fragment.02 『七色ペンタグラム』
光花市の郊外に、去年突然オープンしたテーマパーク。一言で言えばそこは『温水プール』だった。
ただし、その規模は桁外れに大きい。
水の都と謳われたベネツィアを模して作られた町並み。環境調整を徹底された園内は、常夏。訪れた客たちは、水着で闊歩する。エリアによって制限はあるが、縦横に張り巡らされた水路はそのままプールとなって、いつでも誰でも泳ぐことができる。今も、柚木の目の前の水路では、幼稚園くらいの小さな子供が三人、はしゃぎ回っていた。
借り与えられたアパートの二階から、ぼんやりと見下ろす。
なんでこんな所にいるんだろう。
ぼんやりと思いながら。
何故って?
今自分が此処にいる理由。
わからない訳じゃない。
国際的なとある研究機関――特殊技能研究所ペンタグラム光花支部。柚木が所属する組織の、ゴールデンウィークを利用した保養の為のイベント。その為に柚木は、今、ここにいる。
理由を追えば、明確な文章が浮かんでくる。
しかしそれは、あくまでも『柚木』の理由であって、この『柚木』の体を間借りしている『ユキ』の理由ではないのだ。
いや、違う。
――間借り、という感覚は、柚木にもユキにもない。
意識はどちらのものも完全に自己のものとして一致しているし、二重人格的に分裂するような気配はない。
けれども、理屈的にはこれは間借りであり、本来の自分の状態とは異なるものだと、理解はしていた。
だけども、強く疑問に思う。
本当にこんなことが起こるのか?
以前の記憶。エリュキリオ・トーチだった時にも思ったが、今回の柚木の違和感は、その時以上だ。
いくら並行世界だろうと、これはない。いくら夢の中だろうと、これはない。
確かに今回の世界は光花市であり、これまで最もよく馴染んできた世界群との表面的な共通項は多い。けれども『ユキ』という自己に関して言えば、これまでとは決定的に違っていた。
――目の前の水路で遊ぶ子供は三人。
一人は男の子で、二人は女の子。
仲良く水を掛け合ってはしゃいでいた。
子供は無邪気でいい。
柚木の年齢で同じ事をしようとすれば、性差を意識しないわけにはいかないだろう。
柚木は脳裏に一人の少年の姿を思い浮かべる。
浮かぶ姿は今水路で遊ぶ子供たちよりかは幾分と年上の、しかし思春期には至らない、そんな年頃。十歳前後のの。ああいう風に、無邪気に遊べる、境界の年齢。彼がペンタグラムを離れて、もう六年が経っている。
「……もう、六年も会ってないんだっけ?」
声にしてつぶやくと、その事実に驚く。
産まれてから、六年前のあの時、意図的に別れた、あの時まで、彼とはどんな時でも常に一緒だった。文字通り、互いを同一視する程までに。脳裏に浮かぶのは、その別れた時そのままの、彼の姿だ。思春期。成長期。きっと今の彼は、柚木の想像以上に変わってしまっているだろう。この六年で、柚木が変わったように。
柚木は頭を掻こうとして――その指先が小さな硬い物と当たって、止まった。
髪留め。
産まれてすぐは、巨大な機械。
三歳の頃、ようやく車椅子に座って動けるようになり。六歳の頃、なんとか帽子サイズにまで収めることが出来るようになった。十歳――彼と別れたころは、大きめのカチューシャサイズ。そして今は、ようやく目立たない、髪留めサイズにまで収まった。
これを付けてなければ、柚木は自分を保てない。
長時間外していると、柚木を柚木たらしめている意識は、世界に拡散し溶けて消えてしまうとされている。
されている、だ。
試したことはない。試そうとしたこともない。けれども、柚木という意識が生まれた経緯を思えば、きっと真実なのだろうと思う。
産まれた時、柚木は意識というものを持っていなかったという。
当時のペンタグラムの科学者の一人が、その状態を『魂がない』と表現した、という。
そのままであれば、何も感じることなく、ただ植物のように生きるはずだった柚木は、周囲にある『魂』の形質を、自らコピーすることによって擬似的な人格を得ることができた。そのコピーの対象となったのが彼。
それから十歳になるまでの間、柚木は彼と共に過ごした。
柚木には彼と自分の区別が出来ず、彼は柚木にとってまさしくもう一人の自分――自分自身に等しかった。
事実、どういう仕組みかは推測の域を出ることが終ぞなかったが、柚木と彼は、言葉に依らずして明確に意識を交感することすら可能だった。多少ならば距離すらも関係なく、意志のやりとりが可能だった。
ペンタグラムは、柚木と彼を研究した。
それはある種の実験動物的な扱いでもあったが、二人は気にすることはなかった。
彼はともかく、柚木が生きていくためにそれは必要不可欠なことであったし。また、柚木たちは積極的に実験に参加することによって、研究所内に於ける発言権も徐々に増やしていっていた。
二人分の頭脳を持つが故だろうか?
