4. 偽りのデート

「ね、瑠美那さん、これから僕たちだけで食事に行かない?」

「なぁに、それ――もしかして、デートのお誘い?」


 冗談めかして無邪気に笑う彼女と僕は一緒に歩いていた。物理理論の講習の帰り道だった。彼女はそのまま合宿寮の女子棟へ。僕自身も同じく寮へ戻って、このあと食事するだけだった。


「実は……美味しそうなビュッフェレストランを見つけたんだ」


 僕らエリートアカデミー科の学生は夏季合宿中は指定の食堂で食事を摂ることになっていたが、基本的には、どこで食事してもよいことになっていた。その辺は夏休み中に親元に帰れないだけあって、結構自由だと思う。


「うわぁ! もしかして食べ放題? 諒牙クン、ナイスチョイス!」


 嬉しそうに手を叩いて、あからさまに喜ぶ彼女を見て、ちょっと苦笑い。でも、そんな素直なトコもよかったりするんだよね。兄さん、ごめんね。僕またちょっと一人だけ抜けがけしてるかな? それでも、瑠美那さんの笑顔を見れるだけで単純に嬉しい。だけど……。


「本当のことを言うと、実はね……」

 思い切りイタリアンの料理を盛り付けた皿を前にフォークを手にして嬉々としている、その笑顔に徐に語りかける。


「なァに、諒牙君?」

 けれど、ほとんど食事に夢中で彼女がうわの空であることに少しだけ安心しながら、話を続けた。


「……こっちの授業に付いて行くのは確かに大変かもしれないけど、それでも僕は瑠美那さんが来てくれて本当に嬉しいんだ」

「何よ、諒牙君ったら、いきなり改まっちゃって」


 無邪気に笑いかけながら、あたし自身も、それを言ったらあたしの方こそ――、と思っていた。だって諒牙君がいなかったら、ホント今頃どうしてたか。まだ夏休み中とはいえ、今の時点で、もうアカデミー科の授業は始まってるようなものだもの。ほんと早く付いてかなくちゃ……。


 でも、それはやっぱり本来のあたし自身とはあまり関係のないことだったのだろうか。龍蛇の巫女としての、あたし自身の現実とは。そんなあたし自身の気持ちを知ってかしらずか、あたしを見て彼は軽く微笑んだ。


「よかった、気に入ってくれた、ここ?」

「うん、正直言うと寮の食事、そろそろ飽きてきたトコだったのよ」


 そうだよね、こんなのは、ただの建前のあたしの日常にすぎないんだって、きっと諒牙君なら……ね、全部お見通しだよね? そう思いながら、彼の顔を見る。でも屈託なく笑うその笑顔に、また笑い返す。


「実はね、最近ずっと一緒だった友達が急に皆、家に帰っちゃって」

「あーそれで諒牙君、ひとりで寂しかったんだ?」


 まあ……そんなとこかな? 微笑む彼の横顔が突然翳って見える。そうか、そうだよね。あたしはデュナンの中にいた。だから、リリアンが急にいなくなったのも、そして突然デュナン自身が消えた事実だって知ってる。いいえ、むしろ彼は私自身でもあったんだから。


 彼はあたしが龍蛇の巫女であることは知ってるけど、でも、そこまではまだ話してない。だって、何だか話せないよ。第一話せるはずない、そんなこと。でも、もしかしたら、彼だったらもう全部知ってるかもしれない……。


「今になって急にね、突然ひとりぼっちになっちゃった気がして」


 リリアンも、ヴェルトーチェカも、そしてデュナンも――。そう、いつも皆一緒だった。それが急にどうしたんだろうな。本当のことを言えば、デュナミスの能力ちからを持ってる僕自身が彼らの行方を捜せないことを何より不可解に感じているんだし、それにそのことが一番悔しいんだ。瑠美那さんに、それは今は言わないでいようとは思うけど。


「その中でも同じ部屋のルームメイトでもあったデュナンってやつは一風変わっていてね、」

 その一言に思わず、あたしはドキンとする。すっごく変とか、まさか言い出さないでしょうね?

