいられるかってんだ。相澤の忠告を他所に未玲は一人缶ビールを煽った。確かに今、未玲はどうしようもなく落ち着かなかった。このまま素面シラフでいたら、どうにかなりそうだった。


 そりゃ、いくら親友だからって年がら年中、ナミのことを監視しているわけにはいかない。それじゃまるでストーカーだよ。だけど……ナミはやっぱり篠崎聡己と。それほど大々的にではなく確かに地味にだが、このルミナス・コードが切っ掛けでその手のアニメ誌や声優雑誌のグラビアで最近取り上げられるようにもなった篠崎は、それなりのイケメン声優だった。今のご時勢、たかが声優だろうと、声だけでなく歌やグラビアやTVなどへの顔出しなど、マルチなタレントとしての側面も必要とされてきている。


 親友のナミを疑うわけじゃないが、ナミがその篠崎に絶対に心傾かないとも保証できない。ていうか、確かあいつ、水澤ひとみと付き合ってるって噂もあるんじゃなかったのか。


「だあぁぁぁーーーーッ」

 ナミに指一本でも手を触れてみろ、タダじゃおかなぃんだから! 突然、髪を搔きむしり始めた未玲に、さらに相澤は苦笑い。


「それはそうとアンタ、実際、熊野へ何しにいくつもりなのさ」


 思い出したように口を開いた未玲に相澤は相変わらず、はっきりしない態度で口ごもった。だ、だから、単なるロケで……こうしてデジカメ持参で来てるし。そりゃそうだろうよ、旅行にカメラは付き物だしね。ていうか、肝心のナミたちは、いつ頃あっちに着く予定なのさ。それをまず押さえておかなければ始まらない。


「今頃もう着いてるんじゃないかな? 僕たちより一本前の新幹線のようだったしね」

 しかし、伊勢から熊野路に点在する熊野三山まで、それなりの距離がある。


「ね、熊野古道って世界遺産なんだよね」

「うん、そうだよ。熊野三山は勿論のこと、あの辺りの霊場や参詣道はすべて」

 じゃあ、そのハイキングの装備は現地で調達するとして――、え? 

 とりあえず、その伊勢路から行けるんでしょ?


 本来ならハイキング気分で行けるような所ではなかった。場所によっては急峻な峠を越えなければならない箇所もあり、実際すべての参道を踏破することなど常人には不可能に近かった。勿論、相澤自身も適当にレンタカーを調達してランダムに各スポットへ向かおうと計画していた。しかし、それを知らない未玲は、こともなげに言い放った。そう、全行程制覇(走破)する勢いで。


「急ぐぞ家臣ども、ナミたちを追って伊勢路をゴー!」


     *


「おい凛! 待てよ凛――」

 そう声をかけ、唐突に録音スタジオを飛び出していこうとする、その肩先を掴む。

「……いきなり作詞家変更かよ」


 Luna-Mariaのリーダー岬リュウジに振り返ったのは、同バンドユニットのヴォーカル担当、黒崎凛であった。凛は確かに憤慨していた。確かにそれは今回だけかもしれない。しかし、これまで絶大な信頼を置いていた、ある専属作詞家の意思を無視してまで、レコード会社とそのタイアップ先であるアニメスタッフの意向に従わねばならないなど、どうしても納得いかなかった。


「お前の言いたいことは解る……だが俺たちは遊びでバンドやってるんじゃないだぞ」

 確かにそれはそうだ。レコード会社と契約し、プロデビューを果たした時点で、そんなことは既に解りきっていたことだった。凛も子供ではない。そのくらいのビジネス的理性は一応持ち合わせているつもりだった。だが……。


「俺は那由人さん以外の歌は歌わない」

 おい、凛! しかし、その声は、とうとう踵を返し乱暴に扉を閉じて出て行く後ろ姿には届かなかった。


「岬さん……」

 心配すんな、琴音。不安げな眼差しを向ける同ヴォーカル担当の沙原琴音に、優しく声をかける岬。

「凛も解っているはずだ、那由人がどうして今回、敢えてこういう選択をしたか」


 それは信頼以上の信頼だった。確かに今の彼らがあるのは、彼、草薙那由人の存在があればこそだった。それは女性ヴォーカルとして沙原琴音が参入することに決まり、バンド自体の方向性が大きく変わろうとした時もだった。確かにそれによって、とある大手レコード会社の目に留まり、晴れてLuna-Mariaはプロデビューへの階段を登ることが出来たのだが。


