5. 蒼白の少女
今度は未玲に時前に報告した。
本来そうするのが当たり前だったのに。というか今回、未玲自身も助監督である相澤太一に初めて対面したのだ。予期せぬ再会。要するに発端は、そこからがはじまりだったのだが……。実際未玲は、木刀でも持参しようかという渋い面構えだった。
「やあ、久しぶりだね、神代君!」
案の定、嬉々とした表情で相澤は、あたしたちを出迎えた。どうやら、あたしはほとんど視界に入っていないようである。奇しくも未玲はこの日も、例のツインテールのエクステを付けていた。っていうか、ほとんどほぼ習慣と化していただけだってのに、この相澤と来たら、そんな未玲を穴が開くほど眺め、ぜぇったいにアンタのためなんかじゃないんだからね!……というハラワタ煮えくり返りそうな一発触発の本人を何とか押し留めるのが実は大変だった。
それにしても、よくまあ人間ここまで変われるもんだ。まるで別人だよ。ほっそりした指先と色白の肌。そして耳にあけたシルバーピアス。さらさらの髪は、まるで陽に透けるよう。ブランド物のスーツに身を包んだその背の高い優男風の美男子は、さしずめホストのようだった。未玲はともかく、あたしは嘘みたいに美しく変貌した相手を、相澤自身じゃないけど、思わず穴が開くほど眺めてしまった。
「あんた、生きてたんだ……」
ぶすっとした顔を隠そうともしないで、未玲が低く呟く。
「やだなぁ、そんな御挨拶。それにしても嬉しいよ、また君たちとこんなところで会えるなんてねぇ!」
心にもないこと言ってんじゃねぇよ、いかにもそんなコトを思ってそうな未玲の表情は、不快感を顕にしていた。でも実際は、相澤は心から未玲との再会を喜んでいたのだから、始末に終えない。ほんと、やっと助監督とサブ脚本家が遅ればせながら、御対面ってとこだねぇ。確かにその通りだ。前半の制作が佳境に入っている割には、あまりに不自然極まりない。
「あ、ごめん……というか、むしろ主役は君の方だったね」
思い出したように相澤は、未玲の後ろに隠れるあたしを見つけて、さも興味なさそうに言った。えっ? と思う間も与えず、相澤は早速切り出した。
「ってことで、僕と神代君は、これから打ち合わせ。伊勢崎さんは、会わせたい人がいるって円城寺さんが」
「……ナミ!」
思わず危険を感じて、未玲があたしの手を握り締めた。しかし、
「ごめんなさいね、二人の仲を裂こうってつもりはないんだけど」
突然、背後から現れた円城寺に、あたしは開いている方の右手を引っ張られた。思わず弾みで未玲の右手があたしの左手から離れる。
「ダメだナミ、」
「未玲!」
未玲に続いて、あたしも悲痛な声で叫んだ。それもそのはず、あたし自身も今度ばかりは、何だか嫌な予感がしたんだ。これじゃ何だかあたしたち、ロミオとジュリエットみたいじゃないか。
「大丈夫だって――ただ伊勢崎さんに是非会って欲しい可哀想な女の子がいるだけ」
そう告げると円城寺はくすっと笑った。大体あなたたちは、絶対逃げやしないし。そう、そうなんだ、不思議なことに。本物の運命ってやつに出遭ってしまうと、人間ってやつはどうしてこう、我知らず無防備になってしまうんだろう。――いや、そうじゃなくって!
