line.01 『綾瀬詩亜』

 曇天を見上げ、綾瀬詩亜は溜め息を吐く。

 今日の天気は曇りのち雨。毎年毎年のゴールデンウィーク中、全ての日がすっきりと晴れた年なんて、記憶にない。けれども、なんか損をしたような気になってしまう。特に今年のゴールデンウィークは、間に平日を挟んで三連休と三連休に分かれている。三連休ならばゴールデンウィークでなくても年に何度もあるため、物珍しさは感じられない。大型連休という響きに特有の興奮も、今年はなんだか全体的に半減しているように思われた。


「……まあ、仕方ないけれども」


 ぼんやりと分厚い雲を見上げる。

 いっそのこと、豪雨になればいいのに。

 穏やかならざる気持ち。それが、抑えられない。

 人に迷惑を、どうしても掛けなくてはならないのならば、それは徹底的に行うべきだ。なんて、ちょっと冷静になって考えてみれば確実に間違いとわかる、そんな物騒なことまで頭に浮かんできてしまう。

 肺に溜まった息が、重く、唇から外へと漏れていく。

 繰り返す溜め息。

 溜め息一つ吐く毎に、幸せが一つ逃げていく、何て言うけれども。


「……止まらない」


 自分でも、とっくにうんざりしている。

 逃げ込むように、いつもの屋根裏部屋に入り込んだ。

 本棚と小さな照明、そして小窓だけど狭い狭い部屋に。

 詩亜に気を遣ってか、主である麗奈も今はいない。

 けれども、狭い場所に独りでいることは、陰鬱とした気分を増幅するだけで、逆効果であることはわかっていた。


「……出なくちゃ」


 時間もない。このまま、ここにいたっていずれ誰かが迎えに来る。

 今日は父の葬儀があった。

 詩亜は唯一の身内であり、喪主だった。

 詩亜の知らないような、多くの知人がやってきた。何もわからず、右往左往していただけの詩亜を助けて実質的に葬儀を運行したのは、隣家の住人、水鳥黒蘭と香美絵の兄妹だった。通夜と、それに続く葬儀と。いつの間にか納骨まで済んでいて、大勢いた参列者たちも気が付いたらいなくなっていた。今は、父の知人だったという人たちが、片付けに残ってくれている。

 気を遣ってもらっているのだ。

 唯一の身内を亡くしたという、自分。

 同情されているのだ。

 そして、それに甘えているのだ。

 かちりと、小さな音を立てて屋根裏部屋の扉が開かれる。

 ノックもなく入ってきたのは小さな人影。この部屋の本来の主である水口麗奈だった。

 赤い、人形のようなドレスを身に着けていて、それがまたよく似合っていた。


「……麗奈」


 声を掛けたのは詩亜の方からだった。

 それを受けて麗奈は自然な表情で微笑んだ。


「そろそろ行きましょう。時間は、多分ないわ」


 小さく頷いて、ゆっくりと立ち上がる。泣いている場合じゃない。

 戦わなくては。

 父の死には、謎があった。

 自室の書斎での、血を吐いての突然死。

 医者には漢字の並んだ聞き覚えのない病名を告げられ、父が以前から通院していたことを知った。だが詩亜には、どうしても父が死ななくてはならない理由が理解できなかった。

 階下の喫茶店に降りると、香美絵がいつものエプロンドレスで迎え出てきた。今日は喫茶店は臨時休業のはず。


「なんでわざわざそんな格好してんの?」

「似合いますでしょう?」


 妙に色っぽい表情で微笑まれてしまい、何やら背筋がむず痒くなってくる。

 確かに似合っているけど。


「行ってくるわ。カミエ。後のこと、よろしくね」


 麗奈は香美絵の格好にも特に反応はなく、いつも通りの挨拶をする。


「ええ、レナ様。滞りなく……」


 香美絵は華麗に礼をして、入り口から出て行く麗奈を自然に見送った。



 詩亜と麗奈は、二人で街を歩く。

 傍目には姉妹のように見えるだろうか。

 幾分、緊張過多な雰囲気を纏ってはいるが、基本的に二人とも目を引く容姿をしている。

 けれども、二人が歩く街に、今他に人影はない。分厚い雲が天を覆い、氷雨の気配を強烈に漂わせてのし掛かっているようだった。


「……暗いね」

「多分、完全に日が落ちる前に、雨になるわ。もうすぐ、雷が鳴り始める……急ぎましょう」


 詩亜のつぶやきを合図としたのか、麗奈は歩く速度を上げる。けれども、所詮は五歳児の少女。忙しなく足を動かしてはいるものの、スピードはあまり上がらない。微笑ましいものを感じ、詩亜は慌てず後を追う。


