2. 満月前夜


 満月前夜。その夜は、いつでもどこか落ち着かない。

 第一だって太陽と月の間に地球が入るなんて、どう考えたって、そわそわするじゃないか……!

「えーっと、かつて惑星になり損ねた微惑星の欠片が衝突し、月の表面に無数の巨大なクレーターを……」


 そんな色んな意味で満月の夜がお気に入りで仕方のない聡介は、何冊もの天文書を広げ、いつもの屋根裏部屋で先日瑠美那から頼まれた月の海に関するレポートをまとめにかかった。聡介の自室でもあるその部屋の窓際には、特製の天体望遠鏡が置かれている。それは彼自身の心にも置き換えられるような一つの大切なオブジェだった。


 聡介も瑠美那と同じく沖縄本島から学校に通っている。実は自宅はニライカナイにあり、学校でも一応天文部に属しているのだが、あそこでは満足に生の星も拝めないといった個人的理由から、無理に本島にある祖父宅に居候している。瑠美那の家とは割と近いため、色々と詮索好きな祖父から、こいつめ、おとなしい顔してようやるわい、などと笑われ、案外図星だったため何も言い返せなったというエピソードもあったのだが、本当の理由は聡介自身の部類の星好きから端を発していた。


 それにしても瑠美那さん、こんなの趣味だったっけ。確か彼女は体育会系。ついこの間までは、天文部の僕の話なんか上の空で聞いてた癖に。くそっ石室聡介、一生の不覚!


『ねえ……月の光ってどうしてあんなに淋しげなのかしら?』

『へ?』


 あの日は、まるでらしくもないロマンチックな発言に思わずドッキリして眼鏡がずり落ちそうになったものだ。何だかんだいって、やっぱり女の子なんだなぁ。そんな妙な感慨に耽りながら、聡介は改めて天体望遠鏡のレンズを覗き込んだ。よぉし、視界は良好、晴天なり。今夜もばっちりだ。


 本来は月というより、その先の宇宙、数々に瞬く恒星である自ら輝く星や銀河たちを探索するはずの望遠レンズは、今夜ばかりは主役の月にスポットが当たっていた。第一明日の満月に向け、ますます光を強める満ちていく月の夜などは、むしろ天体観測には適さない。けど、それはそれでよいものだ。


 しかも明日の満月は月食でもある。文字通り月が地球の陰に隠され、月光を遮られる現象。だから今月に限っては満月前夜の今夜、というわけなのだが。満月は月に一度、一人ぼっちの月が太陽の光を燦燦と浴びて最高に美しく輝く夜。まさに晴れの舞台じゃないか。


 どちらかというと僕は太陽より月の味方なんだけどね。数限りなく存在する恒星の一つである太陽より、影の薄い月の方が好みだなんて矛盾してるけど。だけど大概の人がそう思うんじゃないかな。まるで当たり前のように大地に降り注ぐ太陽の光は、本当は眩しすぎるのかもしれない。だけど、その当たり前の事実があるから、僕らはこうして生きていられるのかもしれないけど。実は地上の僕らも月と同じなのかもしれないね。


 ……ただし明日の満月は皆既月食。何だか月に一度の宴を強制キャンセルされたみたいな気分になるけど、それにしても何となく妙な感じがする。聡介は、いつになく神妙な瑠美那の表情かおを思い出した。それに、むしろ月食は満月のパワーを殊更に強力にするらしい。一瞬、眩い月光ひかりを失う暗黒の月。


 ――確かに月は太陽光がないと輝けない。その事実があるから、月はいつまでも太陽に縛られるんだ。


 それはあまりに絶対的な真理。でも、実際月面の表面は凸凹なのに、どうしてあんなに鏡みたいに素直に日の光を反射させるんだろう。だって月の引力は地上のすべてのものの生命を司ってるんじゃないか。海の干満、産後の産卵、そして人間の女性の月経周期……地表でさえ月の引力の影響を受けるという。


