第1話 『Class Zero』


 カチリ、カチリと頭の裏で音が響いている。

 きっちり一秒の感覚で、途切れなくずっと。

 それは意識できないほどの小さな音。

 聞こうと思って聞いても、わずかにしか聞き取れないほどの小さな音。

 意識していたとしても、ふとした表紙に、意識から零れ落ちてしまいそうなほどの小さな音。

 普段は決して聞こえてこない。

 あまりにも規則的で、普遍的で、耳から入ってきても、ノイズが削減、縮小リダクションされてしまうように脳の中で消えてしまう音。

 存在しないと同じ。

 けれどもそれは、決して存在しないわけじゃない。

 意識と無意識の狭間――それも無意識の領域に程近い場所にある、現実の音。

 だからそれは、それゆえに、夢と現の中で、存在感を持ち始める。

 カチリ、カチリと。







 昔々、あるところの偉い人が言ったそうな。


 ――夢は人生を豊かにする、と。


 具体的に何処の誰がそんな言葉を言ったのかよく思い出せないけれども、記憶を掘り返してみれば確かそんなことを、どこかの誰かが言っていた、ような気がする。たぶん外国人。おそらくそれなりに人生経験を積んできたであろう――イメージ的には壮年の男性。

 たぶんとかおそらくとか。そんな曖昧な修飾子の付く、どこかの格言っぽい謎の言葉。けれどもどうしてか僕の耳には、とてももっともらしく、正しい言葉であるように聞こえるのだった。


 僕は、その言葉を頼みに自分の人生を重ねる。

 たとえば僕は、年中眠っている。

 先日の授業中も当たり前のように寝ていたために、生活指導の教師であるはずの数学の大河内先生にも等々諦められ、気づくと放課後だった。僕の睡眠時間の多さには、定評がある。つまり、それだけ眠っている僕は、きっと人並み以上に夢を見ているに違いないのだ。

 どんな夢を見ていたのか、覚えていないことがほとんどだけれども。

 ともあれ僕は、起きる度にその格言を思い出す。

 夢は、人生を豊かにするのだと。

 目を閉じれば浮かんでくる光景がある。

 場所は港の外れ。

 何処までも澄み渡る蒼い空。遠くに浮かぶ巨大な入道雲。夏の日差し。

 壮年の口ひげを蓄えた体格の良い彼は海の男。

 照りつける太陽の光を弾くような褐色の肌。鍛え上げられた肉体は力に溢れ、男を実年齢より遥かに若々しく見せている。

 男は七つの海を股に掛け、冒険に次ぐ冒険を乗り切った大英雄。

 テトラポットの上に立ち、青い空と照り付ける太陽の下で、偉大なる海の男はニヒルに笑う。


「よう、坊主。夢を見るんだな。夢は人生に彩を与える! そして全てを豊かにしてくれるんだ!」


 白い歯が太陽の光を反射して、非常に眩しく輝いている。

 笑顔に照らされて、誰もが彼に憧憬の眼差しを向けるのだ。

 彼のように夢を持ち、冒険へ出掛けよう。

 この広い世界は今、君の前に開かれている!

 どこかで見た事あるようなないような輝かしい情景。

 明るく健康的な在るべき世界の姿。


 ――てかおっさんあんた、誰?

 ――つか、ニヒルって、どういう意味?


