5. 囚われしもの

 いちど壊れてしまった方が せいせいするの

 はてない願いは どこへも羽ばたかず

 ささやかな日常が 今日も張りつめてゆくだけ


 守ってあげるよ キミがキミである証

 おねがい もう明日をあきらめないで

 永遠なんて どこにもないから

 僕たちのカケラは いつしか旅だつ



 ――その歌声が哀しいほどの抑揚のなさを保ったまま、耳元で延々と語りかける。


 水澤ひとみのアルバムの中の一曲。彼女の曲の中では、あまりにも地味でファンの間でもおそらく話題にも上らないであろう、淡々としたその一曲を、“彼”は飽きもせず携帯端末でずっと聴き続けていた。


 作詞は水澤自身によるものだったが、あまりに彼女自身の朗らかなイメージとのギャップのせいか、かえって暗黙のうちに語ることすら憚られてきたのかもしれない。そう、特別顧みられる機会を持たない、そんな不遇の一曲。……水澤ひとみは、しかし、この詞をどのような気持ちで紡いでいたのだろう。


 過去にその曲の作曲者でもあった彼自身にも、おそらくその詳細は分からなかった。彼女自身、この曲について何も語ることはなかったし、たぶん金輪際、語られることはないだろう。


 それでも彼は、その曲をじっと聴き続けていた。


「……今の君だったら、何か話したいことがあるのかな」


 ふっと微笑むと、男は傍らの席で蹲る年若い娘の肩にそっと手を廻した。水澤ひとみ、かつてそう呼ばれていた彼女の抜け殻。おそらく誰にも打ち明けることのなかった、そんな切なる思い。絶対的な孤独、それを持つことは彼女には許されなかった。そんなものとは絶対に無縁な場所に彼女はいなければならなかったはずだから。――眩いスポットライトの中の囚われの姫君。


 伊勢から南紀へと向かう特急列車。僕が連れて行ってあげるよ……、そっとさりげなく包む込むその温もりとは裏腹な眼差しが、じっと前方の車窓に踊る陽光を見つめていた。


        *


 そこは闇。決して陽の光の届かぬ静寂しじま。ただ水を張ったような静けさが辺りを支配していた。目が醒めているのか、それともまだ夢の中で微睡まどろんでいるのか、それさえも分からない。それでも少女は辺りに目を凝らした。何も見えない。もしかしたら自分は視力を失ってしまったのだろうか? そんな不安まで胸によぎり、瞬間身を震わせる。


 わたしは……。けれども一切の記憶が脳裏から抜け落ちていた。周囲の暗闇と、それはまるで同調するかのように彼女の心を圧した。が、ふっと頬に触れる指先の感覚が突然彼女を襲い、びくんと身を硬くする。


「……驚かせてしまったようだね、すまない」


 そう声を掛けられ、改めて振り向くと、そこにはいつの間にか眩い光が満ちていた。今までずっと暗闇を見つめていたからだろうか、あまりの眩しさに、瞬間目をつぶってしまう。少しずつ、恐る恐る目を開くと、その光の中で、白銀の髪と輝くばかりの白い肌をした少年が一人佇んでいた。


 年の頃は自分と同じくらいだろうか。じっと見つめる穏やかなその銀色の眸に吸い込まれそうになる。少年は何も言わず、少女の頬に当てた掌をそっと滑らせ、その指が顎の先を掬うように包み込んだ。


「――君の名は?」


 穏やかな、けれどどことなく張り詰めたようなその硬質な声色に為す術もなく、ただ頭を横に振る。おそらくは、それほどまでに突然驚きに奪われた心、そしてその身を襲った衝撃だったのだろう。それでも少年は、どこか愛おしむように少女の髪に触れた。亜麻色の長い髪がふんわりと流れる。その華奢な身体は、先ほどから身の置き所がないというように小刻みに震えていた。


 畏れ……白銀の光に包まれた少年に触れられたまま、少女が感じていたのは、未知なるものへの畏怖に他ならなかった。ただ口も利けず、そこに蹲るしか術を持たず。だが少年が欲しいと思っていたものを、少女は残さず持っていた。――それは、本当に生きているものの体温と輝き。


