4. 鬼灯と共犯者


 ありがとう。今日は楽しかったよ、竜崎監督はそう言って、約一時間後にあたしと別れた。だがその実、監督自身はその後リーヤもとい今回の計画のコーディネーターである円城寺冬華に、かなり皮肉めいた事を言われたのだが。


「本当に、監督のお人よしには困ったものです――」

「いや、すまない。つい気乗りがしなくってな」


 本来なら今日、彼女伊勢崎ナミは所定の場所で所定の検査を受けることになっていたのだが。それを滞りなく遂行するのが「監督」である竜崎悟朗の役目だった。まあいいじゃないですか、まだ十分チャンスはありますよ。ネプチューンの事務所の一室で、そんなやり取りの二人を前にして一人の男が口を開いた。


 三〇代前半、だろうか。ほっそりと背の高い、きっちりしたブランド物のスーツをさりげなく身に纏ったその男。サラッとした美しい髪といい、よく手入れの行き届いた色白の肌といい、何となくヴィジュアル系であるが、それなりの美男子である。が、どことなく実は容赦ない冷たさを随所に携えた、まさかコイツがあの、かつてメタボで元オタだった相澤太一その人であるなどと、おそらくあたしも未玲も信じなかっただろう。


 久しぶりだね、神代未玲――。

 そう、あたしたちが相澤、こいつと再会するのは、もうすぐだった。


     *


『はあぁ?竜崎悟朗と会ったぁ――?』


 案の定そんな素っ頓狂もない返事が返って来た。さすがに本人と今日会見したことを未玲に黙っているのはまずいと思い、それに何とも言えない不安感を胸に帰宅したあたしは、例えTELでも、その声を聞かずにはいられなかった。


 あんた一体何してんのさ! 相手は何考えてんだか解らない要注意人物だよ?その懐に自分から堂々と飛び込むなんて冗談キツイよ!……確かに円城寺から連絡があった時点で未玲にそのことを告げるべきだったかもしれない。でも。


 ――例えそんな叱咤の言葉でも、あたしは未玲の声を聞いただけで何だか安心した。でも相手はというと、


『もう、信じらんない! 今からそっち行くわ』

 今にも携帯を放って飛んできそうな勢いだった。


 結局あたしたちは、あたしの自宅近くのファミレスで落ち合った。夕食時だったし、あたしはちょうどよかったんだけど、でも……未玲は確か脚本作業の見直しの真っ最中じゃ……。


「いいのいいの、いざってときゃリーヤが何とかするでしょうに」


 まったく真面目なんだか不真面目なんだか。それぞれに注文したメニューをぱくつきながら、あたしたちは話した。っていうか、未玲ちゃん。その頭(髪型)どうしたの!?


「ああ、これ? やっぱりアタシはこれじゃなきゃ落ち着かないっていうか」


 そう言いながら、未玲は付け毛であるツインテのエクステを弄りながら、はにかむように笑った。な、懐かしい……高校時代の面影そのものの彼女がそこにいて、あたしもやっぱり未玲はこれじゃなきゃな、なんて思わず実感してしまい、少しだけ二人の距離が元通りに縮まったような気がした。


「で、ヤツは何て言ってたわけ?」

 本題は勿論、あたし自身の“起用”の理由とその詳細について、である。


 けど、あたし自身でさえ不思議なくらい、そのことについては全くといって何一つ触れられなかったのである。結局あの人は何しに来たんだろ。あたしと何を話したかったんだろう。そのことは未玲に訊かれるまでもなく、あたし自身が最も知りたいことだった。それより何より、未玲は心配だったようだ。何って勿論。大の大人の男の車にホイホイ乗ってしまう、あたしのあまりの無防備さと、まるでそれを前もって見越していたかのような、相手の大胆不敵極まりない、挑発的な出方にである。


 勿論二十代ももう後半だし、第一もうそんな歳じゃないってことぐらい解ってたけど。それでも未玲は電話で話していた時から、ずっとイライラしていたようだ。ほんっとに、あんたって人は――警戒心のカケラもないわけ? うん、まぁ。そりゃそうだね、男っ気が全くないあたしのことだし、未玲が心配するのも無理はない。


「何かされなかった?」

「う……ん、」


 そう訊かれて、あたしは思わず言葉を濁す。ちょ、やっぱり何かされたのかよ!その非常に言い難そうな煮え切らないあたしの反応に、未玲は我慢できないというように両手で机を叩いて立ち上がり、上半身を乗り出した。


「あンのセクハラ親父、今度会ったら絶対タダじゃおかない……」

 今からでもネプチューンに戻って一発触発の一騒動でも起こしそうな勢いの未玲。だけど……。


「それが……、というか、むしろ」

 次の瞬間あたしが告げた信じられない事実に、未玲は思わず突拍子もない声を上げた。


 ――な、殴ったぁ?


