4. はじまりとルミナス
「あれが有名な静かの海、そしてこっちで白っぽく輝いてるのがティコクレーター」
その夜、あたしは聡介君ちを訪ねていた。うーん、どうしようかな。とりあえず臨時の天文部課外勉強会ってことで。ってことは、あたしはその臨時の天文部員? ぎこちなく恥ずかしそうに説明する聡介に瑠美那は訊ねた。
自分でも思いがけない展開に少し驚いている。確かに天体観測は夜に行うに決まってる。とはいえ……しかたないねぇ、聡介君ちはご近所だから石室さんの御祖父さんとは顔見知りだし、それでも夜歩きはさすがに心配だから、今晩だけは泊まっといで。そう言いながら、どことなく嬉しそうな顔をしてみせる母さんに、あたしは迷惑顔。
というより、聡介君自身があたし瑠美那以上に戸惑っていた……。
あの、クラスでも密かに憧れてた瑠美那さんが僕んち(正確には御祖父ちゃんちだけど)に泊まるなんて――こりゃあ月の女神様に感謝かなぁ。って、そんなこと言ってる場合じゃ全然ない。ほんと全然余裕ないよ。
「ほんと聡介君って意気地ないねーこの際だから、ガンバガンバ!」
ほとんど人事のように笑い飛ばす同じくクラスメイトの五月ちゃん。思えば彼女がさりげなく瑠美那さんに助言したのが始まりだという。そういうことだったら聡介君が適任だよ、と。まぁそう言われちゃあ天文部副部長の自分としても引き下がれない。部員数五名という少人数の弱体クラブだけど、クラスでも人一倍人気の瑠美那さんにアピールしとけば、もしかしたら……。
と、決して実現するとは限らない期待はさておき、とにかく今夜は満月だ。
しかも皆既月食の起こる今夜は、月面観測としては月が本影に入る午前零時までの間が勝負。ま、それはそれでもしかしたら、面白いものが見れるかもしれないけど。聡介は一人意気込んだ。
そう……面白いもの。別の意味でそれが今まさに今夜起こるのだとは、さしものあたし自身も気付かなかった。
いいえ、それは嘘だ。たとえ何が起こるのだとしても。だって今夜限りで、あたしは――久々に姿を顕すであろう、アイツとともにこの沖縄を今夜離れなければならないんだから。だから、ほんとは母さんにも、それから五月にも、じっくりお別れが言いたかった。それは勿論、今目の前にいる、聡介君にも……。
でも、もしそれがほんとなら、決して回避できない運命なら、別れを惜しむのは正直あたしの
けど、そんな生易しい現実ではないのだということを、後になってあたしは嫌というほど味わうことになる。本当、何だかこれじゃ、まるでかぐや姫だよ……。ただ、あたしが「還る」のは、決して月の世界ではなく“アマテラス”という、あたしたちの分身の故郷だったんだけど。
そのちょっぴりの哀しげな予感を振り切るように、あたしは聡介君とのつかのまの時間を楽しんだ。そう、月のかたちが地球の影に隠れるまでの間。それはあたし金城瑠美那が瑠美那でいられる、最後の瞬間だった。まさにアイツが差し伸べる手を取った瞬間、あたしはあたし自身でありながら、あたしではなくなったんだ。moon eclips――月の光が永遠に失われるわけでもないのに。
でもまさかそれが、あの忌まわしい龍蛇を呼ぶことになるだなんて――。
そして聡介君自身でさえも。ほんの少しでも、あたし瑠美那に関わったばかりに……。いいえ、それは半分は彼自身の優しさが招いたことだったかもしれない、でも。アイツのことなんか頼まなければよかった? だって聡介君は全然関係ないよ。それなのに、どうして。
ほんの少し前まで、それほど接点のなかったあたしたち。それがある意味、これほどまでに深い関わりあいを持つに至ってしまう。まるで太陽と月そのままに。それが良好な関係性なら、いざしらず――可愛さ余って憎さ百倍、か。これもアイツの言う運命なの? あたしはただ平凡な高校生活を送りたかっただけだよ、なのに。それに聡介君だって。
太古の昔から、太陽と月は相容れない。地球という星を介して、これほどまでに深く大きく関わりあっているというのに、決して同時には双方の輝きが天空に現れることはない。だから……時に恨み罵りあい、それ以上に深く慈しみ愛し合い。あたしたち人間は、こんなにも両者から多大なる恵みを授かっているっていうのに。その海の底よりも深い因縁の強さにあたし自身が灼かれそうだよ。
全能なる太陽の輝きを映し、けれどそれが精一杯というように、淋しげに優しく夜を照らすだけの独りぼっちのちっぽけな存在。決して、そんなことないのにね……なのに、貴方は。本当は、常に受身であり続ける、月からの一方的な片思いなのかもしれないけど。それだけに……。
けど、今まさに最後の光を投げかけようとする月光は、そんなことこれっぽっちも思わずに、ただ穏やかに微笑んでいるだけだった。
――まるで今、目の前にいる優しい聡介君みたいに。
その「想い人」を求めて、さまよう月の陰。それを望遠鏡越しに地上から眺めるのは、いささか気が引けたけど。でももしかしたら、それは取りも直さず、不可解な愛しい謎を秘めて、あたしの中に潜もうとする、アイツの
「でね、……あの、瑠美那さん?」
何となく上の空のあたしに聡介君が声をかけた。
「あ、ごめんね――いま聞いてなかった」
慌てて苦笑い。それでも、確かに心ここにあらずといった状態になるのは当然かもしれなかった。そんなことを全く知らない彼、聡介君はあたしに笑いかけた。
「今日の満月は、あんまり綺麗だもんね。僕だってつい見とれてぼんやりしちゃうよ」
そう、それは“月”が次第に力を蓄えつつある予兆でしかなかった……そんなことさえ知らないあたしと聡介君は。ただその人智の及ばぬ宇宙エネルギーがもたらす、包み込むように強く淡い光源の美しさに見惚れるだけだった。
「ねぇ――龍神って知ってる?」
徐にあたしは聡介君に問い掛ける。
「え、龍神……ってのは確か海神、海の神様のことだよね」
「そういえばニライカナイは、ここ沖縄の
「うん。沖縄のニライカナイもだけど、大昔の日本神話では、国生みの神イザナギとイザナミや、それからその子供たちのうちの二人スサノオとツクヨミも海神だっていう説もあるみたいだよ」
「イザナギ――それからスサノオにツクヨミ」
それはすべて今現在この国やアマテラスに次ぐ二大ドーム都市に由来する名ばかりだった。改めてそう言われてみると何だか不思議な感じがする。考えてみれば、なんて海に関わりの深いあたしたちの国なんだろう。まあ元は島国だしね。でもアイツの言っていた龍神……あたしたちの国に決して呼んではならない神様って一体。
「あ、そういえばツクヨミは月の神様でもあるんだよね。その名の通り月の暦を読むっていうことから来た名前なんだろうけど」
ドクン……!
