7. 慟哭

「――怖くないのか?」 


 振り返らないままの無言のその背に再び声をかけられ、初めて自分が震えているのに気付いた。ええ、あなたがいるから。務めて気丈に振舞おうとする、怯えに支配された心はしかし……本当の意味でデュナンを信頼していた。自分でもどうしてそう思うのか解らない。けど、彼だけは信じられる。だって、あたしが好きになった人だもの。


 こういうのを根拠のない理由っていうんだろうか。ますますヴェルに呆れられそうだ。そう内心で苦笑いしつつも、リリアンは彼自身を信じる自分を感じることで、恐怖に打ち勝ち強くなれるような気がした。


 その実、リリアンのその洞察は、深いところで的を得ていたのかもしれない。それは、邪神に魅入られた瑠美那自身もが、どこかで信じ続けている深層に沈んだ真実。


 要するに、これは一つの賭けだ。もし本当にアイツが瑠美那の、金城“ハカセ”の……。まあ、そんなのは、今の時点では単なるふざけた推測に他ならない。だが勾玉たまに近づく邪神を追い払ったところで、すべてが安泰というわけでもない。むしろ、こうなったら、とことん見極めてやるだけだ。せっかく大国から秘密裏に奪取したオーパーツだ。あいつらが何を考えているか知らないが、どうせなら至るところに神みつる日ノ本の国に返してやってもいいじゃないか。


 力は力を呼ぶ。そして、その力そのものを制することができるのは、そのものに飲み込まれてしまわぬ、強靭な精神の持ち主のみだ。こんな風に考えが変わったのは、やはり実際に瑠美那とヤツとが一緒になった、この不可思議な少年に会ったからか。何だか娘を男に奪われる父親にでもなったような気分だ、なぁ金城さんよ。


 「運がいいな、兄ちゃん……」


 何やら後ろで学園のマドンナと小声で大事な話をしているらしい、端正な顔立ちの色男に振り返る。どちらにしても自分は、その力の源に便乗させて貰うだけだ――。


 昔から面白いことには俄然首を突っ込みたがる性分でね。だから瑠美那の父親とも懇意になった。いや“なってもらった”のか……。相変わらず反吐が出そうになる、あの胡散臭い太陽みたいな、からっとした笑顔は思い出したくもないが。それに俺の島嶺って苗字なまえは、あいつとあいつの愛娘から距離を置くための苦し紛れの言い訳みたいなもんだったのかもしれない。


     *


 なぜ、こんなにも心が凪いでいるのだろう。この自然に満ちあふれたドームに来てからというもの、文字通り半ば喪失しつつある心身とは裏腹に、アグニの心はすべからく安らいでいた。世界的に恐怖のテロリストと怖れられ、しかし快活に七つの海を渡り歩いていた海賊としての日々とは別の、どこまでも穏やかな安らかさ。


 “そこ”には幼い頃の自分がいた。現インディアナ共和国、ヴァシュラート王朝。いにしへの昔は国の名そのものがヴァシュラートであったという。その王朝の自分は最期の皇子だった。その古き良き王国の懐にいだかれ。南国特有の暖かな気候。茂る椰子の葉。美しく着飾ったラサという民族衣装。肌に心地よいその絹織物の衣装をそよがせる南風。女は美しく明るく優しく、そして男は猛々しく凛々しく勇壮に。


 『アグニ……アグニ』

 母さま……。


 今でも耳に残る、優しく柔らかなその声。中でも殊更に信頼を置いていた家臣の息子ヴァルナと比べても、小さく弱々しかった自分をよく心配してくれていた母上。アグニ、真の意味でもっと強くおなりなさい。そのために学ばなければならないことが、たくさんあるのです。その懐かしい声色が走馬灯のような映像の中に一瞬掠める。決して忘れようはずもない母君の言葉。一七年前の大災厄からなる世界の混沌の中においても、インディアナ――ヴァシュラートだけは揺らぐことのない奇跡の島国、真の楽園だった。


 ああ、なぜこんなことを思い出すのだろう。今となっては、すべてが幻。神殿を覆い尽くし、メラメラと燃え盛る炎にヴァルナとともに誓ったはずだ。伝説のナーガラージャ。王朝に伝わるその龍神の真の意味を見出すことが、我らが故国を取り戻すいしずえになるのだと。