 挿入された意味不明な情景に、多少混乱しながらも僕は自分の日常を振り返る。

 夜、十時には布団に入り、朝は六時に起きる。そして二度寝する。

 七時半に布団から這い出て朝ご飯を食べたり着替えたりのいわゆる「朝の支度」を行い、学校へとれっつらごー。

 自分の席に座り、友人と他愛のないお喋りを繰り広げ、やがて来たる朝のホームルームを待つ。朝礼が始まれば、陽気な教師の声を子守歌に眠りに落ちる。そして、四限終了と同時に起きて昼ご飯。ご飯を食べながら友人と他愛のない話を繰り返し、やがて来たる午後の授業に備え、英気を養う。そして、五時限目の担当教師の入室と共に睡眠開始。全ての授業が終わればようやく目を覚まし、終礼の終了と共に身支度を調えて帰宅の途に着く。自宅に帰り着き、自室に入り、ああ今日も疲れたとベッドに体を投げ出しそのまま夕飯に呼ばれるまで転た寝。夕食後、風呂に入り、思い出したように宿題を済ませ、気付けば十時。就寝の時間だ。

 今日もいつものように布団に入り、夢の中へと僕は潜っていく。

 ほら、この通り僕の一日は夢に浸されている。

 なんて豊かで健康的な日々だろう。

 これほど豊かで実りのある日常を送っているものが、僕の他にいるだろうか。いやない。反語。


 カチリ


 ――その音は何かのスイッチのように。

 ――思考に振れが生じる。

 ――雑音のように波立ち揺れる思考。

 ――崩れることはないが、絶えず揺れ蠢き、まとまらない。

 ――何か変なような気がする。

 ――何か、じゃない。

 ――少し考えれば、冷静になって、よく考えてみれば、その思考は、結論はおかしくないか?


 僕の頭の中が、どこから沸いて出たのかわからない疑問符に押され、確定されていたはずの結論が揺れ始めた。その瞬間だった。


「いやいやいや。ちょっと待てよ。いくら何でも寝過ぎじゃないか?」


 夢の中で誰かが叫んだような気がした。

 楔のような鋭い疑問は、僕の思考の中心を貫いた。

 正当なる突っ込みの勢いは、形を取ろうとしなかった思考に、一定の方向性を与える。


 そうなのか?

 僕は寝過ぎなのだろうか?


 確かに眠っている総時間数だけを見ると、寝過ぎであることを疑う余地はない。

 けれども睡眠の深さを考慮に入れるとまた違う解釈ができるのではないだろうか?

 寝ている間、僕はずっと夢を見ている。ような気がする。

 それは酷く浅い眠り。

 夢の中の出来事なんて、曖昧にしか記憶できない。けれども、その時僕が夢を見ていたってことはなんとなくわかる。夢を見ていたという記憶だけが、いつも心の隅に微かに残る。

 深く眠ることなく、ずっと夢を見続けている。

 夢を見ている間も人間の脳は意識活動を行っているという。

 つまりずっと夢を見ている僕の脳は、たとえ体が睡眠状態にあったとしても、半ば以上覚醒状態にあるのだ。

 人間が睡眠を必要とするのって、体の休息以上に脳に休息が必要だからだろう。体なんて、起きていたって休めることはできる。しかし、脳の休息には睡眠以外に方法がない。たぶん。

 しかし僕はその睡眠時にまで脳を活動させて、延々と夢を見続けている。

 脳を休ませることなく。

 脳を眠らせることなく。

 勿論、全ての時間、夢を見ているなんてことはないだろう。意識はレム睡眠とノンレム睡眠の境界で、浮き沈みを繰り返しながら漂っている。

 夢を見ている時間と見ていない時間。その平均的な割合がどれくらいなのかは、計ったことがないのでわからない。一般的な統計の結果も知らない。

 ただ僕は、きっと普通の人よりも遥かに多くの時間を、レム睡眠の領域で浮かんでいるのだ。ノンレム睡眠の領域へ、深く沈むことなく。

 僕は深く眠ることがない。

 だから質を量で補うように、人並み外れて長い時間、浅い眠りを取り続けている。

 起きることなく。ずっと、ずっと眠り続けている。

 そんなの何で断言できるかって?

