第七章 海の那由多

前編

1. あたしにできること

『こんにちは……、』

 その日曜の朝、不意に携帯にかかってきたTEL。それにあたしは、あたかも当然のように出た。


 少し遠慮がちで控えめなその声。昨日のこともあったし、それに今日はたいした予定もなかったし……。昨日はどうも、ありがとう。あの、篠崎です。あたしは、その人からのTELをまるで待っていたかのように、「……こんにちは」鸚鵡返しに挨拶した。それはあまりに自然すぎるほどに自然な、そんなやり取りだった。



『ごめんね、伊勢崎さん。突然電話しちゃって』

 ――い、いいえ。それでも、やっぱりちょっとだけ戸惑う。

 実は、ちょっと気になることがあって。その言葉に、やっぱり? あたしは思った。


 篠崎氏の話というのは、案の定やはり水澤ひとみのことだった。予想通り、どうも彼女の様子が変なのだが、あたしが竜崎監督や円城寺氏に何か聞いていないか、つまり水澤さんについて何か知っていないか。ということらしい。あたしは話すべきか否か迷った。……でも、やっぱり彼には今は話さない方がいいかもしれない。


 だって久方ぶりに会った恋人が、理由も解らず得体の知れない病院の地下の奥深く、今の今までずっと植物状態だったなんて。しかも突然、彼女はあたしの目の前で目を覚醒ましたのだ。一体どうやって説明しろって言うんだろう。あたしだって正直面食らった。一体、何の意図があって――なぜ彼女は人知れずあんな所で、まるで幽閉されるように眠っていたのだろう。とりあえず何一つ理由の解らない今の時点で、そんな説明のつかない話したって、ただ目の前の彼を混乱させるだけだ、でも。


 それでもあたしは、彼と彼女のことを放っておけない気がした。それは昨日のお祓いの時から、ずっと思っていたことだった。


『――あの、これから少し会えませんか?』

 あたしも、直に彼と会って話をした方がよい気がした。というか……単純に会いたかった。こんなこと未玲が知ったら、本当なんて言うか。でも。あたし自身としても、何だか上手く説明できないけど。彼ともう一度会わなければいけないような気がしていた。


 奇しくもルミナス・コード第二期のアフレコは、既に明日に迫っていた。


     *


「せっかくのお休みなのに、ごめんね」

「いいえ」


 やっぱり、どことなく会話がぎこちない。当たり前だ。だってついこの間、初対面だったばかりだもの。あたしたちは待ち合わせたとある静かな喫茶店で、向かい合って窓際奥の席に座り、何となく当たり障りのない会話で人気の少ない午前中の時間の間を繋いでいた。


 何だか、なんとなく恥ずかしい。一応相手は声優さんであるし、結構ルックスもよい。本来なら、そんな人を目の前にして平常心を保てるわけがない。それでも今目の前にいるこの人とあたしは、既にそんないわゆる普通の芸能人とファンではなかった。――そう、ルミナス・コードという作品を介して出会った以上。


 それでも、あたしは当たり前にドギマギしていた。考えてみればこれまで、男の人と、こんな風にまともにお茶したこともない。別に男嫌いというわけでもないし、そういう機会に恵まれなかったというわけでもなかった。それでもあたしは、自分でも知らず知らずに、そういう機会を自分から回避してきてしまったのかもしれない(それ以上に“人見知り”の病を患っており……あ、この話をすると若干長くなってしまうか)。


 だって、あたしの趣味は……勿論、女オタのすべてが男の人と付き合ったことないとは限らない。だって主婦しながら、って人だってリアルにいるものね。オタであることと現実のリアルとは一切関係ない。むしろ、そういうこと抜きにして考えるべき問題だろう。


 そんなことはともかく。目の前のちょっと繊細そうでかっこいい人(そんなに美形というわけでもないけど)は、どことなく落ち着かない様子で始終、伏し目がちに話していた。やっぱり彼女のことが引っかかっているのかな。あたしがそう思う以上に、実は彼自身があたしを目の前にして、何かを躊躇していたなどと、その時、当のあたし自身は何一つ知る由もなかったのだが。


