第一章 スカウト
1. アタシタチの事情
――黎明の星が彼方の空で最後の輝きを解き放った瞬間、瑠美那は悟った。
自分が確かに何ものかに生まれ変わることを。それは鏡の向こうの世界……そこにいる、もう一人の自分。イザナギというこの国の名は、その片割れであるイザナミを、文字通り黄泉の国へと葬ったことの証、――だから。
「ルミナス、だから貴方と出逢えたのね……」
"海"は、どこまでも青く広がっていた。その海原は命の源。そして命が還るのは星の海。海と
イザナミ――それは一つの暗号のようだ。命を生み育み、そして再び生まれ変わるために
さあ、おいでなさい。深い眠りの淵で、あたしはその声を聴く。
……きっと、また逢える……、
振り向き、闇に飲み込まれる刹那、その手に包み込まれた気がして、ふと安堵した。
そして「あたし」は、ここにいる。
何でもない日常が、いつからか不可思議な軌道を描き始める――それは、もう一人のあたしが確かに望んだことかもしれなかった。そうじゃなかったら未玲にも、それにきっと"彼"にだって出会えなかった……。
*
伊勢崎ナミ、二十八歳。この事務所に勤めて今年でもう5年になる。基本的にはデスクワーク。でも一応サービス業ってことで、当然TELでの顧客対応もする。対外的には、かなり大手の通販業社。だから新卒ではなかったにしても、当初はそれなりに待遇いいとは思ってたんだけど……。
だけど、そこが甘かった。やっぱりあたしにはサービス業なんて向いてない。ていうか全然ダメだ。最近では大体仕事にも慣れたし、客の扱いもそれなりに分かってきた。なのにこの異様な疲労感はなんなのだ。とにかく忙しすぎるんだ。今時数少ない座り仕事だってのに。なんでこんなに疲れるんだろう……やっぱあたしもトシってことかね。
特別、周囲の人間関係に問題があるわけじゃない。確かにあんまり積極的に人と関わりたいとは思ってないけど。ただあたしは昔から人前で妙に緊張する癖がある。癖……緊張? いや、そうじゃない。本当はそんなもんじゃない。そんな並大抵のことじゃないんだ。
時々人の間にいて他人に囲まれていると異様に苦しくなる。酷くすると、その場から逃げ出したくなる。よくあるパニック障害ってやつなのかな? と、一時期は一応疑ってみたが、どうもそうじゃないらしい。それよりか幾分、症状自体は軽いが、それに悩まされている本人にとっては、そんな風に単純に比較できるようなものじゃない。
ほんとはこんな風に当たり前に会社に勤めるんじゃなくて、できるだけ人と関わらない仕事に就きたかった。そう、作家とか創作関係。確かに自分の生来の引っ込み思案な性格を棚に上げて、エンターテインメント業界とか、些か虫が良すぎる話だけど。
今現在は、とりあえず受診した精神科で処方してもらった抗鬱剤を飲んでいる。うん、薬も病院の雰囲気も思ったより悪くない。そしてあたしは、気のせいか歯切れの悪い担当医師に代わって、いつしかその諸悪の根源を突き止めた。
『社会(社交)不安障害』――か。最近になってようやく巷で認知され始めた、ネットで調べたその病名は、いかにもって感じで、あたしの症状にぴったりだった。それでも最近では薬のおかげか、それも以前ほど酷くなくなってきていた。職場の対人関係も、それなりに良好だ。でも、何かが空しい……何かが、おかしい。
「伊勢崎さん、電話鳴ってるよ」
「あ、はい……すみません」
右隣の席で書類を片付けていた村瀬さんに促されて、我に返ったあたしは、とりあえず受話器を取る。村瀬さん――一応先輩のこの人は、いつもそうだ。いくら電話が鳴っていても、自分ではほとんど取らない。ま、後輩に積極的にハードルの高い仕事を優先させてやらせるのは、どの職場も同じってやつか。それでも時々釈然としない瞬間がある。