 これが、生命いのち。 


「……私と一緒ともにいてくれないか――?」


 それは哀願……いや、むしろ命じられたといった方が正しい。それほどまでに、その姿は高貴なもののように思えた。それなのに少女の瞳に映る少年の眸は、どことなく哀しそうに見えた。

 

        *


 いまや混沌に包まれた世界中を席巻している大陸国家ガイア。その中枢を司り、実質的に人々の心を掌握している「白のメシア」――その生き神と称され讃えられた存在が、ここイザナギを訪れる。このニュースは各メディアを通じて大々的に報じられた。数年に一度しか人々の前に姿を現さない、その謎の存在は人々の好奇心を掻き立てるのに十分だった。噂では代々選ばれた者が入れ替わり立ち替わり、その少年の姿のままで何十年という月日、国家を統べる象徴として守られているのだという説もあったが、その詳細は明らかでない。


『実際の来訪日は未だ明かされておりませんが、スポークスマンを務める国枝外相によると、神聖ガイアが聖教祭への準備に入る二週間後までに、その可能性が大きいとのことです――。この件について御統総理は、』


 TV画面に映るキャスターが、どことなく慌ただしい様子でそのニュースを伝える。

アマテラスドームを訪れた島嶺は相棒である、表向きはガイアの秘密工作員でもある草薙瑞穂を前に唸った。


「……未だリリアン・パスティムの消息は不明。俺たちと一緒にいたデュナン・リトラスが何処へ雲隠れしたのかってことも無論、同様に一切が不明だが」


 本当は瑠美那チャンに直接訊くのが一番手っ取り早いんだがね――、それでも今、彼女に直接そのことを尋ねられるわけがなかった。第一そんなことしたら、すべてがパァだ。龍神は常に瑠美那とともにいる。だからこそ、それとなく近づいて……、


 瑞穂の妹、草薙瑞悸はアマテラス校エリートアカデミー科に務めると同時に、姉同様ガイア直属の秘密構成員でもあった。その瑞悸はアカデミー科に移った金城瑠美那の動向を監視することを義務付けられていた……要するに、その情報の横流し、なのだが。


「瑞悸からの報告だと彼女は今、睦月諒牙の監視の元、至極当たり前に合宿寮で過ごしているようだけど、」


 しかし、それは単なるダミーだと言えなくもなかった。第一デュナン、龍神の動きが全く見えないことの方が、かえって不気味だ。それでも、だからこそ金城瑠美那の動向を常日頃、注意深く見張ることが必要ではあったのだが。喫茶室のTVからは相変わらず白のメシア来訪に関するニュース番組が流され続けていた。


「……確かに睦月諒牙の千里眼を持ってしても、あいつの中のヤツを見定めることは困難だろうがな」


 肝心の兄貴の方が所属しているイオリゲル正規隊員の能力を使っても、透視することができないという龍蛇の巫女。自分の姪がそんな得体の知れないものに憑かれてしまったという事実には、さすがにもう動揺することさえないが、それでも。


「案外、例の光は龍神絡み、いやそうでないという可能性の方が圧倒的に低い……」

 だとしたら。リリアンも、あいつに冒された世界のただ中へ――?


 だが、さしもの島嶺たちにも、今イザナギ中の、いや世界中の話題を独占している「白のメシア」とデュナン、そしてリリアンの失踪が、いずれ一つの線で繋がってくるのだということは全く想像だにできなかった。


        *


『……アグニ……おはよう……調子はどうだい?』

 そう頭の中に囁きかける声にサーペントの青年は目を見開いた。


 ここのところ真吾はアグニが収納されている液槽のカプセルの保管庫を兼ねているラボで共に寝泊りしていた。彼の心を常に把握していたい。いや、もっと彼自身に近づきたい。真剣に真吾はそう思っていた。屈託のない穏やかな微笑みを向ける真吾に、アグニも次第に心を開きつつあった。


 慎吾、この人間――いや、その彼自身も勿論、元は同じ人間だったのだが――の真摯さ誠実さは、そのものに直に触れるだけですぐに解った。真吾の瞳は、いつだって透明な澄んだ光を放っていた。オマエ、ハ……既に言葉というものを失くしてしまった彼には、それをどう形容したらよいのか分からない。それでも、ただ穏やかな空気だけが流れ、“それ”が語りかける言葉がどんな意味を持っているのか、きっとおそらく彼は理解できていたのかもしれない。


