第8話 『Nebula City(旧題:Over Chime)』



 言うまでもないことだけれども、この街では、魔法は使えない。






 目が覚めた時、時計の針はもう十時を回っていた。

 連休の初日とはいえ我ながらよく寝たと一人ごちて、ベッドの上で大きく伸びをする。

 肩が重い。

 思えば昨夜、寝たのはまだ日付が変わる前だったように思う。寝過ぎだ。普段からも自分はよく寝過ぎだと指摘される。けれどもいくら何でもこれは寝過ぎだ。十時間以上も寝てしまった。頭痛がする。体が硬い。直前に見ていた夢が夢だから尚更あれだ。あんな訳のわからない、理解を放棄したような夢なんて、熱にでも浮かされてなきゃ見ることはないだろう。それを熱もないのに見てしまった。その精か、肩の上に何か乗っかってるような気がする。何だか右肩が特に重たい。ベッドの上で体を伸ばすと、大きく鈍い音が節々から響く、ような気がした。


「あー……だる」


 口にして、しまったと項垂れる。

 事実を音として耳にすることによって、よりはっきりとした形で脳に再認識させて、より一層気怠さがのし掛かってくるような気がする。

 気のせいというか、気の持ちようというか。

 気の持ちようの精にしようとしても、直前まで見ていた夢が、どうにもこうにも言葉にできないという以上の感想を出すことができないのは変わりない。


「ふううううぅ…………最後一体何て言ったんだ」


 長い溜め息を吐き、気を取り直してベッドのスプリングを利用して、飛び跳ねるように降りる。

 そして一瞬逡巡するように動きを止めるが、すぐに動き出し、机の上で充電中だった携帯電話を手に取る。


「さて、どっちにするかな?」


 気になること。気になることがある。それを明らかにする手がかりは、二つあるように思われた。

 しかしまあ、片方との電話での会話は通じた試しがないし。ならば自ずと電話を掛けるのは、もう一方になる。

 着信履歴を開くと、目的の名前は一番上にあった。迷うことなく選択して発信する。

 三回のコールで相手が出た。


『――あら、めずらしい』


 淡々とした少女の声が、いきなり言ってきた。


「え、えーと……」

『ひょっとしてそっちから電話してくるの、初めてじゃない?』

「いや、そんなわけはないだろ」


 うん、そんなはずはない。お互いに電話番号を交換してからもう一年以上経っている。その間何度となく電話で話しているのだ。初めてのはずはない、と思うのだがどうしたわけか、自分から電話を掛けた記憶が思い浮かばなかった。


『んで、どうしたの?』

「うぃ。気になることと相談したいことがあったんだ」

『……それこそ珍しいわね』


 呆れたような空気が、電話線の間を流れた。


「んで、会えない?」

『ん……あーいそぐの?』

「いや、そーでもない。のかな?」

『相変わらず曖昧ね。けど、切羽は詰まっていない、と。ならごめん。今日は初美と買い物に行く約束してるの』

「そっか。じゃあ、また今度」


 電話を切って、しばし考える。

 さて、断られたぞ。

 デートに断られた、というわけでもないのになぜか軽く落胆する。

 そして、必然的にもう一つの手がかりに向かうことになり、重ねて軽く罪悪感のようなものが心に浮かんできてしまう。女の子に断られた後、別の女の子に向かう。別に、その両者のどちらかに気があると言うわけでもないのだが。はたして、どちらにとってより失礼なのだろうか?

 電話を掛けようかと思ったが、どうせ掛けたところで会話は通じないと思い直し、諦めた。ならば、直接出向くしかないのだが。


「無駄足になったら面倒だな……」


 事前のアポなく尋ねても、運良く相手に暇があるかはわからない。


「はぁ……行くか」


 面倒くさそうにぼやいて準備をし、部屋を出る。

 階段を下りて、一階のリビングに入ると、妹がぼんやりとテレビを眺めていた。


「おはよう」


 微笑みが返ってくる。

 彼女の微笑みは、いつ見ても綺麗だ。透明感。静かな心。そんな言葉では表されない、引き込まれるような力がある。自然すぎて不自然。不自然すぎて自然。我が妹ながら、なぜこんな綺麗な笑みを浮かべることが出来るのか、疑問に思う。

