7. ミッシングリンク、ノンフィクション

 それは、文字通り眠れる獣だった。いや、正確には龍蛇か。


 麻酔銃で一時的に眠らされ、沈黙を守っている水中カプセルの中の、その赤黒い体躯を睦月真吾は見つめた。同時にスサノオドームの研究所から移送されてきていた、彼のスーリヤ「アスラ」。その真紅の機体は、以前ベアトリーチェの研究室で見た通り、彼らイオリゲルの保有するD-2そのものだった。


「睦月、これは……」

 さすがにそれを見て、キリアンも息を飲んだ。


「以前、お話しておいた通りです。隊長、やはり僕たちと龍神の間には……」

「確かに、これまでの龍神確保の作戦でも、それを見越して我々に任務が下ったと考えることもできる。だがな、睦月」


 決して結論を急ぐなよ。キリアンのその声が直接睦月の心に響く。我々がどこから来たのか、あるいは龍神が何なのか、確かに一つの疑問としては、それはあまりに大きすぎる命題であり、それを突き詰めることは皆の混乱を招くことに他ならない。


 それに、何よりそれは、このD-2という機体を造り出したガイアの科学力そのものの起源を辿ることでもある。ガイアの起源……それは確かにガイアのエリート部隊であるイオリゲルといえど、容易に触れてはならぬ機密事項だった。


 かつて起こった一七年前の大災厄。それによって唐突にこの大地は引き裂かれ、同時に新たなる巨大大陸を生み出した。無論それによって大多数の人類は失われたが、その破壊の余波がこうして新たなる世界を創出するに至った。それが大国神聖ガイアの見えざる支配によって成り立つこの世界だ。かつての米合衆国は解体し国家を束ねていた首脳らも大混乱のうちに闇に没した。その混沌の中から、いつしか現れた〝白のメシア〟――。


『……そのすべてを見透かすことは、おそらく我々イオリゲルであろうと』

 睦月もキリアンも、その瞬間押し黙った。


 どちらにしても、今は平穏を保っている、この“野獣”の世話を我々は任されたのだ。決して油断するな、上からのその指示は確かに理解しているつもりだった。でもベアトの言ったように、決して真吾は「彼」を調教するなどという気にはなれなかった。ましてや……。


『もっと冷酷におなりなさい……!』

 いつかのベアトの冷たい声が突き刺さるように脳裏に響き渡る。真吾は無言で頭を振った。


 彼は元々は人間だ。それを――その人間としての彼を、こんな風に扱ってよいわけがない。どこか哀れみに満ちた眸を向けると、何となく“彼”は、歯がゆそうに拘束された強化ガラスの内側で、むず痒そうに身体を震わせるのだった。


     *


 ただそこは、沈黙の支配する世界だった。時折ゴボゴボと、いくつかの気泡が生まれ、彼方上方の水面に吸い込まれるように消えていった。いや、その気泡を吐いていたのは自分自身だった。アグニは既にアグニではなくなっていた。ただ、無数の無意識が集まる、生ける屍のような野生の塊そのものになって、ただ虚しくその両腕で中空を掻いていた。


 ――クロエ……。


 その野生の内に眠る魂は、確かにその名前を呼んでいたのに、今となってはもう、以前のように、思うことも声に出すことも、一切がかなわなかった。


「――ギャウ”ァン!」


 鋭い牙、あかく光るその眼。そして全身を覆う鎧のような固い鱗。時々思い出したように、そう鈍く咆哮する。まるで何かに抗うかのように。それはそうだ。こんな風に水の中に閉じ込められ拘束されて――、きっと誰だって抵抗したくなる。


 真吾は“彼”に対して、いつでもそんな風に考えた。それが、実際に下っている指示から逸脱するものであることは、彼自身よく分かっていた。それでも……。

『睦月、お前のその優しさが、いつかお前自身を危険に晒すことになる――』


 そう、いつか脳裏に響いたキリアン隊長の言葉が蘇る。そういえば、ベアトにも同じようなことを言われたっけ。真吾はベアトのツンとすました表情を思い出した。彼女は今頃どうしてるかな、ふと、そう思いをめぐらせる。


