第3話 『七色ペンタグラム』
何か物音がしたと思って振り向いたら、
危なかった。
友樹に気付かれないように私――
実は私も今し方、数十秒前に起きたばかり。しかもかなり寝相が悪かったらしく、布団ははね除けられてるわ、浴衣ははだけて胸まで見えてるわでとても人様に見せられる格好じゃなかった。慌てて身形を整えてそっと息をついた瞬間に、遅れて目を覚ました友樹の視線と交錯したのだ。
ギリギリのタイミングだった。
ちょっとでも友樹の起きるのが早ければ、見られていた。
安堵すると同時に、言い表せない苛立ちが湧いてきた。
そもそも、だ。
なんで安堵なんかしなきゃならないんだろう。
どうして私は、恋人でも何でもない男の子と、同じ部屋で寝泊まりしなくちゃならないんだろう。
いや、別に、同じ部屋で寝泊まりすること自体には何の問題もない。
友樹のことが嫌いというわけでは、別になかったし、むしろ友達としては誰よりも気が合う存在だ。親友と言い換えてもいい。友樹のことならば、だいたいわかる。例え何らかの原因で彼が欲情したとしても、私の意に沿わない行動は、決してしないだろう。信頼ではない。私は事実としてそのことを知っている。また、万が一にでも「そういうこと」になったとしても、友樹が相手なら事故として自分の中で昇華できる。その自信はある。
だから、一緒に、二人きりで旅行に行くのも、同じ部屋に寝泊まりするのも、抵抗はない。
きっとそれは楽しいし、いい休暇になるだろう。
――昨日、学校が終わって家に帰ってから着替えて、すぐに前日から用意していた荷物を持って友樹の家まで行った。一月前……今月の頭頃から計画していた連休を利用しての小旅行。今思えばよく両親は許可してくれたものだと思う。
私の両親が、ではない。友樹の両親が、だ。
私の両親は私以上に友樹のことを信頼しているようで、旅行の計画を話した時には二つ返事で了解してくれた。だが、友樹の両親の方はそう簡単にはいかなかったようだ。
年頃の男の子と女の子が二人きりで旅行する。
大学生くらいになれば、自己責任とでも言えるかもしれないが、私も友樹もまだ高校生だ。
何か間違いがあったらどうする?
そう心配するのが当然であり、この場合は心配しなかった私の両親の方が異常ともいえるだろう。
全く。我が両親ながら変な人たちだ。
今回のことばかりではない。私の両親のおかしな所を語るエピソードには事欠かない。例えば――っと。
――思考の道筋がそれたところで、私は私の誤算に気づき、湧き上がってくる苛立ちに舌打ちする。
友樹を信頼しているからといって、無防備に裸を晒していいかといえば、それは当然話が違う。
だからこそ友樹が目を覚ましている事に気付き焦ったのだし、起きたばかりだとわかり安堵したのだ。
見られていいなんて、はずがない。
恥ずかしいし、何よりいくら覚悟しているからといって、わざわざ間違いが起こる可能性を助長することはない。私は友樹を知っている。健全な高校生の男子だし、そういうことに興味があることも知っている。私と友樹がお互いにとって恋愛対象ではないことは知っているが、お互いに外見が好みから外れているというわけではないのだ。つまりそれは、恋愛対象外ではあるが、欲情の対象内ではあるということ。間違いが起こる可能性があることを、私は知っているのだ。
うん。いかに『親友』友樹といえども、あまりにも『溜め』すぎれば、暴発する可能性もあるだろう。
いや、それは友樹に限った話ではなくて、女の私だって同じ事だ。
つか、なんで友樹は男の子なんだろう?