「伊勢崎さんは、付き合ってる人とかいないの?」


 話の流れとはいえ、突然そんな質問されて、思わず面食らう。い、いません。緊張しながら当然の如くそう答えると、篠崎氏はそう、と呟いた。そして少しだけはにかんだように笑って、いや、こんなに可愛らしい人なのに勿体無いね。なんて面と向かって言われたもんだから、思わず赤面してしまう。


 そんなあたしを見て、篠崎氏はくすくす笑った。ああ、やっぱり笑顔が素敵な人だな、と自然に思うと、あたし自身も思わず笑顔になった。すると、


「そう……そうなんだ。ひとみも以前は、もっとそんな風に自然に笑える子だったのに」

 思わず声のトーンが低くなり、あたしも途端に押し黙った。


 “ひとみ”――その呼び方を耳にして、改めて二人が付き合ってるんだという事実を意識する。実際、篠崎氏自身も一瞬躊躇するも、そう……僕たちは恋人同士だった。と、初めて口に出して打ち明けた。本来なら他人に、それも彼と彼女をこの業界における人気声優と知っているファンの子に、こんなこと暴露できるはずもない。でも、少なくともあたしは違った。ルミナス・コードという作品を介して、今ここでこうして彼と話をしている。


「……実はね、本当はとても怖いんだ。君にこんな話をして、どうかと思うけど」


 そう打ち明ける篠崎氏を見て、あたし自身も膠着する。確かに尋常じゃない。あの水澤ひとみの様子を見ていたって、そう感じるのは無理はないだろう。現にあたし自身……、ついこの間まで病院のベッドで昏睡状態にあった彼女に会っている。


 僕がっていたルミナスを見て、どう思った? つい、そう訊きたくなるのも無理はない。けど、確かにそう問われて実際にどこか変に思ったり不自然だと思ったことなど一度もない。むしろ――あたし自身、劇中のルミナスというキャラに文字通り夢中になっていたんだし。


 今目の前にいる篠崎氏は、ルミナスとは別人のようだ。まあそれは当たり前として。独特の柔らかく低く響く彼自身の肉声は、確かにルミナスのそれとは全く違うものに感じられた。けれど実際の画面の前で、ルミナスというキャラクターを前にしてそれを演じると、途端にそれは独特の凛とした凄みを持った鋭さを増す。その聴くものを思わず幻惑させるような低音の美声が、確かにあのルミナスという架空のキャラクターを半ば形作っているのだ。その声こそは命の息吹きそのもの……、まさに声優がキャラに命を吹き込む職業である所以である。


 けれど篠崎氏は、それを怖いと言う。一体どういうことなんだろう。まさか……その先を尋ねようとしたくも、目の前の彼自身が、その真相自体を前にして至極青ざめているのが判って、思わず訊くのが躊躇ためらわれた。


 事実、金城瑠美那役の水澤ひとみは、あの昏睡状態から抜け出した途端、以前の彼女ではなくなっていた。本当に、どうしてこんなことが――あたしも篠崎氏も、このルミナス・コードという作品の怪に言葉を失うしかなかった。


「本当に変な話だよね、こんなことって……それに、ひとみだって……、でも。実際、僕は二期のルミナス役を今回ばかりは断ろうかと思ったんだ」


 本来なら、そんな話を聞いたとしたらファンならずとも、えーっとかいう大袈裟な反応を返すことだろう。事実、普通主役級の声優が続編で降板することは、よほどのことがなければない話かもしれない。というか、それは真にルミナスの一ファンとしては不本意な話だ。でも……、


 あたしだから、わかる。篠崎さんがそういう気持ちになるのは当然かもしれない。やっぱり未玲、この「ルミナス」って絶対怪しすぎるよ。


 だけど結局、篠崎氏は一期から引き続き、ルミナス役で続投ということになった。それにはやはり、水澤さんのことが深く絡んでいるのだろう。やっぱり放っておけないんだ。聞けば水澤ひとみも、瑠美那役として当然の如く今回の二期でも起用されるらしい。でも、何かがおかしい。昨日の彼女の様子を思い出して、あたしは改めてそう思った。


 何だか操り人形みたいだ……その不可思議な感想が確かに間違っていなかったことを、あたしはその後、身をもって知ることになる。


「……確かにあたし自身としても、変だなと思うことばかりで。実は神代未玲……、あたしの旧友ともだちが、今回この二期でシリーズ構成のサブとして脚本を任せられてるんですけど、それ自体ものすごく唐突らしくて。それにそれを言ったら、あたし自身も、どうしてスカウトされたのか解らないんです」