「素っ気ないんだけど、結構あれで優しい所もあって。確かに時々ちょっと面白い人だなって思うことはあったけど」


 そういえば、ここの所ルミナスは口を出そうとしない。というか、あたしの意識自体にのぼって来ない。勿論、あたしがこっちで起きて目を覚ましてる時は、アイツは眠ってるんだけど。やっぱりデュナンとして力を使うのが忙しいからなのかな。そう言うあたし自身、瑠美那として覚醒していない時は同時にデュナンでもあるっていうのに、最近ルミナスの力の方が強くて――。


 そう思いながら、あたしは妙な違和感を感じていた。睦月諒牙君。彼といて、ちっとも嫌な感じはしない、それなのに。時々すごく不安になるの。ルミナス、貴方が傍にいないことに……。


「ね。瑠美那さん?」 

「ん、ナニ?」


 と、気付いて、途中からうわの空で彼の話を聞いていなかったことに気付く。だから、そのデュナンがね、リリアン先輩とデートすることになって。ああ、そうね。慌ててその話に頷く。まぁデートって言うのも、ちょっと違うかもしれないけど。とにかく、そのあと二人とも突然、僕たちに内緒で、それぞれ国の自宅へ戻ってしまったっていうんだ。


「でも、本当なのかな、それって……」


 ふと真剣な表情になって話す彼を見つめる。勿論、僕としては二人を疑うわけではないけど、何しろ急なことで驚くだろ。僕たち学生や先生たちにも何の連絡もなく、本当にどうしたんだろうって。もしかしたら、あの二人は。


「え――っ?」

 やっぱり諒牙君は気付いてるんだろうか。あたしがデュナンだってこと……。そう考えてすぐ、

「まさか、駆け落ちってことはないよね?」

 あはは、と照れ隠しに笑い、おもむろに気付いたように時計を見て彼は言った。

「そろそろ寮に戻った方がいいよね」


        *


 ――ねぇ諒牙君の力で、その二人のこと捜せないの?


 瑠美那さんは、話の途中で結局そう僕に尋ねては来なかった。それについて安堵するも、実はそのこと自体が心に妙に引っ掛かってもいた。ものすごく複雑だ――二人とも内心では、実はそう思っていたのだが。互いが互いであるだけに、もしかしたら、そんな心の内まで見透かされているような……。


 龍蛇の巫女とイオリゲル候補生。本当は、僕たちだって兄さんと同じように、本当の意味で解り合うことはできないのかもしれない。龍蛇の力を持つ巫女には、おそらく出来ないことはない。そのくらいの情報はイオリゲルの内部から僕の思考の中へ入ってくる。それは、むしろ僕自身が読み取ろうとしてるんだ。勿論、兄さんの手前、あまり派手なことはしようとは思わないけどね。


 ああ、それにしても、本当に……なんて厄介な能力ちからなんだろうね、兄さん。


 そう思うと、もう絶対に彼女は自分の手に入らないような気がしてしまう。そう苛立ちながら、ふと、そんなことを当たり前のように考えている自分自身に愕然とした。


 本当なら僕はこんな力、金輪際、封印してしまいたい。将来イオリゲルの隊員になりたい? 冗談じゃない。兄さんと僕は、いつだって自分自身の力に翻弄されてきた。そんな自分の姿が嫌でも分かってしまうから、普段から必要以上に使わないようにしてるだけなんだ。


「ね、瑠美那さん――、」


 ん? ふと振り向くと、俯き加減で表情のよく分からない諒牙君の右手が、いつの間にかあたしの左手を握っていた。帰り道、お互いの合宿寮は、もう目と鼻の先だ。


 次の瞬間、あたしは突然握ったその手を引っ張られ、強引にコンクリートの壁際に押さえ込まれた。きゃっ! そう叫んだのも、つかの間。

「……ねぇ瑠美那さん、君は本当はデュナンのこと何か知ってるんじゃない?」


 口元を掌で塞がれて声が出せない。誰もいない夜道、坂道の脇のコンクリート塀の片隅。その薄暗がり。小柄なその体躯からは想像もつかない強い力で……助けて、ルミナス! あたしは思わずその名を胸の内で叫んでいた。


「実はね、僕は何度も君のことを探ろうとした。けれどこれまでいつだって成功したためしがないんだ……不思議だね。実を言うと、それはデュナンも一緒だった。もしかしたらデュナンは君と同じ龍蛇の、」


 そこまで言うと、突然彼は押し黙った。つかのまの恐怖に支配されながら、あたしは前髪に隠れたその眸から頬へと、一筋の涙が伝うのを見た。

「諒牙、くん……?」


 僕はいつのまにか、兄さんを憎んでしまっていた。それは多分、瑠美那さん、君に出会ってからだ。兄さんの心を通して君に出会ってから。それまで僕たちは、いつも同じだった。同じ力を持つ『同志』。そんな言い方をしてもいいかもしれない。双子の兄弟だから、そしてお互いにデュナミスの力を持っているから……それ以上に僕たち兄弟は心から解り合えていると思っていたのに。