柚木たちは学業に於いて非常に非凡な才能を示した。
それこそ、自分自身に対する実験を、自ら主導するほどまでに。
そうして
それは柚木と彼との決定的な違い。
その差違が、誰の目にも明確になる、謂わばギリギリの年齢である十歳。
それを回避する手段は、彼と離れ、別人となるしかないと、わかった。
特殊技能の根幹である柚木がペンタグラムから離れることはできない。
なので必然的に、ペンタグラムから離れるのは彼の方となった。
柚木たちには、どっちであろうとかまわなかった。その時までは、確かに二人は同一の魂を持っていた。だから、どちらがどの道を進もうとも、どっちにしろ同じ事だったのだ。
こうして二人は別れ、別々の人間になった。
――破局は避けることができたのだろう。
思い返し、柚木は満足げにうなずく。
そして興味を覚える。
はたして、今の二人はどう変わって、どうなったのか?
二人の間の決定的な違い。
それがそれぞれの成長に、どう影響してきたのか?
六年前。
あの時。
柚木は少女であり、彼――青海友樹は少年だった。
柚木は、女だったのだ。
これはどういう意味を持つのだろう?
柚木は考える。
青海友樹のコピーでしかないはずの自分も『ユキ』の夢を見た。
その中で、夢を渡る過程で、柚木は今朝の時点での友樹にもなっている。
この世界では、柚木と友樹は別人として存在しているが、高次より見下ろした視点では――そんなものがあるとすれば、だが――同一人物として捉えられると言うことなのだろうか?
「……うふふっ」
推測しかできないが、好奇心で心が沸き立つのを感じて、思わず含み笑いを漏らす。
幸い――と言っていいのかどうかわからないが、夢の記憶によれば、青海友樹も現在友人の唯識澪と共に、このテーマパークへ来ているようだった。その事実を知ってからの逆算的なものにはなるのだが、柚木はこの最接近に対して、何者かの作為を感じずにはいられなかった。
心当たりも、ないではない。
思えばペンタグラムの保養イベントなんて、これまでほとんどなかったように思う。柚木自身が必要に感じなかったということもあるのだが、日常と研究が一体となったようなペンタグラムには、元よりそんなシステムは存在していなかった。
今の柚木の保護者代わりになっている男の、悪戯に歪んだ顔が浮かんでくる。
志村勝治。
最近中年太りを気にし始めた三十代の研究員は、柚木と友樹の関係を、当人の次ぐらいによく知る人物だった。
きっと、どこからか友樹のゴールデンウィークの予定を聞きつけ、無理矢理こんなイベントをでっち上げたのだろう。仕組まれた偶然――それを一般的には必然という――の再会を、演出するために。
「中々面白いことを、考えてくれるじゃない」
柚木は友樹の驚いた顔を脳裏に思い浮かべて、にんまりと唇を歪める。
まだ友樹は、柚木がここにいることを知らないはずだ。
そして、それとほぼ同じぐらいの比率で、頭に浮かんだ顔がある。
唯識澪。
友樹の親友である彼女は、柚木と出会ってどんな反応を示すだろうか?