 父上と母上の敵討ち。最初は本当にそれだけだった。だが――。


 いつしか少年は青年となり、次第に世界の明暗を知った。親友ヴァルナはそのよき教師でもあった。我々が生き残る術はただ一つ。たとえ容赦なきテロリストと怖れられても、決して“敵”に弱みを見せてはならない。そう綺麗ゴトでは、すべてが済むはずはないのだと。それが証拠に我らが王朝は無慈悲にも滅ぼされた。古きよき風習は時の経過とともに廃れ、インディアナは大国ガイアの属国として次第に近代化を推し進めていった。時代の流れ――望むと望まぬとに関わらず、いつしか誰もが残酷なその運命に飲み込まれていく。


 人は常に自然とともにあるべきだ。人は人として。おそらくナーガラージャの伝説は、そのことを伝えているのかもしれない。しかし、大地母神の名であるところの大国ガイアがすべてを変えた。人は神になれるとでも言うのか。ならば、自分がそれを実践してみせるだけだ。そして憎きやつらを根絶やしにしてやる。そう、いつか……。


 そう誓った日を遠く遡り、いつしか心は何も知らなかった頃のいにしへの時代へと無言のうちに漂い誘われる。まだ幼い少年だった自分。そこで出会った一人の少女。不思議な、あかい髪をした……。


「アグニ!」


 緑のテラスへと続く無人の病室のベッドで半身を起こし、虚ろな眼差しで木漏れ日を見つめていた青年の瞳に映る一人の少女。君は……。夢の続きのように、アグニはそっと呟いた。


「ク……ロ……エ……」


 そう、私だ!クロエだ。半ば夢遊病者のようなアグニの記憶こころを取り戻すべく、足早に近寄る。暖かな午後の光が、ただ二人を穏やかに包んでいた。やっと会えた。やっと……。そのあまりに容易に仕組まれた再会を訝しむ間もなく、クロエはぼんやりと見つめるアグニの両手を握り締めた。


「君は……どうして」

「どうしてもこうしてもないだろう! アグニ、こうしてお前を取り戻しに来たんだ!」


 自分でもいつになく興奮していた。常に冷静沈着なクロエも、この時ばかりは些か我を忘れていた。だが彼を救出する使命に我に返ると、すぐに周囲に気を配りつつ状況を素早く察知し、まだ朦朧とする意識のままのアグニに顔を近づけ、そっと囁いた。


「ここも監視されている。さっき動線を切ったが、またすぐ復活する」


 だから、急げ。急ぐ? 何を……とでも言いたげなアグニの虚ろな眼差しを悲しげに見つめる。なぜ、こんな気持ちになるのだろう。どうして、私は。龍蛇の血を注がれたその瞳は、心なしかあかく怪しげな光を微かに宿していた。しかし今、しっかりとその瞳は私を映している。今ならば、あるいは。


「母さま……」

 しかし、そう呟くアグニは心ここにあらず、といった風情でただ宙に視線を泳がせるばかりだった。


     *


『……被験体に変化が?』

 少女からの報告テレパスを受けた青年博士は、思わず席から立ち上がった。


 だが、それは予想通りの反応でもあった。被験者のサーペント化が進められてからというもの時折、外部からの干渉による脳波波形が常に観測されていた。それが先ほど、サナトリウム内の監視システムの動力が何者かの手によって途絶えてから、強い変化を見せるようになったのだ。


『ドクターワイズ、やはり彼をツクヨミドームで泳がせておくのは、どうかと思います』

「そうとも言い切れないよ、ベアトリーチェ」

 ベアトリーチェと呼んだ少女の言葉を遮るように青年博士は言った。


 むしろ、面白い余興が見れそうだ……。聞けば、龍神の融合体もツクヨミドームに来ているというではないですか。これは何かの偶然なのか、いや。おそらく島嶺君が仕組んだことなのでしょう。もっとも、彼はパルジャミヤの首領のことは何一つ知らないでしょうがね。