けど、あたしはただ言われるままに淡々と仕事をこなすだけだ。幸いなことに、電話は相手の顔が見えない。だからどんな人間でも、ある意味自在に演じられる。相手も、そして自分も上手く騙すことができる。ただ淡々と忙しく仕事をこなして、たとえ残業が重なったとしても、いわゆるサービス残業には決してならないのだから、むしろ今現在の収入的なことを考えれば、ありがたいとさえ言える。
だけど。なんか疲れるんだよなあ……。
ほとんどお飾りみたいな銀縁メガネを押し上げて、化粧っ気のない血色の悪い顔を、あたしはさらに人知れずくすませる。肩に掛かる髪をいつも後ろで一本に束ねているのは、単に顔に掛かる髪がうるさいだけなのだが、うるさいのはそれだけじゃなかった。自分に吹き付けてくる色んな風圧を、さりげなく受け流して、要するにその余分な空気抵抗を、できるだけ少なくしたいだけなのだ。
もう、一生こんな生活続けるのかと思うと、内心うんざりかもしれない。
けど、あたしには純粋な“趣味”がある。その趣味を続けるためには、少なからずの収入源と当たり前の日常が必要だ。こんな退屈な肩の凝るデスクワークだろうと、やたら神経を使うサービス業だろうと、ただありがたく受け入れてずっと続けさせて貰うだけなのだ。
そう、それが当たり前の現実。
……あれから未玲はどうしたろう。あれ以来、彼女からは何の音沙汰もない。こっちは普通に短大卒。そして向こうはマスコミ系の専門学校……を、きちんと卒業できたんだっけか。
本当は未玲に関する、そういった諸々のことを、あたしはほとんど知らない。というか根本的に教えてもらえない。もう余裕で一〇年経つのに、だ。一応、友達でしょ。だけど彼女とは単なるオタ仲間ということ以外、一緒にいる理由があまりなかった。だから、お互いのその後について、しつこく詮索するのは無粋というものなのだろうか。ま、それならそれで別にいいんだけど。
――もう一〇年。いや、普通に考えたら、それが自然なのかもしれない。どんなに仲のよかった学生時代の友達だって、お互いの変化に連れ、いつかは離れてく。それなのに。どうしてこんなに気になる、いつまでもこだわってしまうんだろう。
あたしと未玲は、確かに一種の運命共同体みたいなものだった。少なくともあの頃はそう思ってた。一番身近にいて一番心から語り合える何かがあった。誰よりも何よりも? まあ確かにその意味では、あたしも立派な腐女子なのかもしれない。彼女のように積極的に認めるわけではないが……別にそればっかりってわけでもないしね。それでも、その分野以外では何かと引っ込み思案なあたしを、未玲は外の世界へと積極的に引っ張り出してくれた。
だからなのかな。彼女と音信不通になって、何となく心の均衡が崩れ始めたのは――この一〇年、ずっとこんな調子だった。まるで何か自分が自分でないような、自分の一部、もっと言えば半身を失ってしまったかのような。
確かに独りでもオタクは続けられた。むしろ孤独だからこそ続けられる趣味って気もする。でも……やっぱり独りは淋しい。語り合える誰かがいるってことは、ものすごく重要なことなんだ。それは別にオタクな趣味に限った事ではないけど。
何が原因なのか分からない。そもそも原因なんて特別見当たらなかったのかもしれない。それでも、あたしは自分でも知らぬ間に大事な片方の
だいたい腐女子とか普通のオタクだとか、オタと一般人同様にそれぞれを比較対照するコト自体ナンセンスなのだ。別にいいじゃん、あたしたちさえ楽しければ。特別誰に迷惑かけてるってわけでもないんだし――そう、あたしたちだって普通の人間だよ。普通の人間が普通に何かを楽しんで何が悪い。それはそれで当たり前に暗黙に主張してもよいことだ。
だけど未玲といて、確かにどこか何かがいつも引っ掛かっていた。
どうしてもあたしは、彼女みたいに“それ”一方に染まれない。そう、単純に彼女みたいに腐になりきれてないってこと。別になりきる必要なんかない。それは単に性格の違いや趣味趣向の差異みたいなもので、特に気にする必要なんかないはずなのに。それなのに彼女は、未玲は、どこか何かが根本的にあたしとは違っていた。