「あのぉ……お取り込み中のところ、すんません」

 岬と琴音は、そうおずおずと声を掛けられ初めて、その存在を思い出した。


 ごめんね、帆苅君――琴音は今回新たにバンドメンバーとして加わったドラム担当の帆苅洋介に、ばつが悪そうに振り返った。ちょうど彼を紹介しようとした矢先、作詞家変更の事実を知った凛との言い合いになり……。


「ドラム担当変更に、今度は作詞家か……」


 確かに帆苅は何も悪くない。単に一人抜けてしまったドラム担当のメンバーの補完要員として、彼が抜擢されただけなのだ。しかし、先程の黒崎凛のあまりに険悪な態度とその剣幕に、帆苅は面食らった。あれほど情熱的に歌うLuna-Mariaの男性ヴォーカルが、これほどまでに頑なな頑固者だったとは。


「あたし、もう一度だけ黒崎君に掛け合ってみる――」

 そう言って一人スタジオを出て行く琴音。岬も帆苅も、ただ無言でその背中を見送るだけだった。


     *


 とってもいい曲に仕上がったのに……出来上がったばかりのデモテープを手に琴音は途方に暮れた。

「黒崎君……」


 考えてみれば、凛と最初に出会った時も、こんな風に手酷く否定され、容易には受け入れて貰えなかった。それでも、これまで何度かぶつかりながらも、こうやってプロのアーティストとして一曲一曲をリリースし成功するその度に、お互いを認め合えたと思っていた。しかしそれも、あたしたちの間に必ず那由人さんがいたから――。


 五人目のLuna-Maria。メディアは彼のことを必ずそう謳った。それは作詞ばかりでなく、ユニット全体のサウンドアレンジャーまでも、一部彼が担当していたからだった。ほとんどはベース担当である岬リュウジの手によるものだったが、彼草薙那由人が加わることで、独特の深遠な世界が楽曲全体に広がった。


 勿論、今回作詞からは手を引くが、それでもサウンドプロデュースは今まで通り、彼と岬リュウジとの手になるものだった。それでも彼の紡ぐ詞の世界は、それだけで楽曲やアルバム全体を左右するほどの独特の存在感を持っており、それが違ってしまうだけで、どれほどの違和感を生んでしまうのか。……それも、どこの馬の骨とも判らぬ、新人作詞家。


 でも琴音は確信していた。きっと那由人さんは、この曲がどんなに人の心を動かすよい作品になれるか、解ってくれている。だから、黒崎君も。


『琴音……凛を信頼してやってくれ。必ず君たちは上手くやっていける――』

 そう囁いた那由人の声が、彼女の脳裏で人知れず木霊した。


     *


 琴音から、ほぼ頼み込むように強引にデモテープの入ったMDを渡されるも、しばらく放置していた凛だったが、妙な胸騒ぎに誘われるように、渋々それを音楽プレイヤーにかける。那由人さんは俺にとって特別だ。彼女の存在を認めたのも、最終的に彼がいたからだ。その特別な存在である彼が――誰が許しても俺自身が許さない。


 凛がそこまで那由人の紡ぎ出す詞にこだわるのは、やはりそれなりの理由があった。その“言葉”は誤解を怖れずに言うと、彼にとって神のような存在だったのかもしれない。彼は自分たちが歌いたい、伝えたい言葉を知っていた。それはまるで想いの矛先を先回りしたかのように。その重なり合う奇跡に導かれて……言葉といえる言葉を持たなかった俺たちの想いに形をくれたその人は。


 凛が心酔する以上に、きっと彼は凛の心深くにまで入り込んでいたのかもしれない。


「Iza-nami……作詞家の名前か」

 ベッドに寝転がったまま、MDケースを見やりながら一人呟く。しかし凛は、次の瞬間プレイヤーから流れてきた弾き語りの琴音の歌声を聴いた瞬間、心ならずもハッとした。

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