 思わずふふっと笑い声が漏れる。ベアトの呆れたような溜息までもが、思念に乗って聞こえてきそうだ。


『まあ確かに、急激なサーペント化は肉体への負担も大きいだけに休息も必要かもしれません』


 しかし、その大事な熟成期間に何かあっては――、ベアトのその意見も一理あった。いくらなんでも旧式の監視システムに頼ったあのサナトリウムでは心もとない。が、だからこその産物も見られるというものなのだ。例の異常波形を見せた脳波の干渉者。これは明らかに我々と同様、デュナミスを操る者の仕業だ。心と心との会話。もっとも今のアグニ自身には、それに応えるだけの力はないだろうが。


「ま、いずれその正体も自ずと判別できようというもの……」


 おそらくその干渉者は彼を奪取すべく、ずっと密かに動いていたのでしょう。そして今。ようやく二人は再会した、つまりはそんなところか。


『ツクヨミドーム内の監視システムを強化、ネズミ一匹逃さぬように』

 そうテレパスで命じると、ドクターワイズは銀縁眼鏡の奥の眸を殊更に光らせた。


     *


 どうして、なぜ――。なぜ、いつでも私が求めるものは、容易にこの手にすることが叶わぬのか。


 そう思ったところで、何がどうなるわけでもない。それはよく解っていた。私は常に物分りのよい従者として、あの方に仕えていただけだ。しかし。アグニ、今度はお前か……。どうにもならぬとは思いながら、それでもいつになく込み上げる感情。まったく、私らしくもない。


「アグニ……」


 思わずその手をぎゅっと握る。しかし力ないその指は今にもクロエの指先から零れ落ちそうだ。それでも確かに彼は今、目と鼻の先にいる。それだけは、まごう事なき事実なのだ。皮肉にもその身体には今、クスヒ様の御代であるカグツチの血が流れている。神と人間。伝説のナーガラージャ。まるでその隙間を埋めるように、今彼自身が存在しているようでもあった。


 思わず、数奇な運命を背負わされたアグニをこの手で抱きしめたくなる。アグニ、お前は何も望んで今のお前になったわけではないだろう? 人間が神になることはない。それはあまりにも過酷すぎる。過ぎた運命は誰も幸せにはしない、そうだろう。


 だが、アグニは何も応えようとしない。むしろ、今は眠っているだろう龍蛇の本性が静かすぎるくらい静かな方が不気味なくらいだ。しかし、ぐずぐずしてはいられない。ここの監視システムが途絶えてから、もう随分と時が経っている。


「ここにいてはいけない。さあ、私と一緒に行こう」


 しかしアグニは容易に立ち上がろうとしない。しかたがない、やはり私の力を使うしかないのか。クロエはそっとアグニの身体に両手を押し当てた。もしかしたら、それによって彼の中の龍蛇の血が目覚めてしまう危険性もなくはなかったのだが。そう一か八かだ。


 赤いオーラのような光が俄かにクロエの掌から立ちのぼる。本来ならば温かかなくらいのその光も、しかしサーペント化が施された身体には、強い刺激となって全身に伝わってしまうかもしれない。神人のともがらの血潮が人の肉体に宿るということは、それだけで何が起こるとも分からないことなのだ。だが、それでも。私と行こう、ここから逃げよう。


 うう……、アグニが低く呻いた。迂闊だった。瞬間手を引くも、既に遅かった。

「アグニ、ダメだ!」


 逸る心が起こした行動が悪い結果を招くことなど、よくあることだ。普段の彼女ならば、容易にそう考えていた。だが今は、そんな余裕などなかった。何よりいや増したアグニへの想いが本来の冷静さを欠く原因となった。それは自分自身でも気付かなかった感情。その思いもしない衝動にも似た何かが彼女を駆り立て、そしてその結果……。


 やはり――次第に硬く熱くなっていくその身体。赤黒い血管が浮き出ていく両腕。


 ダメだ、アグニ……。いつしかクロエの瞳に涙が滲む。かの人以外のことで私がこれほど熱くなるなどと。それでも、それは彼女が真摯に彼を思っていたからに他ならなかった。お願いだ、もう私を一人にしないでくれ。誰も、どこにも行かないでくれ。