 そう、言葉ではない。動物同士は決して言葉で互いを理解しあうのではない。むしろ、その言葉が互いの距離を阻むことさえある。大切なのは言葉だけではない。むしろ真に大切なのは……。


 ――グルルル……、


 喉の奥を鳴らすような音がアグニから漏れる。硬い鱗に覆われた皮膚、鋭い牙と爪、そして赤い光を放つ眼光。そのすべてが怖ろしくも忌むべき姿であると自ずと感じさせる、けれど。


 真吾は変わらぬ微笑みでアグニに接した。


 驚くべきことに彼は何らかの栄養を特に摂取しなくとも当たり前に生き続けることができた。それも龍神の尋常ならざる生命力の驚くべき強さであると言えた。まさに人間以上の存在? けれど、どうしても真吾は、そんな彼が哀れに思えて仕方なかった。たとえ元が海賊だろうとテロリストだろうと――、彼は自分たちと同じように当たり前に人間として生きていたのに。


 誰が彼をこんな風にしてしまったのだ。それは……ガイア。まさに今イオリゲルに属している真吾自身が従属している大国の差し金だった。アグニ……真吾はいたたまれない思いで彼を見つめた。その瞳が先ほどとは打って変わった潤んだような光を宿す。それはアグニ自身を包み込む慈愛の波動。拒否することの意味をなさない、その次第に浸透してくる水のようなあたたかさ。


 その浸透力のなすがまま、真吾はアグニの痛みを我がことのように感じていた。実際、普段からのそういった双方の距離が、互いのマシンを操る上でも重要であったのだが、真吾にとって既にそんなことはどうでもよいことだった。君は今、何を感じている? 僕はもっと君に近づきたい。人として生きていた頃の君はどんな人だったの? 海賊とかテロリストとか、それ以前の人間だった頃の君は。


 だが、ガイアは元は海賊パルジャミヤの首領であった彼を決して赦しはしない。だから、こんな。もし僕が君を今の鳥籠の中のような状態から救い出そうとしたら、即座に反逆罪で処罰されるだろう。ああ、それは奇しくも瑠美那さんと同じだ。龍蛇の巫女。いつか君を迎えに行く、そう約束してから何日が経っただろう。


 ――せめて今は、その痛みを僕に分けて。

 真吾は液層の硬いガラスに両手を当てたまま、切なげにその向こうを一人見つめた。


        *


 イオリゲルの睦月真吾の弟として、その使命は至極当たり前のように下された。


 そう、瑠美那さんがこのエリートアカデミー科に転入になったときから、いやアマテラス校に入った時点で、既にそれは決められていたことだったのかもしれない。最初は何も考えず、瑠美那さんがこっちへ来ることを、ただ単純に喜んだ。でも――やっぱり彼女は龍蛇の巫女。そして自分は次期イオリゲル候補生なのだ。


『睦月諒牙君、あなたがお兄さん同様の力を持つこと――それがどういう意味を持つことなのか知っているわね?』


 そうだ、僕は兄さんと同じに。アカデミー科のスタッフとして働いている草薙瑞悸は、やはりガイアの手の内で働いているも同然だった。そして、それは僕自身も。ガイアという国の元にいる以上、僕たちはその構成員の一人一人なのだ。決してそのくびきからは逃れられない。


 だから、僕は。瑠美那さんに近づこうとして、あの日ああして食事に誘った。でも……。


 好きになったその人は、兄さんの想い人で、同時に龍蛇の巫女。いや、既にそんなことは解っていた。解っていたつもりだったのに。それなのに、いつの間にか好きになってた。次第に心に満ちてくるのは、彼女への想いと、そして兄への思い。その両方が一気に押し寄せて、僕は何が何だか分からなくなる。


