fragment.06 『僕らは檻の中の世界で生きている』



 ざわめきの中で目を覚ました。

 雑然とした四畳半。

 畳にしかれた布団からのっそりと起き上がり、僕は目を擦る。

 息を吐いて大きく深呼吸。

 軽く頭を左右に振りながら閉じそうになる目を何とか開いて窓の傍まで行き、カーテンを一気に開ける。


 くすんだ朝の光が下りてくる。

 窓を開けて外を見ると、じとっとした湿気を強く感じた。

 天気が悪いのかと思ったのだが、雨は降っていない。青空は見えないけれども、肌に感じる光の量から言えば十分な量が降りてきているように感じられた。なので、おそらく都市外縁部からは青空が見えるのだろう。

 ここ高沙地区は重層天尖都市〝光花市〟の中でも北方に位置するのだが、もう二十年ほど前に進められたセカンドシティ計画の影響で急激に発展して、かなりのレイヤーを重ねることになっていた。尖端が成層圏にまで達するという旧光花市街――通称『市内』ほどではないけれども、単独でも層を重ね、標高一〇〇〇メートルを超す中規模の層状都市となっている。南端ではもうすっかり『市内』に飲み込まれ、その境界はわからないほどだと言うけれども――僕の住むこの街は、そんなわけで光花市全体としては北の端の方に位置するはずなのだが、層状都市の構造的に見てみると、都市中心部の下層域に近い雰囲気の場所になっている。

 つまり、直射日光など決して降りてこない場所ってこと。同じ下層域でも都市の端の方ならば、日光も普通に降りてくるはずなんだけどね。

 だからこの場所に降ってくる太陽の光は、綿密に計算されたガラスによる反射光であり、常にどこかくすんでいる。

 けれども長年の経験により、くすんだ光の強弱により、都市の外が雨か晴れか――それくらいはなんとなくわかるようになった。


 直接に光がここに降りてくることは決してない。

 都市の上層部は雲よりも上にあるはずなので、逆に雨という存在を知らないらしいけれども――僕はそこまで行ったことがない。

 権利もない。


 僕は、

 藤堂とうどう由樹ゆきのクローン体。UK_FLOAT_TYPE.TS0014。

 都市上層部に住む本物の藤堂由樹。その女性体クローンの十四体目である。

 本物の人間――は都市の上層部に住んでいて、数少ない例外を除いて降りてくることはない。逆に、クローン体もまた、上層部に行くことはない。その生活は完全に棲み分けされている。

 僕らクローン体たちは、上層部で暮らす本物の人間たちを、豊かに生かすために活動している。

 人類総体から見るとごく少数の本物の人間オリジナルを、豊かに、幸せに生かす為に――広大な下層世界では無数のクローン体が活動している。

 巨大なピラミッド構造。

 少数の幸せのために多数が犠牲となる構造。

 その世界の形は、ひどく歪ではあるけれども、きっと形を変えただけで、おそらくは当たり前に存在しているものなのだろう。

 この世界ではそれが、たまたまこういうわかりやすい感じで表出しているだけであって、たぶん歪なんだろうけれども、決して胸を張って正しいとは言えないんだろうけれども、おそらく、きっと、普通のことなのだ。


 そういう認識を僕が得るに至ったのは、例によって多数の夢世界を渡ったがゆえに世界に対して俯瞰的な視点を得るようになったから――

 今日、今ここで目を覚まし、多数の世界を渡ってきた『ユキ』の意識を獲得した――それ以前から僕は、そんな認識を持っていた。

 僕はずっと前から知っていた。

 この世界はとてもおかしな世界である、ということを。

 色んな意味で、普通の世界ではないということを。

 なぜ、この世界に生まれながらそれを断言できるのか。

 その答えはたぶん、一言で足りる。


 実はこの僕には、前世の記憶がある。


 ――――うん、皆が言いたいことは判る。

 これ以上、要素を足してしまって、お前ユキは一体どこへ向かっているのかと。

 いやもう、わけがわからない。

 夢を次々と渡り続けていることだけでも持て余しているというのに、それに加えて前世設定。

 もう、お腹いっぱいだ!