「ダメだぁ――ッ!」


 それは、クロエの絶叫と同時だった。木造のサナトリウムの屋根を突き破るような勢いで、緋色の光の柱が迸った。地響きのような振動。当然、傍にいたクロエは吹き飛ばされ、しゅうぅ――、次の瞬間見上げた方向にいる屈んだアグニの身体からは、白い煙が立ち上っていた。アグニ……、


 だが、そこにいる彼は、もう彼自身ではなかった。あかく光る両眼。硬く逆立った髪。気がつくと、クロエの腰に差した神剣が反応して振動し、わなわなと強い光を放っている。


 オマエハ、ダレダ……。

「カグツチ――、」


 もうアグニでも、そしてかの人のともがらでもない、違う何かに変わってしまったというのに、クロエはただ陽炎に揺れる眼前を視つめて呆然と呟いた。


     *


 私は、なんて馬鹿なんだ――。ただ、泣きじゃくりながら走り続けた。


 一度ああなってしまっては、おそらく容易に元の姿に戻ることはないだろう。それが、龍蛇の本性。あの方でさえ持っているだろう、その忌まわしい残酷な力。私はなぜアグニに出合ってしまったんだろう。なぜ、アグニをこんな運命に引き込んだ。ただ私は、あの方を探し追いかけていただけだった。そしてその同じ場所に彼がいた。


 いつしかいにしえのアマテラスの血流は、時を経てこの地上のあらゆる場所に散っていった。その一つがヴァシュラート、そしてイザナギ。神の降臨伝説――その天孫降臨の神話は、確かに神から人への血の繋がりを示していた。だが、人には人の幸せがある。たとえ永い時を生きることがなくとも、いつしかその身体は塵となり滅ぶのだとしても、肉体を持たぬ神には決して感じ得ない濃縮された生の感覚。その光り輝く刹那の一瞬一瞬が、永遠にも匹敵する価値を持つ。


 アグニはその人としての輝きに満ちていた。だのに。


 この地上で目覚めてから、初めて出遇った人間。それがあの龍蛇の巫女と、そしてアグニだった。重力に逆らい、この大地にしっかりと足を踏みしめること。その重みに耐えながら、それでも眩しく輝いている。いや、だからこそ彼ら人間は美しいのだろう。そしていつしか私自身も、その同じ肉体を得たことで気付いた。そのまるで闇と光に支配された両極の哀しさと、愛おしさに……。


 神人とはいえ、私はあの方の足元にも及ばぬ、下級の力しか持っていない。むしろ、言ってみれば人に近しいのかもしれない。その鍛え抜かれた筋力は、決して神の御力で得たものではなかった。痛みを感じる、生身の人間。ああ、だから、こうしてこの地上に降り立ち肉体を得た時に、この大地の引力にすぐに馴染むことができたのか。


 そして、目覚めるまでの一七年間。長かった。その間、私はある人間から、この地上で生きる術を教示された――彼はスリーピング・レクチャー、と言っていたが――。元々剣士の修行を積んでいたせいか、飲み込みは速かった。名前のなかった私に、彼はクロエという名をくれた。そう、今は忘れてしまった私の本当の名はクスヒ様、あの方だけが知っている……。


 手の甲で何度か涙を拭い、我に返ったように顔を上げる。この人工のドームにも当たり前のように、太陽の光が降り注いでいた。そして気付く。私がこれから行くべき場所にクスヒ様がいる。アグニを救うためには、やはり龍蛇の巫女とかの人の力が必要だ。あと数時間で夜が来る。そうしたら月の光を頼りに、あの方の元へ向かおう。


 そうだ、お前の父親は死んだわけじゃない。ただ人としての肉体を失っただけだ。だから私はこうして幻のアマテラス、神界から、かの人を追ってここまで来れたのだ。その魂の思いの深さを、私はそっと託された。そう……瑠美那、と言っていたか。お前の父親は死してなお生き続け、お前を見守っている。それだけは真実だ。