 未玲の素っ頓狂な声に、周囲の客が振り向く。……そりゃそうだ、未玲が驚くのも無理はない。このあたしが――あの、竜崎悟朗を、である。当のあたし自身でさえ、未だに信じられないのである。


「ちょっとあんた! よくやった、じゃない、このあたしでさえ躊躇するような、そんな大それたことをよくも……、」


 さっきまでスタジオか竜崎宅に殴り込みでもかけようかという勢いだった女が何を言う。


「それはそうと、なんで竜崎はあんた本人を前にして、今回の核心に何も触れないばかりか……」


 そうだ、それはあたし自身、最も疑問に思っていることなのだ。まさか単に若い女とドライブがしたかったわけでもなかろうに。それ、おおあり。未玲のその図星な指摘はともかく、とにかく今回の件には不可解な事が多すぎる。


「確かにね、例の相澤の件にしたって、あたしには最近まで何も知らされてなかったんだよ」


 それこそ正に不可解といえば、不可解である。例えサブでも新人でも、本編スタッフの脚本家の端くれなら、もっと初期段階で助監督の存在くらい知らされていて当たり前だ。それより、何より。相澤がいきなりここに出張ってきたこと自体が、まずおかしな話だった。


 だってヤツにはこれまで、こういったアニメ関係の仕事をしていたような素振りはどこにもないのだ。やっぱり出所はあたしと同じような出版関係なのか?未玲は思案した。まるで唐突に芽でも生えたように、ヤツは、このルミナスの表舞台に姿を表した。そう、まるであたしたちみたいに……。


 あたしたちみたいに?――ああ、そうか。つまりはそういうことか。未だにどうしても解せぬことが多すぎる今回の件だったが、相澤の一件も、つまりはそういうことなのか。まったく、どこで何がどう繋がるのか解らない。竜崎にしても、円城寺にしても……どうしてこう、薄気味悪いくらい。


 それはそうと――、

 あたしは唐突に未玲に、橙色の何かを乗せた右手を差し出した。

「ねぇ、これどういう意味だろ?」


 ホオズキ。あんた、これ。うん……帰り際、竜崎監督に貰った。……ホオズキ?未玲はその橙色をした物体を訝しげに見つめた。微妙に少々ドライフラワー化してはいたが、膨らんだそのがくの中の実は、確かに天井の照明の光を受け、誇らしげに赤く照り光っていた。


「……ホオズキ。ナス科ホオズキ科の多年草、カガチ、ヌカヅキともいう。そして、花言葉は『偽り』」

 まるで辞書でも引いて読み上げるように、未玲が得意の記憶頭脳を披露した。


 ……イツワリ? あたしは、思わず未玲の顔を不安げにじっと視つめる。その実に含まれるアルカロイドには腹痛を起こす作用や、堕胎作用があるって知ってた? その言葉に、あたしはちょっとだけ怖くなる。


「そういえば、ホオズキは鬼灯とも書くんだよね」


 この一見無邪気に照り輝くオレンジ色が、なんだか急に先程の竜崎氏に重なって見えた。それは、まるで内なるほのおだ。いつ噴火し牙を剥くか解らないような……。


『コレ、あげるよ』――あたしは別れ際、竜崎の見せた、いかにも人畜無害そうな笑顔を思い出した。その時あたしはまだ、その少し尖った姿形が蛇の頭のことだとは知る由もなかった。


     *

 

 その部屋は、まるで隔離病棟の一室のようだった。


 殺風景なだだっ広い真白な空間に、規則正しく点滅する機器の光と作動音が木霊する。ピッピッというその音は、確かに誰かがそこで生きて呼吸している証明だった。まるで最後の命綱のように、その装置はそこで誰かの命を延命させ、ほぼ人としての意味を成さなくなった、抜け殻のような肉体を腐らせることもなく永久保存させていた。


