6. 聖地巡礼

 そう聖地巡礼。それこそは、あたしたちオタの一つの神聖な儀式。いつでも“その場所”は、無味乾燥なただの現実に心躍る夢や彩りを与えてくれる。でも、今回のこればっかりは、必ずしも、その代名詞である、そればかりとは限らなかった。 


 古来人々は神を崇めた。それは古今東西、何ら変わらない連綿と続くえにし。たとえ人の心が様々に変容し、時代が移り変わったとて。昔々に人々の心を一つにした神々の存在。目に見えぬそれは、目に見えぬものであるからこそ、尊い威光を人々の心に投げかけた。川のせせらぎ、森の緑、そよ吹く風にまで――、神々はそこここにあふれ、時代と人の心をそっと見守ってきた。


 ここ伊勢神宮も、既に人の手で整備され作られた聖域でこそあれ、そこに神が宿っていることは間違いなかった。人々の衣食住を司る豊受大御神を祀った外宮げくう、そして天照大神あまてらすおおみかみを祭神とする内宮。特に天照大神は皇室の始祖神で、日本人の総氏神でもある。内宮である皇大神宮と、外宮豊受大神宮は伊勢自動車道を隔て直線距離で約六キロ離れている。本来は陰の気質を持つ外宮から詣で、次に陽の気質の内宮へと参るのが古くからの習わしであった。


 伊勢市駅から徒歩十分。連休中とはいえ、早朝の神宮は、さすがに人気もまばらだった。あたしたち三人は、清々しい初夏の空気に包まれながら、まずは外宮へと向かう。


「やっぱり一味違うな――、伊勢崎さんは神宮は初めて?」

「ええ、」


 あたしの苗字とも似通っているのに、勿論あたし自身は一度も伊勢神宮にお参りしたことはない。それでも、何となく不思議な親和感に包まれて、あたしは思わず深呼吸した。とっても空気がいいんですね。そんなことを呟きながら、ひと時ルミナス・コードのことを忘れる。


 まず駐車場から第一鳥居参道に向かう。そこには神域を守るようにぐるっと堀川が巡らされ、そこに渡された火除橋ひよけばしを渡る。渡りきったすぐ左側には手水舎があり、ここで手を洗い口を漱ぎ心身を清め、正宮しょうぐうへと向う。その北側にも、勾玉池から流れ出る堀川に守られた北御門口参道がある。静々と敷き詰められた玉砂利を踏みながら進むと見えてくる第二鳥居の右前方に、外宮神楽殿が臨め、さらに小さな社殿の風宮、土宮、多賀宮たかのみやなどが鎮座する左手を臨みながら進むと、右側に正宮が見えてくる。


 豊受大御神とようけのおおみかみ御饌都神みけつかみとも呼ばれ、御饌、つまり神々に奉る食物を司る。衣食住ひろくは産業の守護神とも言われているが、それでも神宮の本殿は、あくまで天照大神を祀る内宮なのである。要するに、こう言っては罰が当たりそうだが、本編を拝む前の前戯とでも言えばよいのか。一通り外宮の正宮へ参拝した後、今度はお待ちかねの内宮へと向かう。内宮行きのバスが数分置きに出ているので便利なのだが、早朝とはいえGW中とあって早くからバスが出ていたので助かった。


「神宮の神様はね、やきもち焼きでカップルでの参拝を嫌うんだ――だからというわけじゃないけど、君がいてくれてよかった」


 バスに揺られながら、ふとそんなことを呟く篠崎さん。それは半分冗談めかして言った言葉のような。軽く驚く。でもそれは、もしかしたら本当は水澤さんのことなのかもしれなかった。それでもあたしは、今回の旅の始まりにまず、お伊勢さんへ参ることが出来てよかったと思った。


     *


 ……………………

 ……………


 全能なる母なる海、イザナミよ。


 イザナギが生み出した天照アマテルの巫女が再びこの世に顕現しようとしている。巫女は闇からいでし原初の光の皇子と一体となり、世界を蘇らせる。

 