 それくらいできるだろう。何しろ僕自身のことなのだ。


「……なんてもったいない」


 確かにね。

 人間の活動時間と一般的に言われているのは睡眠期以外の時間帯だろう。

 前述の僕の一日を、あらためて追ってみる。

 僕が能動的に活動できる時間帯なんて、見れば朝のホームルーム直前と、昼休みの昼食後の、実にわずかな時間しかない。

 時間にして三十分あるかないか。

 僕の一日は、わずか半時間しか無い。

 しかも、その舞台は全て学校という空間に限定されている。

 あらためて自分を振り返ってみると、異常さが身に染みる。

 僕が僕として活動している時間帯を「生きている」と称するならば、僕は一日に半時間しか生きていない。

 おかしい。

 すごくおかしい。

 どうしてこうなんだろう?

 何度も何度も自分の日常を振り返る。

 けれども、一つ一つの行動は誰にだって起こりうる当たり前のこと。細かくセンテンス毎に見ていけば、異常さは見出せない。全体として自分を俯瞰した時にあらためて浮かび上がる。

 異常なまでに多くの睡眠を必要としているという事実。

 どうして僕は眠るのか?

 答えはすでにわかっている。

 体は眠っていても、脳が眠っていないからだ。

 確かに僕は人以上に、異常なまでに睡眠を取るが、しかし、脳の活動時間だけを見れば、普通の人間と変わらないんだろうと思う。

 もっと深い眠りに着かなければ。

 そうしなければ、きっと僕は僕として生きられる時間をこれ以上持つことができない。


「ならば、熟睡する方法を見つけなくてはね?」


 その通り。

 こんなに、無駄なことでうだうだと考えている時間すら、僕には惜しい。

 寝なければ。一刻も早く、眠らなければ。

 深く深く、夢も見ないくらいに、深く。

 多少ならば夢を見てもいい。

 それはきっと必要なことだ。

 けれども、そんなことが非情に些細なことに感じられるほど、僕は深い眠りを求めていた。

 一日八時間の睡眠程度で、すっきりと起きれるくらいに深い眠りを。

 僕には時間がない。


「いやいや、大丈夫でしょう?」


 何が大丈夫なものか?

 説明した通り、僕が実際に起きて自由に動ける時間は非常に短い。

 休日なんかは少しましだけれども、それほど大きな差はない。

 普通に使われるのとは少し違った意味で、僕には時間がない。

 他人事だと思って、いい加減なことを言わないで欲しい。


「……他人事、ではないんだけどね」


 頭の中の声は、よくわからないことを言った。

 僕はその意味を考えようとして、失敗する。


「だって、僕は君だし。それに、この場に於いては、それは例外なんだ」


 どういう意味だか、わからない。

 けれども、その言葉にこそ答えがあるのだとわかった。


「なぜなら、自分自身との対話なんて、夢の中でもないと起こらないだろう?」


 その言葉で、僕は納得。

 なるほど。

 これは夢だったのか。

 確かに時間がないにしては、無駄な思考に時間を費やしすぎていた。

 夢の中ならば、それこそ僕の独壇場。他の誰よりも多くの時間を持っている。

 現実世界で時間がないのは、夢の世界で時間を消費してしまっているからなのだろう。

 普通の人とは逆で。

 普通の人以上に夢の時間を持っているのならば、夢の世界では時間を持て余しているに違いない。


「そうでもないんだけれどもね。あるならあるで、それなりにやることはあるんだ。決して余っているということはない。けれどもまあ、そうだね。余裕があるのは確かかな? 焦る必要はないさ」


 せめて夢の中ぐらい、ゆっくりと考えるべき、ということなのだろうか?