「スカウト?」

 そう怪訝な顔で問われて、自分でも改めて変だと思う。


 きっと篠崎氏は、あたしに今回のお祓いに呼ばれたファン代表以上の何かがあるとは思ってなかったんだろう。それはそうだ。そして、どうしてかあたしは今日、ここでこうしてルミナス役の声優の篠崎聡己としきを前にして話しているのだ。


「………」


 思わず篠崎氏が思案顔になって黙りこくる。その沈黙には、様々な思いが、今彼のただ中を去来し駆け巡っているのだということが自ずと感じられた。未玲も多分そうだろうけど、あたしも篠崎氏も何とも言えない、同じような怖さを体感している。竜崎悟朗、円城寺冬華、スタジオ・ネプチューン、ルミナス・コード。


 ……それは直接五感を刺激するような実体を持った恐怖ではないけれど。確かにどこかで何かが不気味に蠢いているのが感じられる、そういう、えもいわれぬ得体の知れぬ怖さ。


 とっくに冷めてしまったコーヒーカップを包む指先が、我知らず震えているのを感じる。そんなあたしの指先に、ふと篠崎氏の両手が包むように添えられて、瞬間ピクッとする。そして、やはりあたし自身が見えない何かに怯えているのだと知る。


「大丈夫。少なくとも僕と君と、そしてその神代さんの三人は、事の実情を知っているわけだし」


 確かにそうかもしれない。一人よりも二人。二人より三人。それにもし、たとえひとみがどうかなってしまっていたとしても、僕は必ず彼女を元通りにしてみせる――そして篠崎氏は、最後にそう付け加えた。そう、そうだよね。あたしはなぜだか、そのことをどことなく淋しく思う自分自身を人知れず胸の内で感じていた。


 明日のアフレコ、頑張ってください。ちょっとそうはストレートに言えない雰囲気の中で、それでもあたしは精一杯彼を励ました。正直、未玲がどんなホンを上げたのか、そのことがちょっと気になったけど、その話の内容をそれとなく訊くことは勿論しなかった。


「……本当は君にも見学に来て欲しいところだけど、いや」


 無論それは普通に考えて無理だろう。実際、今回ルミナスの第一話のアフレコは様々な打ち合わせの後、夕方から行われるようだが、それだったら仕事終わりに駆け付けられないこともないだろうけど、さすがに遠慮した方がよいかもしれない。というより、絶対やめた方がいいって。


 ただ、まだ少しだけ心配だった。篠崎さんと、そして水澤さん。実質的に考えて彼はともかく、問題は彼女の方だ。本当にあんな状態でアフレコに臨めるんだろうか。瑠美那として演技できるんだろうか。そんなことまで押し付けがましくも考え及んでしまう。そして、ルミナスを演じることが怖いと言った篠崎氏。だったら、本来ならやめるべきだ。そう考えるのが妥当だろうけど、そうもいかない。


 何か、何かない? あたしにできること。そんな風にありきたりな凡人の癖に実直に考えてしまう。そんな思いが実際こうして浮かぶのは、やっぱり一声優である、この篠崎氏に他人とは思えない何かを感じていたからだろうか。


「本当に今日はありがとう。少しだけ勇気が出たよ」

 そう笑顔で返す篠崎氏。その柔らかな表情を見ているうちに、あたしの中にこのまま別れがたい思いが去来した。そして、


「篠崎さん、私……」

 思わずそう声をかけていた。


 ――もう少しだけ、付き合っていただけませんか? 自分でも驚くような言葉が口をついて出た。


     *


 午後の臨海公園は、暖かな日差しに包まれていた。それもそのはず、もうすぐ五月。暖かいというより、少し汗ばむくらい。本来ならルミナス・コードの本放送は、四月に始まっていなければならなかったのだが、この分だと五月の連休を跨いでしまうかもしれない。どうして――そう当たり前に浮かぶ素朴な疑問も、諸般の事情にて延期、とかいう曖昧な理由で結構通ってしまう業界なのかもしれない。