そんなワケの分からない理屈が、結局あたしたちを……。むしろ見えない引力が、まるでどこかで誰かが手を引いてるように、あたしたち二人を捕らえて離さなかったのだ。
*
「……趣味が悪いな」
ぼそっと呟く竜崎監督。だから、どうしてあなたは、いつもそんなとこで暇そうにしてるんですか。何気なく待合室の片隅で煙草に火をつけていた竜崎氏を見て、思わずあたしは内心ツッコミを入れた。というか、ここ禁煙だろー。
「さあ、行きましょう」
頬に笑みさえ浮かべている円城寺女史。連れてこられたのは、とある都立病院だった。
そんな竜崎氏に、今度ばかりは監督自ら付き添って貰わねばなりませんからね、逃げられませんよ。とでも言いたそうに円城寺は妖艶に微笑む。
専用のI.Dカードを使って三人が乗り込んだエレベーターは、地下最階のフロアに吸い込まれていく。この病院、よくある都立病院だけど、普通こんなに下まで降りていくものだったっけか。そんな疑問を何気なく浮かべながら、あたしは次第に得体の知れない不安感に包まれていくのを沸々と感じていた。
しばらくするとエレベーターは最下位の階で停止した。ドアが開くと、そこには真白な渡り廊下が、ずっと奥まで延々と続いていた。その長い廊下の間には、不自然なほど部屋の扉が一つもない。突き当りまで来て、ようやく観音開きの重たい銀色のドアに辿り着いた。
あんまりここには来たくないんだがな……、ふと呟く竜崎に円城寺は、アイコンタクトするように目配せする。同じくI.Dカードを円城寺が扉のセンサー前でかざす。するとドアは音もなく開いて、あたしたち三人を迎え入れた。
そして一歩部屋に足を踏み入れた途端、何もない部屋の中央奥左側に、誰かが寝ている大きな医療用ベッドが否応無しに目に入った。
「ま、いいから……伊勢崎君」
竜崎に促されて、あたしは恐る恐るそのベッドに近づく。
「……!」
誰? その延命装置の付いたベッドに寝かされている蒼白の少女を見て、あたしは思わず息を停めた。どこかで見覚えのある、その顔。彼女はまるで眠り姫のように、今まさに昏々と眠り続けている。
どうし、て?――確かに彼女はあの日、あのイベントのステージに立っていたよね。茫然自失となっていたはずでも、あたしは確かに知ってる。憶えてる。あの時、彼女が嬉々とした表情で生き生きと歌い踊っていたことを。じゃあ、ここにいるのは誰……。つい一ヶ月前までは、あんなに元気に笑っていたのに。
「水澤、ひとみ――?」
思わず声が漏れ出て、あたしは自分で自分のその声に心臓が停まりそうになる。どうして彼女は、こんなところで、まるで死んだように眠っているの? 思わず後ろに控えている竜崎と円城寺に、
「そう……あなたもよく知っている、金城瑠美那役の水澤ひとみさんよ」
『――ルミナス!』
その役名を耳にしたあたしの脳裏に、いつもTVモニター越しに聴いていた瑠美那の快活そうな弾む声が響き渡る。嫌だ、何かの間違いじゃない?――急に怖くなって、あたしは目の前の現実から目を逸らしたくなった。しかし、
「見ての通りだ……水澤ひとみは、既に」
竜崎の地の底から響くような沈んだ声が、あたしに追い打ちをかける。目の前のこの
そう。彼女には、もうどうだっていいことだった。でもその実、彼女の柔らかそうな唇は、今にも何か言いたそうに、その不毛な白い呼吸の度に瑞々しく息づくのだった。あたしは思わず、彼女の傍らに不思議に吸い込まれるように近づいていく。もう一度、あの元気な明るい声を聞かせてよ。もう一度、瑠美那を演ってよ。お願い……! そう思うと突然、胸が締め付けられるように痛くなり悲しくなって、あたしは思わず前に進み出て、彼女の陶器のように透き通った指先を両手で包み込んだ。
その瞬間――、
奇跡が起こった。……でも、何が起こったのか、あたし自身にも解らなかった。ただ、ビリッとした電気ショックのような強い衝撃が指先に走った瞬間、不思議なオーラのごとくのぼんやりとした光に包まれたかと思うと、瑠美那の、いや水澤ひとみの唇がうわ言を囁くように、上下左右に動いた。
「……る、み……な……、す」
え?