 思い出したい、逢いたい人たちは皆、こんなにたくさんいるのに……ベアト、諒牙、そして――、瑠美那さん。確かにその意味では、僕は君と同じかもしれない。その目の前で、相変わらず凶暴な音量で啼き喚いている、その声を切なげな表情で彼は聴いているのだった。


     *


 目を覚ますと、そこはいつも通りの自分の部屋だった。


 ……やっと帰ってこれた。でも、そう思うのも、つかのま。いつでもあたしは、ルミナスの腕に抱かれて、気がつくと男の子の姿になってる。それに心なしか、その間隔がとても短くなっているような気がする。何だか次第に自分が自分でなくなっていくような。それでもあたしは瑠美那という、この自分自身より、ルミナスと一緒にいることを選んだ。


 誓約――龍神との融合。それが何を意味するのか、最初は何もかも、その真実について何一つ解ってなかった。けど、こうしてデュナンとしてルミナスに身体と精神こころを預けているうちに、その期間が長くなればなるほど、その“確信”が強くなる。多分あたしは……もしかしたら「ルミナスそのもの」になってしまうんじゃないかって。


 一瞬、ぶるっと身体を震わせる。そろそろ夜明けが近い窓の外の薄闇が、カーテン越しに蒼い光を鈍く放っていた。


『……そんなことより、』あたしは無理やりにでも意識を変えた。


 以前、諒牙君から伝わってきた会話が脳裏に蘇る。真吾のいるイオリゲル隊に移送される龍神サーペント……それは、クロエの捜索している海賊の首領であるアグニ・ヴァシュラートだった。デュナンとして彼と思考を共有している以上、あたしにはルミナスの考えていることが手に取るようによく解った。カグツチ、なんだ……。


 クロエは以前あたしに「たすけなければならない人がいる」と、直接言った。それがもし、そのアグニなら。あたしは勿論、その人のことはよく知らない。ましてや海賊、テロリスト。パルジャミヤという海賊の名は、時々TVのニュース番組などでも耳にしていた。まさに世界を震撼させる危険人物。本来ならば、そんな海賊の人となりについて考え及ぼうという気にもならなかったはずである。しかし。


 あの時のクロエの真剣な眼差しを、あたしはしっかり覚えていた。目に焼きついた、その眸の奥の鉱石のような貴い光。あれは……。


「きっと大切な人なんだ――」

 あたしのこの呟きは、今眠っているルミナスに届くのだろうか。


 正直、あたし自身には、クロエとルミナスが昔、どんな関係だったのか知る由もない。彼自身の昔の記憶に関することは、まだ自身でも判然としていない部分があるせいか、どこか薄いヴェールのような霞が掛かっている。でも、そんなクロエをルミナスは半ば利用しようとしている。ね、そうなんでしょ あんなに、もう誰も傷つけないでと叫んだのに――けれど反面ルミナスは、あの天使に連れて行かれたリリアンを救うために。そのためにはクロエの力が必要だと、勿論それは解るけど。


『……ならば、もう何も言うな――』

 突然、脳裏に幻のように響くその声に、びくっと身体中が戦慄わななく。


 けれどその声は、半ば眠りの淵から届く夢うつつの言葉のように、強くも激しくもない、ただ、たゆたう波のような静かな穏やかさで、密かにあたしの心に打ち寄せた。ルミナス……。


 そう、アグニはカグツチ。彼をカグツチと融合させたのは、ガイアの人たちの仕業。そしてカグツチは、あの時ガイア軍に――そのイオリゲル部隊に睦月真吾はいた。


 どうして……。


 すべては運命なのです――また、まただ。誰かが、あたしの中で囁く。人と人とは愛と、そして憎しみの連鎖で結ばれる。いいえ、それは人ならざるものであろうと同じ。この宇宙で心を持ったものが必ず辿る、運命の導き。


 そうだ。その愛憎の引力が、いつでもあたしたちの周りに変わらぬ磁場を形作る。ルミナス、ツクヨミ。そして、聡介君。クロエ、アグニ。それから……真吾。


『……諸悪の根源、ダークホライズンより繋がる、そのくびきを断ち切らねば……!』

 いつかのルミナスの言葉が朦朧とする意識に響き渡る。


 ねえ、誰が悪なの。誰も、誰も悪くなんかない。だって、あたしは知ってる。ルミナス、あなたがかつて、どんな人だったか……どんなに優しい心を持っていたか。そんな貴方を、あたしは。