 そればかりか、月がなければ地球は当たり前の姿さえ保てなかったという。その確かに存在する月の引力のおかげで、地球の自転はゆっくりになり、水と空気をその大気の裡に穏やかに留め、山脈は聳え、草木は当たり前のように地面に真っ直ぐ根付く。そうでなければ凄まじい暴風の嵐に常に晒され、この大地は砂地ばかりの実に味気ないものになっていた。


 なのに――太陽と同じくらい、そんな重要な月なのに。太陽はもっと月の気持ちを考えるべきだよ。『なぁに言ってんのよ聡介君ったら! またいつものロマンチック病が始まった?』朗らかにくすくす笑う明るい瑠美那さんの笑顔が脳裏によみがえる。そう、まるでそんな太陽みたいな――。


 思わずぼぉっとなる聡介の眼鏡の奥の瞳に、その時何かが映った。

「え?」


 ――キラッ

 流れ星、じゃないよな。それは確かに今まさに煌々と闇夜に照り映える月面から放たれたような気がした。

 ……気のせい、か。


『コンバンワ……』

 その月の光の雫よりも微かな、そのはじめましての挨拶の言葉に、けれど聡介は気付かなかった。


     *


「月の海、か――」

 我ながら恥ずかしいコトを他人に頼んでしまったと思う。でもきっと聡介君なら……。太陽を知るなら、まずは月から……なんて当たり障りのない理屈からじゃないけど。闇から闇へと刻々とその姿を変える月の形。それでも、そこにずっと変わらず留めている何かがあるとしたら。


 アイツ、古の太陽神の真の願い。そう、アイツが求めているものの秘密を、あたしは知りたい……。当たり前じゃない、だってアイツは他人ひとの迷惑顧みず勝手に――、勝手に決めてしまった。そう、あたし自身の運命を。


 だからせめて、それが何なのか知りたいだけなの。表向きは自分勝手で強引で、まるでこっちの気持ちなんか知らずに無視を決め込んで。あたりかまわず照らし出す太陽の強い日の光そのままに。


 だけど時折覗くあの淋しそうな瞳の色。それはむしろ頼りなげな月の光みたいだった。どちらも光り輝くものだから、どっちにしてもアイツ自身であることに変わりないのだろうけど? それはまるで海みたいだ。何かを照らし出す光の海……。でも、月には確かに一つの秘密がありそうだった。アイツが満月の夜にしか姿を現せないのも手伝って、どこかで何かが引っかかる。


 面白いよね、反射望遠鏡は、微弱な星の光を捉えてその姿をレンズに映し出すんだ――そういえば、いつか聡介君がそう言ってたっけ。きっと月もそれと同じことしてるのかもね。闇夜に太陽の光を映し出す、それは孤独な夜の鏡。その月の海に隠されたアイツの願い。あたしには知る権利があるよね? だって、あたし、あたしは……。


 満月の夜を待って静かに高鳴る鼓動に、どこかで見つめているアイツが、心なしか同調して息づいているような気がした。


     *


『イザナギ、イザナミ……龍蛇であることを禁じられた神、か』

「ナーガ……」


 決定稿のアニメの設定ではガイアとは、その源流に北方系遊牧民(幻のシュメール民族とも)を戴く民族からなる巨大集合国である。無論、その大陸の成り立ちから欧州EUや南北アフリカからの種族も加わるが、神聖ガイアがこういった多種多様な人種の坩堝と化したのは――まごうことなくそれは、かつての地球規模の大地殻変動による二大大陸の融合によって急激に多様化が加速したためである。


『それにしたって、そもそもが唐突な話、いわゆるトンデモ設定でしかないんですけどね……』


 思わずくすりと笑う円城寺の横顔が思い浮かぶ。それはそうだ、いきなり大陸同士が、ほとんど何の時間の経過もなしに突然くっついて、それでそこに生きている人間たちが今まで通り無事に国家を築いているだなんて――どこかに嘘や考えもしなかったカラクリがあるか、それとも、その必然性はともかく、それこそが彼女の言うトンデモ設定そのものというやつなのだろう。まあ一寸先は闇、どんなことが起こるか分からないのが、この宇宙の真実なのだが。