「慌てすぎて転けないようにね」


 年上ぶって、忠告をしてみる。麗奈は振り向かず、返答すらせず、真っ直ぐに道を歩く。仕方ない。詩亜は嘆息する。主導権は常にこの幼い少女が握っているのだ。今年小学校に上がったばかりの少女は、すでに大学レベルの学力を身に着けているらしい。水鳥黒蘭、香美絵の兄妹と今暮らしている家は、この少女の誕生祝いにと、彼女の祖父に当たる人物から与えられたものだとも言う。

 馬鹿じゃないかと、詩亜は思う。常識外れというか、変。もっと言えば変態。まったく金持ちの考えることはよくわからない。理解する必要もないと思うが、世の中には金が余っているところには余っているのだろう。住む世界が違う、などと思うが、当の麗奈は良いとして、水鳥の兄妹も平然と受け入れている。ということは、きっとそれが彼らの住む世界の常識なのだろう。下手に口出さない方が良い。

 しかし、そんな世界の違う住人たちと平然とこれまで日常を送ってきた自分は、はたして周囲からはどのように見えたのだろうか?

 詩亜は初めて、その疑問に思い至った。

 父の目からは、どう見えていたのだろうか?

 隣人たち同様、違う世界の住人に見えたのではないか?

 父に、疎外感を味わさせていたのではないだろうか?

 地面を見て、歩いている。

 時々思い出したように顔を上げ、麗奈の小さな背中を見る。

 人形が歩いているように見えた。

 シンプルだけれども、あまり見慣れない洋装。

 一定のリズムで左右に揺れ、上下する体は絡繰り仕掛けを思い起こさせる。

 その背中の先に、詩亜は見慣れた影を見た。


「……――あっ」


 影を見た瞬間、足が止まった。


「待って麗奈」


 思わず強く声を掛ける。

 焦ったような声色が通じたのか、麗奈は初めて詩亜の声に反応し、足を止めて振り向いた。


「……なぁに?」


 可愛らしく小首を傾げて尋ねてくる。明らかに演技臭い態度に、言葉を返すことが出来ずに固まる。そんな詩亜の様子を見て麗奈は小さく笑い、再び無視するように歩き始める。


「ちょっ――」


 声を上げた時はもう遅かった。

 道の先にいた人物の視線が、しっかりと詩亜たちを捉えていることに気づいた。

 一人の少年。同い年。同級生。そして天敵。教室でも、常に顔を合わせれば口論になり、時には手も足も出るような、喧嘩相手。

 だが、いつもならば睨み付けるような彼の鋭い視線は、困惑に歪み、丸みを帯びているように見えた。

 きっと知っているのだろう。詩亜の父が死んだことを。結局の所病死で落ち着いたのだが、その死の状況があまりにも凄惨だったため、殺人事件との噂が立ち、街を騒がせている。

 ――だから、遇いたくなかったのだと、詩亜は思う。

 昨日今日と、何人もの人に会い、同情の声を掛けられた。知っている人知らない人関係なく、皆が詩亜を、これまでとは違った目で見た。同情を重ねられる度に孤立感は増していった。


「……綾瀬詩亜」


 だから、相手からこぼれ落ちた自分の名前に対して。


「何、伊月零?」


 挑むように、ややきつい口調で応じた。

 頼むから、頼むから零、貴方まで同情するような言葉は投げかけないで。

 祈りを込めて、言葉を吐いた。

 だが、零は一転、悪戯っぽい表情を顔に貼り付けると、嫌らしくも気味が悪い口調で言った。


「これからデートか?」

「はぁ?」


 いきなりの言葉に面食らった。


「いきなりどっからそんな言葉が出てくるのよ!」

「いやなに。綾瀬の様子がいつもと違って大人しめなんでな。彼女の前で猫を被ってるのかと」


 何を言っているのだこやつ?

 言うまでもなく、詩亜は女だ。それに対して『彼女』という、その対象は何?

 混乱する詩亜を嘲笑するように唇を歪めて、零は親指で、詩亜の傍で黙って成り行きを見守るように佇む麗奈を指し示した。


「いくら綾瀬がロリコンだからって、ちょっと幼すぎやしないか?」


 言葉が耳から脳に達し、内容を理解するより早く、手が出た。

 顔面に不意打ちを食らって、零は大きく仰け反る。


「な、なななんて失礼なことを言うのよっ!」

「そっちこそいきなり殴るとはどういう了見だ!」

「やかましいっ!」


 言葉と同時に追撃。だが、今度は軽く体を傾けて避けられてしまった。伸ばした右の拳を捕まれて、詩亜はわずかにバランスを崩す。だが、完全に崩す前に拳は解放されたので、すぐに体勢を立て直すことができた。

 なんて失礼な男なのだろう。

 父親を失ったばかりの傷心の女の子に、なんて言葉を掛けるのだろうか?

