line.03 『織峯遊季』
玄関というより、そこはエントランスだった。
吹き抜けがあって、二回に上がるカーブを描いた階段があって、天井からはシャンデリアが吊してあって、床には見た目だけでも柔らかさがわかるふかふかの絨毯が敷かれていて。個人の住宅とはとても思えないほど豪奢な、装飾過多のスペースだった。
「げ、下駄箱がないっ!」
衝撃に戦く詩亜。
だが麗奈はそんな詩亜に冷たい目を向けて言うのだった。
「私の家も、入り口には下駄箱ないわよ」
それは麗奈の家は一階が喫茶店だからじゃないかなと思うのだけれども、何だか微妙にドヤ顔している麗奈を見ていると、彼女がそれで満足しているのならば別に良いかと、詩亜は曖昧に笑みを返すのだった。ちなみに水口家には、裏口に下駄箱がある。
そんな麗奈と詩亜を見て、遊季少年は微笑ましいものでも見たかのように、くすりと口元を歪めた。それに気付き、詩亜は少し恥ずかしくて視線をそらす。
「さあ、あいにく使用人は全員出払っておりまして、行き届かない面もあるかと思いますが、本日は僕が案内します」
どちらかと言えば大仰に、遊季は大きく腕を広げながら、エントランスの奥にある、一際大きな扉の向こうへと二人を案内する。
麗奈は堂々と、詩亜は静々と、その後に付いていく。
その向こうの部屋もまた豪奢だった。
学校でしか見たことのないような大きなテーブル。だがそれはもちろん、学校のものとは比較にならないほど重壮な彫刻か掘られた全面木製の、とにかく一目でわかる豪奢なテーブルだった。
上座に、ひとりの男が座っている。白い、高級そうなスーツに身を包んでいたのだが、そこから感じられる雰囲気の色は、なぜか『黒』だった。
歳の頃は三十代半ば。同年代に見える遊季とはだいぶ歳が離れているが、おそらくあれが、織峯渡季なのだろう。
テーブルの上にはすでに料理が並べられていた。
立派なテーブルから、フランス料理のコース料理でも出てくるのかと思っていたのだが、テーブルに所狭しと並べられていたのは中華だった。
詩亜と麗奈と渡季と遊季。四人で食べるにしては多すぎるように思えるのだが、どうなのだろう。
けれども使用人はいないというし、いちいち給仕の手間を省くとなると、こういった選択になるのかもしれなかった。
「やあ、お嬢様方。よく来てくれました」
織峯渡季は、大柄な男だった。青年実業家というか、博士号を持つ研究者という触れ込みだったが、非常に体格が良く、どちらかと言えば柔道とか総合系の格闘家のように見えた。声にも張りがあり、よく通り、耳に心地よく響いた。何だろう。巧くは言えないのだが、目が離せないというか、自然と視線を惹き付ける、カリスマのようなものあるように感じたのだった。弟である遊季が、線の細い、どちらかと言えば可愛らしい、しかし存在感の薄い――よく言えば透明な少年だったので、非常に対称的だと思った。
詩亜は別に「お嬢様」などと呼ばれる存在じゃない。
父は仕事上、非常に顔が広く、著名人なんかとも交流があった。だから詩亜自身も一緒に、テレビに出たこともある人や「先生」と呼ばれるような身分の人とも会ったことがある。けれどもあくまでも父は一般人であり、その娘である詩亜も当然、普通の少女だった。
麗奈は言うまでもない。色々と訳ありそうではあるけれども、きちんとした世話人のいる、正真正銘の「お嬢様」だ。本来ならば、麗奈の『お付き』としてここにいるのは詩亜ではなく水鳥香美絵だろう。けれども詩亜がついていくことになったのは、詩亜の願いによるものである。父の死の、理由を知りたいという願望。突然の病死により亡くなった、父、綾瀬時頼の、あるのかどうかもわからない、その死の謎を知りたいからだ。噂されている。父の死には謎があると。どんな謎なのか、詩亜は知らない。噂は噂に過ぎず、本当は謎なんてどこにもないのかもしれない。詩亜も内心は、本当は、謎なんて存在を信じていない。麗奈なら知っているのかもと思うのだが、尋ねたことはない。麗奈も言及することはない。けれども麗奈は、織峯渡季により誘われたという晩餐に詩亜の同行を許した。香美絵の代わりとして。
そこに何か答があるのかもしれない。
それとも何も無くて、ただの深読みのしすぎでしかないのかもしれない。
麗奈は何も言わない。少女らしくない態度で、不敵に構えている。それは背伸びをしようとする少女の微笑ましい言動のようにも見える。
けれども決定的に違うのは、麗奈には誰にも憚ることのない確かな力を持っているという事実を、詩亜は知っている。
だから詩亜は麗奈の言動すべてを深読みしてしまうし、ほとんど無条件に従ってしまうのだ。
麗奈の言葉は特別なのだと。
「織峯さん……ひさしぶりですね」
席に着く麗奈は、背が足りず、子供っぽく足をぶらぶらさせていた。それはテーブルの下に隠れていて、織峯渡季からは見えないだろう。上半身は良家のお嬢様っぽく上品に微笑んでいる。