「兄さんは、近いうちに……、」

「え?」


 その言葉尻を確かめるか確かめないかという刹那、突然あたしはその唇を奪われていた。……諒牙君、はなして! それでも彼に強く両腕を掴まれたまま動けない。涙の味がしたそのキスは、彼の兄への強い思いが滲んでいた。そう、睦月真吾。たった一人の、彼の兄さん。


「ごめん――、瑠美那さん……」


 そう呟きながら、あたしは膠着したままの姿勢で諒牙君に抱きしめられていた。君がどんな人でもかまわない。僕は……僕は。その言葉の裏で、やっぱり彼はお兄さんの真吾のことを――、どうしたらいいのか解らないまま、あたしは身体を硬くしたまま、じっとその彼の抱擁に身を任せていた。


「ん……、」


 そして再び、くちづけ。んぅ……やっ、諒、牙っくん、やめ……。それでも、いつしかあたしは抵抗をやめていた。彼、諒牙君の思いと、そして真吾の思い。どっちも同じくらい真剣なんだって気付いた、だから。涙……また彼の涙の味がする。そんなに、そんなに苦しんでいたんだ。諒牙君も、そしてお兄さんの真吾も、きっと。


「好きだよ――、瑠美、那」


 そう耳元で囁くその声。切なくて苦しい、二人の兄弟の思いがそのまま伝わってくる。イオリゲルとかデュナミスとか、もうどうだっていいと思えるくらい、強く。あたしはこの二人の気持ちに、どう応えたらいい? ねぇルミナス、あたしはどうしたらいいの。お願い――答えて、ルミナス。


        *


『――そんなことをなぜ俺に訊く?』

「似てねー……桐子サンったら、ダメダメだな」


 無理やり渋みを効かせてみせるその低い声に、携帯を手にした未玲が思わずダメ出しを入れる。つーか、このヒロイン、フラグ立ちまくり。この先どうすんのさっていうくらい。色々泥沼すぎて既に昼メロも真っ青な展開だってぇの。――以前だったら、そんな他愛ないオタ話で幾らでも盛り上がれたのだが。だが今は状況的にも、さすがにそれどころじゃなさそうだ。


『……それよか未玲ちゃぁん、アンタ、今何やってんのさ?』

 おもむろに切り出した携帯電波の向こうの桐子に、未玲はこれみよがしに端末に口元を寄せ、小声で叫んだ。


「ロケハン!……らしいんだけどね、要するに」


 とりあえず名古屋に到着。こちらで足りないトレッキングの装備を調達するために、先ほど相澤は一人ホテルの部屋を出て行ったばかりだ。つまり一泊。未玲同行ということで思わぬ御荷物が追加されてしまったため、相澤の当初の予定はすっかり変更されてしまった。実質、出発するのは翌朝ということで、それまで、とりあえずの今後の旅程を資金繰りともども計画し直すことになったのだ。


『えぇ、じゃルミナスの制作どうなってんの?』

「そりゃこっちが訊きたい」


 そうだ、それをみっちり相澤副監督にこれから伺おうかと思ったら、アイツめ、到着早々そそくさと出ていきやがりました……ったく、どうあっても真意を明かさないつもりってか? どっちにしろ、あたしは付いていく。ナミたちの行方とあいつらの目的を掴むまでは、死んでも離さないんだからね。そう思いつつ酔い覚ましのコーヒーを飲み干した。


「ねぇ桐子、ちょっと訊きたいんだけどさ」

『何よ?』

 おもむろに未玲は尋ねた。

「ルミナスのさ――、その瑠美那役の水澤ひとみなんだけど……ちょっと前からおかしいとか思わなかった?」

『水澤ひとみぃ?』


 あれでも結構、桐子は声優関係には詳しい方だった。それは男女問わず、大方の人気声優の話なら大体察しが付く。んーそうだわねぇ、確かに色々噂は流れてたみたいだけど。あーその失踪以前の話だって! ルミナスの一期やってた頃の……。未玲にそう言われて桐子は電話口で、ふと考え込んだ。