 相変わらず飽きもせず延々と同じ動作音を響かせる、その機器の傍らのベッドに横たわる人の形をした肉塊。それはまるで目覚めの時を待つ眠り姫のようでもあった。が、同時にそれは、そののぞみさえ絶たれた人形そのもののようでもあった。確かに“彼女”はもう生きてはいなかった。ただ仮初の体温と未だ瑞々しさを保つ身体自体は生きてはいたが、その唇にかつてのような生き生きとした言葉や歌声が蘇ることはなかった。それでも、まるで誰かが新しい息吹をその抜け殻となった心身に与えてくれる時を待つように、彼女の肉体は若々しいまま、歳さえ取らず――。


 しかし規則正しい機器の作動音以外は、水を打ったような静けさが広がる室内に、時折静寂を破り、訪れる来訪者がいた。そして、今日もまた。


「……おはよう、ひとみ」

 朝なのか夜なのか最早解らぬ、時を忘れた場所で、彼は決まって開口一番そう挨拶する。今日は何だかいつもと調子が違う。何かの新しい報告があるようだ。


「いよいよみたいだよ。どうやらキミの替わりが見つかったらしい」

「……」


 そうなんだ。けれど返事を返すことは出来ない。いつもと同じように、植物のように呼吸して、ただ無言で応えるだけ。


「――とはいっても、まだキミの役目が終わったわけじゃないから安心して」


 男は優しげに微笑むが、その微笑みはどこかひんやり冷たく、まるで人形に話しかける独り言のように、その声色は既に考えることを失くした脳髄あたまに残酷に響いた。


 本当は、私だってもっと演じていたい。瑠美那でいられたあの半年間は、本当に幸せだった。けれど、その絶頂を迎えた時にはもう……遅かった。第一こんなこと気付くはずないじゃない。私はただ自分の声優という仕事に一生懸命なだけだった。それはいつでも、そう今回も同じ。けれど瑠美那として文字通り生きていた間、私は今まで一度も感じたことのない幸福感を感じた。それはまるで光そのもの。その"光"は、強く熱く私自身の生命いのちそのものを光り輝かせるようだった。ああ……それはどこまでも暖かい、ルミナスの光。けどそれは、まるで永遠を一瞬に閉じ込めたかのような刹那、突然終わりを告げた。


 ――君の命のうつわの許容範囲を超えてしまったんだね……。

 誰かが人事のように呟く。その声は遥か遠く水底に沈んだ耳元に幻のように響いた。

 そう……替わりが見つかったの。“彼女”は、きっとルミナスの。

 でも、もうそれ以上考えることは出来ない。


 ……でも、もしまたルミナスに出逢うことができるなら。私はまた生き返ることができる。演じることが、歌うことが出来るのね。

 ――嬉しい。“眠り姫”の心が、どこかで密かにさざめいた。


     *


「また水澤君に会ってきたのか?」

「ええ、これでもデビュー当時からのファンですから……勿論、それだけじゃないですがね」

 相澤太一のこの笑顔には、正直薄ら寒いものを感じる。


 だが竜崎とて、その共犯者の一人に過ぎない。共犯?嘘を付け。むしろ己自身が火をつけたのだ。元々この男が持っていた何かに火をつけ油を注いだのは何を隠そう自分自身だ。だがもう罪の意識とやらに悶々とする事すら遠い記憶の彼方。ビジネス――そうだ、その仕事という言葉がすべて。それ以上に任務という任務を越えて、竜崎自身を突き動かしていたものは……。


「確かに水澤ひとみは、まだ生きている――ということになっているがね、表面上は」

「それもこれも、“彼女”次第ですよ」相澤の眸がキラリと光った。


「君は確か彼女のことを知っているんだったな」

「ええ、そりゃもう……というより、」


 言葉を切った相澤は、それはそれは嬉しくてしかたないといった表情かおでニンマリ笑った。

「……神代未玲か」ふぅ、と溜息が出た。


 竜崎自身にはどうでもいいことだったが、それがこいつをやる気にさせる原動力だというのなら、しかたない。まあ勿論、神代未玲自身にも十分利用価値はあったのだが。


「ところで――」

 いかにも、さて本題に入りましょうか、というビジネスマンの顔になった相澤が、徐に向き直る。


「“誓約”の準備は整っているんでしょうね?」


 ……誓約。そうだ、それこそが本作ルミナス・コードの本懐であり、すべてのはじまりだ。本編中の瑠美那ですらも、そこに至るまで、それなりの時間を要した。だが、龍蛇は「脱皮」せずには、生き続けることはできない。蛹は蝶に。いずれ変身メタモルフォーゼの刻はやってくる。