 イザナミよ。今一度生まれ出、この海の闇を生命の輝きで満たすのだ。

それこそが、那由多の宝となる……


 …………那由多の宝と


 え? 一瞬、ルミナスの気が揺れたような気がした。いいえ、それは確かな鼓動。


 大切なものを奪われるこの感じ――そう、確かに今、目の前で彼女が消えた。リリアン、リリアン・パスティム。彼が絶対に認めることのなかった、その存在。しかし、すべてはその手にする瞬間に一抹の泡と消えた。いいえ、消えたわけじゃない。ただ彼の手の届かぬ場所へと失われてしまっただけ。


『瑠美那――!』

 瑠美那、はやく!……私と共に結界を張るんだ!


 しかし一瞬遅く、彼の言葉はその願いに届かなかった。次の瞬間、空耳のように響いた鳥の羽ばたき。その残響だけを残し……気付いた時には、光の奔流はやみ、あとには深淵とも思える黒々とした闇が残されただけだった。目を閉じれば、まだ瞼の裏に焼き付いた、その光の残滓が虚しくも眩しく。


 あたしたちは、その後島嶺叔父と別れ、研究所を後にする。そう、夏休みはまだ始まったばかりだというのに。その学園の真珠は失われた。共に奪われた宝の方がよほど重要なはずなのに、何だかルミナスは、そのことには一切感知していないようだった。あたし自身と一体になったデュナンの――ルミナスとしてではなく――その魂だけが慟哭にも似た怒りを全身に震わせ、今にも常日頃の冷静さを失い暴発してしまいそうだった。


 ……きっと彼は認めないだろう。あたしと一体となった身体で別の誰かを想っている、そんなことがあるはずがない、あってたまるものかと、そう呟き続ける声が延々と脳裏に響き続けている。けれど同時に、絶対に許すものかと闇に向かって咆哮しているのだ。


 ――彼女に手を出してみろ、俺が絶対に許さない!と。

 その大きな矛盾でさえ、あたしという人間の巫女との融合で結び合わされたものの賜物なのか。いいえ、それは。


 ここで一期前半終了っと。この後の次回予告がまた憎らしいんだよな。次の展開の期待を煽りつつ、実際来週は総集編だもの。しかし、ここからがルミナスの正念場なんだよね……主人公とヒロイン的にも、それに作品的にも。実際、このラストへ向けての一期後半の怒涛の展開が、ルミナス・コードをルミナス・コードたらしめたんだけど。


 桐子は未玲に送った近況報告メールの返信画面を、ちらと見やりながらルミナス一期のDVD第五巻を手に、溜息をついた。あんた仕事ほっぽって何やってんのさ。確かに桐子は知らなかった。未玲だけでなく主要スタッフが揃いも揃って熊野入りしようとしてるなんてこと。


 ……冗談は、ほどほどに。そう思って立ち上がろうとして、ふと不吉な予感がよぎり、メール本文の最後をもう一度読み返す。


『――あたし、どうしたらいいんだろう。友達が危ない橋渡ろうとしてるのに、それを止めらんない』

 友達って、確か以前言ってたナミって子?


 未玲には、それほど友人は多くない。専門学校時代のみ一緒だった桐子でさえ、そのことをよく知っている。けれど“彼女”だけは特別だった。あたしに対するようなラフな感じとはまた別な、もっとこう、壊れ物を大事に扱うような。でも、桐子には解っていた。未玲なら絶対大丈夫だって……そう、絶対。それはあたし自身が保証する。


「ドンマイ、ドンマイ」

 桐子は携帯にただその一言だけを書き込んで送信し、一人ぽつんと苦笑いした。


     *


「どうするんですか、竜崎さん」

 だが、そう尋ねた声は確かにこの状況を楽しんでいるのだと分かった。

 ――どうするって、彼女のしたいようにさせておくしか、ね。

「未玲ちゃんは伊弉冉いざなみの君に御執心、と」


 やれやれ、といった口調で低く呟く。まあこういう状況は、ほぼ想定内の範囲だった。というより定められた必然というべきか。相澤たちとほぼ同時に、こちらは空路で出発した。羽田から伊勢を素通りしてJAS南紀白浜便で南紀白浜空港へ――約一時間のフライトだ。