 ――クロエ、娘に会ったら伝えてくれ。日出いずる国の夜明けを、お前に託すと。

 月が昇る。それは、光を失った夜を照らす太陽の欠片。


     *


 鍾乳洞の奥深く、その祠はあった。


 周囲には透明度の高い水を湛えた、ちょっとした小さな湖面が広がっている。その祠まで小さな桟橋が続いていた。そして、まるで御神体のような巨石が鎮座し祀られている、その祠の窪みにそれはあった。


「俺もこれが何なのか、本当のところは、まだよく解っていない。ただ言えるのは人魚とか河童とか、そういう類のミイラかもしれないということはいても、どうも何かの生物的な化石であることは確かなようだ」


 に、人魚ですかっ、すかさずリリアンが突拍子もない声を上げる。まさか、それと爬虫類とどんな関係が? リリアンの疑問も無理はなかった。その祠に例々しく祀られた、丸まった胎児のような格好をしたその石の塊は、蛇ともトカゲとも凡そ、かけはなれた形状をしていたからだ。しかも研究材料というには、あまりに場違いな神がかった場所に保管もとい祀られている。


「一応は神様の戴き物、ということらしいからな。きちんと祀っとかないとバチが当たるかもしれん」


 茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせる島嶺を他所に、デュナンは意外な感覚に包まれていた。アマテラス校の教授棟であれほど感じていた“気”を、ここに来るまで全く感じないのだ。一体どういうことだ? その化石とやらも、ただ沈黙するばかりで、重要なオーパーツの一つとは全く思えない。


 ――瑠美那、どうやら無駄足だったようだ。そう内心で呟くも、いいえ、待って。その巫女の言葉に耳をそばだてる。


「……人魚とか河童って、ようするに想像上の生き物だけど、本当にいたんでしょうか?」

 ひたすら真面目腐って尋ねるリリアンに、島嶺は律儀に答える。


「どうだろうな、ただそういうものも進化の過程で生まれなかったと否定することも、あながち出来ないが――」

 そこまで続けると、


 “アヌンナキは、様々な動物実験の末、ようやく人間を作り出したという”

 突然デュナンが機械的にそう呟いた。え?という表情でリリアンは振り返った。


 その瞬間、何かの光が迸った。閃光、といった方が正しいだろうか。あっという声とともに三人は掌で目を覆った。巨石の祠の上部、ちょうどその頂に鎮座する化石が信じられない眩しい光を放っていた。もっとも、三人とも目が眩んで、まともに凝視することもかなわなかったのだが。


『くっ――なんだこれはッ。瑠美那、きこえるか、瑠美那!』


 デュナンの中の日神は、すかさず巫女の名を呼んだ。だが身体が言うことを利かない。まるで、見えない誰かに操られているみたいだ。ぼんやりと瑠美那は思った。ルミナス、これ、あなたの力じゃないの? 残念ながらそうではないようだ……日神が歯噛みしながら呟く。


 金縛りにでも遭ったように全身が動かない。どうやら何者かに身体を乗っ取られてしまったようだ。そう告げる間もなく、今度は本当に誰かの声が脳内に響いた。


『御機嫌よう。初めまして――アマテラスの日神とその巫女よ』

 お前は誰だ? ふふ、知れたこと。君たちが御丁寧に諸悪の根源と説く、その天上の御使いさ。


 やっとの思いで見上げると、空中に文字通り「天使」が停空していた。大きく広げた眩い白い翼。そして輝く銀色の髪。そう……その「天使」は、年に一度しか人々の前に姿を現さない、例の大国ガイアの生神"白のメシア"の風貌によく似ていた。


 だれだ、お前は。改めて問う。おや、君は私のことを知らないのかい。ああ、そういうことではないのか。くくっ――天使は、さもおかしそうに笑った。


 ……瑠美那、こいつが俺たちの敵だ。


 搾り出すような低いその声。ルミナスが憎しみに眩んだ眸で相手を睨んでいる。あたしには、そのことがよく解った。諸悪の根源、その言葉の意味を改めて反芻する。


『すまないね、今日のところはこの辺で失礼するとしよう……ただ、』

冷ややかな微笑みを浮かべた天使が言った。この娘と那由多の秘宝たからは戴いていくよ。


 次の瞬間、突然、傍にいたと思ったリリアンの身体が次第に巨石の中に吸い込まれていく。え? い、や……デュナ……ン。差し伸べたてのひらが求める人に向けられた刹那。


「リリアン!」


 その時やっと身体が動いた。しかし時既に遅し、その名を叫ぶも、あっという間に掻き消えた眩い光と天使とともに、そこには彼女の姿は跡形もなかった。

 