『別にこれといって何も――。うーん、強いて言えば一期のラスト直前とか瑠美那って異様にテンション高かったよなぁとか……それくらいしか覚えてないなァ』


 そっか、あんがと。さすがに視聴者のファン側である桐子に、何か特別に変に感じるような部分はないか。それでも桐子の口にした、異様に高かったテンション、というその言葉。それは確かに未玲自身の記憶にも、くっきりと深く刻まれていた。当時は作品自体の盛り上がりの中で感じていたそれが、急にここへ来て別の意味を持ってくるような気がしないでもなかった。


 あの日、お祓い時に例の神社で篠崎とともにいた水澤ひとみの様子は、明らかにどこかおかしかった。何というか、どことなく目が据わっている感じ。それにあの第一話のアフレコの時だって……。大体なんでその場に、いつもナミがいるんだ。そして今回もご多分に漏れず。その水澤や篠崎とともに、ナミは行動を共にしている。相澤からようやく聞き出した、その話が事実なら――。


 なぜナミはルミナスの主役声優二人と一緒に唐突に旅に出ることになったんだろう。確かに次回のアフレコは一週間後だから何の問題もないとはいえ。それにしても熊野、熊野ねぇ――そういえばルミナスの本名って。そこまで考えた所で、部屋の扉の閉まる音に未玲は我に返った。どうやら相澤が帰ってきたようだ。


「あっれ、神代さん、起きてたんだ」

 あったりきよー、いつまでも、このあたしが惰眠を貪っているとでも思うのかい。そう内心で悪態をつきながら、未玲は相澤を睨んだ。

「ところでさ、どうしてあたしたち同室なのよ?」

「しかたないだろ、懐具合が心もとないんだから――、」


 そう釈明し始めた相澤に、その原因を作っているのが何を隠そう自分自身であるという自覚は未玲には全くなかった。んじゃ、まず部屋割り。そう言うと、未玲はカーテンを引いた大部分の部屋の一角を占拠して不適に笑う。


「こっからこっちまで入ってこないでね、絶対! 襲ったらコロス!」

 ……ま、当然の反応だろう。相澤は口元をひくつかせ苦笑いしながら頷いた。


        *


 密やかな静寂が、朝陽の零れる木立の間に満ちていた。


 水と杜の聖地……伊勢神宮内宮、その社の目前は、もしかしたら本当のもりの奥地への入り口だったのかもしれない。簡素な宮の前で純白の絹の御帳みとばりがふわりと風に揺れる。清々しい檜の香が、意識の奥のどこかを知らず知らずに覚醒させていく。


 神は確かにここにいて、けれどどこにもいない。限りなく無である神。そしてだからこそ、そこここにある、その存在。そのゼロ次元の真実に、ふと眩暈がする。決して何も語らず、けれど同時に数多の声が鼓膜をつんざく。


 篠崎さんと二人、あたしはつかの間の不思議な瞑想のあと、はっと辺りを見回した。そこにはもう、内宮の宮は跡形もなかった。代わりに目に入ったのは、やはり鬱蒼とした木々の間に立つ大きな檜の鳥居。


「ここは……瀧原宮たきはらのみやだ」


 そこは神宮の別宮の一つ、宮川の支流である大内山川沿いに佇む瀧原宮だった。伊勢神宮より、さらに山奥に分け入った場所にそれはあった。内宮から西へ距離にして約三十キロ。静寂に包まれた神域――それは何ら皇大神宮と変わらない。しかし……。


 呆然と呟く篠原さん。あたし自身も、何が起こったのか分からないまま、同様に一人棒立ちで立ち尽くしていた。


 瀧原宮は、いわば伊勢神宮内宮のミニチュアのようなものだった。しかし数ある宮社のうちで最も遠い場所にある、そんな所へ、どうしてあたしたちは瞬時に移動してしまったのだろう。さっきまで確かに、内宮の社の石段を昇って御正宮ごしょうぐうの前に立っていたと思っていたのに。


 それに、水澤さんは……! あたしはハッと思い出したように身を弾かれ周囲を見回すも、けれどそこにはもう彼女の姿はないのだということを瞬時に悟った。

「これは、一体」


 狐につままれたような表情で呆気に取られたまま、篠崎さんは未だ現状を把握できないでいるようだった。それは勿論、あたしだって。けれど、あたしたち二人は、何かのワケの分からない力によって一瞬の後に別の場所に「瞬間移動」してしまった。それが証拠に、時計の針は内宮に到着してから僅か二十五分後の七時三十六分を差していた。