楽しそうだなと詩亜は思った。お嬢様っぽい表情も、子供っぽいテーブルの下の動作も、どちらもきっと演技なのだろう。
こっそりとため息を吐きそうになったが表情には出さず、詩亜は席に座った。
すると正面に座っている遊季と目があった。
遊季は人畜無害っぽく、にっこりと笑った。
邪気もなく、善良っぽい笑顔なのだが、織峯渡季の弟なのだ。
ここが悪の研究所ならば、ここに住んでいる遊季が悪でないはずがない。
引きつりそうになったが何とか笑顔で返した。
それから麗奈から詩亜の紹介があって、改めて詩亜は織峯兄弟を紹介された。
綾瀬詩亜と、きちんと名乗ったのだが織峯兄弟の表面は何も変わらなかった。いや、弟の遊季の表情は一瞬曇ったように見えた。なのできっと、兄弟は詩亜が誰なのかを知って、あえて話題に出さないようにしてくれているのだろう。父を亡くしたばかりの少女を気遣って。もしくは詩亜の父の死の、深い話をすることから避けようとして。どちらが理由なのかはわからない。けれども知らないわけはない。詩亜の父はそれなりに著名だったし、街中が大騒ぎになったのだから。この食事会は前から計画されていたらしいけれども、父の死の影響もあって日時はずれたらしいし。だからこそ今日このお屋敷には織峯兄弟以外、誰もいないのだろう。
「さあ、では乾杯しましょうか」
ワインのグラスを持って、渡季は言った。
麗奈と詩亜、そして遊季の前には発砲している透明な液体の入ったグラスがあった。
シャンパンのように見えるけれども、さすがにジュースか何かだろう。麗奈はもちろんのこと、詩亜もそして遊季も未成年だ。
「あら? 名目は何ですの?」
微笑を浮かべた麗奈の問いに、そういえばと詩亜は首を傾げる。
そういえば、どうしてここにいるのだろう。
なぜ麗奈が織峯渡季に誘われてこの屋敷で夕食をごちそうになることになったのか、その理由を詩亜は知らない。
ただ麗奈が行くと言うことを聞き、それでついていくことを申し出たのだ。
それに、中華なのになぜワインなのだろうか。
シャンパンっぽい飲み物は、たぶんスパークリングの葡萄ジュース。
烏龍茶ならわかるし、決して用意できなかったわけではないだろうに。何かの拘りなのか、ワインだけがひどく浮いているように思えた。
麗奈はグラスを手に持たない。だから詩亜もそれに習って持たない。見れば遊季も持っていない。
「名目は何でも良いでしょう。水口のお嬢様。『この出会いに』でも」
「……あら、私みたいな幼女に言うセリフではありませんね」
くすくすと笑う麗奈の表情は、とても五才児のものとは思えないほど艶然としたものだった。頬が上気していてわずかに赤く染まり、うっとりと目を細めて親子以上にも歳が離れて見える遥かに歳上の男性を見詰めていた。異様に背徳的で、そばで見ているだけで、直接視線を向けられたわけでもないのに、ましてや同性だというのに、いつも一緒にいて慣れているはずの詩亜でもドキドキさせるものだった。
けれどもその視線を真正面に向けられている渡季は平然としたものだった。
変わらない、どこか落ち着いた表情で笑っていた。
「ふふ。相変わらずですな。出会いというのも今さらのことですし……そうですね。『この光花の街の発展に』とでもしておきましょうか」
「ええ、それでお願いしますわ…………遊季さんも、それで?」
なぜか麗奈は視線を流すように移動させ、弟の遊季にも声を掛けた。
「……僕も?」
「ええ、遊季さん。あなたの意見も聞きたいわ」
なぜ声を掛けられたのか、理解できないという風に遊季は驚きの表情を浮かべた。詩亜も首を傾げる。なぜ遊季に視線を向けるのだろう。この場の主役は渡季と麗奈である。遊季は弟、詩亜は従者というただの添え物、それにすぎないはずだ。ここでわざわざ遊季に意見を求める理由なんてあるのだろうか。現に麗奈は詩亜に意見を求めていない。
「ええと……じゃあ『あなたとの出会いに』」
言いながら戸惑ったようにグラスを持つ遊季の表情は明らかに戸惑っていて、どこか照れてもいて、そんなセリフを言い慣れていないのが丸わかりの態度だった。
しかし麗奈はなぜか顔を非常に綻ばせた。
「まあ! 嬉しいわ! あなたとの出会いに乾杯!」
そうして麗奈は手早くグラスを手に取ると、勝手に乾杯をしてしまった。
「乾杯」
「か、乾杯」
落ち着いた男性の声がすぐあとに続き、わずかに遅れて戸惑った少年の声も続く。
詩亜は乗り遅れてしまって、とりあえずグラスを手に取ると、小さく上げた。
テーブルは広くて腕を伸ばしても対面には届かない。だからグラスを重ね合わせるようなことはしない。
グラスに口を付けたのは渡季だけで、遊季も詩亜も、乾杯の音頭を取ったはずの麗奈もグラスをそのままテーブルへと置いた。
「お嬢様は私の不肖の弟を気に入りましたかな?」
「ええ、気に入ったわ。まさか織峯さんにこんな素敵な弟さんがいるとは思ってみませんでした」
ん、んー?