 その第一話のアフレコを明日に控えているというのに、あたしはずうずうしくも篠崎氏を引き止めてしまった。なんてこったい……。ほんと、自分でも信じられないよ。このビッチ女。けど、篠崎氏はそんなことにはお構いなしに付き合ってくれた。いや、本当のことを言えば彼自身、そう申し出てくれたことに感謝していたらしいのだが。


「ええっ? 竜崎監督にも、もう会ったんだ」


 この四月初旬に、あたしが監督と会ったことを話すと、ちょっと意外な顔をされた。というか、むしろ少し強張った表情になり、篠崎氏は「……何かなかった?」と未玲と同じく不思議なほど心配してくれた。勿論、紳士的な振る舞いで始終場を和ませて頂いたことなどは話せても、間違っても一体何の事故か、あろうことか、あたしが監督自身を殴ってしまった事実ことだけは、さすがに内緒にしておいた。


 それより先に、脚本家の円城寺氏に例の三月のイベントで唐突に会ったこと。それがそもそもの事の始まりで、それからあと、監督に会ったりして、なぜだかこのルミナス・コードとの直接の縁ができてしまったこと。勿論、親友の未玲のことなども話した。でも、どうしてかルミナスに関することだけは何一つ話さなかった。それ自体、篠崎氏の手前、とても話せるような状態ではないということが分かっていたし、それにあたし自身、なんだかそれが普通に躊躇われたのだ。


 要するに切実な話、オタの側面を見られるのが恥ずかしい、ということか。考えてみればオタクって不思議だ。自分自身がそう意識して初めてオタクであると感じる。勿論、同人誌をはじめ様々なグッズを買い漁っている時点で、さらにはコミフェやら様々なイベントに顔を出している時点で、あたしたちは濃ゆいオタクであるとはたから認識される。でも……。


 その実情はアニオタ、つまりはアニメ以外の様々なエンターテインメントとたいして変わらない。ジャニーズなどのアイドルに夢中になったり、韓国ドラマに熱をあげる今時の中年女性なども、その中身は結局同じってこと。だけどアニメオタクというだけで、どうしてこんなにも気恥ずかしいものなのか。勿論、声優さんをはじめ、その周辺事業に関わっている人たちは、そんなファンを世に言うオタクとかではなく「純粋なただのファン」と認識してくれており、その辺に関しては、まあ助かるのだが。


 頬を撫で吹き抜ける潮風が気持ちよくて――、というか、もう、そんなことどうでもよくなる。こればっかりは、二次元の世界では感じられない感覚だ。たとえ頭の中で考えたとしても、この潮の香りと眩しい日差しは、ようやく脳内でシミュレーションして再現するだけのものでしかない。しかし実際に肌で感じる。そのことがどんなに大切なことか。


 あたしは篠崎氏と一緒にいて、思わずそんな風に思っている自分自身を実感していた。アニメはアニメ、そして現実は現実。確かにそうだけど。普通はそのどちらかの世界も、何の気なしに当たり前に行き来できる、それが普通の感覚だけど。でも一度のめり込むと、その境界線が著しく出来上がって、その壁の中の世界にあたしはいつしか囚われる。けれど……。


 まるでその世界から初めて抜け出たような不思議な感覚に包まれて。そして不意に、傍らで穏やかに微笑んでいる篠崎氏を強く意識する。考えてみたら、これって何となくデートみたい。そう思うと、急に胸がドキドキと早鐘のように鼓動を打ち始める。それどころか……すぐ目の前にいる人が、声優さんとかルミナスの中の人とか、そういうことがどうでもよくなる。ちょっともう、どうしちゃったのかな、あたしってば。


 本当はそんなこと、考えてちゃいけない状況に、あたしも篠崎さんもいるんだけど。それに篠崎さんにはれっきとした……。


 そんな時、不意にあたしの携帯の着信音が鳴った。ごめんなさい、そう篠崎氏に断って、後ろを向いて携帯を取り出す。やば……未玲からだ。


「もしもし?」

『……ナミ、あんた今までどこにいたの?』


 案の定、そう尋ねられた。そういえば午前中、喫茶店にいる間中、それに簡単な昼食を篠崎氏にご馳走になっている間も、携帯の電源は何気に切っておいた。その間、未玲は家に連絡したり、心当たりのある色んな所を探し回ったのだそうだ。携帯電源を切っていたのは、別にわざとじゃないし何か意味があってのことでもない。けど。案の定、未玲のイライラを肌で感じて、ごめん! 思わず携帯ごしに、そう謝っていた。