だからほんとはあたしは、彼女といてもずっと淋しかったんだ。
本当に解り合えない孤独。だからこそ、いつも一緒にいたいと思う気持ち。
もしかしたら未玲があたしから離れたのは、その孤独を断ち切るためだったのかもしれない。
*
昼休みの屋上……あたしはとっておきの一人きりの場所――そう隅っこの特等席で、いつものように、やわらかな
薄青い空と遠くの山並みでたなびく雲が目に優しい。あたしはぼんやり最近見たアニメの
こう表現すると何だかいかにも、馬鹿っぽいアニオタそのものという気がするけど、実際そうなのだからしかたがない。むしろそれは至極自然なことだとも思う。それはまるで昨日会った人のことを思い出すがごとく。昨日あった出来事を思い出すみたいに。そう考えると普通の人が見るTVドラマだって同じだ。
いやむしろ、現実とドラマの間にどんな隔たりがあるっていうのだろう。突き詰めればアニメだって同じだ。単に二次元と三次元の違いだけなのだ。あたしたちの心の中には、二次元も三次元もない。むしろ心とは、アニメや漫画のような平面の世界だって奥行きのある三次元に変換できるような便利な代物なのかもしれない。
だから――あたしたちのような救えないオタクがいるのかもしれない。
しかも最近のアニメは諸々の技術が発展して音も映像も臨場感たっぷりだから始末に終えない。別にそれが一番の理由というわけでもないが、それくらい本格的な魅力がアニメにはある。日本が世界各国からアニメ大国と持てはやされるわけだ。あたしは未玲ほど腐の方向へ突っ走ってるわけじゃないけど、それ以前に子供時代から色々見ていて、ほとんどアニメで育ったような幼少期だった。だから個人的にそれなりにこだわりもあるし、この世界に特別な愛着もある。未玲はどうだか知らないけど……つまり青春時代をアニメ全盛期で過ごした、典型的なアニメ黄金世代なのである。
でも、それでもやっぱりあたしは独りだった。
そんな時、こんなあたしが奇跡的に出合ったのが未玲だった。
第一印象は、とにかく冷たくて怖いという印象。それと同時にまるでエヴァの惣流・アスカ・ラングレーみたいな髪型の長いツインテールが印象的だった。そう――まるで未玲はお人形さんみたいだった。目力の強い、端正なくっきりとした顔立ち。颯爽とした立ち振る舞い。あれに剣道部よろしく胴衣を着せて木刀でも持たせれば、それはもう立派なコスプレイヤーのできあがり。それは冗談としても、確かに未玲のすらっとしたスレンダーな長身は、いかにも平凡などんくさい風情のあたしなんかより、ずっと人目を引いた。
それに見た目以上に彼女の性格には魅力があった。自分の言いたいことは迷わず、はっきり言う。そして何より主義主張が明確である。そんな彼女なら別に人見知りの激しいあたしでなくても、色んな友達が他にたくさんいても、全然おかしくなかった。でもなぜだか未玲は、いつでも一人だった。
単純にあたしはそんな未玲と一緒にいて嬉しかった。そう、未玲がとても好きだった。彼女はあたしの自慢の友達だった。
あたしほど幅広くアニメ作品についての知識があるわけじゃないが、こと自分の贔屓のキャラのことになると、未玲はことごとく熱くなる。そして、どんどん自分の好みに都合のよい妄想をでっちあげる。実際、絵もネームも水準以上。特別、学校のアニ系の何かのサークルに属しているというわけではなかったが、あたしたちはいつしか個別に二人だけの同人サークルを立ち上げていた。
無論、それも未玲が主導権を握っていた。
「あんたは絵なんか描けなくたっていいの。そっちはあたしが全部やってあげるからね――その代わりあんたのアイデアは、あたしに全部ちょうだい」
