Somnia Memorias ―夢の中で夢を見る―

彩葉陽文

第一部 『4月29日午前』

第0話 『ARBOS』


 とりあえず聴いてほしい。

 いやまあ、別に聴かなくても良いけれども、たぶん聴かないと意味がわかんないだろうからとりあえず聴いてほしい。

 本当は聴いてもおそらくさっぱり意味がわからないだろうと僕は予想しているけれども、しかし取りも敢えずに聴いてみなければきっと何も始まらないので、前提条件として認識して頂いてどうか諦めてほしい、てな感じのところを僕は願う。


 これだけしつこく頼めば、きっと「しょうがないなぁ。じゃあ聞いてやろうか」程度には思ってくれると僕は期待している。

 うん、だから、お願いします。

 僕の話を聴いて下さい。いや、聞き流しでも良いので、とりあえず試しに耳に入れてみてください。


 聴いて貰ったところで理解は得られないだろうと言うのは、実のところ自分がこれから語ろうとしている文章が、一体全体どういう意味を持っているのか、僕自身がさっぱり理解していないからだったりする。

 それならばなぜ「語る」なんてことができるのかというと、語られる物事を行っている当時の僕は、その行為に一切の疑問を抱いていなかったからだ。

 だから、これは、今に至ってようやく自分が何も理解していないことに気付いたという、とてもとても愚かな一連の物事を描いた、語りである。

 懺悔とも、後悔とも、そんなマイナスイメージが伴う言葉に非常によく似た何か別の感情が常につきまとう感じの語りでもある。

 物事全体を俯瞰して浮かび上がってくるのは、やはり自分自身の無理解であり、正しい意味合いで言うところの渾沌である。

 僕はそれを理解していない。僕にはそれを理解することは出来ない。理解する能力がない。結果として残るのは、どこまで行っても曖昧であり、雑然とした斑模様であり、すべてを覆い隠す純白の霧であり、夢の中の夢であり、すなわち無である。

 霧の中で見る夢という意味合いで言うところの無である。

 意味が存在しないのなら、なぜ語るのだろうか。

 考えたところで、僕に答えは出せない。

 出せない、けれども。

 それでも霧の中に何かが。

 斑の中に何かが。

 渾沌の中に何かが。

 僕には見ることのできない何かが、きっとあるんじゃないかって。

 そんな予感が、闇の中で仄かに光る灯火のように、うっすらと頼りなく、しかし確かに浮かび上がっているのだった。

 僕にはさっぱり理解出来ないけれども。

 僕ではない君ならばひょっとして。

 僕の中の渾沌から、何か意味のあるものを、大切なものを、見つけ出してくれるんじゃないかって。

 そんなことを感じて、期待しているのだった。

 だからまあ、とりあえず、聴いてほしい。

 わからないと思っても。

 理解出来ないと思っても。

 何かを感じたならば、それを僕に教えてほしい。

 うん、じゃあ、語ろうか。




 はじまりが何なのか、結局の所僕は思い出せなかった。

 はじまりと誰かが認識しているそれも、結局の所はじまりではなかったのだろう。そう思う。

 はじまりと呼ばれるそれ以前にも記憶は存在しているし、ならばそれは、一連の事件の流れを作りだした始点という意味以上のものは持たず、根本の意味での、僕の求めていたはじまりとは、それはきっと別のものだったのだろう。


 それでも良いからと、記憶を辿る。

 深い緑の奥に、進むように。

 赤い少女の影を追って。







 統一感のない斑な緑の視界を、僕は練るように進んでいた。

 木の葉の影に隠れるように先を行く、赤い少女の背中を追って。

 常に意識をしなければ見失ってしまうほど、雑多な緑の情報が常に周りから押し寄せてくる。

 世界に満ちた緑の中で、ただ赤だけを意識して、追っている。

 追うのはそれほど難しくはない。赤い少女は逃げている訳ではないのだ。その存在は小さくてすぐにも世界の緑に埋もれてしまいそうだけれども、少女は僕が跡を追っていることを知っている。だから時折進む速度を緩めたり、殊更大げさに、目立つように動いたりして、追いやすいようにしてくれている。


 ――ほらほら、早くしないと飲み込まれちゃうよ?