ルミナス、そう彼女ははっきり言った。まるでそれは機械仕掛けの人形が喋るように抑揚がなかったけど、確かに彼女の唇は、その名を口にしたのだ。
「も……い、ちど……あい、た……い」
彼女は泣くように、そう呟いた。そして、その薄っすら閉じた両目からは、とめどなく光る涙の粒があふれて……。
その時、あたしは気付いた。あたし自身の瞳からも、苦しくなるくらい涙があふれ、いつしか両頬を伝っていた。もう一度、逢いたい。ただその
「――決まりだな」
「ええ」
背後で様子を窺うそんな二人の機械的な呟きは、その時のあたしには届かなかった。
*
「我々はパルジャミヤ――我が神の御名により、この物資はありがたく頂いていく……!」
怒号のような歓声を轟かせ、賊どもに支配された海が突然その
「アグニ、例のお宝とやらは見つかったのか?」
「いいや。やはりこんなところにはいないようだな……」
戦況を見守るその長髪の青年海賊の若き長は、部下であり同時に友人でもある航海士ヴァルナに答えた。
沖縄近海を航行していたガイア船隻を襲ったテロ集団――少し古めかしい言い方をすれば、いわば海賊。もしそれが真実であるならば彼らの目的は、この世界に新たな革命を起こすことだった。それは無秩序と破壊と混沌から生まれ出る、真の意味での再生。パルジャミヤ、それはまさに再生と新たなる萌芽を世に促す豪雨を孕んだ雷雲の神の名。
「ナーガラージャ……神聖なる恍惚、クンダリーニから生まれる王の中の王」
だがアグニ自身にも、それが何なのか未だに分からなかった。
「そういえば、例の密航者はおとなしくしているか?」
「ああ、面白いことに我々と取引したいと言っているようだ」
それも女、いやまだ歳若い少女のようだが――それを聞くと青年長は、意外そうに、その
*
「瑠美那……それに聡介君まで……一体どこに行っちゃったの?」
あの月食の夜、突然沖縄地方を襲った地震と正体不明の暴風。一説には突発的な爆弾低気圧の仕業とも言われたが、あの夜の暗闇と瞬時に起こった地鳴りは不気味さを通り越し、人々をパニックに陥れた。確かに短時間の出来事であったため、神風のような暴風と揺れが収まり、消えかかる前と変わらぬ淡く蒼い光を満月が投げかけると、再び嘘のような静けさが地上を包んだ。
ただ一つ――その夜、その家の天窓で満月を観測していた二人の消息を除いては。本当に“神隠し”にでも遭ったように……。
瑠美那の友人、
そこまで思って五月の心は嫌な予感に包まれた。でも、それじゃ聡介君は……。まさか、瑠美那と一緒に? 神様、どうか二人を無事に返してください。こんな時だから御祈りするわけじゃないけど――この家の娘であり、同時に神社の巫女でもあった自分が、五月はどこか虚しかった。
『先頃、沖縄与論島沖を航行していた、ガイア輸送船隻を襲ったテロ組織パルジャミヤは――』
ニュースの報道は、あの夜のことなど、もう何一つ取り上げていない。虚しく切り替わるTV画面は、いつもの朝と何ら変わりなかった。
「義兄さん、本当に瑠美那は……」
『ああ、大丈夫だ。とにかく今は落ち着いてくれ』
電話越しに響く弟、島嶺黎司の声は、どこか遠くに聞こえた。しかし母・
「やっぱり、あの子は――」
『……』
きっと父さんが連れて行ったのかもしれないね……。
受話器越しに沈黙する弟の前で、その言葉を飲み込むのが母には精一杯だった。
*
コードLの発現が示すこの世界の行く末。その前途を思うだけで身震いがした。
「金城瑠美那さん。確かに彼女は本物かもしれないわ……」
『先日転送されてきた特殊班の観測データから見出せる真実……それがすべてと言うわけさ』
赴任したばかりの新任教師、草薙瑞穂の手に握られた携帯電話。遥か彼方のアマテラスドームが、まるですぐ傍にあるかのように彼女はその男と話した。そう、すべてはまるで時代さえも超越するかのように。今まさに「神話」は、我々のすぐ目の前にあるのだ。
「ええ、はい。こちらが落ち着いたら、すぐにでも――それじゃ」
草薙は、まるで事務的用件を済ますように手元の携帯を切った。その眼鏡の奥の眸には何も映っていなかった。ただ一つの優先事項を除いては。まだ、まだだ。文字通り“彼女”が生まれ変わるのは――。でも、近いうちにきっと。
草薙という新任女性教師が、どうしてその男と訳知りの間柄なのか。彼らは単に前任者と、その後釜というだけではなかった。実質彼女も彼も、ある目的を持ってこうして動いていた。それは目下の監視対象である、金城瑠美那を軸として展開している重要案件であることは、既に疑いようのない事実だった。