 ただでさえこの世界にはである人が多い――僕の知る限り、おおよそ七〇名くらい。たぶん、僕の知らないところで作られた藤堂由樹のクローン体もいるだろうし、状況が合えば今後も作られていくのだろう。


 つうか、どうなんだろう?


 僕でない藤堂由樹のクローンは、はたしてなんだろうか。というか、本体の藤堂由樹自身はどうなんだろう? それに前世の僕は、はたしてだったんだろうか?

 その答えは今の僕にはわからない。

 それはがこの世界に来たのはが初めてだから。

 その答えがわかるのは、このまま夢を渡り続けるが再びこの世界に舞い戻ってきた時、他の藤堂由樹のクローン体に宿ればわかるのだろう。

 でもその答えってのは、僕が求めているそれの一端でしかない。

 完璧に、完全に、文句の付けようがない回答など、どう足掻いても得られそうにもなかった。


 この世界は非常に歪な世界である。

 一部の特権階級――を頂点として、その他大勢のクローン体が社会を支えている、という構造になっている。

 本物の人間オリジナルたちはそれを疑問に思うことはなく、都市の上層世界で傅かれるままに一生を幸福に過ごし、それを支える無数のクローンたちもそれを疑問に思うことなく日々それぞれに過ごしている。

 それが当たり前だから。何百年も続いている、一般的な世界の構造だから。

 実際に僕だって、普段は何も気にしていない。

 ある時ふと、前世の記憶を思い出した時、ありし世界の記憶と比較して、何かおかしいかもしれないとぼんやり感じるだけだった。


 前世の世界はとても平和な世界だった。

 魔法もなく、過度な機械文明の発展もなく、とても普通の世界だった。

 今までのユキが渡ってきた夢世界群と比べたら、ちょっとばかし科学が発達していたような気もするけれども、概ね問題の少ない、どの世界と比べても異常が少ないと感じられる、当たり前の世界だった。何も無い世界だったと言えるかもしれない。それこそ、夢か幻のような、そんな世界。

 僕はかつてそんな世界に生きて、普通に暮らして、普通に結婚して、普通に子供を育てて、普通に歳を取っていって、普通に死んだ。


 ――うん、前世の僕は何だかじゃないような気がする。

 固有名詞は愛昧になっているのだけれども、決して『ユキ』とは呼ばれていなかったように思うし。

 思い返せば前世の記憶というより、どこか自分ではない他人の人生を第三者的な視点で追体験したような感じの記憶のようにも思える。

 自分のことながら思うのだけれども、が普通に生きたってのにはまったくピンと来ないし、何よりが誰かと恋愛をして結婚をしたということが、まったく想像がつかない。


 この頃の僕はなんとなく自覚しているのだけれども、はきっと、誰のことも恋愛的な意味合いで好きになることはないんじゃないかって、考えている。

 だって、夢世界を渡っていることを、無意識にでも理解しているは、移動する度に変化する自分の主体を違和感なく受け入れることのできる曖昧な主体しか持っていなくて――そんな主体のないが、確固たる意志を持って誰かを好きになることなんて、決してないんじゃないかって思うのだ。


 だって、こう考えている今も僕は、今生きているはずのこの世界に、

 この世界もどうせ夢なんだと、無意識のどこかで常に思っている――いや、

 世界に現実感を抱けない僕は、きっとどこの誰と交流したって、それは夢の一部にすぎなくて。そんな夢の言葉なんて、交流なんて、何も見えない霧の中の会話のように、真実味を持って受け入れることなんてできなくて、たぶん、無でしかないのだ。


 たぶん、僕の知っている前世は、の前世ではなくて、きっと今ここにいるユキ・ティーエスフォーティーンの前世なんだろう。

 本来の僕のこの世界での役割は、藤堂由樹オリジナルの性処理用の肉人形としてのものだった。うん、謂わばコミュニケーションの取れるオナニー用の生体アンドロイドみたいなものだ。別にそれに嫌悪感があったわけじゃないけれども、前世の記憶があった僕は、自分にはもっと他に色々と出来ることがあるんじゃないかと考えて行動に移した結果、光花市の北の外れでの中層域にほど近い下層域で、貧乏だけどそれなりに平穏な暮らしをしているのだった。