楽しみだった。
友樹と違って、柚木は澪と同姓だ。
だから、友樹以上の親友になれるんじゃないかと、期待した。
「さて、そうと決まれば――」
すでに水着には着替えていた。貴重品を右のアームバンドの内側にしっかり止めて、柚木は与えられた部屋を出る。右隣の部屋をノックして、声を掛けた。
「志村さん。ちょっと出掛けてくるわ」
「おう。気をつけろよ。何かあったらすぐに呼べ」
その言葉に柚木は髪留めを抑える。
しっかりと髪に留められていて、わずかもずれる気配すらない。
文字通り、髪留めは柚木の生命線。これがなければ、柚木は自己を保つことができない。短時間ならばともかく、外してしまえば徐々に自我を構成している意識が拡散し、空気に溶けていくように消えてしまうだろう。蒸発する意識。柚木はその恐怖をよく知っていた。
アパート風のホテルを出て、柚木はストリートを歩く。
一人だが、きっと、監視があるだろうことを感じていた。
柚木はこれでも貴重な実験体なのだ。世界でも稀少な特殊能力者。
万が一のことがあれば、志村の首一つじゃ済まない。
時折感じる視線や気配には、極力気を向けないようにして、柚木はのんびりと歩く。
さて、友樹に会おうと決めたは良いが、この広いテーマパークのどこに居るのか、わからない。二人が泊まるホテルの場所は、夢で見てわかっていたが、夜にでもならない限り、戻っては来ないだろう。適当に歩いて、周囲を注意深く見回す以外に方法はないように思えた。
本当はもう一つ方法はあるのだろう。
ペンタグラムがこっそりと隠れて柚木を護衛しているのと同じように、友樹もきっと監視されているんじゃないかと思う。保養目的の所員旅行といったって、志村一人で決めれることではない。きっと内情を知っている者は他にもいるし、柚木だけに知らせなかったということも考えられる。
それらが、柚木と友樹に対してどういう態度を取るのか、わからない。
ただ自然の成り行きに任せるのか。
それとも実験の一巻として、出会わせるようにし向けるのか。
柚木が思索に耽る時間はそれほどなかった。
何か結論が出る前に、見てしまった。
流れる水路。吹き出る噴水の前で、子供のようにはしゃぐ少年と少女。
友樹と、澪の姿を。
「……何やってんだか二人とも」
水しぶきを浴びながら無邪気に笑っている二人。
周りの様子を全く気にしないその状態を言葉に表すのならば『二人の世界』だ。
常日頃から「我らの間にあるのは恋愛感情ではなく、何よりも強固な友情である」などとほざいている二人を知る身としては、滑稽だ。ある種の結界めいた生暖かい空間は、まさしく恋に目が眩んだ者たちが作り出す物に他ならない。少なくとも、それとの差異はまったくない。
柚木は二人にゆっくりと近づいていった。
無遠慮に。馬に蹴られてもかまわないとでも言うかのように。
真っ直ぐ近づいてくる柚木に、ようやく気づいてか、澪が怪訝な目を向けてくる。
柚木は微笑みを返す。
動きを止めた澪に気づき、ようやく友樹が振り向く。
その目が柚木を捉えるか否かの瞬間、呆れたように声を掛ける。
「何をやってんの。あなたたち」
だが、期待した反応は、返ってくることはなかった。
友樹は不思議そうに柚木を眺め、澪も怪訝そうな表情を変えることはない。
柚木は一瞬、焦る。
「え? あれ? 友樹。ひょっとして、気づいてない? 私がわからない?」
「……え?」
凡庸とした表情を浮かべ、友樹は探るように視線を彷徨わせる。
気づいていない。一瞬寂寥感が胸に広がったが、よく考えれば無理もない、と思う。柚木の方は『夢渡り』という事前知識によって友樹の現状を知っていたが、友樹の方はそうではないのだ。今柚木の中にあるこの渡る意識は、いずれ再び友樹へと宿ることもあるかもしれない。だがそれはあくまでも先の話。現段階では柚木が一方的に事実を知っているにすぎない。
それに、柚木は自分自身、この六年間で大分変わったと思っている。
六年前はそれこそ友樹と同一の意識を持ち、それ故に趣味も好みも同一のものだった。
けれども離れて、性を意識し始めて、柚木は劇的に変わっていった。
少しずつ、少しずつ少女の衣を纏い、女を身に着けていった。
自然の流れだろう、と思う。
同時に、ひどく違和感がある。
夢を渡っていて、自分が女になったのは、今のところ柚木のこの一件しかない。
ならば自分は、ユキという自分自身の中でもひどくイレギュラーな存在なのだろう。
「えっと、あなた、誰?」
「え――っと、あ……」
困惑を隠さず語りかけてきた澪の声で、柚木は脱線し掛かっていた思考から、現実へと回帰する。