 少女は時折振り返り、幼い声で僕を呼ぶ。

 わかっている。

 一度でも見失ってしまえば、再び見出すのは非常に困難だ。

 世界は広大で、とても曖昧で、常に形を変えている。

 つながりを見落としてしまえば、あっという間に離れて行ってしまうだろう。

 少女と僕の縁は、心当たりのある他のいくつかと比べると、そう大きなものでもないのだ。

 だから、この広大な緑の世界の中で、一度はぐれてしまえば、次に巡り会えるのはいつになるのかわからない。

 縁それ自体は細くとも確実に存在はしているので、二度と巡り会えないなんてことはおそらく起こらないだろうけれども。


 僕は少女を追って、道を行く。

 道は少しずつ太く大きくなっていく。

 広がる視界。広がる道幅。地の色は茶。乾いた木の枝の色。

 僕らは、世界を飲み込むような巨大な木の、枝の上を歩いている。

 世界が広がれば、少女の姿もはっきりとして、跡を追うのも楽になってきた。

 けれども油断はできない。

 いつどこで何が起こるのか――わからない。この世界では。

 はっきりとして、遠くまで見透すことができても、世界の存在自体は依然として曖昧だ。

 だからちょっとした風に吹かれただけで、簡単に形を変えてしまう。


 ぐぅんにゃあり、ぐぅ

           ん

           に

           ゃ

          あ

        り

 と。


 言葉にしてみれば、そんな醜悪で、不安を掻き立てるような形容が当てはまる。

 誘うように振り向く少女の顔も――自然なのだが、不自然さはまるで感じないのだが、なぜだかどうしても、それがどんな顔をしていたのか、思い出すことができない。


 ――思い出せない。


 記憶を振り返るように、瞬間瞬間の情景を明確に実像として留めることができない。

 遠い遙か昔の記憶を、曖昧な霞の奥に去った思い出を振り返るように、明確な認識を保てない。

 今、刹那、瞬間、目の前に在ると言うのに。

 何よりも驚くべきは、それを僕自身、不自然に全く感じていないのだ。


 驚いている。


 そうだ、僕は驚いている。

 しかし現実に赤い少女を追う僕は、僕自身が驚いていることに気づいていない。

 何か矛盾している。

 少女を追う僕と、それを認識する僕の、意識が乖離している。

 俯瞰するように、どこか遙か遠く、高い所から、僕は僕の行動を見下ろしている。


 これは――、と気づく。


 夢だ。

 夢を見ているんだ。僕は。

 気づくと、ひとつの単語が思考の海の底から浮かび上がる。

 明晰夢。

 これは夢だと、意識して見る夢。

 現実に在る自分の存在を意識して、それと確かに別に存在する夢幻の世界を、然りと見る――そのような状態のこと。

 現実に在る自分にとっては、理屈に合わない、許容し得ない様々な事象。それらに満ちた世界に在り、順応して生きている自分自身を、俯瞰するように見ること。

 俯瞰する僕の意識から見れば、この世界は不自然極まりないのだけれども、しかしこの世界を舞台として生きる主人公たる『僕自身』にとっては、違和感など欠片も感じられない、至極当然の、当たり前の世界。


 このような夢は、過去にも見た覚えがある。

 同じ夢、ではない。

 似たような、夢の中の主人公としての僕と、それを認識する僕の意識が乖離しているという、夢だ。


 以前見た夢は、今のこれとは全く違う状況だった、ように思う。

 またこことは異なる、ここではないヽヽヽヽヽヽ夢世界を見ていた、ように思う。

 実はよく思い出すことができない。そのような気がするだけで、ひょっとすると同じ夢を繰り返し見ているだけなのかもしれない。

 夢を俯瞰する僕の意識状態――心理状態が、その時々で異なるために、違う状況だった、と感じているだけなのかもしれない。


 夢は所詮夢だ。朝露が日の光に照らされて消えていくように、目が覚めれば記憶の彼方に去ってしまい、もう二度と思い出すことができない。

 残るのは、ただ夢を見ていたという、曖昧な感覚だけだ。

 だからこの夢が、以前見ていたそれと、本当に違うものなのか、僕に判断する術はない。

 けれども、違う夢だろうが、同じ夢だろうが、今はそんなことは関係ない。重要なのは、以前も見た覚えがある、というその感覚だ。事実が実際にどうであろうと、既知であると感じるその感触は、僕の精神状態を安心に保つ。