 …………

 ……………………


     *


 改めて考える。ルミナスって、なんなんだろう。


 その思考の源は、確かにここに生きて呼吸する、あたし自身がまさに手に取りたくて掴もうとしている、文字通りの“まぼろしの光”を巡る考察なのかもしれない。でも、それは決してただの夢物語なんかじゃない。そう、その物語は確かに「生きて」いるのだ。馬鹿馬鹿しい話かもしれないけど。


 あたしにとってルミナスとは、有無を言わさぬ引力ちからで強引に引き付ける、そんな特別な何かって気がする。それはたぶん、このオタ世界全般でも同様にそうなんだろう(まあファン自身の欲目ってこともあるけど)。確かに話としては、何の変哲もない、神様絡みのSFファンタジーってとこだろう。


 でも……その根幹にある、得も言われぬ眩しい光。まるで夢とも現ともつかない、その何かに、いつのまにかあたしたちは心ごと取り込まれてる。幻惑させられる……そう、いつのまにか。


 あれから未玲は押し黙ったままだった。何だか気まずい空気が流れる。どうして?

「二期のアフレコは明後日らしい……」


 ただそう言ったきり。そして不意に、あたしの両腕を掴んで地下鉄の壁に押し付ける。壁ドンかよ。ってそんな普段の茶化したような台詞も、どこかへ遠のく。あたしの目をじっと見つめる、その未玲の真剣な眸。


「ナミ、あんた――」


 何だか急に胸がドキドキする。未玲はただ黙ったまんま、その先何か言おうとするでもなく、ただそこに突っ立ったまま、ずっと固まっていた。そして不意にそのまま俯くと、はあっと大きく息をついた。まさか、あたしと篠崎さんのこと。そんなわけない、か。そう思いつつ、やっぱり何だか心もとなかった。


 あの通り、水澤ひとみは元通り現場に復帰したようだし、ルミナス二期の制作も順調のようだ。さっき未玲が言った通り、アフレコも予定通り行われるようであるのだし。けど……。


 さっきの別れ際、あたしは篠崎さんに運命的な何かを感じた。不意に目と目が合い見つめあった、その一瞬。なぜかしら、時前に携帯番号なんかも交換しあったりして、これじゃあまるで――。勿論、篠崎氏には一声優とその作品のファン、という意味合い以上の何かがあるとは思えなかった。それは無論、あたし自身にも。


 けれど、未玲はきっとその何かを心配している。おそらく篠崎さん自身には何の思惑もなく、当然そこに何かの企てがあるわけでもない。当たり前だ。けど、もし何か心配があるとしたら、それはこの『ルミナス・コード』に、何らかの形でも関わってしまうということ。


 どう考えても、水澤ひとみの一件は怪しすぎる。そしてそれ以上に、総監督の竜崎悟朗と脚本家の円城寺冬華。問題はあの二人が一体何を考え、あたしと未玲をこの作品に引っ張り込んだか、ということだ。ただのTVシリーズアニメ。それにただのそのファン。なのに、あたしたちは、まるで時前に示し合わせた物語のように、共にその異次元の歪みに連れ込まれた。


 しかも、未だにその根本という根本が解明されてない。未玲はまだしも、このあたし自身。


 “運命の光”――瑠美那がルミナスに感じたのは、まさにそれだった。


 そしてあたしも、漏れなくそれと同じ感情を、劇中の瑠美那を介してルミナスに感じた。そう、たぶん瑠美那というヒロインはあたしたちの鏡。……そんな気がする。よくあるゲームみたいな筋立て。だけど不思議に、あたしたちはその見えない引力に惹かれて。なのに篠崎さんは、あたしにとって――。


 それがルミナスに感じるものと同じなのか、そうでないのか、後から考えてみても、あたしにはよく分からなかった。……そして案の定、あたしはその翌日、篠崎さんに呼び出された。


  

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