5. 運命の贄と卵

 少しずつ少しずつ、何かが変化しようとしていた。アグニは横たえられた身をほんの少し起こそうとした。しかし、


「う……っ!」


 強烈な重力に引き戻される。身体が重い。未だ朦朧とする意識の中で額に手をやる。窓の外には眩しげな光が降り注ぎ、穏やかな小鳥の声が満ちていた。ここは……どこだ。初めてそのことを意識した。これまでは時間も、そして場所も一切が感知し得なかった。だが今はやっとそのことを改めて考えることができる。そして、ようやく思い出したように記憶の淵へと残してきた仲間達に思いを馳せた。


 ヴァルナ……。 


 頭のいない状態がどれほど経過しているのか。だが、あいつなら。俺がいなくとも、きっと。海賊パルジャミヤは、いつ何時も海賊パルジャミヤだ。それでも、どこか心配そうにしている友ヴァルナの顔が脳裏に浮かぶ。心配するな……俺は大丈夫だ。


 しかし、そう思いながら身体は言うことを利かない。そして意識も。俺は誰だ? 唐突にそんな疑問が湧いて出る。決して忘れてはいけない。そう何度も念じつつも、次第に心が身体から離れていく。“もう一人の自分”が、深い眠りから目覚めるのを今か今かと待ちわびている。


 アグニ! そう、お前はアグニだ……!

 まただ。また、誰かの声がする。その声の主が誰なのかも、もう思い出せない。


 だが。忘れるな――! そう何度も響き渡る声をせめて辿った。何度も何度も、繰り返し。


     *


『アグニ――思い出せ……!』

 クロエの必死の呼びかけに、相変わらず彼は答えようとしなかった。


 あのサナトリウム――見かけ上は――に、アグニはいる。辺りは濃い緑が鬱蒼と茂り、この施設を文字通り人の目から隠していた。人気のない森林を、時折鋭い啼声を上げて鳥が行き交う。ここならば今度こそきっとアグニに合間見えるだろう。休息という名の一時の無の時間。だがそれは、新たな命が目覚める一瞬の嵐の前触れに過ぎない。だからこそ……。


 私にはお前をたすける義務がある。義務?はたしてそうなのか。むしろ、そんなものよりずっと確かな何かが自分を駆り立てているとしか思えなかった。確かにクロエにとってアグニは命の恩人。だが、その恩以上の思いが今ここにある。


 そう、クスヒ様――。


 あの方がこの同じドームに来ていることは、既に感知していた。アイツに託した勾玉たまが、この剣と反応していた。アイツはアイツでその肉体自体は、かの人である変身体とは分離してはいるが、それでも融合体としての強い思念が二人を常に繋いでいるのだ。けれど私は、まず彼を奪取しなければ。クロエは逸る思いをようやく押し留めて再び慎重に歩みを進めた。


     *


 ――……カグツチ。


 このアマテラス、そしてツクヨミドームにやってきたのは、財団のオーパーツのありかを探るためだけではなかった。実際、そちらの方が優先的事項ではあったが。あの神の島で失った自身の片割れ。覚醒めたばかりで、その力の自由もままならぬ状態では、突然襲ってきた数多の敵からの攻撃に、なす術もなかった。幸い己自身は瑠美那との融合により、こうして力を温存できた。しかし。


 かつて神人がその力の象徴でもあるともがらを失うことは、己自身の半身を失うことでもあった。それ以上にカグツチは……この時代せかいで唯一の昔からの友だった。そうか……ルミナスが激しく怒ったのも無理はない。あたしは改めてそのことを思い返す。確かに彼には、もう誰一人傷つけて欲しくないけれど。


 しかし、そのカグツチの生体エネルギーが、このドーム内に満ち満ちていることだけは確かだった。龍蛇の血脈は、それほどまでに強く容易くその生が途絶えることはない。その“血”そのものが、新たな命自体を求めるのだ。そう、たとえ元の肉体が滅んだとしても。


 第一私自身が――こうして瑠美那の生命エネルギーを摂取し、その性の交わりによって新たな肉体を得た。だからカグツチも。そのことは容易に推測できた。だが今は、まず本懐であるところの“宝”のありかを探らねば。