彼らは、瑠美那本人が知らない
*
この海賊船艦に忍び込んだのは、正解だったかもしれない。
あの夜、闇夜に紛れ、無人島沖に停泊していた船影に近づいた。月が雲に隠れていたのが幸いだった。確かに相手はプロのテロ集団。一筋縄ではいかないかもしれないが、そんなことを言っている場合ではない。もし“アイツ”が本物なのなら――早くあの島へ赴かねばならない。
「クスヒ様……」
少女は再びその名を一人呟いた。今はもう失われてしまった幻の王国。それなのに自分自身が、今ここにこうして存在すること自体が解らなかった。でももし、その理由があるのだとしたら、それは、ただ一つ――あの方がこの時代によみがえったからだ……。
私は、そのためだけにここに存在している。かの人を探し出すために。
一人物思いに耽っていた少女の静寂は、部屋の外に近づいてくるその足音によって破られた。
「その
浅黒い肌、エメラルド色をした碧眼……インディアか。つい先日この世界に目覚めたばかりとは思えぬ思考が、少女の脳裏に閃いた。軟禁されていた地下室にやってきたのは、この船のリーダーと思しき男とその部下一人だった。
「お前が船長か?」
両手を後ろ手に拘束されながら、少女は臆することなく尋ねた。
「そうだ、俺はアグニ。このパルジャミヤのリーダーだ。そして、こっちは部下のヴァルナ」
少女が携えていた長剣は無論、その腰にはなかった。だが、どうやら頭直々にお出ましになるということは、少しは話の解る人種らしい。
「あんた、どこの人間だ。どうやらこの海域の日本人――いや、イザナギの人間って顔でもないようだが」
――そうだな、どう答えようか。まさか失われし古代の王国アマテラスから来たと言っても、相手は信じないだろうし。少女は沈黙の中で思案した。
「……だんまりか、まあいい」
ニヤリと笑うアグニの顔を探るように視ると、少女は唐突に口を開いた。
「お前たち、ナーガという神を知っているだろう?」
ナーガ――龍蛇。それは、アグニたちインディアの部族が崇めている神の一つだった。
「王の中の王……ナーガラージャか」
ふ、やはりそうか。この男の探しているものとは……それが奇しくも自分自身が探し求めているものと同じとはな。このパルジャミヤの若き長、ヤツが革命の名の下に手に入れようとしているのは。
「取引だ。私の拘束を解く代わりに、お前たちが……いや、お前が探しているものの居る場所に私が連れて行ってやろう」
一瞬、相手のペースに飲み込まれハッとするところだったが、面白いことを言うやつだな。アグニは瞬間的にこの女が気に入った。
「いいだろう。もしその場所を本当に知っているというならな」
それと、この剣も返してやろう、大事な得物モノなんだろ? そう言うとアグニはヴァルナに目配せして少女の拘束を解いてやり、部屋の入り口に立てかけてあった長剣を投げてよこした。
――あの身のこなし、どうやら只者じゃないようだな。
先程、長剣を受け取った時の俊敏な少女の動作をアグニは見逃さなかった。それにあの剣、そして旅慣れたような、あの出で立ち。どう考えてもワケありの御仁のようだ。赤みがかった髪、しかし顔立ちは東洋系のようにも見えるが……。
世界それ自体が以前のような意味を成さなくなった、混迷と混沌が支配するこの時代、たとえどのような逆境を潜り抜けてきたとしても別段驚きもしないが、アグニは圧倒的な鋭い視線を常に周囲に配る……、そう女剣士。そう言った方がしっくり来るかもしれない――女剣士のただならぬ隙のなさに、どことなく自分自身と同じ匂いを感じていた。
海賊、テロ集団と言われれば聞こえは悪いが、確かにその通りであるから、全く気にする事もないばかりか、そう怖れられた方がこちらとしても動きやすい。
あの未曾有の天変地異の後、超大国と化したガイアの支配の網の目を掻い潜るように、我々パルジャミヤは活動してきた。未だ混乱が尾を引くこの世界を制するのは、もはや大陸的思想ではない。海流と潮流の動きを見極め、その航海術で海原を駆ける海人族。アグニたちの祖も勿論、そうだった。今や、まさしく海流の中に散らばる群島として機能する、このイザナギもしかり。そして、本来ならば龍神の国であるこの海域にこそ、もしかしたら“それ”はいるのかもしれない。
*
「星が綺麗だな……」
まるでテロ集団の親玉とは思えぬ発言に、思わずふと女剣士は若き青年長の横顔を視みた。どことなく似ている……。いや、そんなはずはない。あの高貴な御方とコイツを比べる方がどうかしている。そう
「あの星の輝きがあるからこそ、我々は自由にこの海を行き来することができるのさ」