     *


 Pppppppppp―――ッ


 しかし、いつしかあたしの意識は、すっかり明けきった眩しい朝陽の中、手元の携帯のけたたましい着信音によって目覚めさせられた。その胸元に揺れる、翡翠色した勾玉のペンダント。


『金城瑠美那さん……?』

「は、はい」

 おはようございます。それは、ちょっと優しげな女の人の声だった。その声の主に唐突に告げられる。


 金城さん、あなたは来期より、そちらの普通科からアマテラス校エリートアカデミー科への転入が決まりました。え? 突然のことに頭が全然ついていかない。えっと理事長先生、じゃないよね。でも、この声どこかで聞いたことがあるような?


『……つきましては、明後日、早速こちらの学園案内をさせていただきます。無論、今学内は夏休み中ですが、臨時でこちらの生徒を寄越しましょう』

「は、はぁ……」


 その翌々日、その女性が言った通り、アマテラス校のエリート科であたしをにっこりと出迎えたのは、真吾の双子の弟、あの睦月諒牙だった。


「こんにちは、初めまして、金城瑠美那さん」


     *


「僕のことは兄さんから聞いてると思うけど……、」

「初めまして、睦月諒牙君……!」


 諒牙が言い終わるか終わらないかというところで、あたしはこちらも負けじと、にっこり微笑んでみせた。すると諒牙君は、あはは、やっぱり知ってるんだ。と、思わず表情を崩して笑った。思った通り、こういう素直な反応する子なんだ。と言いつつ、あたしはあたしでデュナンとして、諒牙君のことを見てきたことは、勿論こちらだけの内緒話。


「思ったとおりだ――、」

「え?」


 兄さんの思考を通して、瑠美那さんのことは、ずっと見てきたけど、やっぱり実物は可愛いなって。こいつぅ、ちょっと生意気だぞ。と、そんな言動に、つい一つ年上のお姉さん的に、いじめてあげたくなる。でも、そう言われて確かに悪い気はしない。


「そう、あたしもお兄さんから色々と噂は聞いてるよ、すっごく頭がいい子なんだって」


 それから……と、あたしが言わなくてもいいことまで本人の目の前で喋りだしそうになると、あーっタンマ、タンマ! と、諒牙君は慌ててそれを遮ろうとする。きっと“能力”で、その先が全部解ってしまったんだろう。


「知ってると思うけど、僕は兄さんの属してるイオリゲル隊メンバーと同じ力があります。かと言って、瑠美那さんの考えてることとか、色々詮索はしないから安心して」


 知ってるよ、フィルタリング機能、でしょ。兄さん、そんなことまで話したんだ。ちょっと呆れ顔の諒牙君。

「でも、瑠美那さんのこと、ほんとは色々知りたいな」

「ふふっ教えられる範囲でなら、教えてあげてもいいわよ」


 何だか弟みたいな諒牙君と接してると、ほんとに兄弟ができたみたいな気がしてくる。あたしはつかのま、先日の心の震えを忘れ、燦々と降り注ぐ真夏の太陽の下、諒牙君の前で生き生きとした笑顔を振り撒いた。


 それはそうと、ごめんね、夏休み中に。確かエリートアカデミー科の生徒はツクヨミドームで夏期合宿中なんじゃ。あたしのその言葉に、彼はまったく気にした様子もなく笑いかけた。


「気にしないで。ほんとは今あちらで色々しなくちゃならないことがたくさんあるんだけど、ちょっとした息抜きになって、ありがたいのは、むしろこちらの方だよ」


 やっぱり大変なんだーエリート科って……思わず溜息をつくあたしに、大丈夫。解らないことがあったら、勉強のことでも何でも、僕に聞いていいから。そんな頼もしい諒牙君に「ありがと」と、思わずにっこり微笑む。


 確かにどうして突然、こちらの普通科からエリートアカデミー科に転入になったのか、あたし自身にも分からない。天照大付属高校は、確かに高等教育を主軸とするエリート校だったけど、そのエリート中のエリートである、アマテラス校のエリートアカデミー科。諒牙君は、ああ言ってくれたけど、ほんとにこっちで上手くやっていけるのかな。ちょっと不安になる。というか……、