     *


「ねぇヴェル、先輩たちは無事に着いたのかな?」


 結局、何も知らされずに発った二人、デュナンとリリアンの道程を心配するような、そうでもないような口調で諒牙は訊いた。というより……あの二人、上手くいったのかな。実際そっちの方が気になるところだ。にっと笑う諒牙に向き直り、ヴェルはただ無言で頷いた。


 ――きっとデュナンはリリアンを使って。でも、不思議とそんなに上手く行かない気もした。ただ今できるのは、諒牙の興味の方に話を合わせておくくらいのものだろう。仮初の少女の思考が、ふと閃いた。


 一方。でも、不器用なあの二人のことだからなぁ……諒牙は言いつつ、楽しそうに目を細めた。


     *


「あちらに到着したら、上手く話を合わせてくれ」


 他ならぬデュナンの頼みだった。確かにそれは、学生の本分としても勉強熱心な姿勢に準じたものに他ならない。だから一切、怪しい素振りなどどこにもなかった。言ってみれば夏休みの自由研究――くらいのものだろう。正直デュナンがそこまで研究熱心だとは思わなかったが、そんなことを言ったら彼に失礼かもしれない。


「爬虫類の卵?」

 しかしそれは、考えようによっては奇異な研究対象だったかもしれない。


 ――ああ、そうだ。島嶺助教授が今最も力を入れている研究対象、それをぜひとも拝みたい。それが爬虫類の卵? 第一デュナンは、どうしてそのことを知っているのだろう。リリアンは少しだけ訝しみ首を傾げた。だが、


「この際、それをこのリリアン組の研究材料にしてみたらどうだろう。どうせまだ発表内容は決まっていないんだろ?」


 確かにそう言われたら、返す言葉がない。実際デュナンのことばかり考えていて、こちらに来てまで不甲斐ないが、この勉強会での研究内容は未定だった。デュナンにまで「リリアン組」と命名されたのが些か気になるが、そんなことは確かにこの際どうでもよかった。でも、それって……もしかして、まずくない? リリアンの心配を余所にデュナンが珍しく乗り気なのが気に掛かった。


 しかし、島嶺教授が行っている研究内容が、まさかそんなものだとは。爬虫類。卵。そう、我々哺乳類が、いつしか進化の果てに捨て去った受胎形態。私たちは壊れやすく不安定な「卵」という形を捨て、直接、母の胎内で受胎する方法を選択した。そのため格段に進化の道筋は早まった。哺乳動物という、この形態ならば、例え氷河期が来ても耐えられる。その生命としての四六億年の記憶が、そう確信する。だが……。


 精子と卵子を掛け合わせ、それにより受胎する方法では、いずれ不具合が生じる。それが人類という進化の落とし穴だ。男と女という一組の種により繁栄を続けてきた人類の一つの枷。我々は畢竟そういう危険な賭けによって種の存続を行ってきたのだ。


 それは、男の有するY染色体の持つ宿命に起因する。二組のX染色体を持つ女性は、その相互作用により、新たな生を産む度にそれぞれが補完しあい互いの劣化を防ぐことができるが、単体である男性のY染色体にはそれが不可能だ。そう、いずれ男性種は滅びに瀕する……そして、いずれ人類それ自体も。


 だから。


「……何とも皮肉な話よね。一組の夫婦でしか子供を生まないあたし達は、それだけ大量の候補の中から質のよい精子を選ぶことができないなんて」


 昨日の夢のこともあって、自分で言っていて、ちょっと恥ずかしい。


「そうだ。卵で子を産む爬虫類なら、たとえ雄がいなくとも処女懐胎が可能だ。だが、精子の遺伝子によって胎盤を形作る哺乳類では、雌だけで子を作ることは不可能だ」


 ――ただの猿のように野生に返って乱交することはできないだろ。そ、そうね。だからこそ、あたしたちには知性があり、そしてその弊害として……。理性の代償、か。だったら、その枷を外したら、あたしたちは、あるいは。


 デュナンとの何気ない会話に、自分自身の思いが重なって、何だか少しだけ躊躇する。


「試験管による体外受精や顕微受精など生殖テクノロジーによる新たな種の保存方法も試みられたが、しかし、そういった対外的方法を続けること自体、精子の更なる劣化を招くことに他ならない」