 どっちにしたって彼女がいようがいまいが。とうに気付いているかもしれないが、時間の流れが微妙に緩やかになっているそのことを思えば。世間の誰もが気づいてはいまいがね。それも“彼”の仕業だというんですか。円城寺は竜崎に尋ねた。


「そうだな、やつに会って実際に確かめてみる、か……」


 伊勢路は魂の浄化のみちだ。伊勢と熊野、二つの聖地を結ぶ参詣道。かつてそこを往時の多くの巡礼者が往き、あるいは命を落とした。熊野を黄泉の国だとする説もある。そこは極楽浄土か、あるいは地獄か。どちらにしても神と仏とが同化し人々に広く受け入れられてきた日本人の信仰の原郷ルーツそのものとも言える。その奥深い山懐に抱かれた神々の隠れる辺境の地。


「いずれ“彼女たち”とも合流できるでしょう、その忌まわしい邪念を辿っていけば」

 円城寺の涼やかな声が、背中越しに竜崎の見ている機内窓外に続く紺青の空の遥か彼方へ吸い込まれていった。


     *


「瑠美那、行くぞ……!」

 唐突に意を決し、怒りに我を忘れた少年に、しかし問いかける。

『行くって……どこへ?』――決まっている。


 ただその一言だけ答えると“彼”は黙ったまま歩き出す。無論、宿舎に戻るでもなく、そしてアマテラスドームに向かうでもなく。何かを約束したわけじゃない。でも、その存在自体がなかったものであるなどと肯定することはできない、今さら――何も、何もなかったなどと。ルミナス……。


 くっ……ふふ、ふ……突然眸を伏せて笑い出す。額を覆ったその黒髪が、ふわりと揺れる。

「これほど滑稽な茶番は見当たらないな、そうだろう瑠美那」


 ルミナス、か。太陽神、日の神……光の守護神。そう謳われた、この私が。それもお前以外の、つまらぬ人間の女などにうつつを抜かすなどと。そう、所詮私は隠されし光。あのツクヨミの如し穢れた存在と、どこが違うというのだ。わかっている――この身が往くその後ろには、常に無数の屍が横たわるのだと。お前も感じているのだろう、我が望みの向こうに拡がる、黒々とした深い闇を。……当たり前、か。


「所詮、我が身には何人たりとも救うことなど――!」

 そんな、こと……苦渋に満ちたその魂に、あたしがそう声をかけようとした、その次の瞬間。


「――そんなことはない、太陽の皇子みこよ」

 そう呼びかけたその声に、デュナン・リトラスは顔を上げた。


『えっ……リリアンが行方不明?』

 その突然の報告に諒牙は言葉を失った。

「ああ、そうだ――俺が付いていながら面目ないが、いきなり目の前から忽然と……、」


 まずイオリゲル候補生である諒牙に連絡したのは。そうだ、こんなこと誰も信じちゃあくれまいからな――、島嶺は念を押すように言った。

「いいか、このことはしばらく誰の耳にも入れるなよ……幸い、今は夏休みだ。少なくとも、あと一ヶ月は」


 あと一ヶ月。その間にどうにかできるって言うんだろうか。そんなこと。彼女が突然消えた理由の、そのまだ何一つ判ってないっていうのに。

「確かにお前さんの考えてることは分かってる。別にイオリゲルじゃない俺でなくたってな、」


 そう笑いながら告げながらも、島嶺の表情は引きつっていた。あれは……龍神の仕業とも違う。確かあの眩しい光の奔流の中でデュナンは誰かと話していた。それだけは、おぼろげに覚えている。しかし同時にあろうことか、あのオーパーツも一緒に。


