第3話

 強い風が吹いた。

 煽られたマントがはためき、辺りの木々も葉をさらさらと鳴らせる。

 ぐ、と目を細めたヘラは、やけに冷えた風だな、と、その吹いてきた方へ顔を向けた。それから、木々の向こうに湖を見つけ、嘆声を上げる。

「…………うわぁ」

 今の今まで、緑の中を歩いていたというのに。突然目に飛び込んだ青は、ヘラの心をあっという間に奪ってしまった。

 昂った気持ちそのままに、森の中へと足をぐんぐん踏み入れていく。木々の間を縫うにつれ、段々とはっきりする湖の全容は、今まで気付かなかったのが不思議な程大きな物だった。

 ざ、と茂みを掻き分けて、湖のほとりに辿り着く。

 気持ちの良い晴れが、湖全体をきらきらと輝かせていた。幅は視界に収まる程で、けれど奥に広がる湖は、太陽光の反射のずっと向こうに随分小さく見える森を広げている。湖を一番長く見られる場所から見ているのだと気付いて、ヘラは高鳴る胸のままにハープを取り出した。

「何て良い日だ! ずっと森を歩き通しで、方向も分からなくなったから、どうなることかと思ったけど……この景色を見るために迷子になったんだな!」

 どこまでも楽観的な声を上げると、湖のほとりに座り込み、滑らかに軽快な音を紡ぎ出す。

 風にきらきらと揺れる水面に合わせるようにリズムを取ると、やがてヘラの口から歌が溢れ始めた。


涼しい風がさらり 肌を撫でた

つられ顔をくるり 湖が見えた

居ても立っても居られず 私は森を抜けた

行儀よく木々を抜けた

そうして辿り着いた 森の湖


太陽がきらきらと湖に舞い降りる

透き通る湖面に身を浮かべている

肌を撫ぜる涼しい風が

太陽の光をくすぐっている


あぁ! 何て素晴らしい旅

迷ったことも忘れる

素敵な景色 素敵な出会い

あぁ! 何て素晴らしい旅


水面がさらさらと涼風に舞い踊る

透き通る湖面が千々に映し出す

肌を照らす温かい光が

涼風と眠気を誘っている


 ぽろろん、と素朴な音を奏でるハープに、ありふれた旋律が重なった。

 歌通りに眠くなったヘラは、手はそのままに、口を閉じ、ゆったりと湖面に音を任せた。

 とろろん たららん とろてろ しゃらん

 流れる音には、時折小鳥の囀りが合いの手を挟むばかり。

 ゆったりとした湖畔の空気を、大きな変化の無い旋律が、けれどゆらゆらと、ヘラの手から流れている。

 やがて、太陽の下を雲が通り、湖からの照り返しが無くなった。

 閉じていく光っていた湖面に合わせ、音の数を少なくして行ったハープは、やがて薄暗がりに辺りが包まれると、完全に沈黙した。

 しばらくの後、ヘラはふぅ、と息を吐く。

「……すごい、これが、…………これが、旅」

 自然に身を任せ、音を任せ。

 感じたそのままを、ハープで奏でる。

 寒気ばかりでなく、ぶるり、と体を震わせたヘラは、けれど雲って確かに冷えた湖畔に、座っていた体を持ち上げた。

「……さて」

 ちょうど、開けていた視界。森に入るまで目印にしていた山もしっかり見え、方角を確かめると、そこへ向かってじっくり歩き始めた。

 これで迷子も解消だ、食料も少なくなって来てたし丁度良かった。

 本当は昨日に着いている予定だったものを、そもそも入らなくても良い森に、鳥の声が綺麗だからと立ち寄ったヘラは、ここに至って漸く隣町へ辿り着く目途が立ったのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る