 この状況は知っている。ゆえに安心して良いのだ。何も不安に思うことはない。

 自分に言い聞かせ、心の安寧を維持するのだ。

 森の中を、木の枝の上を行く僕は、そんな僕の心の葛藤を知ることもなく、ただ走る。赤い少女を追って走る。

 僕はなぜ僕が赤い少女を追っているのかを知らない。そして僕は、僕の中の心の葛藤を知らない。


 僕は僕との心の交流ができていない。


 走る僕は僕でありながら、何を考えているのかわからない。

 どうしてこれが僕になるのだろう。何を考えているのか、何を目指しているのか、その心の内は何もわからないというのに。

 けれども、この僕が僕ではないなどという思考は湧いてこなかった。

 堅い地を、枝を踏み締めて走る、僕の力強い脈動を感じている。朝靄の中に似た、湿った森の空気を感じている。目の前を揺れる赤い少女の背中の存在も、感じ取っている。

 感覚だけは、僕と僕は一致している。

 だからどれだけ思考が乖離していたとしても、僕は僕である。それだけは間違いないのだ。


 しかし、この夢は何なのだろう。

 もうずいぶん、長い間夢を見続けているような気がする。

 こんなに長い夢を見るのは初めてだ、と思うのだが、以前見た夢を明確に覚えている訳ではないので、やはりこれは記憶していないだけで、これまでも度々にあった、普遍的なことなのかもしれない。それはそうだ。イレギュラーなことなど、そうそう起こりはしない。それに、長い間夢を見ている、という僕の感覚も、その真偽は疑わしい、と考える。

 長い間続けているのは、どこかへ向かって走る赤い少女を追いかけているというその行為事態のことで、それを行っている夢の中の僕自身の感覚が夢を見ていると自覚している僕にフィードバックされて、そう錯覚しているだけなのかもしれない。

 どちらが正解なのか、わからない。

 どちらも正解なのかもしれなかったし、どちらも間違いなのかもしれなかった。

 判断材料は足りない。この段階ではどちらとも決められない。

 決める必要もない。僕が思ったのはただの疑問であり、明らかにされたからといって何かが変わるというものでもない。どちらであったとしても、どちらでなかったとしても、正解はたった一つだ。世界はひとつの現実に収束されて、在る。


 シュレディンガーの猫、なんて言葉が頭に浮かんだ。

 意味はわからなかったけれども、なぜだか気分は納得した。

 僕にわからないということは、夢の中の僕が知る夢の中の言葉だったのだろう。そして、夢の中では意味の通る言葉なのだ。だから夢の中の僕は思い浮かんだ言葉に納得し、その納得した感情を、俯瞰する僕が感じ取ったのだ。

 納得した僕は、その感覚に身を委ね、思考を止めた。

 今いる、夢の中の僕に感覚を重ねる。


 少女を追っている。


 疑問はまだ、体の奥に明確な形を取らずに渦巻いているが、僕の体を包むのは安心感と納得感だ。

 だからこの状況に不安はない。

 急いで、駆けている。けれども、後を追う僕の存在を意識してくれている。

 だからきっと、少女にも余裕はまだ多分に存在し、それが僕の安心感を補強もしているのだろう。


 霞のように揺らめく世界を僕らは走る。

 大樹の中心へ向かい、真っ直ぐに。

 先導する少女は、振り返り僕の様子を見るのと同じくらいの頻度で、空を見上げている。

 つられるように僕も空を見るが、そこには青空はなかった。

 白い乳白色の雲が、空全体に広がり、その奥の様子を覆い隠している。お陰で太陽の位置もわからない。雲の中で陽の光は乱反射しているのか、降ってくる光は斑で、方向性すらも正確にはわからない。雲に不純物は少なく、澄んでいた。だから、白色に見えるのだろう。けれども、考えられないほどに厚い。