名前の音だけならば「ゆき」と、女の子と間違えられてもおかしくはないのに。
友樹はどっちかといえば中性的な顔立ちをしているし、男子にしては背も低い。だから、女装でもすれば、案外似合うんじゃないかと思ったりする。
けれどもいくら女の子に上手く化けたとしても、友樹は男の子なのだ。そして私は、女の子。
苛立ちの原因は、それだ。私と友樹の性別が違う。故に「親友関係」は築きにくい。
私は、その事実に、納得を持てない。
友樹とは一生友人関係を結んでいく。
ずいぶんと昔にそう決めたのだ。
それは私の心の中だけの決意だけれども、きっと友樹だって同じだろう。
だから、万が一にでも間違いを犯して、恋人同士なんかになってはならないのだ。
一度恋人同士になってしまえば、もう二度と友人には戻れない。
当人同士は完結していたとしても、周りが許さないだろう。
だから、恋人にはならない。
非常にそれに近似した間柄だとしても、最後の一線だけは完璧に守るつもりだ。
だから私は、頭の中を暴れる思考の渦を押し込めて、ゆっくりと微笑んだ。
「友樹、おはよう。よく眠れた?」
一点の曇りもない、会心の笑顔を出した、つもりだった。
しかし友樹には何の反応もなかった。
ぼんやりと焦点の合わない目で私の方を眺めている。
「……友樹?」
様子が変だ。
問いかけて、覗き込むように顔を近づける。
視線を遮るように顔を落とすと、不意にはっと友樹は体を起こした。
「あ、あれ?」
第一声が、疑問の声。
「……ここは?」
寝ぼけてるのかな、と思った。
「大丈夫? 友樹ってそんなに低血圧だっけ?」
「……ミオ?」
「うん?」
友樹は私の名前を呼ぶ。けど何か、イントネーションが違う気がした。
同じ名前だけど、友樹はもっと違う名前で私を呼んだ。そうだった気がする。けれども、それはどこの記憶なのかわからない。
友樹は警戒するように部屋を眺める。
「あれ……? ここは…………って、ああ、そうか」
だがやがて納得がいったのか、深く頷く。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと、夢を見てて……」
「夢?」
「……うん。夢。現実感のある、夢。現実のような夢。だけど……本当に誤植じゃないのかなぁ?」
「……何それ?」
意味がわからない。
「……さあ、なんだろう?」
首を傾げる友樹の表情には大きな困惑が見て取れた。
本当に自分でも何がなんだかわかっていないようだった。
「はぁ……寝ぼけてないで、さっさと着替えて朝食に行くわよ!」
「うん……」
急かすように声を張り上げたのだが、友樹はまだ何かを迷っているように頭を掻いていた。
何だろうね、この態度。
気になることがあればそれしか見えなくなる。そんな友樹の態度はいつものことだけれども。もうちょっと私のことも気にかけてほしいと思わないでもない。色恋的な意味ではなくて、友情的に。
けれども少々むかついたんで、私は強引にでも友樹の意識をこちらに向けようと、浴衣に手を掛けた。
よし、目の前で着替えてやる。
「ちょっ……て、澪! 何やってんだ!」
慌てて友樹は立ち上がり、叫んだ。
呼ぶ私の名前のイントネーションが普段のものに戻っている。
満足のいく結果を得て、私はにんまりと笑う。
「着替えるの。だからさっさと背中向けなさいっ!」
胸元を押さえて、私は友樹を蹴り飛ばした。いや、正確にはしようとした。
「のうぅわっと」
意外と機敏な動きで友樹は仰け反って避ける。私の頭の中に「友樹の癖に生意気だ」なんてフレーズが浮かんだ。
ちっと軽く舌打ちをすると、友樹は慌てたように私から距離を取り、部屋の隅で背を向けた。
それを見て、友樹が動こうとしないことを確認した私は小さく頷くと、枕元に置いたバッグから着替えを取り出して寝間着を脱ぐ。その間にも友樹の背中からは視線を外さない。友樹のことは信頼しているが、それと警戒しないこととは無関係の話だ。最悪見られても仕方がないと内心思っているし、見られても許せるとは思うのだが、決して見られたいと思うほど、露出癖があるわけじゃない。
手早くブラを着け、上着を着よう、と思ったのだけれどもふとその手が止まる。
ああどうせ、どうせ着替えるのならと、着けたばかりのブラを外して、バッグを手元に引き寄せて、水着を取り出す。
淡いミントグリーンの胸元にフリルのたくさん付いたビキニタイプの水着だ。
私は友樹の背中をじっと見詰めながら裸になり、ゆっくりと音を立てないように水着を身に着けていく。
少しドキドキする心臓の、意味はあまり考えないようにする。
だってこんなの、たとえ親友であろうとも、親友じゃなくったってドキドキするに決まっている。
だからこれは普通のことなんだ。