「たぶんね」


 顔を上げると、誰かがそこに立っていることがわかった。

 若い、同い年くらいの少年だ。

 たぶん、夢の中のもう一人の僕なのだろう。顔の部分が逆光にでも背負っているかのように、何だか曖昧で正確に判別が出来ないけれども。

 きっとそれは向こうにとっても同じ事で。

 ならば、なぜ自分自身であるなどとわかるかと言えば。

 おそらく、きっと、たぶん、と曖昧な言葉をいくつも継ぎ足して予防線を張った上で考察すれば、僕の知らない夢の世界でのルールなのだろう、とかいい加減なことを考えたりもして。

 ――などと、そんな益体もないことをぐだぐだと夢見ながら眠っていると、目の前の僕がぐにゃりと歪んだ。

 それはまるで、 ぐぅんにゃあり、ぐぅ

                   ん

                   に

                   ゃ

                  あ

                り

 とでも表現できるような感じで。

 歪みは、目の前の僕を中心にして、世界全体へと広がっていく。

 歪みの広がりと同時に、僕の中からある感情がわき上がってきた。感情の名前は恐怖。恐怖は胃の奥の方からゆっくりと迫り上がってきているように感じられた。体の中に、固形の何かが詰まったかのようなひどい圧迫感が生まれる。

 そして気付けば世界は、夢はもの凄い悪夢へと変化していた。

 何がどう凄いかなんて、全然説明できない。

 なんか不定形の、ゼリーのような、ゴムのような、柔らかいくせに弾力のあるものに包まれている夢。しかし、なぜそれが怖いのか、僕自身まったく理解できていないのだ。恐怖に包まれながらも、頭のどこかでは冷静で、ちゃんとこの状況を不自然に思っている自分がいる。だから余計に混乱してしまう。ただ脳の中の恐怖を司る神経回路をソフトタッチで延々と撫でられているような。いや、つまりは全然意味不明で。体の内と外から同時に来る圧迫感にただ翻弄されて。何を書いているのか僕自身わからず。だから、ええと、すげー怖いと。説明どころか言葉にもならない。

 言葉の限界だろうか。

 言葉には限界がある。

 自分の言語操作能力の弱さに対する言い訳のような気もする。

 敗北。

 閑話休題。

 負けたなら、早く脱落するべきだろう。

 この夢の中から。

 だから手探りのように、夢から浮上するための蜘蛛の糸を求めた。

 そうして手にした、現実に存在する、わずかなる音。


 カチリ。


 そんなわけで――強引に纏めてしまえば――いつもと違う睡眠状態にあった僕。

 いや、いつもと違うなんて、夢の内容なんてわりと忘れてしまう物なので断言は出来ないのだけれども。

 その日の朝、いつもと違う目覚め方をした。

 目覚まし時計が鳴るよりもずっと前。

 無意識と意識の狭間にある時計の針の音を頼りに。

 頭の中に確かに響く『カチリ』という機械音と共に、目を開けた。

 おかげで、ちょっと、いや、かなり珍しいものを見ることになった。

 眼前一センチまで近づいた、白崎浅香の顔を。

 大きく見開いた目には、真剣な光が宿っていた。

 僕の視線と絡まった瞬間、わずかに戸惑いに瞳が泳いだように感じられた。気のせいかもしれない。

 僕は反応できなかった。

 悪夢明けで脳の働きが鈍っていたこと。単に寝ぼけているだけのことかもしれないけれども。しばらく浅香の顔を、ぼんやりと眺めていた。

 整った顔はクラスメイトの誰もが認める美少女だ。ちょっと表情は硬くて、滅多に笑わない所は少しマイナスポイント。性格もぶっきらぼうなところがあって、これまで数々の告白を斬って捨てるようにいなしてきているというのは学校中で有名な所。

 浅香は表情を不審そうに歪め、しかしすぐに気を取り直したのか、真面目な表情になり、僕の目の奥を見抜こうとするかのように、視線を落としてきた。

 はて、この状況は何だろう?

