4. 序章と胎動


 何かが、あたしの周囲で静かに、そう確かに動きつつあった。


 それは勿論、突然あたし自身の目の前に現れた“光の守護神”であるアイツ。そして、あたしの伯父さんで担任の教師でもある、この島嶺黎司のアマテラス本庁への転任。そして……この新任教師、草薙瑞穂の出現。


 そのすべてが直ちに何らかの繋がりを持つなんて、その時のあたしには何一つ、予想なんてできなかった。当たり前だ。本当にその時まで、あたしは何も知らない、ただの平凡な一女子高生でしかなかったんだから。だけど全てが予定調和、そうあらかじめすべて決められていたことだったとしたら。


 かつての日本がイザナギに生まれ変わったのも。あたしがこの沖縄、ニライカナイの地に生まれたのも――、そして何より、この不可思議な太陽神に、あたし自身が出逢ったのも……。父さんはなぜ、あたしに何一つ言葉を残さずに死んでしまったんだろう。悲しいという気持ちさえ感じることもなく、あたしはこうして育った。いや、本当は悲しいと感じることもなかったことが、あたしはとても悲しかったんだ。


 すべてがこの上なく当たり前に滞りなく進み、特別この国が平和であることにも、何一つ疑問を抱かず。そうやってあたしの当たり前の日常は、こうして人知れず積み上がってきた。けれどその積み上げた何もかもを、アイツは突然ぶち壊しにやってきた。いつしか知らず知らずに崩されていく日常。でも、本当はそれでよかったんだと思ってる。そう、結果はどうであれ。


 運命という言葉がもしあるとしたら、あたしはアイツと出逢ったことをそう呼ぶだろう。何もかもの始まりを、アイツは運んできた。それは愛であり、そして憎しみでもあった。こんな悲しい感情、アイツに出逢うまであたしは知らなかった。その口づけさえ、涙の味がする。でも不思議と、少しも嫌いになれない。愛してる――、こんな激しい感情きもち、一体どこから湧いてくるんだろう。


 すっと差し伸べられたその手から、こうして始まった運命。もう戻れない。その痛いほどのアイツとの運命を抱いて……。あたしは始まりと終わりという闇に飲み込まれる。そうすべてが生まれ変わるための。


     *


 その日あたしは部活帰りに親友の五月の家に立ち寄った。藤宮神社。そう、五月の家は神社なのだ。古くから沖縄にある琉球八社のうちでも、沖宮、天久宮など伝統的琉球神道の流れを汲む正統なやしろである。勿論、あたしの家と同じにドーム都市ではなく、五月の家の神社は沖縄本島にある。


 そうは言っても、古くからある系統の神社とは言え、五月の家はなかなか居心地がよかった。これも沖縄という素朴な土地柄なのかな。低く緩やかに日差しが差し込む、平屋建ての日本家屋。石垣越しに臨むシュロの葉や、その奥の御嶽ウタキの杜。勿論、正統な神の社としても御利益があるらしく、各種祭礼の折など、何かにつけ地元民や観光客などが訪ねてくる。


 沖縄では海の向こうの理想郷をニライカナイと呼んだ。そう、この沖縄本島に隣接してできた、ドーム都市の名前にもなっている。古来、日本では海の向こうに他界、常世があると信じられてきた。その常世の国から訪れるマレビト信仰は日本各地に見受けられる。そういえば、ちょうどニライカナイドームへの入り口になっている陸橋近くの岬にも、鳥居が立っているよね(あたしは、あそで初めて“アイツ”に出遭ったんだけど……)。


 古来かつての日本は神話の世界だったという。文字通り八百万の神々が人々の心に住まう神話の国。でも、いつしか急速な経済の発展が、すべての日本人の意識をすっかり塗り替えていった。欧米社会の進出。けれどあの大地殻変動による混乱によって、そのすべてが一度尽くリセットされた。いや、リセットされたのは、何も日本だけってわけじゃないけど。


 ともかく現在の日本は、大地を失ったその混沌の末、海洋国家イザナギと名前を変え、そのせいか文字通りの神国になりつつある。実際かつての古代日本の信仰が再び各地でよみがえろうとしていた。中国から伝来した仏教などとは違った意味で。事実、政治の世界でも件の御統総理の下、古来の日本の神を奉る動きがもたらされたりしている。本当はそれは以前の天皇が取り仕切ることだったかもしれないけど。しかし日本の皇族の姿はもうない。一説によると、どこかにお隠れになったとの話もある。ガイアの安全な場所にお逃げになった、とも。どちらにせよ、その神の系譜を継ぐ一族は、日本の大地が消え去ったと同時に姿を隠した。