 そんな、あまりに当たり前の高校生が悩みそうな事に、当たり前に悩んでいるあたし。本来のあたし自身の、もっと深層で捕らえられているあたし自身の悩みからすれば、それは、なんてことない平和な悩みだった。それより、本当のあたし自身は、一体どっちなんだろう。沖縄からアマテラスヘ転校してきた天照大付属高校の生徒? それとも龍神の庇護の元、その龍神であるところの日神と誓約した龍蛇の巫女? きっとルミナスには、馬鹿なことを言うな、とか頭ごなしに一刀両断させられてしまいそうだけど。


 その日は終日、諒牙君に連れられて、夏休み中の構内を色々と見て回った。確かに大学の構内から、そのまま直結しているエリートアカデミー科は広い。少し離れた場所に向かい合って立っている、何もかもがこじんまりした普通科の建物とはわけが違う、ということを実感する。講義室や研究室など、天照大の施設も勿論、エリート科の生徒は使ってよいことになっている。


「もう聞いてると思うけど、瑠美那さんは来月から理事長先生宅から、こちらの女子寮に移ることになるんだってね」


 女子寮かぁ。なんだか楽しみだなあ……沖縄では勿論、こちらに来てからも経験したことのないことばかりが待っていそうで、ちょっとワクワクする。勿論、龍蛇の巫女である、あたしが言うのもなんだけど。


 そう、本当はこんな風に、普通の高校生でいたかった。ほんのつかのま、あたしは諒牙君の前で、そんな普通の女子高生だった。


     *


「ね、瑠美那さん」

「ん……?」


 別れ際、諒牙君に突然呼び止められる。すっかり夏の陽は傾き、蝉時雨のざわめきが黄昏の校舎を包んでいた。その斜陽の陰影の中で、ぽつねんと佇む目の前の男子高校生の影が妙に淋しげに目に映る。


 一瞬、彼は戸惑うように頭を振ると、それでも何か言いたげに口を開いた。

「兄さん……、兄さんのこと、瑠美那さんはどう思ってる?」


 あれきり離れてしまってから、互いにしばらく会っていない。その睦月真吾に瓜二つの彼、睦月諒牙。それでも微妙に違う空気に、彼とお兄さんの真吾とは意識的に自分の中で区別できてる。それでもふとあたしは、目の前の神妙な面持ちの諒牙君の表情に、さらりと本音を漏らしてしまえるほど、いつのまにか彼自身にも同じような親近感で接することができていた。


「とても……、とても感謝してるよ。あたしが今ここにこうしていられるのも、あの時、彼に出会うことができたからだと思うし……」


 イオリゲルと龍神とが初めて接触した、あの島での邂逅。勿論、諒牙君はあたしが龍蛇の巫女だと知っている。そう、睦月兄弟はともにイオリゲルの能力であるデュナミスを扱える。彼らにその意図があるのか真実は定かではないが、それでもあたしは、未だその監視の檻の中にいることだけは確かなのだ。


 それでもあたしは、彼らに余計な警戒心は抱いていない。だってそれは、真吾の言葉の一つ一つを思い返してみても容易に解る。彼は、彼らは違う、ガイアの人たちとは――。何を持ってして、そう捉えるのかとルミナスには手酷く批判されてしまいそうだけど、でも、あたしは信じてる。真吾も、そしてこの諒牙君のことも。


「そう、そうだね。兄さんも言ってたよ、ことある毎に瑠美那さんのこと」

 ――あんなにいい子はいないって。そう、にっこりと諒牙君に言われて、ちょっとドキッとする。


「知っての通り、僕はイオリゲルの正規隊員というわけじゃないけど、兄さんたちと同じ力を使える……だから今回も瑠美那さんのことを頼まれたんだろうと思うけど、」


 そこまで言って、あ、ごめんね。と、彼は付け加えた。本当のところを言うと、僕もそれにイオリゲルである兄さんも、実質ガイアの手の中では、そういう役割を与えられてる。それは瑠美那さんの立場上、勘繰ってもかまわないんだけど……、そんなこと! そう言われて思わず口に出して小さく叫んでしまう。