 さすがに昨日の今日で、彼女も心配していたらしい。

『どうでもいいけど、あんた今どこにいんの?』


 ……まさか、篠崎氏と一緒だとは口が裂けても言えまい。少しだけ青ざめ、あはは、つい笑って曖昧に誤魔化した。『……ったく。』焦燥と多少の怒りがないまぜになった感情が、その笑い声を聴いた途端、次第に薄れていくのを感じながら、しょうがないやつ、とばかりに電話越しに未玲は溜息をつく。


「それより、ねぇ。明日のアフレコのことだけど、」

 未玲は勿論、参加するんでしょ? そう尋ねた。


『――まあ、さすがにね。今さらあたしなんかに、お呼びはかからないかとも思ってたんだけど、案外細かい内容の手直しなんかも、その場であるようだから』


 なら、お願いがあるんだ。そして、その先は小声で。

「……水澤さんと篠崎さんのこと、お願い」


 そうは言っても、未玲一人に何かができるとも思えなかった。でも。それでも、誰かに傍で見ていて欲しかった。あたしは現場に行けないだろうから、どうかせめて。未玲、お願い。


 ――わかった。あたしの思いが通じたのか、未玲は数秒の沈黙の後、そう快く了解してくれた。そして『あたしからも、お願い』


 不意にそう切り出した。『ナミ、あんたはこのルミナス・コードに今後一切関わらないこと、いいね!』その語気の強さ激しさに、意外にも絶句している自分自身がいて、思わず我ながら驚く。だけど――。


 今だからこそ、わかる。だってあたしは今、“彼”と一緒にいるんだもの。そう、このまま金輪際、お別れなんて信じられないよ。実際、彼とあたしは、このまま、元通りのファンと一声優に戻った方がいいのかもしれない、けど。


“もう時間は進み始めている”――そのことを強く感じる。たとえ、あたし自身が、奇しくも劇中ヒロインの瑠美那のように、数奇な運命と、そしてたまさかルミナスそれ自体に飲み込まれていくのだとしても。もしそれが本当なのだとしても。……篠崎さんのことを一人にできない。どうしてそんな風に思うのか、自分でもよくわからない。だけど、確かに時間はもう新たな未来へと進み始めているんだ。ごめん、未玲。


 きっと出逢ってしまった、ただそれだけのことがすべてを変える。


     *


「……あたし、ちょっと思うんです」

「え?」


 未玲からの電話を切った後しばらくして、自分でも信じられないくらい積極的に、でも少し遠慮がちに、あたしは篠崎さんに声をかけた。


「もし万が一、水澤さんのことがどうにもならなくなったら……、」

 あたしじゃ、彼女の代わりにはなれませんか?


 ――はあぁ? 自分でも何を言い出すのかと思う。何という身の程知らずな、まさにビッチ展開。しかし、もう遅かった。あたしの片方に結わえた長い髪が肩先で戸惑うように揺れる。


「伊勢崎、さん……?」


 極度の近視で焦点の合わなくなった眼差しが、篠崎氏を捉える。何だか不思議。自分ではない他の誰かが、あたし自身の身体と心を乗っ取ってしまったみたい。でも、こちらも不思議に彼は、あたしの真っ直ぐな瞳をそのまま受け入れ――、ありがとう。そう言って何気なく近寄ると、あろうことか、あたしのその髪をそっと撫でてくれた。そう、あまりに自然に。その手の温もり、頭髪をくすぐる感触が、そのままあたし自身に伝わる。


 ??? えっえっとぉ、これって……。


「伊勢崎さん、いや……伊勢崎、ナミ、さん」

 ちょっとぎこちないけれど、彼にはっきりそう呼ばれ、あたしはドキッとする。瞬間的にきゅぅん、と胸の奥が啼いて心臓が苦しくなる。「ありがとう」その本当の意味は、今ならどうとでも取れる。傷つく前に、早く身を引いた方がいい。これまでの少なからずの人生経験における、あたし自身の勘がそう呟いていた。でも――。


 彼の真っ直ぐな、綺麗なその瞳が、確かにあたしをじっと見つめていた。


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