「――ええ、勿論よ」

 その時、会話に割って入った一人の女の声が、渡り廊下に面した階段の上から降ってきた。


「彼女は本当によいものを持ってるわ、監督」

「そうだな……」

 竜崎は静かに階段を下りてくる円城寺を振り仰ぐと、そう答えた。


「所詮一介のオタ女……腐女子風情に何ができるのかと僕もタカを括っていましたが」

「あら、相澤君は解ってるでしょ――ね、腐男子さん?」


 その言葉に相澤はくくっと笑う。円城寺さんにはかなわないな、ええ。だからこそ僕が必要だったんでしょうけど。きっと神代君が聞いたら開いた口が塞がらないだろうけどね……でも今はそれが楽しみで楽しみで。ああ、円城寺さんは彼女たちの同人誌ほん読んでたんでしたっけ、あれは傑作だったな。


 そう矢継ぎ早に答える相澤。悪趣味。きっと今頃、未玲は人知れず寒気を覚えていることだろう。


「じゃ、僕はまだダビング作業が残ってますんで――」

 鼻歌交じりで去っていく相澤のスリムな後姿を見送ると、円城寺はふと竜崎に囁いた。


「実際のところ、どうだったのかしら?」

 ふふっと悪戯っぽく微笑うリーヤに竜崎は本音を漏らす。

「ああ、いい子だった……まったく忘れていた罪の意識とやらを危うく思い出すところだったよ」

「竜崎さんにしては、やけに珍しい反応ですね――」


 ……そして、だからこそ強い適正がある。

 円城寺が呟いたその言葉は、どこか鋭い確信に満ちていた。

「……」


 思わず竜崎は黙り込む。今更何かを躊躇し後悔するわけではない。そんな生易しい気持ちで、彼はここまで来たわけではなかった。相澤とは別の意味での無感性が、確かに人の情を越えたところで常に正常に働き、この身を動かしていた。


「まさか情が移った、というわけではないでしょうね?」

 そんなはずがない。彼女とは、たった一時間話しただけだ。だが。

「ふ、情か。そんなものはとうにどこかに置き忘れてきたと思っていたが……」


 だが、それがあるからこそ、我々はここまでやって来れたんじゃないのかね。竜崎の言葉に、円城寺はふと少しだけ淋しげな表情かおになった。

「忘れていました……そうでしたね」


 そして、


 ほんと、存在そのものがセクハラなんだから……! 次の瞬間、円城寺は楽しそうに笑った。おいおい、そりゃないだろう? そう返す竜崎も、ひと時忘れていた。本当の意味での真の脱皮、新たなメタモルフォーゼの瞬間が近づいていることを。


     *


 沖縄には御嶽ウタキという場所がある。文字通り琉球の祖神を迎え祀る神聖な宗教施設である。が、実際の御嶽は森や川や泉など、島そのものであることさえある。御嶽によってはイビという石碑がある場合もあるが、その多くは神が降り座す空間そのもののことを指す。


 あたしたちが訪れた島、淤能碁呂オノゴロ島にも、それと同じような場所があった。切り立った岩が聳え立ち、その周辺に円形のストーンサークルのように、まるで神々が座す岩跡が点々と環を作っている。でも、確かここって奄美諸島近海じゃ……確か御嶽は沖縄本島や、その周辺の島々、宮古、八重山諸島にしかないものと思っていた。


 でもルミナスの口添えにより、あたしの疑問は難なく氷解することになる。

「本来の御嶽ではないが、どうやら、それに似たものは存在しているらしい――」


 まあ、奄美にもノロ制度や沖縄に似た文化はあるらしいからね。思わず、その聳え立つ岩塊に近寄り手を触れてみる。何だか懐かしい心地がして、あたしはそっと目を閉じる。


 そう……温暖化の進行とともに壊滅状態にあった沖縄の珊瑚礁の被害の拡大を食い止めたのは、高温となる海温上昇にも耐えられる褐虫藻が、この近海から沖縄へと津波とともに流れ込んだためである。その原因は解らない。そもそもあの一七年前の突然の天変地異による本土壊滅の原因だって解らないことだらけだ。でも、珊瑚と共生関係にある褐虫藻は光合成をする。そのおかげで沖縄の珊瑚礁は以前と変わらぬ美しい色や姿形を保っていることだけは確かだ。