 一体どういうことだ? 龍神の化身であるところのアイツは俺の傍にいた。ってことは……。


『いいか、彼女は俺の用事で、しばらく沖縄に行くことになった、とでも皆に言っといてくれ――後のことは全部俺が責任持つ』

「あっ……島嶺先生!」

 島嶺からのTELは、それだけ告げてガチャンと切れた。


     *


二三ふたさん三〇さんまる、メンテナンス先のツクヨミドームより先ほど移送されたサーペントの被験体が到着する――」

 その報告に、睦月真吾はゴクリと生唾を飲み込んだ。


「いいか、我々に今回与えられた任務は、そのサーペントの被験体の保持及び生体観測、並びに共に“龍神”の捕獲を行うことにある――そして、睦月曹長」

 ハッ。名を呼ばれて背筋を伸ばし敬礼する。

「曹長には、その被験体と“彼”の乗る機体の直接管理の命が下っている」


 並び居る隊員たちの間で、そのひょろ長い背格好の青年が緊張しているのは誰の目にも明らかだった。貧乏クジ。誰彼と言わず無造作に放たれた、その思念が雑多に睦月の脳裏に流れ込む。だが、


「……大丈夫だ、そんなに心配すんな」

 睦月だけと言わず不安に支配された隊全体に、キリアンは突然表情と口調を崩して呼びかけた。お前たちなら、どんな任務でもこなしていける、そうだろう?睦月曹長。


 いきなり、こちらに振られ「はっ」思わずそのままの体勢でぎこちなく答える。腰が引けてんぞ、曹長。ポンと尻を叩かれ、さっきからの緊張が途端に緩む。


「やっこさんは、ちょっと手のかかる野生児だそうだが、それなら俺たちも負けてないからな!」

 隊長、それ言いすぎ――口々に放たれるそんな声なき声に、キリアンはお茶目にウィンクしてみせた。


 ま、ちょうどよい頃合だったってわけね。先ほどスサノオドーム港に停泊しているアステリウスに移送させた被験体。あいつが覚醒するのをこのまま気長に待ってたら、首を長くして待機してる彼らに申し訳ないもの。ベアトリーチェは思った。


 ツクヨミドームで何があったかは分からない。でも、確かにサーペントの被験体は、その本来の姿に目覚めた。そう、あれはもう人間じゃないわ。本能で動く獣……確かに半分化け物の彼らにはお似合い、かしらね。


「睦月真吾……」

 しかし、唐突にアイツのことが脳裏に浮かんで頭を振る。

「ああ、もう!」


 どうせ彼は彼自身の想い人である龍蛇の巫女を――そう、もう逃れることなどできないのよ。アイツも、アイツが想ってる金城瑠美那っていう小憎らしい小娘も。全ては逃れることのできぬ、運命。


『どうしました、ベアトリーチェ……』

「うるさいっ!」

 思わずそう声を荒げるも、テレパスの相手がワイズ博士と知り我に返る。

 ……っ、なんでもないです。


『――そうですか、何か物思いに耽ってらっしゃるようでしたので、てっきり被験者に情が移ったものと……いや、そうではないようですね』「当たり前です」


 プイッと目に見えぬ相手の声に顔を横に振る。それはよかった、一級の研究者とはいえ、まだ一四歳の少女相手にワイズは柔らかく答えた。それはそうと――、

『例の小ネズミの正体が判明したようです』


 その言葉と共に目の前に転送され展開される光化学スクリーン。何こいつ、まだ小娘じゃない。素早く森林の蔭を走り抜ける、その姿をカメラはそれでも克明に捉えていた。


『惜しくも取り逃したようですし、それにまだ、どこの手の者かも判ってはおりませんがね』

 しかし、どう見てもその少女は龍神と同じアストラル体とは思えなかった。しっかりと地に足をつけ大地を駆け抜ける逞しさが、そこにはあった。


     *


「……お前は、誰だ?」


 人目を忍ぶように月明かりに照らされ、立ち尽くしているその人影に目を凝らす。見覚えのない赤毛の少女――いや、あの眼光。一分の隙のないその気配や、半ば煤けたマントを羽織ったその姿からは、相手がそこらのハイキングで迷った青少年でないことは明らかだった。