 そこに突然現れた一人のメシア。その奇跡の少年の神通力と類まれなる人心掌握術によって、話によっては一発触発、致命的な大規模破滅に陥るところだった巨大大国を、その静寂の力のうちに治めた。大国は奇跡的に国としての輪郭を形作るに至ったのだ。だからこその神聖ガイア。そう、その少年こそは……。


 それらに対し、古くは日本国であったイザナギだが、人類学的にも日本は古代インドをはじめ、インドネシアなどの南アジア、東南アジアからなる南方モンゴロイドをルーツとする海人族に由来するとの説がある。無論モンゴルなど北方大陸系からの流入も否めないが、それもこの国が基より南北双方のルーツを頂く文字通りの交差点、人種の坩堝といえるからであったのかもしれない。


 古来より類まれなる航海術に長け、海洋を自在に行き来した海人族。彼らが崇め奉った神はナーガ、すなわち龍蛇神であったという。(正確には男性形をナーガ、女性形をナーギという)どうやらイザナギの語尾『ナギ』とは凪の意味の他、ナーガから転化したものであるらしい。いや推測とはいえ、その説には言語学的にも信憑性がある。


 そしてナギと同様ナミも単純に波、もしくは波状の連続性を持つ生命の象徴であるとの説もある。寄せては返す波……潮の満ち引きは、そのまま海、そして生命の連続性、永続性をも示している。そうだ、取りも直さず龍蛇神とは龍神、海神のことなのだ。


 ということは、かつて古代日本の国生みであった男女二神イザナギとイザナミの、その本質は龍蛇であると言える。しかも二人は実の兄妹神である。「いざ」は「いさ」――禁じることを意味することばであり、同時に「潔し」や「いさをし(勲し)」などの物の本質の意味であるとも取れる。そこから導き出される答えは、もとは彼らが兄妹きょうだい神であったとするならば、文字通りイザナギ、イザナミは禁忌の二神とも言えるのだろうが……、だが事実、世界中には同様に兄妹神にまつわる創世神話が、アジア圏中心にいたるところで散見される。


 だが、しかしガイアの手によって生まれ変わったイザナギは、その名の通り、元来は日本国であることを“禁じられた”国なのかもしれない。なぜそんなことをするのだろうか。それは愚問だ。同時にイザナギの名には“その本質”であるという真実が込められてもいる。いつか巨大化した大国の支配に反旗を翻す可能性を秘めた民族……。


 イザナギの半身であるイザナミは冥府に葬られ姿を消した。だがしかし実際は海神としての本質を失わず、国土を消失したイザナギを、文字通り包み込む海洋として今も変わらず辺りに存在している。それは無意識のうちに人々のうちに刻まれ育まれた海の記憶そのものだ。


 そう、海こそは真に人々の、人類の遥かな生命誕生の記憶を内包している潜在意識そのものなのかもしれない。だからこそ海洋国家――劇中における現在のイザナギはイザナギたりえているのかもしれないのだ。作中の島嶺黎司が思案したままの思考を、今またそのまま原作者の一人でもある竜崎は思った。


 本作ルミナス・コードに日本神話をメインテーマとして据えたのは正解だった。いや、むしろ必然であったとさえ言える。記紀神話に限ることなく、今まさにすべてはいにしえの神話にこそ回帰すべきなのだ。本作はそのための通過点である。島嶺黎司は主人公、金城瑠美那にとって、そしてひいては日本人にとっての文字通りの反逆者、裏切り者だろう。そして対する文字通り反逆の皇子ルミナスでさえも。だが裏切りの本質とは何だ。誰が誰を裏切るのか。裏切られた、と思った側が実は相手を裏切っていると言えなくはないか。そう、両者の間に本当の真実などどこにもないのだ。