「篠崎さん……、」


 ああ――と頷いて、ようやく彼は我に返ったように歩を進めた。あたしもそんな篠崎さんに付いていく。褪色した色合いの木肌を晒す鳥居。神宮の「遙宮とおのみや」とも呼ばれるそこは、内宮ほどの規模や格式の高さほどのものはないにしろ、それ以上にもっと原初的な祀りの場であると感じられる何かが、そこここに漂っていた。


 伊勢神宮を興した第一一代垂仁天皇すいにんてんのうの皇女倭姫命やまとひめのみことが天照坐皇大御神(天照大神)を祀る地を探すために各地を訪れた際、「瀧原の国」という美しい場所を見つけ、そこに新宮を建てたという。


 それがこの瀧原宮なのだ。いわば神宮の故郷とでも言うべきだろうか。「瀧原」というのは、この瀧原宮のある大紀町滝原の地名であり、大小の滝を表してもいる。実際、伊勢神宮のある三重県東部を流れる宮川は数々の支流から連なり、それに注ぐ滝が山間を縫うように数多く存在している。


 それは五十鈴川同様、大自然の大いなるサイクルによってもたらされる水の恵み。倭姫が美しいと見たままに形容したその国は、まさに瑞々しい樹々と水の密やかな隠れざとだったのだ。それはこの瀧原宮の、社自体は質素ながら、それを包み込み、ただならぬ鬱蒼とした気配を醸し出す杜の木立が無言のうちに語っていた。


 老齢の大杉がそびえ立ち茂る参道。その参道と平行して流れる谷川の川面。この森に抱かれたすべてが、今生き生きと朝陽に光り輝いていた。神はむしろここに建てられた社のみならず、このもり全体にいるのかもしれなかった。そこここにいて、常にあたしたちを見守り続けている。それは多分、この一滴の水にだって。


 そう考えながら御手洗場の清水を掌にすくう。篠崎さんは携帯で水澤さんに連絡を取ってみる、と言って河原を出て行ったけど、何となくあたしは繋がらない気がした。そして案の定、戻ってきた篠崎さんはかぶりを左右に振る。


 今起こっていることがどういうことなのかはともかく、ひとみが心配だ。そう呟く篠崎さんに頷く。すると、唐突に彼の手にしている携帯の着信音が鳴った。はい……、恐る恐る出ると、電波の向こうで見知らぬ男の声がした。


『――彼女のことなら心配要らないよ、僕がしっかり保護しているから』

 唐突のことに篠崎さんが面食らっていると、男はさらに言った。――それより君たちは、そのまま熊野へ向かいなさい。その声は、あたかもすべてを知っているかのように落ち着き払っていた。


 そのたった今切られた携帯画面には「nayuta」と記された記号のようなローマ字が表示されていた。不可思議な思いに襲われたまま言葉を失う篠崎さん。


 けれど今はとにかく進むしかない気がした。けれど一体何に、どこへ? 考えてみれば、その本当の理由も解らないまま、あたしたちはこうして……。でも、ここに来てはっきり解った気がした。天照大神の坐す神宮の杜。そして――いつしか我知らず、もっと先へと進まなければならない気がした。どうして。


 篠崎さんもあたしも、その本当の答えがわかっていた。互いの目を見ただけで、そのことが解る。もしかしたらそれは、何かの言葉にして説明できるようなことじゃなく、そして目に見える目的という目的なのではなく。何だか変……、本当にあたしたち、どこへ行こうとしてるのかな。


「ひとみのことなら心配いらないみたいだ――、」


 けれど、あからさまに篠崎さんの眸には不安げな色が映る。きっと水澤さんは、もうこのルミナスの、瑠美那の役割を終えたのかもしれない。だから、あの時、神様の御前で壊れてしまったのが最後。壊れた? 違う、その魂はもっとずっと安らかな場所へ戻っていったのに違いない。


 なぜだかそう思えて、大丈夫、と篠崎さんに伝えたくて……。あたしは思わず彼の手を取っていた。あたたかい体温。その奇跡に目覚めた指先が、何だかたった一つの約束を探しているような気がした。


「何だか不思議だね……いや、不思議なことは君と出会ってから、もう何度も始まっていたけど」


 傍らでそう囁く篠崎さんを見つめながら、不思議に穏やかな心地に包まれていく。大丈夫、大丈夫だから、未玲。いつしかあたしは、差し込む朝陽に向かって微笑む力を持った自分自身を感じていた。



  

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