 瑠美那さん――。その名を呟く度に、僕は僕自身でなくなっていくような。ただ大切にしたいという、その思いは兄さんと同じなのに。なのに残酷な運命がそっと囁く。


『……金城瑠美那を、お前のものに、しろ――、』


 そう低く呟き、諒牙は観念したかのように項垂れた。その声は、どこかから彼自身を常に縛り拘束する。ただ自分の欲望に素直になりさえすればいい。そうすれば、きっともっと楽になる。得体の知れない誰かがそう耳元で囁く。


「そう。睦月真吾は神聖ガイアへの反逆を企てつつある――、」


 兄を排除するには、ただそう報告するだけでよいのだ。金城瑠美那、龍蛇の巫女を解放しようとしているばかりか、サーペント化したアグニ・ヴァシュラートまでも。それは既に冒されざる大罪なのだ。


 はっとして、諒牙は自室の片隅で顔を覆い、壁際に凭れ掛かった。


        *


「太陽の皇子……」


 今も思い出される、背筋を貫く悪寒。それがどことなく「白のメシア」が発するものと似通っているような思いにかられ、御統は深く息を吐いた。まさかあれは失われた皇家の――、そんなはずはない。この国がまだ日本と呼ばれていた頃、すべてがその見えざる手によってまさに培われていた。たとえ国力自体が衰弱し、仮初の豊かさの中で国民そのものが自らの行くべき道を見失い堕落しきっても。スメラミコト、確かにそれは崇高なる神の一族だった。人と交わり、すべてを包み込み愛しむ、その慈愛。それこそが大地を照らし、あまねく天空を抱く天照アマテラスでなくて何なのだ。


 “あれ”は自らを、そう呼んだ。そして、まるでそのことを予見しつつあるような、大陸のメシアの来訪。おそらくは神とは、人が人たらしめるために創り出した絵空事なのやもしれぬ。だが、しかし。それでも神は確かに存在するのだ。人が信じると信じまいとにかかわらず。そして神は試そうとしている――どちらがどう、ということすら認識できぬまま、暫定的にこの国を任された者である苦悩を滲ませ、今さらのように呻く。


 たとえ名を変え、その支配権を目には見えぬよう、超大国に文字通り譲り渡したとて。やはりイザナギという名がすべてを如実に言い表していた。ただ一つの、それがこの国の精神の抵抗だったのかもしれない。国土の大半を失くし、それゆえ大いなる方舟と海洋の恵みによって生きながらえた命。そこにいにしえの約束のように現れ、拮抗する神の意思。


『御統総理、白のメシア来訪の件ですが、実質的な日時が決定したとのことです。至急会議室へ』

「……わかった」

 執務室に響く内閣秘書からの報告に御統は席を立った。


       *


 「白のメシア」のイザナギ訪問の情報はクロエの感応能力を使うまでもなく、その意識に浸透していた。


「ふ、これこそが好機でなくて何なのだ……」


 少年の不適な呟きに思わず意識全体を集中させる。その意思が何を行おうとしているのかは容易に感じ取れた。ただ己に出来るのは、その神の意思に従いながら、決して向かうべきでない暴走を水際で食い止めることだけだ。たとえどんな姿に変わろうと、その本質が依人である巫女の力によって変質しようと――、オマエはやはり、かの人なのだから。


 クロエは観念したかのように息を吐くと呟いた。


「白のメシアは単なる大国の要人ではない。あやつにはただならぬ霊気が漂っているのを感じる――、」


 それはお前の勘か? そう問われ、改めてデュナンと称する皇子の表情を窺った。思えば人としての生を受けた自身と、その巫女の力で肉体を手に入れた目の前の少年とは、既に同じ存在になり得ていた。それでも微妙にたがうこの距離感は、やはり根源的に意図するものの相違だろうか。


 それでも……。


「この海とその懐に沈んだ大地とは、遥かないにしえより自ずと我々のものなのだ。そこへ単身乗り込まんとすること自体ヤツの宣戦布告でなくて何なのだ」


 そう、若干方法としては陳腐と言えなくもないが、この霊力を持ってすればイザナギ全土を掌握するなど、造作もないこと、だが。――彼奴の考えていることが何なのか、そのおおよその察しがつかないでもない。