確かに今でこそレーダー技術が発展し、その最先端の科学の羅針盤を頼りに、たとえ夜の海でも難なく航行する事が出来るのだが。だが、このインディアの海人族は、その遥か昔の航海術を今でも大事にしている。そう、大切なのは、いつでも生きている人としての、その本来の野生の勘だ。
それを失ったからこそ、いつしか人類は駄目になった……。
「光と闇、世界はこの二つでできている。そして光とは生命の輝きそのものだ。我々を導くあの星も、何億光年か遥か昔の瞬きでしかないのにも関わらず、こうして俺たちを今も見守っていてくれる……」
そう、遥か昔に滅んでしまったはずの光の王国。考えてみれば、時間などに何の意味もないのかもしれない。ただ流れ行くそのただ中では、人の意識と無意識でさえ、拘泥することもなく抗うこともできず、ただ虚しく流れ去るのみだ。――それでも、この記憶が確かに覚えているのなら。
「お前は一体何を求めている、この先に待つ奇跡に一体何を……」
呟くように訊ねる少女の視線の先には、彼女が指し示した“あの島”へと続く海路が暗い波間に続いていた。
ナーガとは海の神、そしてそれは取りも直さず、繰り返される生命そのものの象徴だった。だからこそ海蛇の神、ナーガはこの海人族に崇め奉られる。例え人類が滅び去っても、未来永劫続く生命の営みこそは、あの星の光の輝きの如くの深遠さと神聖さとに符合する。
ああ、クスヒ様……。
なぜコイツはかの人に似ているのだろう。決してその風貌が似通っているというわけでもないのに。わからない、そう一言だけ答えた、まるで龍王のようなこの青年に不思議な野生が内在しているのを感じて、少女は初めてふと囁いた。
「私はクロエ――この名は仮初の記号であるとだけ、今は答えておこう」
*
仮初の記号。確かにそうかもしれない。
あたしがアイツに名付けた「ルミナス」という名前。でもどうして……。それになぜアイツはどことなく父さんに似てるんだろう。どうして、父さんに逢えるような気がしたんだろう。そういえば、瑠美那というあたしの名前は父さんが付けてくれた名前だ。
どうしてか、あたしはアイツ、ルミナスに父さんの面影を探してしまう……だから。あたしたちはこうして今、ここにいる。あの月食の日の二人の核融合以来、ルミナスは昼間でもその姿を保っていられることができるようになった。
「……ねえ、ルミナス」
いつものように声をかけるも、どことなく躊躇してしまう。この世の全てをあまねく照らし出す太陽そのもののような、その光の守護神の強引さに、あたしの運命はことごとく掻き乱されてしまったっていうのに。それにアイツは、まるでこの世の全てを焼き尽くしてしまいかねない、あんなに強い力を発揮することができるのに。なのにどうして、こんなに切ない気持ちになるんだろう。
確かに今のアイツは、どこか心ここにないといった風情で不安定に揺れているように見えた。以前からそんな感じはしていたけど、この島に着いてからというもののずっと。あたしの不安が伝染うつった、なんて言わないでよね。それじゃまるで太陽に照らされるだけの月みたいじゃない。……そうか、月。
そう思った途端、ルミナスは答えた。
「どうしてあの月食の夜、ダークホライズン、あの闇龍が現れたのだと訊きたいのか?」
心なしか虚ろな視線の先が、あてどなく夜明け前の波間にさまよう。
「あれは月の神の仕業だ――光をも飲み込む闇夜を統べる夜の神」
そして同時に海蛇、そう龍蛇の化身でもある……、そう呟きながら、その声はどこか昏く遠くに沈む。月の神。光の守護神である太陽神に対して今度は闇夜の神――、確かに今更驚くことなんて何一つないんだけど。どうやらルミナスの記憶は肝心の自分自身の生い立ちはともかく、それらの事象に関してだけは至極鮮明なようだ。
「おそらく私を探しているのだろう……」
まるで思い出したくもない記憶がそこにあるように、すべての事実を忘れてしまいたいとでもいうように。ルミナスは蒼ざめた表情で呟いた。そのかすれ声が夢のようにあたしの鼓膜に届く。
でも、あの月食の夜、どうしてルミナスはあれほどの力を発揮できたの。確かにあたし自身のせいってことも言えるのかもしれないけど。でもいつだったかアイツは、我々はここに留まってはいけない、と言っていた。だからなの? 沖縄の地を後にしたのは。
確かに月は太陽の光に照らされるからこそ輝ける、だけど。月も太陽も、その光の源は宇宙の生命の息吹そのもの。ただ自分自身で輝けるか否かの違いだけ。だから今更ながら、その”記号”としての名前が不思議に意味を成すような気さえしてくる。記号、か。