「……確かに、あたしは龍蛇の巫女。だけど真吾も、それに諒牙君だって……!」

「――ありがとう」


 素直に諒牙は嬉しかった。龍蛇の巫女である瑠美那さん自身が、僕たちを疑うどころか、ここまで真っ直ぐに信じて受け入れてくれてる。その真心はどこか危ういほどに純真だ。未だ彼女の深層の最奥は不可思議な障壁に守られ、デュナミスの力で容易に窺い知ることはできなくても、そのことだけは解る。


「兄さんはね、正直ガイアのやり方には疑問を感じてる――、これは双子の兄弟である僕たちの総意でもあるんだけど、ここだけの話……、」


 ふと、そこで言葉を切ると、諒牙はそっと耳元に囁いた。――確かにこれ以上は、不味いよね。そう言って何事もなかったように微笑む。


「あ、そうだ。これは理事長先生にも提案してたんだけど、よかったら、この夏休み、僕たちと一緒にツクヨミドームで過ごさない?」


 確かにエリートアカデミー科の生徒たちとは違い、あたしたち普通科の生徒は、夏休み中、実家に帰るかしていたのだし、それにあたし自身はというと、相も変わらず理事長先生宅でぼんやり過ごしているくらいのものだったのだから……確かにそれはよい提案かもしれなかった。それに、これから始まる慣れないエリートコースでの学校生活を思えば、今のうちから早めに慣れておいて正解かもしれない。


 でも、本当はあたしは知ってる。デュナンも、そしてリリアンもヴェルトーチェカも、既にいないのだということを。きっと諒牙君、淋しいんだよね。リリアン組は、とうとう彼独りきりになってしまった。あんなに仲がよかった四人。というか、不思議に自然と結びついて……リリアンがいなくなって、それは初めてデュナンとして感じられたことだった。だから今の諒牙君の気持ち、よく解るよ。不意にひとりぼっちになってしまう淋しさ。そう悟られることを知っていて、でも、あたしは迷わず彼の手を取った。


「うん、いいよ。早速よろしくお願いね!」


 そう満面の笑みで返すと、諒牙君の頬がぱっと朱を差して明るくなる。握手を交わすその手のひらの温もりは、確かにまごうことのない彼自身の人となりを示しているようだった。


「じゃ、明日! またここに迎えに来るから……!」


 そう別れの挨拶をする諒牙君に向かって笑顔で手を振るあたしは、これから先、彼と兄の真吾との間で起こる目に見えぬ事件のことなど、微塵も考え及びもしなかった。――そう、あたし自身を巡って起こる、その事件のことなど。


     *


 ……いやだな。


 改めて自分自身がそういう境遇に置かれて初めてルミナスの本編内容をも、こうして違った視点で見直すことになるだなんて。本当のところ、あたしは全然思いもしなかった。そう、こんなにも、糞真面目に。


 ルミナスとツクヨミ、そして聡介。それに、双子である睦月真吾と諒牙の睦月兄弟。その彼らに深く関与する本作ヒロインの金城瑠美那。裏切る者と裏切られる者。まぁ、確かに双璧であるルミナスとツクヨミのエピソードは別格の別次元としても。聡介と瑠美那、そして後半からラストにかけて彼女自身を強く翻弄することになる、睦月兄弟。最初は、とても仲のよい双子の兄弟だった。しかし瑠美那と出会うことで、次第に二人の間に生まれる思わぬ確執……。確かに双子って同じ人を好きになるって、よく言うけどさ。


 あたし自身が、ルミナス・コード一期ラストの展開をほぼ覚えてないのって、もしかしたら、だからなのかもしれない。何らかの理由で、瑠美那は再起不能なほどに絶望のどん底に突き落とされる――ほんと円城寺脚本て、こういうの好きだよね。というか世の女子は、もしかしたらこういう展開って大好物なのかもしれない。そういう、たとえ架空のフィクションだとしても、人の不幸は蜜の味みたいな。そんなジェットコースター的、数奇な運命に翻弄されるヒーローヒロインの図みたいなものに、どうして人間という生き物は、かくも異様に引き込まれてしまうものなのだろうか。


 それはそうと、……あたし自身が今直面してる“運命”という名のストーリーは、一体誰の目の快感となって映ってるんだろう?