「――要するに、この私自身への挑戦状さ」


 その黒曜石のような紫水晶の異様な輝き……その眸の色にクロエは失った世界の闇を見た思いがした。


 アマテラスの皇子。確かにそれは正統な太陽神としての称号に他ならない、しかし。かの人は、その称号でさえ許されることはなかった。それは、さしずめ暗黒の太陽だ。……私は結局、知らなかったのだ。かの人の母君である女帝アマテラスの命を奪ったのは誰あろう、その血塗られた御手であったのだと。そのことをデュナンとしての肉体を得た、かの人から感知してしまった。私は何も知らなかった。知らずになぜ、かの人が、あのまま祖国へ戻らぬまま何処いずこかへ消えてしまったのかと、ずっと一人思い悩んでいた。


 だがしかし。だからこそ、その胸の内に沈む哀しみを信じることができる。もう、おこがましいなどとは思わない。なぜならば、かの人こそが生涯をかけて仕えるべき我が主君であると悟ったからだ。生涯、そうだ。この命がどんな形に変わろうとも。


「太陽の皇子……、もしも本当に、それがかなえることのできる約束ならば、」


 ――ん? いや、何でもない。テレパスではなく小声で囁いたその声は、幸いデュナンの耳とその意識には届かなかったようだ……それとも。もう夜が明ける。かの人の眠りに就く刻限だ。それでも巫女である金城瑠美那の霊力を既に上まっている証拠に、日ノ神は一睡もせぬまま、スサノオドームにて奪取した小型水陸両用艇のエンジン動力源の波形ゲージを一心に見つめていた。


 ヤツが来訪するとしたら、それはやはりその日をおいてない。


「カグツチ……あいつの鼓動を感じる……、どうやら近くに来ているようだな」


 それは、太陽神であることの宣言――いや。その一大セレモニーを飾る一種のデモンストレーションとしては最適だった。光り輝くもの。奇しくも、その巫女が名づけた名そのままの。ルミナス。それは、銀河うちゅうそのものの命の輝き。


 しかし、まるで眠ることさえ忘れたかのように――、いや、おそらくはそんな平安が、その心に訪れることは二度とないのかもしれない。その予感を胸にクロエ自身も、かの人とよく似た面影を持ったヴァシュラートの皇子が、そこにいることを悟った。


 イオリゲルの母艦でもある、巡洋艦アステリウス。かつて一度アグニ奪取のため、巫女を乗せたその船に忍び込んだことがある。彼女に託した例の宝玉は役に立っているだろうか。その時はアグニ自身の救出は敵わなかったが。その碧緑には心の均衡を保つ、まじないの類の力がある。そう、お前は、お前自身の信じる意味においてのみ、この太陽神に仕えるがよい。


 決して本位ではない命に惑わされるな……! それが翻っては、かの人を救うことにも繋がるのだ。


 おそらくは、それは、お前にしかできない仕事だろう。私はこのまま、アグニのいるあの船を太陽の皇子とともに追う。アグニを取り戻し、そしてカグツチを――、双方の魂の結合を解く鍵を探す。それまで、お前とお前自身の神の魂の融合の妥協点を見つけ、その答えを探せ。もう決して、人間と龍蛇の狭間で悲劇が起きぬよう。


 波頭がぶつかり起こす飛沫にもかまわず、水平線の一点を見つめる眼差し。それが、まだ純粋な光を宿している間は……。

 

        *


「デュナム様、それは……っ」


 白のメシア、そう下々に呼称されている御身の決定とはいえ、その家臣であり宰相でもあるリヒテルは、その言葉に息を呑んだ。


「何も問題はないよ、そうだろう? リヒテル――」


 いつしか、かの人の傍にある少女が控えているのを知った時には、正直何が起こっているのか把握することもままならなかった。許してくれ、彼女は私の大切な友人だ、そう密やかに微笑んだまま、ただ相手の反応を楽しんでいる。


「許すなどと、そのような……」


 呼吸を整え、何とか一息つくと、リヒテルは予定されているイザナギ訪問の日程を伝えた。――本来ならばしかし、それでさえも異例の出来事であるだけに、彼自身の在任中にまさか起こりうることとも知らず、ただ徒に躊躇してしまわぬよう、平常心を保つのがやっとだった。