もしかしたら、まさか龍蛇はあなた自身であるなんてこと……。
カグツチ、その火龍を待つ置き捨てられたような薄明の岸辺で、あたしたちは、ただ途方に暮れるように立ち尽くすだけだった。
*
『夜明け前には、あんたの言う神の島に近づけるだろう――』
先程のアグニの言葉に、心ならずも胸が高鳴る。
クロエは知っていた。“その島”が特別な島であるということを。もしもアイツがあの方の神代かみしろであるならば、答えは既に出ている。クスヒ様は確かにこの時代に顕現なさっている……。
神代とは、
「なんだ、眠れないのか……?」
突然の異郷の来訪者を警戒する無骨物の手下たちの手前、確かに本人に特に問題はなさそうだが、それでも部屋を別に用意することもできなかった。
アグニの自室は、この船の長であり海賊パルジャミヤの頭でもあるだけに、豪華とまではいかないが、さすがにそれでも立派なものだった。やはり国柄なのか、その部屋はどこか異国の匂いに満ちていた。すまないな、と告げるアグニに反して、クロエは別段何一つ気に留める素振りもない。むしろ、あの黴臭い地下室に比べれば、随分と高待遇である。
アグニのベッドを占領しては申し訳ないので、とりあえず毛布を敷き詰めて床に着いたが、やはり目を閉じる気にはなれない。
「私は随分と長い間、眠っていたような気がする……」
冗談とも思えぬその真剣さに、相手は思わず苦笑いを浮かべた。
「はは、だから眠る必要がないっていうのか……ま、それでも眠れる時には極力眠っておいた方がいい」
わかってるさ、そんなことぐらい。それでも……。
やっとあの方に逢える、それと同時にクロエの心を占めていたのは――それは再会と共に訪れる別離だった。そうだ、あの方はとうとう見つけたのだ。私など、及ぶべくもないその魂の片割れを。ふと目尻に浮かんだ水滴しずくを、暗闇の中アグニの視界から隠すことができたのが唯一の幸いだった。
*
「本当にあいつの言うことが信じられるんだろうな?」
「ああ、心配するな」
ヴァルナのその懐疑の言葉はもっともだった。確かにこのパルジャミヤを統べる長としての責任もある。まったくどこの馬の骨ともわからぬ相手の言葉をまともに受け止めるなど、リーダーらしからぬ愚行である。だがヴァルナには解っていた。この人がその愚かな行動の元に、今ここにこうして、この船に乗っているのだと言うことを。そして手下たちの誰でもさえ解っていた。彼が”それ”を実行するに値する人物だということを。それが出来ることイコール、唯一皆の上に立つことのできる証に他ならない。
そう、アグニこそが皆の行く先を決める羅針盤なのだ。
愚かだと解っていて、それを真っ先に行動に移す。まったく……、思わずくすっと笑うヴァルナは、ふと手元の計器に揺れる針を見た。まっすぐ東南東。この時期、太陽が昇る方角だ。
「アグニ、お前が龍蛇にこだわるのは、やはりあの日のことが尾を引いているからか?」
それは、彼にとって特別な出来事だった。もう戻れない母国での日々。おそらく故郷の民たちは、彼が今世に怖れを撒き散らすテロ組織、海賊パルジャミヤを率いているなどと思いもしないことだろう。
「……そうだな」
アグニは思わず視線を遠い水平線の彼方に移す。一直線に薄赤く染まる黎明の海の彼方は、すべてを照り輝かせる日の出の瞬間を、今か今かと待ちわびていた。
それ以上は訊いてはならない、それでも沈黙を越えて訊かずにはいられないのは、ヴァルナが彼にとっての唯一無二の親友を越えた盟友だからだ。そう、何もかもを知っている、解っている。アグニという神の名が持つ、焔ほのおのような激しさの裏に沈む哀しみも――。
今や世界的に名を馳せる海賊パルジャミヤが目指す真の改革。アグニ自身は、そんなたいそうなものじゃないと反論しそうだが、それでも彼らが真に求めているものが、その龍蛇の王ナーガラージャという合言葉の
いずれ、時が来ればわかるのだろう。おそらく“それ”が、我々を導くのだ。いや、もしかしたら世界そのものを。
そんなとりとめのない思考に時を忘れている暇もなく、アグニが合図する。前時代の遺物のような帆船に最新鋭の装備を施した海賊船ディヤウス号は、躊躇することなくその島影を目指す。気が付くと朝日がその眩いばかりの輝きを水平線上に覗かせる刹那、ヴァルナはいつもの威勢のよい、ときの声を傍らで聞いた。
「さあ、お前たち――上陸だ!」
海図にも載らない幻の神の島――
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