あたしだって一応は、その妄想という分野には長けていた。それを認めてくれていた未玲。自分で言うのもなんだが、それだけは事実だ。ただそれを目に見える形に表現するのが下手なだけ。それを文字通り表立っての表現者そのものの未玲が代弁する。つまりインプットとアウトプット。あたしたちはそういう関係でもあったのだ。星座でいえば、天秤座の未玲と牡牛座のあたし。内と外の表現者。
それでも時々、彼女の腐女子論がうざったく感じる時がある。
「別にいいけどさぁ……でもなんで翡翠が“攻め”で琥珀が“受け”なの?」
それは勿論、某作品のアニメキャラのことである。こういう話をしているだけで、いかにも腐の会話って感じだ。いやあたしは、ほんとはほとんどどっちだっていいんだけど……。
「だってあなた、ヒスコハは最早確定でしょうに!先週のアレ見たでしょアレ、わかんない?」
「うーん。微妙にわかんない」
「ちょ! 解れよ、自分――アソコはですねぇ、翡翠が初めて琥珀の芳しい初心さ加減に気付くシーンなのっ……あれはよかったわ。ものすごい勢いでヒスコハ同人が量産されていく瞬間が見える」
「ええ、アムロ
うわ。コイツら、やば……くれぐれも、そんな風に引かないように。これがあたしら腐女子の間での、いつもの会話なんだから。ちなみに翡翠と琥珀というのは、その当時アニメ界で一世を風靡していた某監督作品のSF格闘アニメのキャラである。この世界の一般常識では、いかにも優男風味の翡翠が“受け”で逆に肉体派の琥珀が“攻め”――つまり男女の恋愛関係における、どっちが女役でどっちが男役かってこと――という見解。それを易々と覆す未玲は、究極的にどこかが確かにおかしい。
まあ考えてみれば、常に男と男どころか、ぶっちゃけ無生物と無生物でさえ、801的思考に置き換えてしまいかねない腐女子らは……。そこまでいかないにしても普通男女間で成立するはずの恋愛関係が、彼女らの妄想の中では、至極自然に男同士で具体的な行為に至る。冷静に考えてみれば、そこが自分でも怖いと思う(?)そうなのだ、頭の中ではどんな妄想でもOKなのだ。だから無論、この世界では、
そういう妄想が勝手気ままに自由に闊歩し、一人歩きする世界。
それが高じて、よく犯罪などへその世界が暴発するというのは、また別な話だけど。それこそオタやアニメやらが、その度よく引き合いに出されたりするのだが、実際問題それらが直接悪いというのではなく、当然単に間接的なことで、要するにそれをする人間それ自体の問題だと、あたし自身は思ってるんだけどね。
それはそうと高校時代、あたしと未玲はよく、その翡翠と琥珀の正反対の性格のイケメンがダブル主人公の人気アニメ『ガイアギアス』に夢中になっていたっけ。本作はかねてからロボットものアニメで定評があり、独自の歴史を築いてきた某老舗アニメスタジオ作品で、ガイアの監督は本スタジオの某大物監督。そして副監督は竜崎、竜崎悟朗。今でこそアニメ業界各所に名を馳せている、いわゆるやり手監督ってやつである。本当は男臭い熱血アニメのはずが、いつのまにか腐女子御用達アニメになってるっていう、よくある某有名少年誌の原作アニメみたいな法則。監督はじめスタッフは決して狙ってやってたんじゃないんだろうけど、最早腐のおともだちが皆、ほっとかないわな。
未玲はその当時、そのヒスコハに夢中になっていた。敵同士であるという数奇な運命を経て、コトある毎にぶつかり合い、やがて二人は結ばれるっていう美味しすぎる腐的オチ。あの、実際はもっと男同士のガチ勝負の話なんですが……むしろ特撮っぽいヒーローものアニメなのに、普通に考えたら、絶対おかしすぎる。それを平然と餌食にされるのが腐女子の皆さんの心理なのです。わはは、楽しいだろ、楽しいよな兄弟。満面の笑みを湛え、すかさずフォローを入れる未玲の姿が脳裏に映る。
さてと、これ以上突っ込んだ話をするのはやめにしとこう。そうでないと、あたしが誤解される。
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