一瞬、あたしの中で誰かの鼓動が高鳴った気がした。
まるで奈落の底から響くような。まさか……アイツ? だが、それがすべての"はじまり"だった。
*
“
それが誰だったのかは最早分からない。いや、知っている、解っている。――ただ思い出したくないだけだ。その忌まわしい真実そのものを。だがアマテラス……
そうか、そうだね。貴方はまだ
『この光の剣をもって、貴方への想いをここに捧げよう――』
……クスヒ……。
誰? あなたは誰なの。その瞬間、まるで走馬灯のように一瞬の剣戟とともに脳裏に駆け巡った誰かの強い想い。瞬時にあたしはどこか別の空間へ放り投げられたような気がした。ダークホライズン。それは遠く広がる昏い水平線だった。まるで黄泉の国から放たれた暗闇のような、その剣戟。いつしか心が絡め取られていく、果てしのないその絶望……誰の? 誰の絶望? あたしにはまるでわからなかった。どうしてアイツが、あんなに哀しそうな、苦しそうな
「瑠美那さん!」
一瞬、目の前の聡介君が揺らいで、そして何も見えなくなった。
とても、とても愛していた。そして、だからこそ憎かった。この手で殺してしまいたいほどに――だが。同じ血を分けた“分身”は、我が身同様にここに沁みついていた。胸に沁みわたる、最上の愛しさ。己自身を愛でるのと同様に貴方を愛で、赦されるのならば、自分自身の中に飲み込んでしまいたいほどに……。
飲み込む、飲み込まれる――。
その時、あたしは強い光の中にいた。息が出来ない。それはまるで濁流のようにあたし自身を翻弄した。すべてを忘れたいと思うほどに苦しかった。そう、苦しい。もしかしたら、これはアイツの感覚? アイツの
『瑠美那、きこえるか、瑠美那――』
え? 気がつくと、頭の中にどこか懐かしい凛としたアイツの声が響いていた。
『私の唱える
何のことだか解らない。でも……。
『……はやく!』
奇しくも月が地球の陰にすっぽり入る瞬間だった。その時、どこからともなく顕れた双頭の
暗闇からアイツの掌が差し伸べられる。もう戻れない。戻ることはできないんだ。そんな予感とともにあたしは再び何かに飲み込まれる。でも、今度は違った。あたしは迷うことなくその温かな掌に自身の手を伸ばした。
よかった……父さん。やっぱり生きてたんだね。
どこかで聞こえていた誰かの泣き声がやんだ。それは、あたし。あたし自身の心が泣いてた涙だったんだ。
気がつくとあたしはアイツの手をしっかり握っていた。そして懐に強く抱き寄せられ、ともに繋いでいた両手を左右に大きく拡げた。クロスする電磁場の中で化学感応が起こり、いつしか一つになったアイツとあたしの
『天地、開闢……!』
――パン! アイツが大きな掌を打ち鳴らしたのと同時に、いつしかあたしもその
意識がどこかへ遠のく。恍惚とした感覚とともに飲み込まれた熱い奔流にあたしは自分自身を見失いそうになる。あたしの中にアイツが、アイツの中にあたしがいる。その時、確かに二人はひとつになった。
その瞬間、おびただしい光の渦が周辺に巻き起こった。最初の出遭いの時とは比べ物にならないほどの巨大な光球。その強い光はまるで太陽の
もう、やめて……!
すべてが終わろうとしていたとしても、やむことのない怒りの焔。けど、あたしは、その中に人知れず潜む深い哀しみに触れた自分自身を知った。それは想いの
母さま……。
覚えていて、クスヒ。貴方はいつの日か
もう一度、戻る。ともに還るのだ。
あたしはアイツの
あたしはアイツとともに往こう。
いつしかあたしは、その本当の真実の名をみつけた気がした。そして、そっと呼んだ。
「――ルミナス」
あたしが名付けた、アイツの名前。太陽と月、そして
「……なんだ、それは?」
「何ってアンタの名前に決まってるじゃない!」
「おかしな名前を付ける、な――……」
それでも、その初めての名前に、生まれたばかりの月光に照らされたルミナスは、少しだけ優しく微笑んだような気がした。
*
そして、もう一人。
瑠美那、さん……そんなやつと一緒に行っちゃダメだ。
気を失っていた聡介は気付かなかった。いつしか自分が闇の宮で、月の神の膝元に抱かれていることを。
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