 いや、本当はわかっている。妹の笑顔の意味。その心を。

 だから、笑みしか返すことができない。


「ちょっと行ってくる。帰りは……そんなに遅くならないかな?」


 柔らかな微笑みで、信頼を寄せてくる。笑顔で受け止める。手段はそれしかない。二年前のあの日以来、幾度となく繰り返してきた。


「行ってきます」


 言葉を残して家を出る。

 暖かな微笑みが、それを追いかける。

 けれども、何も生まれない。何も残さない。



 幸いにして彼女は家にいた。


「暇だったらちょっと相談に乗ってほしいんだ」


 聞くと彼女は、曖昧な笑みを浮かべ、首を傾げた。

 不安定な笑みだ。完成され、完結してしまった妹の笑みと、思わず比べてしまう。


「時間は貴重。けれども、貴方の価値と等価で引き替えられる。貴方との会話は重要」


 そして言葉が口から零れる。


「ありがとう。ずいぶんと持ち上げられているような気がするけど」

「個人的な問題にすぎないから。私の結果が貴方に還元されることはないわ」

「うん。君は相変わらず解読しづらい言葉で話すけど、まだあの世界の彼女に比べると理解しやすい。あの世界の彼女との会話は、完膚無きまで通じていなかった。言葉などただの飾りにすぎず、ただただ気持ちだけで会話をしていた。声の持つ色……音質や口調の変化のみで気持ちを伝え合っていた。君とは違う。君とは、言葉の交換が可能。けれども、あの彼女は多分、あの世界における君なのだと思う」


 通じているのか通じていないのか、二人の視線は絡み合う。

 少女の反応を探るように眺める。しかし、少女はぼんやりと見返してくるだけだった。言葉の意味を理解しているのか、いないかもわからない。はたしてどちらの言葉がより難解なのか?


「夢の中の夢を見たんだ。多層構造の夢。けれども、深く潜っていく感覚はなく、おそらく多層といえども並列なんだと思う。夢を切っ掛けに並行する世界を渡っている感覚。何となく、君ならば、心当たりがあるんじゃないかと思った」


 言葉を継ぎ足すと、少女は小さく微笑んだ。


「お茶、美味しいよ?」


 全く関係ないことを口にして、自然に手を握ってくる。軽く引かれ、少女の部屋に上がる。

 相変わらずよくわからない少女だ。けれども、全く理解できないわけじゃない。むしろ、出会った頃に比べると大分理解しやすくなったように思う。それは、少女の思考に慣れた、ということ以上に少女自身がこちらの世界に歩み寄ってきたという事実があるのだろう。

 引かれるままに部屋に上がると、少女は本当にお茶を出してきた。

 美味しい。

 新茶らしい。

 そういえば間もなく五月。そういう季節だった。


「過ぎたる興奮は体に悪い」

「興奮してた? 僕が?」


 少女はしっかりと頷く。自覚はなかったが、少女が言うのならばきっとそうなのだろう。


「目的があり、行為は始まった。おそらく、近くに居た私たちは巻き込まれただけ。もしくは、行為を止めようと、どこかにいる私たちのうちの誰かが、私たちを道連れに行為の流れに便乗したのかもしれない」


 そして前置きもなく、唐突に、目的たる結論を告げる。

 驚いてはいけない。

 これこそ、彼女なのだ。


「やはり、知ってるの?」


 だが、少女は首を左右に振る。


「知らない。少なくとも、今の私は。来訪した情報を提供するだけ。当事者ではない」

「ええと、それはつまり……」


 今の彼女は、夢の中を渡っている彼女ではないという意味での当事者。


「並行世界を結ぶ『私』を一つの集合として捉えるならば、この私は『私』とは別の集合――『笠木銘卯』という集合の内にある『私』とは重ならない部分の私……。貴方は今、重なっているの?」

「それは……」


 わからない。

 目が覚めて、さほど時間は経っていない。だから、まだ、渡る意識はここにある可能性は高いと思う。


「どうして、重なっているかいないかわかる?」

「確定はできない。けど推定はできる。平均して、一時間ほどで移動。五時間も前の意識が残っているとは思えない。どこかの世界には寝ぼすけな私もいる」

「いつから始まっているか、わかる?」

「少なくとも、昨晩の三時以降。私が認識できたのは、元々私の能力が、そういう側面を持っていたから。精神を並行世界で共有――または、混濁とさせる能力。貴方が相談者に私を選択したのはおそらく正解。流石、ね。意識なく正解に辿り着く能力が高いわ」

「誰が、始めたのかわかる?」

「起源の犯人と、私たちを巻き込んだ者はおそらく別。起源者を止める為、誰かが私たちをこの『夢渡り』に引き込んだ」

「何のため?」

「起源者の目的は不明。だが、巻き込んだ者の目的はわかる。自らの知覚能力以上の知識を得るのは危険。私にはよくわかる。現実から乖離し、世界に存在の楔を穿つことが困難になる。例え、名前を持っていたとしても、その名前自体が幾層にも重ねられ、読めなくなってしまう。だから、巻き込んだ者は、それを防ごうとした。防ぐ手段を私たちに求めた」