「……すべては御身の御心のままに、」


 そう恭しく頭を下げ、ただ今回の案件が無事、滞りなく行われることを願う。それにしても――、


 彼の傍らに寄り添いかしずく少女は、口を利くことさえできないようだった。確かにかねてから独りぼっちは淋しい、誰か話をする相手が欲しい、との要望を口になさってはいたが。しかし、ことはガイア全土をその神秘の力で司る「白のメシア」――そのような品位を満たした話し相手など、そうそう見つからなかったというのが事実……だのに。


 せめて身なりだけでもと、身を清めさせ、純白の絹のドレスを着せて、身なりを整えさせた。確かに元々が身に着けていた、各国に数多く存在するガイア直系の学校の制服から、貴族出身の娘のようであると推測できたが。しかもそれはアマテラス――そう奇しくもイザナギ首都の中心部に学園都市を築く学校のもの。


イザナギ……それこそは後日、彼「白のメシア」が赴く予定の地。


「実はイザナギには彼女も連れて行こうと考えているのだが、」

 だが、またしてもリヒテルは、その聖なる御言葉に振り回されることになった。


       *


「――驚いただろう、彼は熱心な信者でね、でも少々口煩いところが玉に瑕なんだ」


 くくっと笑うその銀灰色の瞳は、どことなく気まぐれな猫のそれを連想させた。しかし、実際はペットにされたかもしれないのは彼女自身の方だった。……結局、何も思い出せない。私はどこから来たのだろう? まるで怯えきった小鳥のように、ただ身をすくめて震えていた。しかし、そんな自身の名前を思い出せない彼女に、彼はフェリシア、そう名付けた。


「……とてもよい名だろう? 君のイメージにぴったりだよ」

「……フェ、リシア」


 ようやく口に出せた言葉。けれど、どこかそれは以前の彼女とはどことなく違って見えた。もし、そこに以前の彼女を知る者がいたとしたら。今はまだ、おずおずとでも微笑むより戸惑うことの方が勝っていた。白銀の輝きを放つ不思議な人。その眸の奥に宿る、ひんやりとした冷たさ。高貴であると感じるのに、どこか彼女はそれが怖ろしかった。


 リュシフェラス・デュナム。それが彼の真の名。このクリスタルパレスで彼に仕える者は、皆下のラストネームに敬称を付け呼んでいるものの、それも極々傍に仕える高位の臣下に限られていた。だが、彼女の前で彼は、


「――リュシフェラス。いや、リュシーと呼んでかまわない」


 平然と、そう告げた。宮廷と思しき住んでいる場所の煌びやかさ、多くの家臣たち、そして、あの神々しいばかりの高貴な佇まい。どれを取っても彼女など、その足元にも及ばない位の高い方であると解る。それだけに直々の申し出とはいえ、そのことが彼女には著しく躊躇われた。


 ……遠慮することはない、この私がそう言っているのだから。可愛い私の小鳥。


「リュ、リュシフェラス……、さま。リュ、リュシ……」


 やっとその名を口にするも、すぐに畏れ多く感じて口篭ってしまう。


 ――フェリシア。不意に優しく抱きしめられ、身にまとったふんわりとした絹の衣と、その白い指先のひんやりした感触に言葉を失う。それから身体を離すと、彼はじっと彼女の瑠璃色の瞳を見つめた。怖がらないで……その穏やかな眼差しにそう諭されるも、腰に回されたままの右手と、そして左手には震えるフェイスラインの頂点である細い顎を包み込まれたまま、ただじっと膠着しているしかなかった。

 

 いつしか「白のメシア」のイザナギ来訪が明後日に迫っていた。


 それに伴い、その護衛の任を任されたイオリゲル部隊内部も慌ただしさを極めていた。特に第三小隊は同時にサーペントの被験体の御披露目も兼ねていたのだから、その緊張感は尋常ではなかった。無論、龍蛇と化したその姿は直接晒さず、むしろ目的としては彼自身の分身ともいえるスーリヤ、アスラの起動そのものに比重が置かれていた。そう、通常の人間とは一線を画したその機動力はそのまま、イオリゲルの起動マシンD-2同等に人型形態へと移行した際に、最もその真価が発揮される。