 ただ見ているだけにしては、顔の距離が近すぎる。

 これではまるで、キスしようとしているみたいではないか。


「あれぇ? お兄ちゃん、起きたの?」


 思い切りバットを振ったは良いが見事に空振りした上にすっぽ抜けた感じの声が、部屋に響いた。

 浅香ではない。

 もちろん僕でもない。

 すうっと、何事もなかったかのように浅香の顔が離れる。

 浅香が離れたおかげで視界が広がり、僕の部屋の様子が見えてきた。

 僕のベッドのすぐそばで、すらりと立つ、浅香。僕の、というより妹の、幼馴染み。そして同級生。ついでに委員長。彼女がこんな朝の時間に僕の部屋にいたことなんて、記憶では、過去に二度しかない。

 顔だけではなく、スタイルも万全。すらりと着こなした制服のブレザーからは、上着の上からでもわかるほど大きな双丘が自己主張していた。所有者本人の性格もあってか、なんとなく硬そうなイメージがあるんだけれども。触って確かめてみたいと思ったのは一度や二度じゃない。もちろん口に出して言うことは決してないのだが。背も女子にしてはおそらく高い方で、男子中堅の僕よりわずかに拳一つ分くらい低い程度だった。スカートから伸びた白くて細い足がカーテンに光を遮られた薄暗い朝の部屋にあっても、何だか眩しい。

 いつもの大人びた雰囲気のまま、浅香は顔を真っ直ぐに僕へと向けているが、視線はわずかに逸れていた。たぶん、わざと。

 そして、部屋の入り口、ドア付近にそんな僕たちを何やら不満そうに口を尖らせて見ている小柄な生命体。妹。黒瀬美優。

 こっちも多少身贔屓なところが無きにしも非ずだけれども、非常にかわいい。色々と、何もかも小柄で、ちょっぴり丸っこくて、浅香の堅さを補うように柔らかすぎる感じなのだけれども。


「あー……」


 何か言おうとして、僕の口をついて出てきたのは、そんな意味のない、音だった。

 しかし、意味のない音にも、何か感じるものがあったのだろう。浅香は深く溜め息を吐き、美優は小さく舌打ちをした。

 二人とも、何なんだその反応は?

 まだ半分夢の中にあるような頭を抱えるように僕は、額に右の掌を当てながら体を起こす。

 それが合図になったのか、浅香は再び溜め息を吐いた。


「はぁぁぁ」


 なんか、少し、いや、ずいぶんとわざとらしい。


「危なかったわ。一生に一度の大イベントを、こんな手近なところで済まそうとするなんて」


 そして意味不明なことをつぶやいた。

 意味はわからないが、頭の中にもやが掛かったような、もどかしい気分に犯された。何か、侮辱されたような気がする。


「うんうん。女の子ならば誰だってそれにロマンティックなシチュエーションを望むものよ。……よね?」


 同調するように美優も首を縦に振る。


「ロマンティックかはともかく、もう少し正当な手続きを踏んだ後に行いたいと思う……のが本意ね。って、美優。貴女が私をけしかけたんじゃない?」

「そうだよ? あっちゃん。だって、ロマンティックなファーストキスを実際に経験している人なんて、ごく少数よ。たぶん、そうだよね?」

「統計を取ったことがあるわけじゃないから、正確なことはわからないけど。周りの話から判断して、ごく一部の限定階層の住人だけでしょうね」

「うん。その人たちにしたって、何人が本当のことを言っているのか、わからないよ。きっとね?」

「女は見栄っ張りだし。虚飾の可能性も高いわ。期待混じりの希望的観測だけど」


 なんだかわかるようなわからないような。

 付き合うのもなんだか不毛な気がして、僕は二人を無視してベッドを下りた。

 時計を見る。

 朝の六時半。

 …………早っ!!

 こんな時間にこの二人は何をしてるんだ?