「それは誰?」

「知りうる限りの容疑者は七人ないし八人。けれどそれが私の知覚の限界。きっと、知覚外にも、いる。いつかどこかの夢でレナが語ったように」

「……誰それ?」

「八人の容疑者の内の一人。レナ。メイウ。エセル。レイ。カミエとクラン。トキ。そして、ユキ。それは八つの体系。その中の一つの世界にある一つの人格がこれを始め、また別の世界にある一つの人格がそれを止めようと、私たちを巻き込んだ。けれども、私やレナの知覚外にも、きっと容疑者はいる」

「……その中に、あいつは、未央は居ないのか?」


 少女はわずかに迷う素振りを見せた。


「……彼女は、常に貴方の近くにいる。けれども、常に輪の外の存在でもある。全くの無関係ではないけれども、この事件には関与していないでしょう」

「なるほど……」

「覚えておいて。貴方がこの事件を解決しようと動くならば、私はいかなる世界のいかなる私であろうと、必ず貴方の力となるでしょう」

「……ありがとう」

「レナも、きっと貴方に期待している」


 知らない名前を唐突に出された。然も重要人物であるかのように。

 知らない名前?

 いや、どこかで聞き覚えのある名前。

 この世界に居る自分は知らない名前だけれども、それはきっと、別の世界に居る自分にとっては既知の名前なのかもしれない。

 けれども少なくとも、今この世界に居る自分は、その名前を知らない。


「いや、だからそれ誰?」

「この世界ではまだ生まれていない。お茶会の主催者」

「……お茶?」


 ふと、手元に目を落とす。

 冷めたお茶。湯呑の中には茶柱が浮かんでいた。

 ……伏線のつもりだったのか?

 唖然とした気分で、啜る。

 冷めてもそれなりに美味しかった。


 さてと、少女の言葉を整理する必要性を感じた。

 今日の言葉は難解ではあったが、少女の言葉にしては非常にわかりやすい方だった。ちゃんと文章として成り立っている。だから、なんとかついて行くこともできた。整理しなければ、とても消化することは出来そうにもなかったが。


「一つ確認。先ほどの話では、これは個人的な現象のように思えるけども、社会的にも、どうにかして止めないといけないことなのか?」

「『混ぜるな危険』」


 どこかの標語のような文句を口にして、少女はくすりと笑う。

 どうやら冗句の類のようだった。わかりにくい。


「混ぜすぎると、全てが曖昧になる。最悪、現実の仮定すらできなくなり、全てが夢に、白い霧に飲み込まれて消えてしまう」

「現実の、仮定?」

「そう。夢から見た、現実と設定した世界のこと。それを『仮定現実』と呼称する。また逆に、夢同士で干渉する力を中途半端に得た夢のことを『限定夢』と呼称する」

「ちょっと、意味が理解できない」

「どちらも同じものを別の角度から見た呼称。それ自体に重たい意味は無い」


 難解。とにかく難解だ。理解がとてもではないけれども追いつかない。それでも、今朝見たあの夢よりはマシだと思い、何とか言葉を手繰り寄せようとする。


「……んで、結局何をどうすればいいんだ?」

「敵の目的を知り、敵が誰かを認定し、味方を見極め、敵の行為を止め、全てを元に戻す」

「……非常に困難だね」

「でも、それをやるのはこの世界の貴方ではない。どこかの世界には有益な力を持った貴方もいるかもしれない。それほど深刻になる必要はない」

「確かに、ね」


 この世界の自分に解決する能力がなくても、どこかの夢の、仮定現実の、別の自分が解決の能力を持っているかもしれない。


「貴方の中の『ユキ』に任せましょう。この世界が舞台になった、その時に手を貸せばいい。貴方は今回の主人公ではない」

「そうだね。けど、この世界での手助けは、どうやらこの辺りが限界みたいだ」

「わかるの?」


 少女の問いに、軽く頷く。

 自分の中から乖離しようとしている、意識の感覚。浮遊感。夢から目覚めようとする感覚が、体をゆっくりと包み始めた。末端から徐々に、体の中心へと向かっていく。


「まあ、問題を整理する切っ掛けにはなったと思う。今回の所はこの辺で満足しておこうか?」

「お気を付けて。私に逢ったらよろしく。多くの世界で、私、メイウに会話は通じないでしょうけど」


 その言葉を噛み締めるように目を閉じる。

 そして――


 柱の時計が正午の刻を告げた。

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