 どれほど厚いのか、わからなかった。太陽の存在を曖昧にするほど分厚い雲など、僕は知らなかったし、それほど厚いのに、雨を降らす様子が全くないのも、異常と感じられた。けれども僕は、雲生成のメカニズムについて、詳しいことはほとんど知らない。だから、この雲の状態が正しいのかどうだか、判別することはできない。


 けれども、普通ではあり得ない――かもしれない。


 それはただの可能性でしかなかったが、そう感じることこそ夢の中にいる証拠なのだと、意識を新たにすることができた。

 再び視線を少女の背中に戻す。

 周囲の緑は再び深くなり、道も狭くなってきた。

 道の真ん中まではみ出てきた、曲がりくねった木の枝を、少女は手で払った。


 カチリと。


 少女に払われた枝はしなり、勢いを付けて僕に襲いかかってきた。

 僕は足を止めて、目の前を通り過ぎていく枝の一振りをやり過ごす。


 ――危ないな。


 文句を言おうとして僕は、少女の姿を見失ったことに気づく。

 枝を避けるために止まってしまったのがいけなかったのか、目の前の一本道を進んでいたというのに、少女の姿はもう、どこにもない。緑の奥へ消えてしまった。

 つながりが断たれたのだ。

 そう思った。

 はぐれてしまった。だからきっと、偶然が許さない限り、少女と再び巡り会うことはないだろう。


 ――困った。彼女は道しるべだったのに、どうしたものだか。


 ぼやこうとして、僕は強烈な違和感に襲われて、口元を押さえた。――いや、押さえようとした。

 声が出ない。


 ――いや、声は出ているのだ。


 それを俯瞰する僕の意識は捕まえることができないのだ。この夢の中の、音を認識できていないのだ。

 今更気づくのも間の抜けた話なのだが、思えばこの夢の中にある間中、僕は音を一度として耳にしていない。なのに違和感がなかったのは、夢の中の僕自身は当たり前に音を認識していたからなのだろう。しかし、気づいてしまえばもう忘れることはできない。この短い時間の記憶を思い返せば、今まで気づかなかったことが不思議なほどの違和感に襲われる。

 信じられない。

 音が全くないことに、気づいていなかったなんて。

 しかしこれは現実だ。否定しても始まらない。この世界で僕は、一度も音を聞いていない。

 一度も?

 本当にそうなのか?

 僕は、少女の声を聞かなかったか?

 聞いたように思う。振り返り、僕を呼ぶ少女の声。

 だが、さらに思い返してみると、それはただ「聞いたように感じた」というレベルの認識にすぎないようにも思う。

 わからない。けれども違和感は捨てられない。

 音。音。――音だ。

 何か見落としがあるような気がする。

 盲点が転がっているように思う。

 記憶を遡ろうとすると、強烈な印象を残る場面ばかりが浮かんできて、進めることができなくなる。

 枝を振り払う少女。振り払われた枝はしなり、少女が通り過ぎた後をすごい勢いで後ろへ飛んでいく。枝を振り払う少女。僕は避ける。足を止める。振り払われる枝。しなる枝。少女の手が、木の枝を――。


 カチリ。


 そんな音を聞いた。

 僕自身も、そう認識している。

 何の音だろう。

 枝を振り払う音にしては、あまりにもそぐわない、不自然な効果音。機械的な音。

 僕はその音に、聞き覚えがあった。

 寝ている時はいつも聞いている音だ。

 だから聞こえることに違和感がなかった。

 今も、ない。

 だから今も聞こえているのかもしれない。

 聞こえ続けているのかもしれない。

 それは、現実世界の僕の枕元にある。

 枕元にあるそれは、僕の目覚まし時計。

 時計の長針が一つ、一目盛り、たったそれだけ、動く音。

 意識しなければ聞こえていることすらも忘れるほど、小さな音。

 けれども今もきっと、聞こえている。

 現実に残った僕の耳は、その音を聞いて、脳に届けている。

 軽やかな、とても小さな機械音。

 時間を進めるために存在する、機械音。


 カチリと。




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