 虹、珊瑚……、あたしはまた、あの環礁での思わぬ出遭いを思い出して、ふと目を開けた。傍らには、なぜだか神妙な顔つきをしたルミナスが寄り添っている。時々無性に問い掛けたくなる時がある。――ねえ、貴方は誰なの?


 しかしルミナスは、そんなあたしの思いにすら気付かぬように、擬似御嶽の石塊に掌を沿え、静かに念を送り始めた。


「此処に“いる”ことは確かなようだ……」


 確かにこの島には、不思議な虹色のオーラが漂っていた。第一鳥の声がしない。ただ静けさの中、打ち寄せるさざ波の潮騒が響いているだけ。動物一匹、人っ子ひとりいない――まぁ、そりゃそうだけど。無人島。こんな小さな島が一体いくつあるんだろう。ただ人が住めないだけで、でも確かに生命に満ち溢れた島は数多く残されている。あたしは、人の住める大地が突然失われたイザナギの皮肉を思った。


 それにしたって、この島は……、 

「ねぇ、アンタの言うカグツチって、火竜なんでしょ……どうして、龍なの?」


 少しだけ言いにくそうに言葉を濁す。あたしの脳裏に瞬間、あたしたちが旅立った月食の日、沖縄に現れた闇龍がよみがえった。


「お前の言いたいことは大体分かっている。なぜ龍蛇の仲間を飼っているのかと問いたいのだろう?」

 その厳しい横顔に、さっと翳りが走り、あたしは何も言えなくなる。


「――確かに龍蛇は、ダークホライズンは、滅ぼさねばならない忌むべき存在だ。しかし、」

 そのルミナスの言葉には大きな矛盾があり、しかしだからこそ、納得できる部分があることも確かだった。そして、それがために……。


「光は闇があるからこそ生まれ出でる、だがその闇がすべてを覆い尽くしてしまうのならば、私は」

 己自身の葛藤を飲み込むように、誇り高い光の守護神は、きつく唇を結ぶと、その拳を握り締めた。


「ルミナス……」


     *


 貴方はなぜ……。

「私とともに来てくださらなかったのですか?」


 少女は、ふと呟いた。あの闇を統べる月の神の誘いさえ受け入れなかったというのに……。ならば、私とともにアマテラスに戻られなかったのは、なぜ。どうして、そんな顔をなさるのですか。母君の跡を継ぎ、貴方ならば立派にこの國を統べることができるのに。


 だから、私は貴方を探さねばならない。クスヒ様、貴方の心を……。


 そう、クスヒ――貴方の心を。


 傍らの少年は、再び眠りに就いた。可哀想に、突然の出来事におそらく精神自体が容易に付いていけないのでしょう。しかし月神は、そんな小さな運命の行方さえ、かまわぬように冷ややかに微笑した。


 ツクヨミ、この名に秘められた意味を思い返す――月を読む。そうだ、私は姉上の死期を悟っていた。それは日読みなどより、不確かな事象をも容易に詳細に導き出す。みつけたのですね、貴方の愛しい人の映し身を。


 日と月は本来、対でなければならぬもの……天空そらと大地が呼応するように。龍蛇は、もはや貴方の心そのものなのですよ。光と闇、その狭間に生まれし愛しい子。すべては、無意識の闇の深層、その海のさなかに還らねばならない。再び生まれ出るために――。


「うっ……」

 その時、傍らで眠る聡介が呻いた。

「ふ、優しい子……」

 ツクヨミ、僕は君の味方だよ――!