 それより、俺のことを知っているのか? 俄かに警戒心が強まる。

「そうだ、お前のことはよく知っている――」


 一瞬、ただの学生の振りをして、この場をしのごうかとも思ったが、どうやらそうもいかないらしい。どういうことだ? デュナンは目の前の相手に鸚鵡返しに尋ねた。


「お前に……お前に救って欲しい人がいるのだ」

 突然現れた、俺のことを知っていると言う見も知らぬ女に誰かを救ってくれと頼まれる。これほど奇妙なことはない。だが――。

「私の名はクロエ……お前は、」

 デュナン・リトラス。そう、俺は太陽の皇子おうじさ。


 いきなり相手からそうあからさまに名乗られ、瞬間クロエは面食らう。しかし、本当の意味でデュナンは自身を曝け出してはいなかった。そう……こいつはクスヒ様ではないのだ、そう己自身を納得させる。確かにニヤリと笑う目の前の黒髪の少年は、別の思惑を持って今、クロエと対峙していた。


『――もしかしたら、こいつは使えるかもしれない』


 どうやら神話時代の俺のことを知っているようでもある。だとしたら好都合だ。相手には相手の頼み事もあるようだし、そうであるなら、こいつは気兼ねなく俺が動くための助けとなりそうだ。


「そうか、なら……交換条件と行くか」


 お前のその救って欲しいというやつを助ける代わりに、俺にも俺の――それも今すぐに動かねばならない目的があるのだが――お前には、その手助けをして貰う。わかった、いいだろう。女はすぐに承諾した。


 その二人のやり取りを息を殺しながら、一人あたしはデュナンの意識の裡で見守っていた。しかし、『あ、あなたは……っ!』


 思わずそう声に出し叫びそうになるのを必死で抑えた。っていうか、なんでだよ。なんで、あたしは彼女と少し前から知り合ってたことをルミナスに隠そうとしてるんだか。ていうか、アイツ自身がこれまで、そのことに関して何も知らなかったことが、今でもまだ尾を引いている。あたしとアイツは今や一心同体。であるならアイツがそのことを知らないわけがないんだ。じゃあ、なんで……。


 だからあたしは、思わず声を噤んだ。何かワケがありそうな気がして、そのことをこちらから尋ねることさえ、何だか憚られるような。けど、どちらにしてもルミナスはルミナスとしてではなく、あたし自身でもあるデュナンとして、クロエと出会った。


 でも、ルミナスはまだ彼女のことを思い出していないみたい。てっきり彼女とルミナスは昔からの知り合いだと思ってたのに。思わず、今は眠っているあたし自身の本体が持っている、例の翡翠の勾玉のペンダントを心に思う。


 そうだ、龍蛇の巫女よ。お前の御神は、どうやら私が誰かも、まだ気付いていないらしい……。


 目の前の少年の中に潜む少女の思いを知ってか知らずか、クロエは瑠美那に人知れず呼びかける。だが、その方がこちらとしてもやりやすい。たとえこのまま互いの正体を知らずとも。そう、私自身の本当の名を思い出して貰えなくとも。


 ただクロエの心は、龍神と化した哀れなある皇子をたすけるためだけに、今は動くのだった。


「龍神?」

「ああそうだ。理由わけあって龍神の血潮を体内に注がれ、今ガイア軍に囚われている、ある人を私は助けねばならない」


 ――彼は私の命の恩人でもある。そう言って押し黙るクロエ。その表情には深い悔恨の念が沈んでいた。悔やんでも悔やみきれぬ、深い海のような。……お前は俺のことを知っていると言っていたな。重い空気を他所にデュナンは矛先を変え、話の核心に触れた。