 ともあれ二人とも、制服をきっちりと着込んでいて、登校の準備はできているようだった。

 あきれて振り向くと、二人は僕のベッドに腰を掛けて、まだよくわからないことを言い合っていた。


「でもあっちゃん。少なくともお兄ちゃんのことは嫌いじゃないでしょ。そうだよね?」

「よくわからないわ。幸孝くんとは幼稚園の頃から存在は知ってても、ほとんど遊んだことなんてなかったし、今更何かしらの関係を築こうとしても、十五年ほど遅いような気がする」

「苗字じゃなくて名前呼び出し、十分親しいと思うよ? だよね?」

「名前呼びは美優との混同を避けてのことだよ。他意はなく、親しさの指標にはならない。幸孝――ユキくん自身に思うところはそれほど無い」

「……なら、なんでキスしようとしたの? どして?」

「してない。というか、あたしと無関係の存在ならば、してもしなくても変わらないと思った。てか、期待したわ」

「無関係ってことはないよね? だってね?」

「うん。一応幼馴染み。美優のお兄さん。黒瀬幸孝。あだ名はユキくん。そしてクラスメイト。関係性を築こうと思えばいくらでも可能な位置にある人ね。てか、今まで何の関係もなかったことの方が不思議。そして『キスは減らない』という慣用句は迷信だと思う。何かが減るわ」

「ファーストキスは、一回きりだよ! 違うよ!」

「一回きり…………使い捨て、ってこと?」


 ……違うんじゃないかな。

 どちらかといえば想い出の永久保存版。

 それを捨てるなんてとんでもない。

 本当に何の話をしてるんだか。

 二人は完全に自分たちだけの世界に入っているように見えた。

 彼女たちの世界には、僕は存在しない。ならば僕にとって彼女たちは空気と同じで、彼女たちのとっての僕もまた空気なのだろう。

 そう判断して、ならばいっか、と思い、僕はクローゼットから制服を取り出して寝間着の上着を脱いだ。

 契機は何にしろ、たまには早起きしてみるのも悪くはないだろう。前向きな決意をした途端、後頭部を美優に叩かれた。


「って、なんで、いきなりパジャマを脱ぎ出すかっ!」


 叩いたのは美優だったが、はき出すように声を上げたのは浅香だった。

 なんだ。てっきり僕のことを無視して空気か路傍の石ころだとでも考えているのかと思えば。一応、僕のことも一個の意識を持つ存在だと認識していたようだ。

 なぜだか感心してしまって、動きを止める。


「朝起きたら着替えるのは当然だろう?」

「かといって、家族でもない乙女の前で断りもなく脱ぎ出すのはどうかと思うわ」

「ふむ……。じゃあ脱ぐぞ」

「断ればいいって問題でもないでしょう」


 じゃあ、どうすれば僕は着替えが出来るのだろう?

 家族でもない乙女の前ってのが問題なのか?

 だがしかし、僕の着替えはこの部屋の中にしかなく、家族でもない乙女であるところの浅香はこの部屋にいる。浅香と着替えとこの部屋は、切り離せない状態にあり、って事は僕の着替えは不可能になってしまう。この状況を打開する手段ははたして存在するだろうか?

 僕は思考する。

 着替えを持って部屋を出る。

 ――却下。

 理由、寒い。


「ならば、方法は一つしかないな」


 浅香が『家族でもない乙女』であることが問題ならば、その前提を崩してやればいいのだ。


「浅香。結婚しよう」

「え?」


 否定の言葉がないってことはたぶんOKってことだろう。

 ならば浅香はすでに家族も同然。家族ならば、目の前で着替えをしても何の問題も生まれない。文章としての正式な成約はまだ交わしていないので婚前交渉って感じだけど、些細な問題として僕は着替えを断行する。

 ぴんと張ったシャツに腕を通していると美優と浅香の会話が耳に飛び込んできた。


「……お兄ちゃんの思考って、普通の人と絶対に違うよね。変だよね?」

「うん。一度脳に電極挿して、コンピューターに繋いで解析してみたいな」


 失礼な。

 つか、浅香。そんな技術、現代科学にはない。

 そうこうしているうちに着替え完了。


「んで、二人とも、何の用だ?」


 まだ七時にもなっていない。それに、よく考えたら今日から世間は長期の大型連休に入る。休みだ。なんでこいつら、わざわざ制服なんて着てるんだ? というか、ついうっかり釣られて制服に着替えてしまい、少し気落ちする。