 ちょっとは同情心から優しくしようとは思わないのかしら。

 と、そこまで考えたところで、詩亜は自分が先ほどまでとは正反対の思考をしていることに気づく。

 愕然と、動きを止めて固まってしまった。

 なんていい加減な、自分勝手なことを自分は考えているのだろう。

 自己嫌悪の坂を転がり落ちそうになる。だが、服の端を引っ張るわずかな気配に気づいて、詩亜の意識は現実に戻る。振り向くと、どこか興味を湛えた静かな表情で、麗奈が見上げていた。


「誰?」


 短い質問の声には、どこか感情を廃したような響きがあった。


「あ、クラスメイト。伊月零」

「うん。仲、良さそうね」

「ど、どこがっ」


 心外だと、声を張り上げそうになるが、麗奈はそんな詩亜を慈しむような目で見て、微笑んだ。


「喧嘩友達。その様子だと、いつもこんな感じなの?」


 後半の問いは、零の方を向いて行われた。


「あ、あぁ……こんな、って」


 年に似合わぬ落ち着いた物言いに面食らったのだろうか。零は動揺を隠さずにうなずいた。


「なら、貴方とシアは、きっと縁が深いのよ。なるほど。やっぱり居たのね。伊月レイさん、でしたっけ?」

「あ、うん」

「私、水口麗奈と申します。以後、お見知りおきを。シアほどじゃなくても、私たちきっと深い縁を結べると思います」

「水口……レナ?」


 零はわずかに記憶を探るように、視線を宙に向けた。

 きっと、麗奈の噂をどこかで聞いたことがあったのだろう。

 帰国子女の天才少女。

 彼女がこの光花の街で話題になったことは、一度や二度じゃない。

 水鳥の兄妹が運営する喫茶店の評判とも重なって、その謎に満ちた出生や暮らしぶりが、近所のゴシップネタとして囁かれることも多い。その中に、時折綾瀬詩亜の名前が混ざるとあっては、天敵たる伊月零としては他人事ではないだろう。


「こんなやつと縁があるなんて、冗談じゃないわよ」

「あら? 良縁奇縁。それに限らず不幸な関わりだとしてもそれも縁の一つよ? シア。誤解しないで?」

「してないわよ。縁があること事態、納得出来ないわ。ただ、消し去りたいだけなのよ」

「……そお? 悪い縁とは、思えないけど」

「……どっちなのよ」

「少なくとも、ここで縁があったおかげで、シアは元気になったわ」


 反射的に否定の言葉を吐き出そうとしたが、麗奈の目を見た瞬間、縫い止められたように言葉は喉元で止まってしまった。

 ここで零と関わったことが原因で、詩亜に元気が出た。

 その事実の否定は許されない。

 麗奈は相変わらず落ち着いた笑顔だったけれども。

 ――事実の歪曲は許さない。

 物質的な圧力まで錯覚させるほどの毅然とした決意が、空気に滲み出るようにして、そこにはあった。

 言葉では、敵わない。

 戦略的撤退を計る。


「そんなことより麗奈。たぶん、時間はあんまりないんじゃなかったっけ?」


 だから、無視することにした。

 分が悪い論争には乗らず、その論争自体なかったことにしてしまえばいい。

 ならばそこに否定も肯定もなく、事実は不確定の靄に包まれている。


「そうでした。雨が降り始める前に、行かなくてはね」


 麗奈としても、重要度の低い会話にこれ以上時間を費やす気にはなれなかったのだろう。しかし、相変わらず落ち着いた態度で、詩亜の意見に同意を示す。


「というわけで、レイさん。ごきげんよう。またのご縁を楽しみにしています」


 淑女然とした礼をする麗奈に対して、零は毒気を抜かれたような表情でただ頷くだけだった。


「……またね」


 不本意であるという表情を隠そうともせず、詩亜もまた手を振って、零の脇をすり抜けるように道の先を歩いていく。その後に続くように麗奈が、もう一度小さく礼をしながら小走りに駆けていった。


「ち、ちょっと待てお前ら!」


 慌てたような零の声に詩亜は足を止め、ゆっくりと振り向いた。


「何?」


 隠そうともしない敵意に満ちた返答は、零にとってもいつものことだろう。だが、零の表情にわずかながら困惑の色が見て取れるように詩亜には思われた。


「……どこ行くんだ? もう夜になるだろう?」


 珍しくもライバルに対して心配してくれているのか、と考えて、詩亜は少し可笑しくなってしまった。

 顔を合わすたびに喧嘩するような、とことん気の合わない、馬の合わない人間だが、伊月零は決して悪人ではないのだ。詩亜は、そのことだけは、誰よりも理解しているつもりだった。

 だから、冗談めかして、応えた。


「これから、悪の研究所に乗り込むの」

「……は?」


 ぽかんと硬直した零の表情を見て、詩亜は笑った。

 嘲笑を、含ませたつもりだった。

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