「まだ思い出していないというのなら、無理に全てを思い出す必要はない……どちらにせよ、」

 ……どちらにせよ、血塗られた道。そう低く呟くデュナンの表情を見やるクロエ。


「お前の言う、そのテロリストの親玉でさえ同じ道を歩んできたのだろう、ならば、そいつをたすけようとしている俺自身とて、同じだ」


 デュナンが何を思ってその言葉を紡いでいるのか、クロエには判らない。もし嘘をついているのだとしても、その真意を測ることはできないのだ。本来クロエにとって彼は仕えるべきあるじ。それも高位の神威を宿した龍王の中の王であれば、なおのこと。


「どちらにしろ、俺はガイアの連中を倒さねばならない。奪われた宝も取り返さなければならないしな」

 ……那由多の宝。記憶を辿るように、そうそっと呟くクロエの言葉を反芻する。

「那由多、か。森羅万象、万物の中でも、その遥かなおおきさ、甚大さに誰もがおののく」


 俺には「力」が必要だ。そうだろう、クロエ。お前が知っているという俺自身の真実が俺にあるならば、必ずそれは大いなる力を欲する。やつらに囚われているのは、何もそのアグニとやらだけではないのだからな……、そこまで続け、不意に途切れる言葉。その眸の奥に沸々と煮え滾る怒りの焔。それを確かにクロエは今、自身の眸に映していた。


 こいつの言っている龍神とは、おそらくカグツチのことだろう。アグニ、焔の神か。何という奇しき巡り合わせ、俺はそうとでも喜べばよいのか。たとえ死しても、あやつなら必ず蘇る。それが炎の龍サラマンダーの宿命なら。奇しくもその海賊テロリストの身体に宿ったカグツチ。それがたとえガイアの仕業なのだとしても、双方に融和するものがなければ、やつの血潮が再生することは決してかなわなかっただろう。インディアナのヴァシュラート――ナーガラージャの伝説か。そのまま龍神を意味する龍王は、確かにその皇子の中にもいたのかもしれない。


「クロエ、明朝にもこのドームを出発する――やつらに気取られぬうちに、ガイアのいぬどもの居場所を突き止める……!」

 デュナンは、まるで自身の中に宿ったもう一人の半身のことなど思い出しもしないように、毅然とした声で告げた。


     *


 目の前から忽然と消えたのは、リリアンだけではなかった。デュナン・リトラス。念のためと思い、学校の学籍名簿を確認してみたが、案の定やつの存在それ自体が、跡形もなく抹消されていた。それに驚くことに彼の存在について覚えている者は誰一人として学内にいなかった。教師や教授、そして同じクラスだった彼と関わりのあった学生全て。


 やはり、動いたか。あの後突然、研究所からいなくなったデュナンの痕跡を辿ろうとしたが無駄だった。おいおい、悔しいが仕事が速すぎるぜ。島嶺は舌打ちした。結局やつのことを覚えているのは、俺と睦月諒牙だけってわけか。それと多分……リリアン、リリアン・パスティム。イオリゲルである諒牙はともかく、あいつが俺の記憶を消さずに置いたのは。つまり追って来いってことかよ。笑いながら、どこまでも面白いやつだと思った。


「ま、やっこさんを追っていけば、自然と消えた宝のありかにも辿り着けるって寸法ですかね」

 ――それと、やはりガイアの連中の動きも気になる。お久しぶり、瑞穂ちゃあん……、島嶺は手元の携帯を手にし、久方ぶりにその番号をプッシュした。


 どうしても諒牙には納得がいかなかった。それもそのはず、ツクヨミドームは島嶺助教授の研究所に向かったまま行方不明となったリリアンについても、腑に落ちない点が勿論あったのだが、一緒にツクヨミドームに来た学生たちの誰もがデュナンのことを覚えていなかった。彼らが誰一人として嘘をついていないのは、デュナミスの力を持つ諒牙ならば容易に見透かせた。たとえリリアンと一緒に彼も行方不明になったのだとしても、彼のことを皆が皆、突然忘れてしまうというのは、どう考えてもおかしい。