 先程の言葉が、まるで儚い幻のように、ふと、その耳元によみがえった。


     *


 男と寝ることに一体どんな意味があるっていうんだろう。


 あたしは先日の竜崎監督との会見で言われたことを改めて思い返していた。確かにこの歳になってキモいやつ、とか言われかねないけどさ。それにあたしだって一応女だ、性欲が全くないってわけでもない。だけど好きな人もいないのに、そんな簡単に出来るわけないじゃん――結論は、結局そこに行き着くのだ。そういえば、未玲はどうなんだろう? 突然そんなことが気に掛かった。いくら腐女子だからって、ね。


 考えてみれば、未玲は何だってあたしなんかより経験豊富、っていうイメージが勝手にある。それだけに、あたしはいつでも彼女に守られてしまう。守られ上手、イコール独り上手ってわけでもないけど。……独り上手、あたしはこの言葉にふと未玲を浮かべた。もしかしたら、未玲は。


 誰かに恋している暇があったら、毛頭腐女子なんかやってない。アニメキャラのどうたらこうたらに夢中になんかなってない。まぁ例外も当然あるだろうけど。でもあたしは、それでも根本からして、未玲とあたしでは、その意味合い自体が全く異なるのだとは思いも寄らなかった。


『ねぇ――キモチいいことしない?』 

 面と向かって、そう言われる瞬間、いつだって吐き気を覚える。


 なんで、あたしがアンタなんかとそんなことしなけりゃならないわけ? 次の瞬間、あたしの肘鉄が見事に相手の鳩尾みぞおちに命中するのだ。本来なら、直にお見舞いしてやりたいところだけど、それだけはあたし自身も勘弁。


 ……もう嫌だ。絶対にあんな思いをするのは。


 未玲にとって、それは二度と思い出したくない、消し去りたい記憶の断片だった。子供なんか産めなくたっていい。冗談じゃない、嫌だ嫌だ嫌だ――!死にたい死にたい死にたい。ただ痛みだけが心と身体に残った。その傷跡を埋める、ただそれだけのために後の人生は残されてた。父さん、あんたは死んで当然だったんだよ。


 ああ、そうか。そこにアンタがいたんだね、ナミ。まるでアンタは、あたしの絶望の中で微笑む天使みたいだった。腐女子なんて、ただの隠れ蓑にすぎない。確かにどうにもならない思いを紛らわすには、これ以上楽しいことはなかったけど。


 だって……、“レンアイ”が現実でできないなら、絵空事で誤魔化すしかないじゃない。あっはっはは、つくづく救えねーよ……。


 ルミナスと誓約する――。それは、己の脊髄中枢に眠る龍蛇を呼び覚ますこと。クンダリーニ。それは、世にも美しい、この上なく幸福な体験……。第一蛇と交わるということ、それが注連縄しめなわなどに顕れた造形表現のみならず、みそぎそれ自体の意味までが脱皮になぞらえている事実を誰も知らない。


 おぞましくも美しい、その畏怖そのものの象徴。


     *


 "その人"と会うのも、あたしは初めてだった。


 当たり前だ、だって彼は――本作ルミナス・コードのもう一人の主役である、ルミナス役の声優、篠崎聡己。初めて見た時、なんて綺麗な男の人なんだろうと思った。勿論、ルミナスとは別の意味で。ルミナスのあの美声は、この柔らかそうな白い喉元の奥から発せられるのだ。どことなく柔和な、けれど何かが張り詰めた――。


 そう、それは今にも壊れそうな……、遠く儚くけだるげな、官能的な低音。


 声優、篠崎聡己は、言ってみればルミナス役に抜擢されるために生まれてきたような人間かもしれない。おそらく彼自身は否定するだろうが……、でも、どうしてあたしが――しかも今度は、自分から? あたしはどうしたって、この人自身に惹かれてしまう自分自身を感じていた。それは勿論、ファン心理とは全くの別の意味で。


『ありがとう。君が教えてくれた……本当の魂のりか』


 それは、あたし自身が正真正銘、今現在の状態である瑠美那役の水澤ひとみと出会ってしまったからだ。でも、ルミナス役のこの人と自分が本当に恋に落ちてしまうだなんて、あたし自身、その時は寸分の一だって思ってもみないことだった。恋に恋して本当の恋を知る。


 それは、なんて儚い絆。そして、なんて甘美でどこまでも優しい……、きっと未玲に嫉妬されてしまいそうなほど。だけど、でも。その人と恋に落ちることで、あたしは本当の運命の残酷さを思い知ることになる。


 ――ああ。篠崎、さん。


 篠崎…聡、己。




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