 卵、タマゴかぁ……あたしたち、もう一度進化の道程を遡った方がいいのかしら? 何気なく言ってみて、ちょっとぞっとする。それって爬虫類、もしくは恐竜の時代に戻るってこと? 仮説では恐竜は宇宙から飛来した小惑星並の巨大隕石が落下して絶滅した。今も、そしてこの先の未来にも、その可能性は決してなくはない。それはともかく、爬虫類ならできることが、今のあたしたちにはできない。


 でも、島嶺先生は、なぜそんな研究ことを――。

「確かに爬虫類の卵だったら、それができるかもしれないわね」


 何だかこの先、人類が絶滅した後に、マジで爬虫類人とかが誕生しそうだ。そんな冗談みたいな考えを振り払って、リリアンは先を進むデュナンとともに山道を急いだ。


     *


「あれっ……?」


 何だか急に下着がきつくなったような気がする。水泳の授業の後、あたしは更衣室でおかしな違和感に気がついた。そういえば、なんだか……胸が。妙に乳房が張るような異様な感覚にビクッとする。そういえば男子生徒ばかりか、女子生徒たちの視線までもが妙に自分に集まっていたような? しかも、胸、に。


 最初は、それはスポーツ万能であるところの沖縄育ちである自分自身に起因しているのだと思った。確かに陸上の短距離走でも、それに水泳の一〇〇メートル競泳でも常にぶっちぎりで一位を獲得していたあたし。そんな自分に注目が集まらないわけがなかった。龍蛇の巫女だし、ほんとは目立った行動は慎んだ方がいいのかもしれないけど、逆にそういうストレスをつい発散したくなる。


 でも、これは。やっぱりルミナスと日々変なコトしてるからかな。“変なコト”――確かに。眠りに就けば、男の子になったもう一人の自分自身が目覚める。そして、ここのところ続いたルミナスとの……男と女で自分自身が二人いるような、そんな奇妙な二重生活。それどころか、昼も夜もずっと眠らずにいる気がする。瑠美那としてのあたし自身は確かに眠っているのに、デュナンが覚醒すれば、再び別の自分が違う場所で目を覚ます。どちらにしても、物凄いストレスだ。


 そのうえ。龍蛇の神とのセッ――違う、あれはそんなものじゃない。だって肉体ではない。感じているのはあたま。肉体など、ただの器でしかない――そういえば、ルミナスはそう言っていた。


 じゃ、これはなんなの? どうなっちゃうんだろう、あたし。自分自身の知らぬ間に、自分の身体の中に何かが宿っていくような得体の知れない感覚。そして――。あたしは無意識のうちに胸の頂を弄りたい衝動に駆られる。ていうか、誰かなんとかして、お願い。


「あ……っ」

 仕方なく密かにその夜、痛いくらいに熱く火照った胸を絞るように人知れず揉みしだいた。まるで火みたいだ。だめ……だめっ。そう自分で自分を御そうとしても、きかなかった。まるで生き物のように指先が勝手に動き、哀れでいたいけな白い素肌を執拗に嬲っていく。


 どうせそのうち、眠りに落ちれば……あたしはあたしでなくなる。そして自分で自分自身を慰めなくても、きっとルミナスが。その度に、あたしの気はいつしか彼の養分として吸い出される。それが龍蛇の巫女。でも、その時はまだ気付かなかった。まるで、あたしの背中に羽のような刺青が刻まれていることに。


     *


「処女懐胎、か――」


 いずれ瑠美那は、やつの子を宿すかもしれない。男のY染色体同士。その二組を有した男児。それが、近い将来目覚めるであろう、コイツってわけか。


 いずれこの世は女ばかりになるのだと思っていた。しかし、そうなると人類は終わりだ。しかし、やつの出現が全てを覆した。要するにあいつは救世主ってわけなのか。馬鹿馬鹿しい。瑠美那を喰っといて救世主も何もあるかよ。それに、何も我々人類の……ってわけでもないしな。


 島嶺は案の定、鎌首揃えて再度やってきた少年と少女を出迎えた。ま、近いうちにまた来るんじゃないかと思ってたよ、そのくらいは言ってやってもいいだろう。やっこさん、今度は学園の美女マドンナ同伴と来た。あいつが恐怖の蛇男だと知ったら、さぞかし腰を抜かすだろうな。そういや、海堂教授の一件で彼女は……おそらく既に篭絡済みってわけか。やれやれ、まったく恐れ入りますってね。