 そんなありもしない妄想まがいのものを現実チックに実感してしまうだなんて……、それでも、今目の前にいる二人の男女、人気声優の篠崎聡己と水澤ひとみ。どうして、なぜ今あたしがこの二人の間にいるの。あたしはといえば、何の変哲もない平凡を絵に描いたような、ただの一般人。いや、違うな。通称アニオタ。その「だたのアニメオタク」のあたし、伊勢崎ナミ。そのあたしが、恋人同士だったこの二人の間に入って、ルミナスのヒロイン瑠美那顔負けの悲劇いわば、恋のドロドロ展開に巻き込まれてるだなんて……嘘だろ。


 やっぱりあたし今、半分は瑠美那になってるんじゃないだろうか。あの時、ルミナス二期第一話のアフレコ現場で遭遇した異様な感覚を思い出す。奇しくも篠崎さんは、彼自身が言っていた通り、その時まるでルミナスそのものになってしまってるかのようだった。そう、彼と出会ってから、時々あの時の感覚がよみがえる。瑠美那とルミナス。まさしくあたしたちは、その架空の二次元の存在であるはずの、二人の主人公とヒロインになってしまっていた。一体どういうこと?


 それはとても不思議な感覚だ。よくフィクションは現実の映し鏡だなんていうけど、それ以上に。あたしたちの頭の中は一体どうなっているんだろう。映画やドラマ、ましてや二次元のアニメ、そして小説……。たとえそれがどんな次元で展開される物語だろうと、あたしたちの脳内では、それは漏れなく現実に実感できる事実として再生される。そんなバカな。


 いや、待ってよ。逆にこういうことも考えられる。あたしたちのこの現実が、誰かが考え出した架空の物語でない保証なんてどこにあるの? そう考えると、ものすごく不自然。あたしがあたしじゃない。でも、それでもあたしは、確かにこの物語の中の登場人物の誰かであることは事実だ。百歩譲って、たとえフィクションだろうとノンフィクションだろうと、あたしは今、あたしの物語をこうして生きているんだ。


『はぁ……ありえない。ただの不健康な妄想だよね、やっぱりこんなのって……』

 そう溜息をつくも、やはり事実は事実として変わりなかった。


 あたしはいわゆる人気声優の二人と一緒に、今伊勢神宮に来ている。でも、実質的には三人ではなく“二人”なのかもしれなかった。まるで本編の瑠美那そのもののように、ほとんど魂の入れ物同然の空洞になってしまった水澤さん。そして、あたしはその彼女自身をこうして文字通り生かすために存在しているのかもしれない。そしてルミナス役の篠崎さん。あたしは、その篠崎さんと――。


「伊勢崎さん、どうしたの……?」


 不意に呼びかけられて、ドキッとする。外宮に続いて、今度はお待ちかねの内宮。いつの間にかバスを降りて、あたしたちはその入り口付近にやってきていた。少し向こうに臨める、五十鈴いすず川に掛かる宇治橋。その入り口の鳥居は、朝靄の中、確かに神聖な神域へと至る結界のようにも感じられた。しかし、その向こうには火除け橋を渡った先に、本当の神域への入り口である一の鳥居、そして二の鳥居が控えている。


 五十鈴川のほとりに来ただけで、あたしにはすぐわかった。ここが、これから先続く、遥かな神話の入り口に続いているのだと。


     *


 正直、相澤にとっては誤算だった。それでも、それをどこかで誰かが、当然起こり得る必然であるのだと囁く――そう、神代未玲だ。確かに、本音を言えば今自分は、あの夢にまで見た未玲と共にこうして旅を続けている。いやま、今はまだ、ほんの旅の入り口に過ぎないのだが。


 酒に酔っているせいなのか、未玲は今のところ上機嫌で一人陽気に騒いでいる。確かに他の乗客の手前、あまり迷惑にならないようにと一応は釘を刺しておいたんだけど……ああもう、早いとこ名古屋に着いてよ。


「神代さーん……おーい。神代、未玲ちゃーん」


 かと思えば、今度はグースカ高いびき。ったく、かわいいもんだよ。なんだかんだ言って――そ、なんだかんだ言って自分は未玲に本気マジで惚れてる。こんな本音、本人の目の前で漏らそうものなら、それこそ袋叩きに遭いそうだけど。あはは。若干苦笑いしながら、保護者よろしく手前の座席で無邪気な寝顔を晒している高飛車女に再び視線を投げかける。