「あ、あ、ご、ごめんなさい。はじめまして。私の名前は『柚木』です。柚子の木、と書いて『ユキ』と読みます」
慌てて、頭を下げる。
一瞬で自分が今、澪にどのように見られているか、想像する。
恋人との二人っきりの空間の中に割って入ってきた邪魔者――とまでは思ってはいないだろうが、それでも、邪魔をしてしまったことには変わりない。
「ええっ!」
凡庸とした友樹の表情に理解の色が広がる、と同時に、それは一気に驚愕へと置き換わった。悲鳴のような声を上げて、友樹は仰け反る。
「柚木だって? な、なんでこんな所にいるんだっ!」
「ここにいるのは研究所の所員旅行、みたいなものかな? 偶然ね。友なる樹と書く『ユキ』くん?」
「う、うそだ。偶然なわけがない!」
「その意見については実は私も同意します。けど、少なくとも私自身が意図したものではないわ。久しぶりね。逢いたかった」
とんっと、地面を蹴って友樹に飛びつく。首に両手を回して、顔を極限まで接近させる。焦ったように友樹は、両手を意味不明に蠢かす。表情は焦りを通り越してどこか青くなっていた。
「失礼な。そんなに脅えなくても良いじゃない。別にあなたの澪さんを盗ろうなんて意図はないわ」
「……盗るって、柚木、澪のこと、勘違いしてないか?」
「してないわよ。友樹の大切な人でしょう?」
「してるじゃないかっ! 澪とはそんな関係じゃない!」
「ええっ! 友樹、あなた、澪さんが大切じゃないとでも言うの! なんて薄情なっ!」
「いや、そうじゃなくてだなっ!」
ただでさえ青い表情をさらに青くさせ、友樹は言葉を詰まらせる。
面白い。
元はといえば同一人物だというのに、この余裕の差は何だというのだろう?
そのまま、知識の差だろうと、柚木は思う。
柚木はこの状況を誰よりも熟知していて、思うが侭にコントロールしている。それに対して友樹の方の知識は皆無といっても良い。
さすがに少し、可哀想になって、柚木は苦笑した。自然に出てきた笑みだった。ちらりと呆然としたような表情で自分を見ている澪に視線を向け、謝るように小さく頭を下げる。
「知ってるわ。友樹と澪さん。二人は『親友』でしょ?」
断言すると、友樹と澪は、呆然と、そっくりな表情で柚木を見た。
柚木は知っている。
今まで、誰一人として、二人の正確な関係を言葉で言い当てた者はいないことを。
二人が互いに規定しているその関係を。
「友樹。本当に私にわからないとでも思ったの? 知っているでしょう? 私は例外よ。あなたは誰よりもそれを知っているはず」
「あ、ああ。そうだ、ったね」
まだ友樹の表情には、青さが残っていたが、幾分か落ち着いたようだった。
友樹が何に脅えているのか、柚木は知っている。友樹は柚木に対して、ずっと罪悪感を抱いていたのだ。柚木はその事実を実感として、知っている。夢で見たのだ。
だが、夢で見たと、夢の中で柚木は友樹としてそれを体感したのだと、説明しても当の友樹自身に納得してもらえるかどうかは、柚木は量りかねていた。今と比べて、ユキの意識が友樹だった頃はまだ、これほど確信的に夢渡りについて捉えていなかったように思う。
さて、どう話を進めていこうかと、柚木が思案していると、憮然とした澪の視線とぶつかった。
「えーそろそろ、私にも事情を教えてほしいんですけど?」
なんとなく、嫉妬の視線さえ混ざっているように感じられて、柚木は苦笑する。
お互いに関係を『親友』であると規定しているとはいえ、まったく恋愛的な要素が皆無というわけでもないのだ。それ以前に、蚊帳の外である会話を聞かされ続けていて、良い気分になる者もいないだろう。
「ごめんなさい。唯識澪さん。私の名前は柚木。特殊技能研究所ペンタグラムに所属する実験体No.1076です。友樹とは産まれた時からの付き合い。そして、友樹がペンタグラムを抜けて以来、六年ぶりの再会。私の特殊技能は一つ。私自身は意識を持たず、他者の意識をコピーすることにより、世界を意識する。産まれた時、私の意識は青海友樹のものをコピーし、今現在もそれに固定されている。だから、私の意識は友樹の物と同質の物。かつては全く同一の物。今は、この六年間の成長によって、分岐しているでしょうけれども、本質的にはきっと変わらないわ。だから澪さん。私とあなたは、あなたと友樹の関係と同様、きっと仲良くなれる。きっと、親友になれると思うの。よろしくね」
一気に言って。
笑って。
手を差し伸べた。
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