だって、衣擦れの音とか、どうしても防げないし、きっと友樹だって、今私に劣らずドキドキしているはずなのだから。
水着を完全に来た時点で、友樹に声を掛けようかどうか一瞬迷った。
けれども結局はそのまま私は上着を着て、スカートも身に着けて、着替えをちゃんとバッグに収めて身支度を完璧に整えた。
化粧はしない。どうせこの後、プールに行くのだから。
「よし、着替えたわよ、友樹」
そうして背中に声を掛けると、わざとらしくも大きなため息と共に友樹は振り向いた。
友樹も緊張していたのだと思うと、何だか嬉しい。
「友樹も早く着替えてね? 見ててあげるから」
言い終わるか終わらないか、その前に枕が飛んできた。
私は顔面でまともに受けてしまい、仰け反る。
「何馬鹿なこと言ってるんだ」
「あははっ、ごめんねー顔洗ってくるー」
少し痛む鼻を押さえながら私は廊下に出て行く。
さて、顔を洗って朝食に行こう。
そして思いっきり、遊ぶのだ。
むんっと両手に力を入れて、私はこれからのことに想いを馳せた。
光花市郊外に去年オープンした巨大温水施設。
一年中遊べるプール施設。
併設されたホテルの宿泊券と一緒に一日分のペアパスポートを友樹が手に入れてきたのは、今学期がはじまってすぐのことだった。
何でも開発に関わったグループと知り合いだったとかで、譲って貰ったのだそうだ。
ペアって考えたところで、なぜか男女ペアじゃないといけないって思い込んだ友樹は、すごく恥ずかしそうに私を誘ってきたのだった。
ペアと言っても男女限定とは明記されてない。そのことを指摘すると友樹はひどく唖然として、継いで困ったように私を見てきた。
まあ普通だったら男友達を誘うだろう。その事に思いが至っていれば、決して私が誘われることはなかっただろう。
けれども結果として私は誘われて、そしてその施設に興味があった私は、そのチャンスを逃すつもりはなかった。
恥ずかしがる友樹と説き伏せて、二人きりの旅行となったのだ。
旅行とはいうものの、同じ市内であり、目新しさはあまりない。そのテーマパーク自体、普通に日帰りで行ける距離にあったりもする。
でも、というかだからこそ、私たちはその施設のことを嫌というほど耳にしていたし、同時に期待もしていた。だからオープン間もないこの時期に、まだきっと混雑しているであろうこの施設で、優先的に遊べる機会は逃したくはなかったのだ。
たとえ恋人でない年頃の男の子と一緒に泊まることになろうとも。
恋人でない男の子と二人きりで一緒に遊ぶことになろうとも。
でもまあ、その相手が友樹でなければ、私は決して二人きりになろうとはしなかっただろうけれども。
これで誰か知り合いに見られたりしたら、また学校で『付き合ってる』なんて噂が広まることになるんだろうなと、今さらながらの問題を諦めたように思い返して見る。
顔を拭きながらそう益体もない考えを徒然と続けていると、廊下の扉が開いて友樹が出てきた。
きちんと着替えている。
「お待たせ。さあ、朝食に行こうぜ」
「うんっ」
弾むような声を出して、私は先導するように部屋を出て行く。
友樹も服の下は水着なのかな、なんて考えて、少し顔を赤らめたりもして。
すると友樹の視線に気付いた。
友樹はじーっと私の顔を見ている。
「な、何?」
ちょっと人より顔の整っている自覚のある私は、異性の目にはそれなりに慣れている。けれどもこの時の友樹の目はそれとは何か違い、妙に不思議そうな、どこか違和感のする視線だった。
友樹は軽く頭を振って応える。
「……いや、やっぱ違うなって」
「……何がよ?」
「うーん、夢の中の話なんだが……なんだろう。思い出せん」
「はぁ?」
意味がわからない。
そういえばさっきの友樹は夢現というかずいぶんと寝惚けているように見えた。
「何? 夢の中に私が出てきたの?」
夢の中の私が友樹に何かをしたのだろうか? それを現実と比べてるのだろうか?
「……いや、出て来なかったなぁ。たぶん。うん。いや、名前だけ存在しているというか、設定だけの登場人物というか」
「……何なの?」
「とにかく、僕には姉も妹もいない」
「知ってるわよ」
何を当たり前の事を。
「…………何の話をしてるんだっけ?」
「早く顔を洗って目を覚ましなさいよ」
本当に今日の友樹は何か変だ。友樹が友樹でないような気がする。友樹でない友樹に似た誰か。
う、ん。そう考えると何かドキドキしてくるものがある。
私はその感情に気付かないように蓋をして、洗面所へ向かう友樹の背中を見て小さくため息を付いた。
「……何だろう、この感情」
たぶん蓋は閉めきられなくて、隙間が空いていて、そこから零れ落ちる、または溢れ出てくる何かがあるのだろうけれども。
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