 かつてのヲタでいじめっ子だった自分が、まさか……でも、それはそれである種の必然だったとも言える。確かに当時は無自覚だったとはいえ、当然好きだからこそ苛めたくなるっていうのは、さ。その上、その彼女が当初の自分からすれば理解不能な世界に堂々と手を染めていて。そんな彼女を煽らずにはいられなかった、っていうの? それが高じて今では自分自身が――正真正銘の腐男子君、ですよ。はいはい。


 未玲はもう“その世界”から、すっかり足を洗ってしまったんだろうか。だからといって今さら、身についてしまった性癖は曲げられない。何より彼女自身を理解するために始めたことだ。それとこれとが、そうこのルミナス・コードの現場を取り仕切る助監督に自分が抜擢されたことが、そのまま一直線に繋がるとも思えないけど。


 思えば竜崎悟朗というのは不思議な人だ。西洋占星術やタロットそれに中国系の占術やら、ある程度一通りの占いを小遣い稼ぎの副業みたいに路上や勤め先なんかでやっていた時、ふとした切っ掛けで出遭った風変わりな中年男。ま、自分が占いなんかやり始めたのも、よく分からない他人ひとの心理なんかを読み解きたいっていう明快な意図があってのことだったけどね。


 それから……そう、その竜崎悟朗と出遭ってから、色々なことが面白おかしく回り始めたのは確かだ。そして、コイツも――。突然、胸ポケットの携帯着信音が鳴り出し、相澤はトイレに立つ振りをしながら、徐に席を立った。


『――久しぶりだね、相澤太一君』

 何食わぬ顔をして携帯に電話をかけてくる相手に、こちらも挨拶する。

「お久しぶりです……、那由人さん」


 例の写真、ちゃんと届いてたかな? ああ、と、さっき眺めていたばかりのメール添付のワケあり男女三人のフォト画像を思い出す。


「御丁寧に、どうもです」

『それはそうと君たち二人は、これから伊勢市を素通りして真っ直ぐ熊野へ向かうのかい?』

 とりあえず、その予定ですけどね。今後の未玲との前途多難の道中を予想して、苦笑いしながら軽く溜息をつく。


『“彼ら”はお伊勢参りのあと、どうやらその足で伊勢神宮の別宮である滝原宮を経て、紀伊長島、尾鷲を経由、花のいわや神社が鎮座する熊野市へ、という寸法かな。勿論、ありていに鉄道やレンタカーを利用して、だろうけどね』


「何言ってるんですか、その「伊勢路」の醍醐味は、何といっても熊野古道そのものっすよ」

 くふっ……相手がそう噴き出すのもかまわず、未玲の好奇心に騙されてみるのも一興かと思う。そんな自分は、やはりどうかしているんだろうか。


『いや、申し訳ない。しかし、どうもこうも……君といい、竜崎さんといい。ああ、そうそう。竜崎さんといえば、彼らは、おそらく南紀白浜で待機――まぁそんなはずはないか、あの人に限って』


 本州最南端の潮岬、串本を経て、ぐるっと一回り。ちょうど熊野速玉大社のある新宮の反対側に位置する。紀伊半島の熱海とも称される、南紀白浜リゾート。まあ、海もいいが山もいい。


 そういうアンタだって。にしても、こっちの思惑を既に察知してたとは、さすがに恐れ入ったな。相澤は旅の最初に送られてきた、例の写真のアドレスを見て一瞬絶句したことを脳裏に思い巡らした。


『どちらにしても、時間はまだたっぷりある。君たちも、よい旅を――』

 そのまま無造作に通話は切られた。


     *


「ナミ……ナミ、行っちゃダメだ……」

 席に戻った途端、そんな未玲の切ない寝言が耳に入ってくる。そか、やっぱ俺の恋敵は――。


 そう思いながら窓外に目をやる。伊勢崎ナミ。相澤にとっては何の値打ちもない、ただの凡人オタ女。だが、彼女が確かにこのルミナス・コードの鍵を握っていることだけは、悔しいかな事実だった。

 

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