 そうだ、ヴェルなら! そう思って彼女の姿を探す。

「ヴェル、ヴェル!」


 しかし、真っ先にリリアンのことを伝えなければと考えていたヴェルトーチェカの姿が、ここ数日見えないのを思い出した。無論、学園の寄宿舎同様、こちらの合宿寮も男女別々だったが、そういえば、ここのところ、勉強会にも顔を出してなかったしな。


 リリアンにデュナン、そして今度はヴェルまで……。


 まさかとは思うが、あまりに不自然すぎる。本当に気味が悪いほど。やっぱり、もう一度島嶺先生に。そう思って携帯を取り出すが、ツーツー……結局、相手は話中で繋がらなかった。兄さん。何だかおかしいよね、イオリゲル候補生の僕にも見通せないことがあるだなんて。でも内心、そのことがほんの少しだけ嬉しくもあった。


「ええ、そうよ。金城瑠美那を来期から、そちらへ移籍させることが決まったわ……そう、普通科から」


 ちょうど間もよく久しぶりに連絡してきた島嶺に、草薙瑞穂は告げた。そう、そもそも、これは金城瑠美那を監視するように命じているガイア本国からの指示。それを聞き、なんで今さら……、何かを思案するように、そう耳元に響く低い声。


『ま、確かに同時に唐突に二人も学生がいなくなったんだから無理もな――、いや、それとこれとは関係ない、か』

「……正確には三人、かもしれないわ」

 三人……? さすがに驚きを隠しきれない島嶺。


「ヴェルトーチェカ・アルマ。彼女は親御さんの都合でガイア本国に帰国。本当に突然の話だけれど」

 あの嬢ちゃんもか……。偶然の一致にしては……一体どういうことなんだか。


 どちらにしろ、彼女の身柄をイオリゲル候補生の睦月諒牙に任せることは、以前からの決定でしたしね。確かに海堂教授とも、そういう話はしていたが――、確かに想定された事態ではあったが、教授がああいうことになるとは思わなかったからな。島嶺は、龍神との接触により一時記憶が混濁している状態が続いている海堂教授を思い出した。そう、ただ先送りされていた事項が予定通り決定されただけなのだ。瑠美那自身も普通科で学校生活にも慣れたことでもあるし……って、おい。


「確かに彼女の学力レベルが普通科以上かどうかは分からないけど、」


 それともう少し――彼女自身を泳がせてみる、という目的もありそうね……、龍蛇の巫女としての。確かに龍神と瑠美那自身が融合合体したデュナンの方が重要ではあるとはいえ、その肝心の融合体が行方不明、とあっては。


『……本体である瑠美那自身がいなければ、融合も何もあったもんじゃない、というわけか』

 極論すれば、彼女本体自身の存在が龍神にとって最も重要、ということになる。だが、その本体からやつは、離れた。確かに互いに直接顔を合わせてはいけない、という縛りがあるとはいえ。その影武者の中にも瑠美那自身がいるのだから無理はない、でも。


「本末転倒……、」

 実際、泳がせるように見せかけて、彼女自身をがんじがらめにしようという作戦なのかもしれない。そのための睦月諒牙……。

『まさか……』


     *


 ……諒牙……諒牙……

 ……彼女を……瑠美那さんを……

 ……守って……、……くれ……


 その言葉が僕の心に響く。


 でも、兄さん。僕が彼女を守るのは、兄さんのためじゃない。僕は僕自身の意思で、彼女のことを……。


 結局、島嶺先生の携帯へは繋がらなかった。それよりも、唐突に脳裏にフラッシュする、あるイメージ。これは……? 諒牙は突然、頭を抱えた。わからない、わからないよ。兄さん、なぜ、僕は――。


 瑠美那さんが、もうすぐ僕の元へやってくる。そして僕は、彼女を。しかし次の瞬間、諒牙は何事もなかったように、ゆっくりと顔を上げるのだった。



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