 そして同時に人の本質とは、善悪双方にこそある。人は無意識のうちに誰かを傷つけているものだ。いやむしろ生きるという行為そのものが……。


 そこまで思案した時、手元の携帯が再び鳴った。


『竜崎さん、至急応接室まで来てください。神代君が今――』

「分かった……ああ。彼女には、そのままそこで待っているように」


     *


 ……できた。


 いや正確には、全くといってほとんど出来上がってはいなかったのだが、自分の中で何かが固まった。今までの迷いが嘘だったみたいに。迷い? ああ、そうか。あたし迷ってたんだ。でももう覚悟は出来た。形だけでも、その意味での「完成」だったのかもしれない。


 本当はアニメもオタクも嫌い。いや、正確に言うと嫌いになった。そういう何かで自分自身を誤魔化している自分が嫌だった。あたしはずっと、唯一人のあたしだったはずなのに。だからあたしがあたしでいられる、そんな代弁者は毛頭必要ない。だから今、あたしは。


 だから、ナミとも連絡を絶った?……違う! 未玲は思わず心の中でかぶりを振った。あの子は関係ない? ……ちが、う。あたし、あたし、は――。ひんやりとした黎明の薄蒼い闇のただなかで、密かに何かが生まれた気がした。


「あたし、タブーに挑戦したいんです」

 その言葉に眉を顰めるでもなく、煙草にライターで火を点けていた竜崎は真顔で顔を上げた。


「それは……どういう意味かね?」

「言葉通りの意味で……文字通りの"タブー(禁忌)"です――」


 そのうち、この娘は突拍子もないことを言ってくるだろうとは思っていたが、まさかこんな直球で来るとは。奇しくもいにしえの記紀神話にて歪められた、まつろわぬ流懺るざんの神々の物語を思わせる……。


 竜崎は燻らせていた咥え煙草をテーブルの上の灰皿に乗せ、おもむろにふふっと笑うと未玲に答えた。

「いいだろう。で、そのタブーとやらを破る覚悟は既に出来ているんだろうね」

「――はい」


 瞬間、竜崎の鋭い視線に魂そのものを射抜かれたような気がした。だがそれも一瞬だった。


「期日は一週間後……いや三日後だ。何分、制作が押しているものでね、時間厳守で頼む――解っているだろうが、これはビジネスだ。最初に円城寺君の言ったような生半可なファン心理だけなら、即座に退場して貰うよ」

「ええ、勿論。生憎自己流のプロ意識は持ち合わせているつもりですから――出来る限りのことをさせてください」


 ははは、その糞生意気な物言いに思わず笑い声が出る。しかし竜崎が求めていたのは、まさにこの怖いもの知らずの強気な眼力だった。同時に未玲自身も、相手が竜崎だからこそ引き受けたのだとも言える。それこそ最初は円城寺さんに引き抜かれたんだけど。


 この業界でも強引な手腕で次第にトップにのし上がって来た、悪運ばかりが強いと悪名高い竜崎悟朗。そいつと互角に渡り合ってみたい。そんな思いが心の奥底に確かにあった。とりあえずそれが何かを為すために必要な一つのハードル……そこにルミナス・コードの竜崎がいた。学校で脚本科を専攻しただけのことはあった。未玲には、元々やる気も実力も備わっていた。


 だがメイン脚本家の円城寺冬華とともに竜崎が提示してきたのは、未玲にとっては、まさに難題だった。そう、今の彼女にとっては……。


 とっくに忘れたはずのナミとの日々がよみがえる。あの時のままのあたしだったら、きっと躊躇なんてしなかっただろう。でも、もう忘れたんだ……どこかに封印した。けど自分でも知らないうちに、それはあたし自身の中にしっかりと染み付いていた。


 ……いいや違う、そうじゃない。元々あたしは。


 昔、未玲の中で棄てたはずの心寂うらさびしい記憶がよみがえる。

 雨に打たれた子猫みたいに、びしょ濡れのまんま、乾くことのなかった想いはいつしか、あたしの中で次第に腐り果てて行ったんだ。


 時は奇しくも満月前夜。ちょうど瑠美那と聡介が、その本質を示すものたちに取り込まれていく一期前半の山場の話数と同じに。そう、あとは……。


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