line.00 『屋根裏の少女』


 少女は今日も屋根裏から空を見上げていた。


 記憶にあるずっと幼い頃、その始めから、少女は狭いところが好きだった。

 狭くて、高いところにあれば、なお宜し。

 けれどもそれなりに裕福であった少女の家庭には、それほど狭い場所はない。トイレや浴室を除けば、一番狭い部屋といえば本棚に囲まれた父の書斎であり、少女は暇さえあれば忍び込んで、堆く積まれた本の山に埋もれるようにして過ごしていた。そんな少女の行動は、父に「懐かれている」との錯覚を起こさせた。少女はいつも大人しく部屋の隅にいるだけで邪魔にはならなかった。寡黙な父の、沈黙の空間にもごく自然に少女は溶け込んだ。父は、娘である少女に何かをするわけでもなく、語るわけでもなく、ただただ少女がそこにいることを許した。静かで穏やかな空気はまた、少女に「父に可愛がられている」との錯覚を与えた。

 きっとそれは間違っているわけではなかったのだろうが。

 どこか、正確ではなかったのかもしれない。


 少女が父の書斎を離れたのは、小学校も高学年に入ってからだった。

 ある日隣りに家が建ち、歳の離れた兄妹が引っ越してきた。妹の方は少女と同年齢だった。

 隣同士。仲良くなることは自然の成り行きで、程なく少女は、隣家に招待された。

 そして知ることになる。

 隣家には、屋根裏部屋があると。

 低い天井。隠されたような窮屈な入り口。狭くて高い位置にあるその部屋は、少女の理想だった。

 屋根裏には主はいなかった。

 隣家の住人によると、この家は彼らのものではなく、本来の持ち主から管理人として預けられているとのことだった。使っていない部屋は自由に使ってもいい――ただし、本来の持ち主か帰ってくるまで、とのことだったので少女は暇さえあれば隣家に行き、屋根裏部屋に入り浸っていた。

 隣家の一階は「CLAN」という名の喫茶店になっていて、管理人の兄が店長をやっていた。

 安くて美味しいコーヒーが飲める店、として次第に近所でも評判になり、中学に入った頃から少女は妹と共に喫茶店を手伝うようになった。生来少女は不器用な質だったが、頻繁に出入りしていればさすがに接客にも慣れ(決して兄は少女にコーヒーを入れさせようとはしなかったのだが)、固定客も付くようになった。少女と管理人の妹。二人のおかげで、小さな喫茶店は明るく華やかな雰囲気に満ちていた。

 穏やかざる気持ちになれなかった者が、一人いる。

 少女の父親である。

 書斎を出て、隣家に入り浸るようになった少女を見て、急速に離れていくように感じられたのだろう。思春期故の反抗期、なんて言葉も連想したかもしれない。また、管理人の兄が、自分とよく似て寡黙な性質の持ち主だと聞き及び「娘は父親に似た人物を好きになる」などという迷信を思い出したのかもしれない。

 だが、娘は特に反抗期たる態度を顕すこともなく、幼い頃と変わらぬ態度で父と接した。隣家の青年に対しても、単に親しい隣人以上の態度を示すことはない。だからきっと、娘は隣家の妹と、親友付き合いしているだけなのだろう。ただ、親離れした、ということなのだ。それはごく自然なこと。むしろ歓迎すべき事だ。娘は反抗的になったわけでも生活態度が変化したわけでもない。ならば、父親が口を出すようなことでは、全然無い。父親にすることがあるとすれば、精々、隣家に迷惑を掛けることが無いように、軽く釘を刺す程度のことだ。それだけで、父と娘の関係は、何も変わらない。

 変わらぬ態度。

 すなわち、空気のように、ただ傍にあること。

 ここに至って父は、娘の関心がかつても今も、決して自分にあるわけではないのではないかという――小さな、本当に小さな疑惑を抱いたのだった。

 しかし、疑惑というよりは疑問と困惑。不信感を抱くほどのことでもないし、取り立てて大げさに騒ぐほどのものでもない。娘が何を思って行動しているのか、外からは決して窺えなかったため、父はその疑惑を胸の奥に秘め、忘れることにした。

 霞む不協和音。周囲に響くことなく、音無き音で、緩やかに広がる。

 世界が軋む切っ掛けになりはしない、小さな小さな音だった。

 少なくとも、まだこの時は。


 世界が変わったのは少女が隣家の兄妹と出会ってちょうど五年目の春だった。

 隣家の家に、本来の主が還ってきた。

 主は五歳の幼女だった。

 どういう経緯かわからないが、この家は幼女の誕生祝いにと建てられたものだったらしい。

 一階の喫茶店も含めて、全て何らかの計画に基づき運行された結果、幼女が五歳となり、ある程度自我の確立が形成されたと認められるに至って、全てが正式に彼女の下へ引き渡されることになった。

 奇妙な幼女だった。

 幼い容姿は年相応のものだったが、黒髪黒目であるというのにその佇まいはなぜかフランス人形を連想させた。服も黒を基調にした古い洋服を好んだが、どちらかといえば装飾の抑えられたものがほとんど。だが、幼女自身から滲み出る存在感が周囲の雰囲気を巻き込んで一枚の絵画のように情景を整えていた。

 思わず目を取られるような。

 噂によると、この歳にしてすでに大学レベルの知識を身に着けているのだとか。

 冗談に類するような言葉ですら、幼女の前では真実味を帯びていた。

 そして幼女もまた、屋根裏部屋を好んだ。

 本来の主がやってきたとはいえども、隣家の兄妹の生活に、特に変化があるようには思えなかった。

 仕えるべき主とは言え、まだ五歳にすぎない。知識はともかく、日常生活を送るにはまだまだ能力が不足していて、周囲に頼らざるを得ない。だから兄妹たちも、主たる幼女を主人としてではなく、庇護すべき年少の家族として迎え入れたようだった。

 もちろん、第三者である少女からしてみれば、それらはただの推測である。けれども、一つだけはっきりしたことがある。

 少女は屋根裏部屋を失ったのだ。

 しかしまあ、少女もさすがに分別の着く歳になっており、大げさに騒ぐこともなく素直に屋根裏部屋を明け渡した。

 大好きな場所であった屋根裏部屋を失うことは、幾ばくかの喪失感が寂しさを伴って少女を襲ったが、耐えうるだけの分別と自制心を、少女はすでに確立していた。二度と入れないわけではない。不必要なまでに何かに依存することの恐ろしさも、何となく理解できる。失ったものを嘆くより、それを埋めるべく、前向きに努力しよう、と少女は考えた。

 すなわち、幼女と仲良くなろうと、考えた。

 幸い、少女と幼女にはある一つの共通項があった。

 読書好き。

 幼い頃から父の書斎に入り浸り、種別関係なく本を読んでいた少女。

 そして、幼女もまた、これまで本が日常にある生活を送っていたのだろう。

 二人は、やはり言葉を交わすことはほとんど無いものの、よく屋根裏部屋で一緒に本を読むようになった。

 これも仲良くなったと言えるのだろうか?

 少なくとも、互いに互いを「邪魔」とはしない程度に存在を許した、ということなのだろう。


 そうして一年が経ったある日。

 少女の父が死んだ。

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