 瑠美那とやつとの交わりは、魂同士の交わりだ――つまり霊体アストラル体の。つまりそれが、それによって生み出された種が、どういうわけか、この得体の知れない物体に宿るってか。メシアとはワニのことだという。鰐イコール、爬虫類だ。まさか、やつらの楽園が始まるってことじゃあるまいな。だが、そうなる前に――。


「一体どういう組み合わせだい? ま、委員長さんは解るとして……」

 島嶺にそう問われ、思わず二人して顔を見合わせる。


「デュナンの提案……じゃない。あの、ぜひとも先生の研究資料を拝見したいなって」

 半ばしどろもどろなリリアンに続き、デュナンがきっぱりと口を開く。

「大学の論文を拝見したんです。とても興味深い内容で……ぜひ一度」


 そう、それは俺自身がこの天照大に在籍していた頃の。畳み掛けるようにそう言われ、まぁいいだろう。島嶺は快く了解した。だが。――くれぐれも、口外なしだぜ。念を押すようにそう告げられ、二人は地下の古い閲覧書庫へと案内された。


     *


「大昔の地上は、こいつらの御先祖たちの楽園だったなんて信じられないけどな」


 延々と続く書棚の向かいの棚に置かれたホルマリン漬けの蛇やらトカゲやらの標本。超温暖な気候と豊富な酸素、豊かな生態系。確かに中生代の昔は彼らが巨大な体躯を堂々と維持できるほどの好環境だった。しかしその爬虫類の楽園は氷河期の到来により突如激変した地球環境によって、いつしか滅んだ。


 ――それが、今は。


 吸い込まれていきそうな暗闇の中で僅かに点された明かりに照らされたガラス瓶の中のシルエットが不気味で、思わず沈黙してしまうが、


「卵生である彼らが生きていく環境は、以前のような大々的なものではないにせよ、それでも卵には卵の特性によって生き延びるよすがが、この地上に残されていたってことなんでしょうか?」


 ようやくリリアンがそう質問した。


 ……そうだな。振り返り、ちらとデュナンの方を盗み見つつ、島嶺は答えた。

「むしろ哺乳類である我々人類の世は、そろそろ終わりを迎えようとしているのかもしれんな」


 そんな終末論、いつ何時だって多方面で論じられてきた。それでも、それがいつ来るのか解らない。一〇〇年先、いや、もしかしたら五〇年先。我々はいつだって、ただ刹那の命を無言で紡いでいくしかない。一足先に滅んでしまった恐竜たちが、生命の大先輩よろしく、どこかでせせら笑っているような気がした。


「だが、まだ生き残る術は、確かに残されている――」

 ふと呟くデュナンの言葉に二人は振り向いた。


 どうかすると生命は滅びへの道を自ら選んでしまう。いや、それは進化した果ての繁栄が愚かに選択してしまう無意識の行為だ。しかし同時に生命には何があっても生き延びようとする根源的生命力がある。こちらも至極無意識的な、潜在意識。おそらく恐竜たちも、本当の意味では滅んでいないのかもしれない。たとえミニサイズになっても地上にその種が細々と栄えていることは事実だ。そして……。


 俺たちのあたまの中にも、その“本能”が密かに息づいているのかもしれない。島嶺は、思わず肩を竦めた。


「ま、どちらにしても面白いテーマであることだけは確かだ」

 君たちは目の付け所がいいな、いや、“君は”か。


 数分暗がりの中を歩いたのに、まだ書庫は奥まで続いている。一体どれだけの資料が眠っているんだ。島嶺がこの施設を任されたのは、ついこの間だというのに。――確かに俺自身も、まだほんの一部分だけしか拝めていないが。“あの島”で行われていた事について、その実データとして残されているものは、ほとんどなかった。が、そんなことは、この際どうでもよかった。


「実はこれから見せるものは、曰くつきの代物でね、」

 そうもったいぶって前置きする。本当に特別さ、“君たち”はな。


 そう言われて、リリアンは少しだけ怖くなった。デュナン……。思わず傍らのデュナンに擦り寄る。だが当のデュナンは、心なしか瞳の奥を光らせ、じっと島嶺を無言で見つめていた。

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