「いや、特に用はないわ。部活だったんだけど、早起きしすぎて時間が余ってしまって。暇つぶし」

「お兄ちゃんにも早起きの気分を味わってもらおうと思ったんだよ! お裾分けだね!」

「ああ、そうですか」


 さっさと部活行きやがれ。


「いい暇つぶしにはなったわ。上半身とはいえ、父親以外の裸を見たのは初めてだしね。眼福眼福」


 なぜか浅香は拝むように僕に手を合わせる。浅香も人のことは言えない。相当変な思考をしていると思う。


「うん。楽しかったよ。でもあっちゃん、そろそろ時間だよ。行こうよ?」

「まだちょっと時間はあるけど……そろそろ行こうか。邪魔したわね」


 全然反省していない澄ました顔で浅香は言い、部屋から出て行こうとする。

 てか、この二人の部活って何だろうな? 今まで気にしたこともなかった。


「ああそうそう」


 美優に続いて部屋を出て行こうとして浅香はふと立ち止まり、思い出したように声を掛けてきた。


「冗談とはいえ、あたしなんかに結婚を申し込んだりしてよかったの?」

「なんだ? 謙遜? 浅香らしくもない」


 それどころか、浅香は相当に美人だ。スタイルも良いし、学校の成績もかなり上位のはずだった。少し表情に乏しいところはあるが、話してみると意外に気さくだし、憧れているヤツも一人や二人じゃないはずだ。噂に聞いただけだが、最近も誰かに告白されて断ったとか。


「そういう意味じゃない」


 浅香は首を左右に振る。


「C組の碧凪ミオさんと、こ、恋仲じゃなかったの?」


 その表現を一般会話に使うのはどうかと思うが。

 また、その件か。

 僕は心の中で嘆息する。やや気落ちした気分で。

 何度訊かれたかわからない質問。

 何度誤解されたかわからない疑問。

 碧凪ミオ。

 確かに僕は、彼女と親しい。

 妹を除けば、一番親しい異性だし、それは彼女にしても同じ事だろう。

 クラスは違えどもよく話すし、昼を一緒に食べたり、登下校を共にしたり、二人きりで遊びに行ったりもする。

 けれども違う。

 違うのだ。

 僕と彼女は恋人同士ではない。

 恋人同士じゃないのだ。

 だから僕は。


「違うよ」


 とだけ応えた。

 浅香は興味があるのかないのか、いつものように感情に乏しい表情で。


「ふうん。そうなんだ」


 応えた。


「うん。ミオちゃんとお兄ちゃんは違うよね! 素敵だよね!」


 なぜか嬉しそうに、ドアの隙間から顔を覗かせて美優が叫んだ。

 そう。僕とミオの関係に、唯一全面的な理解を示してくれたのが、この妹だった。何がどう素敵なのかは、よくわからないけども。


「まあ、いいや。あたしには関係ないし」


 素っ気なくいう、浅香の声は、どこか不機嫌そうにも聞こえた。

 そして僕は思い出す。

 冗談とはいえ、僕と浅香の関係は継続中だ。だから、ちゃんと決着は付けておかなくてはいけない。


「浅香。離婚しよう」


 そのまま出て行こうとした浅香を呼び止めるように、僕は言葉を投げかける。

 一瞬驚いたように、浅香の表情は固まる。しかしすぐに、意地悪げな笑みに変わる。

 悪戯っぽく、楽しそうに、しかしどこか嬉しげに、笑った。


「――断る」


 きっぱりとした断言と共に、ドアは音を立てて閉まった。


 閉まったドアを見て僕はしばし考える。


 ああ、申し遅れたが、僕の名前は「黒瀬幸孝」。親しい友人は皆「ユキ」と呼ぶ。

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