 そして“新たな神”が、ここに現れた。


 もう以前の過ちを繰り返したりしない。欧米化の波に流され、いたずらに消費経済ばかりに日々を費やしていた、愚かな過去を繰り返したりしない。こうして海の恩恵とともに今あるイザナギは、そうやって新たな国に生まれ変わった。だけど……。


 本当にそうだろうか?――いつしかあたしは、そんな風に疑問に思うようになった。


「瑠美那――瑠美那ったら!」

「――ん。え、なに?」

 突然、思案の靄の向こうから声をかけられ、あたしははっとする。


「んもう、話聞いてる?最近ずっとこんな調子ばっかだよ。ほんとどうしちゃったの?」

 やば、またおんなじこと言われた。あたしは今朝のやけに心配げな母の顔を思い出した。

「島嶺先生の転勤がショックなのは解るけどさぁ」

 うん、だけどほんとはそればっかりじゃないんだ。内心であたしは一人呟く。


 いつものように藤宮神社の境内の縁側に腰掛けて、辺りを見回す。境内の周りは小さいながらも御嶽の杜が広がっており、時折吹いてくる風は芳しい潮の馨りを運んでくる。それでも五月の家は、以前はもっと海の近くにあったという。それが例の地殻変動の隆起によって――。


 確かに神社の建物自体は、ほとんどがその時の地震によって壊れてしまったけど、よほど頑丈に出来ていたのか、鳥居と蔵の一部と奥の社は全壊を免れた。そして今は海を見渡す高台にある。もしかしたら本当に神様がいるのかもしれないね、などと、宮司で五月の祖父である藤宮老人や家族の人たちと一緒に笑ったりした。


 そう、ある意味今のあたしは、本当にその神様がいると言われたって、おそらくそっくりそのまま信じてしまうだろう。だって事実、あたしは――その神様とやらに出遭ってしまったのかもしれないんだから。


     *


 ………

 ……………


 時折その場所にパルスのように規則正しい物音が響く。

 辺りは暗闇に支配されている。その中で密かに点滅する光。


『コードLの発動を確認した――ああ、僅かな間だが確かな発光だ。同時に大蛇も出現しつつある』

『了解した――ただちに明日ポイントNへ特殊班を急行させる』

『分かった』

 男は口元をニヤリと歪めると、その場から立ち去った。


     *


 どうして何かがおかしいと思わなかったんだろう。


 でも、そんなこと、とうに“ルミナス”"と出遭ってしまった時点で……あたしの意識はどこかへ連れ去られてしまっていたんだ。善と悪、悪と善――この世はこの二つで出来ていながら、同時にそのどちらもが交ざり合い判然とせずに、ただ混沌として存在しているだけ。そう、まるで月と太陽の目に見えない相克みたいに。その見えざる二つの引力の葛藤が、こうしてあたし自身を引き裂こうとしている。あたしを抱くアイツの手の中で。


 煌びやかでいて、どこか淋しげな――哀しげなルミナスの記号コードは、それを如実に表していた。どちらもが本当で、そしてどちらもが偽り……。どうすることもできない、その光と闇の相克。その見えない胎動に、あたし自身の運命を託すしかない、そのもどかしさ。


「すまん、瑠美那」

「やだなもう――謝ったりなんてしないでよ……叔父さんだって忙しいんでしょ」

「だが――」


 ニライカナイ空港。黎司叔父さんを見送る出発ロビーで、あたしたちは話していた。済まなそうに手を合わせる島嶺叔父。不意に気まずい沈黙が流れる。あれから早いもので一週間、結局叔父さんが、突然のイザナギの首都であるアマテラス行きについて詳しく話してくれたのは、それから三日後だった。それになぜだか“アイツ”は、あれから一向にあたしの目の前に現れない。


「……たまにはメール送ってよね。母さんも待ってるから」

「ああ、またすぐ帰ってくるさ」

 そんないつものやり取りに、互いの表情に微笑みが戻る。

「俺がいないからって母さんの前であんまり張り切りすぎるなよっ」

「もう――馬鹿ね!」


 叔父さんの肩を盛大に叩くあたし。しばらくは、こんなやり取りもできないのか……。そう思いながら笑顔で叔父さんを見送るあたしには、その後に唐突に起こる出来事のことなんか、想像だにできなかった――そう、ここ沖縄の地で。


 そして文字通り、この島嶺黎司との、永遠の分かれ。たぶん叔父さんとは、叔父さんが島嶺の姓を名乗った時から、既に袂を分かっていたのかもしれない。けど、でも。


 ――本当は失いたくなかった、何一つ失いたくなかったんだ。それはきっと、アイツも同じ。同時にそれは、あたしと“ルミナス”との永く果てしない戦いの始まりだった。



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