詩亜は首を傾げる。
いや、何かおかしくないだろうか。
あれ? 麗奈、何か本気っぽくない?
顔も赤いし目がきらきら輝いているし声もうわずいている。麗奈は普段から落ち着いているというか大人びたというか、全然幼女に見えない幼女だけれども、こんなにテンション高く喋っているのは見たことがない。
けれども同時に思う。
本気で織峯遊季のことを気に入って、興奮しているように見えるのだけれども、同時にそれらは全部演技のようにも思えるのだ。
麗奈ならば、周囲の誰をも騙して、演技するなんて簡単な事だ。
それこそが今まで付き合ってきて詩亜が思っている麗奈という幼女なのだけれども。
――わからない。
元より、詩亜は麗奈の考えを読めたことがない。
麗奈に限らず水鳥兄妹の思考も、伊月零のことも。
詩亜は自分があまり頭が良くないことを自覚している。
人の考えを察するという行為も苦手だ。
だから今の普段では見られない麗奈の言動が、はたして演技なのか本気なのか、さっぱりわからない。
だから混乱するのだし、それに。
――どうして、弟の方にアプローチしているのだろう?
元々麗奈と詩亜が目標としていたのは、この屋敷の主であり、学者であり研究者であるという織峯渡季の方だった。
遊季の存在は今日はじめて知ったのだ。
初めて会った、この場にいてもいなくても同じような者に対して、わざわざ演技する理由がどこかにあるとは思えない。
渡季に対して仕掛けるのならば兎にも角にも。
だからこの麗奈は演技などしていなくて、まさしく本気で。
本気だったら……どうなるというのだろうか?
何だか想像が巧く働かなくて詩亜は頭を振った。
何かがおかしい。
どうにもおかしい。
麗奈にアプローチされた遊季はといえば、穏やかに微笑んでいるだけだ。
幼い戯れにすぎないと思ったのか。
遊季の視線は、幼児の微笑ましい好意を受け流す大人の態度のように見えて、しかしそれとも何か、また違うような気がした。
それに麗奈は、遊季に対して好意を示しながら、話しているのは渡季となのだ。
それが何を示しているのか、まったくわからない。
ひどく気力が削がれるような気がして詩亜は、シャンパンのグラスを手にとって、口を付けた。
「あっ」
その言葉を言ったのは誰だったのか。
麗奈か遊季。少なくとも渡季ではない。
若干の慌てた様子を含んだ声に詩亜は顔を上げる。
遊季は驚いたような顔をしていた。
麗奈は呆れたような顔を向けていた。
首を傾げると麗奈は嘆息した。
「詩亜……あなた、『悪の研究所』に乗り込んでいるという自覚がないわよ」
「えっ?」
「あのね……私たちは織峯さんを疑っていて、織峯さんもまた、疑われていることを自覚しているわ。ならば、対策くらい採っているでしょう? そしてそれはたぶん、一通りのものじゃないのよ。たぶん、メインとなるものは、違うんでしょうけど?」
何を言っているのか、本当にわからない。
だからそのことを返そうとした、その時だった。
くらりと頭が震えて、体から力が抜ける。
がたんと音を立てて、体がテーブルの上に横たわる。
遠くから声が聞こえる。
「大丈夫よ。良い誤算だったけれども、ここにはユキ君がいた。ユキ君の前にも同じグラスがある。だから、死にはしないわ。たぶんシャンパンには睡眠薬が入っていて、ワインには何もないの」
睡眠薬。
そして用意された料理に不似合いのシャンパングラスが三つ。
その言葉が頭の中で形を作った次の瞬間。
舞台が暗転するように、詩亜の世界は真っ暗になった。
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