 だがしかしイオリゲルと龍神の力の融合の真価は、それだけに留まらなかった。奇しくもエネルギー系統などの同等のシステムがそれを可能にした。それは、文字通りの融合。不思議なことに、まるでそれぞれが予め仕組まれた機構であったかのように、ぴったりと双方のマシンの合体が可能となったのだ。それは当然おそらくは、予てからの真吾とアグニ二人の精神の融和性にあったのだとも言えるのだが。


 どちらにしてもそれが、実質的な龍神討伐のための力強い布石となることは事実だった。既にアステリウスは寄港先の太平洋上、小笠原諸島からアマテラスドームへ向け航行中。後戻りは、もうできないということなのだ。


「ルミナス……、確か瑠美那さんは、そう呼んでいたっけ」


 アグニが今のアグニになってしまったのが、どういった経緯からなのか。それは当然、あの不思議な孤島での龍神との戦闘から端を発していることは明らかだった。そこでのことが奇しくも彼女と出会った最初だった。龍蛇の巫女――、そういえば彼女はアマテラスにいるのだった。


 アグニとのことで一生懸命だったため、しばらく彼女のことは胸の奥底に封印していた。それでも決して一瞬たりとも忘れたことはなかった。ただ、そばに諒牙がいてくれるのだと安心していたのは本当だ。弟からの近況では、彼女は来期からエリートアカデミー科へと転入となるらしい。よかった、瑠美那さん。たとえ監視の籠の中にいるのだとしても、それが僕の弟の諒牙の元へ行くのだったら心配はない。彼は心から双子の片割れである、その弟の諒牙を信じていた。


 それでも、もしアグニの中にいるモノと瑠美那さんとともにいる龍神が同じものなのだとしたら……、それが僕たちが融合できる本当の理由なのだとしたら。瑠美那さんとアグニ、それぞれの苦しみ哀しみ、それを僕はきっと取り除いてみせる。決して傷つけるためじゃない。ルミナスという龍蛇の神に、二人を返して貰うために、僕は。


 そう考えると殊更に勇気が湧いてくるのを感じる。光り輝くもの――、だったっけ? 諒牙。その名を持つ神様だって、本当はこんなこと望んでないんだろう? だって光は、太陽は、皆をあたため育むために存在しているのだから。

  

       *


 薄れていく意識を僅かに繋ぎ止めた、確かにそれは絆と呼べる類のものだったのかもしれない。


 アグニはかつての同胞の一人であり、彼の友人でもあったヴァルナのことを思い出していた。いや、それは思い出すという直截的な心の動きではない。睦月真吾――、今目の前で穏やかに微笑む人間から発せられる、仄かに温かいオーラが、その思い出すという人間だった頃の行為を表層に浮かび上がらせているのだ。


 深い水底から、いつしか日の光の差す明るい浅瀬へ。そこで彼は確かに大切なものを自身に刻み付けていた。そう、それは言葉ではなく体験。この肌に触れる風の感触や陽射しの暖かさ。そんな体感するすべてのものに似た心地よい波動を感じる。それは、かつて海賊としてテロリストとして悪名を馳せていた頃には、既に遠い記憶となっていた類のものだ。


 おそらくは、もう戻ることさえ敵わぬ遠い過去。何も知らない、ひたすら無垢だったあの頃へは……もう。


 だが、時折“声”が聴こえる気がする。アグニ・ヴァシュラート、その名でさえ既に捨て去ったのかもしれない、それでも。人とは違う能力。化け物のような、異様なその姿形と引き換えに手にした力。それがかつての俺自身の望みだった。ナーガラージャ、その真実に近づくことはそのまま、自身の身を捧げることでもあった。


 心なしか、俺を呼んでいる声が聴こえる。もう、そこまで来ている。誰だ? クロ、……エ。いや、違う。もっと根源的で求心的な、この力の源とも言える何か。それは確かに俺自身を呼んでいる。手を伸ばせば、すぐにも届く場所で、そう、もうすぐだ。


 グrrrrrr……、龍蛇としての本性を今は眠らせたまま、アグニは目を閉じ、つかの間の休息に身を委ねるのだった。




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