 ちなみに本来僕が担うはずだった藤堂由樹オリジナルの性処理だけれども、今はフィフティーンが担っている。

 藤堂由樹UK_FLOAT_TYPE.TS0015。

 この前所用で会った時に、僕とまったく同じ顔で彼女はあっけらかんと言った。


「うん、由樹くんはわりと淡泊で、あんまり求めて来ないから結構楽だよ? フォーティーンちゃんも一緒にやってみない? お小遣いたくさんもらえるよ?」


 その軽い物言いは同じユキとはとても思えない。

 ということは、彼女はのだろう。

 と思いたいのだが、これまで夢で渡ってきたそれぞれの世界のユキたちも、決して皆が同じ性格というわけではなかった。

 妙にクールなやつもいれば、悪戯っぽいやつもいた。そういえば自分以外にも女の子のは居たなと思い出す。そのもまた変則的な存在で、自分のようにクローン体というわけではなかったのだけれども、同じ世界に別のがいたんだった。

 あの世界は、確か星連にある第二地球『アス』の太古意識エンシェント対策機関である『ペンタグラム』と同じ名前の組織があった。時代考証的に、たぶんその組織の発足当初の時代をなぞっているんだろうけれども…………


 …………いや待て。

 その記憶は一体何だ?

 星連? 第二地球? 太古意識エンシェント? ペンタグラム……はあの世界にもあって、実際所属しているから知っているけれども、今自分は何を考えていた?

 まるであの世界は、青海友樹と柚木のいたあの世界は、とある世界の過去を映した世界で、そのことを僕は当たり前のようにみたいではないか。

 いや、知っているみたいではなく、間違いなく知っている。

 あの世界の状況は、第二地球『アス』の過去をまるでなぞったようだということを僕は知っている。

 いや、本当になぞっているのかどうかはわからない。

 一致しているのは、あの世界が『地球』であるということと、特殊技能研究所としての組織『ペンタグラム』が存在していること、ただそれ二点のみ。

 けれども、太古意識エンシェント対策機関として知られているあの組織『ペンタグラム』も、初めは特殊技能研究所として発足していて、それが第二地球『アス』の歴史において、おおよそあの時代に一致するということだけだ。

 現実の過去のあの組織に『柚木』なんて存在がいたのかどうか、僕は知らないし、青海友樹なんて人物が関わっていたかどうかなんてことも知識にはない。

 けれども問題はそんなことにはなくて、一体全体、この知識がどこからやってきたのか、僕にはまったく理解できないのだった。


 夢を渡っている時、あの世界にいた時には明らかに知らなかった。

 その後、そんな感じの世界に渡ったという記憶もない。

 この世界にもそんな知識はない。

 第二地球ってことは、第一もあるんだろうし、この世界の科学技術は人類の生活圏を成層圏まで広げているけれども、それでも人類は外宇宙に進出を果たしていない。

 精々が火星で有人探査を始めたことくらいが限界だ。

 地球を二個も持てるような超越的な科学の存在を、僕は知らない、はずだ。


 ……はずなんだけれども。


 なぜか僕はそれを知っているような気がする。


 もちろん前世の記憶でもない。

 前世の科学技術はこの世界よりも低かった。

 精々がで、それ以上先へはような、そんな世界だった。


 いや、月に達するだけでも十分に凄いことだと思うけれども。

 少なくとも僕の知る限り、今まで渡ってきた夢世界群の中で、そこまで到達できた世界は半分に満たない。精々四分の一程度じゃないだろうか。


 何だろう。

 わからない。

 わからないのはいつものことだけれども。

 もうわからない状況にも慣れてしまったけれども。

 何だろう。

 ひどく何かが押し込められたような、閉塞感があった。

 締め付けられて身動きが取れない状況にされているような感触。

 

 誰かに相談しよう。


 そう思い、そんなのばかりだなと苦笑する。


 誰に相談するかと思い浮かべた時、思い浮かんだ名前は三つあった。


 ひとつを真っ先に除外したのは、この世界に来る前までいた世界での記憶の影響。

 気の於けない友人だと思っていたのだが、今この原因すべてを作っている黒幕かもしれないなんて言われたら、そう簡単に接触することなんてできない。

 もうひとりの友人は、色々あって会いに行くのが難しいし、ならば結局の所、選択肢には『親友』としか呼べない彼女一人に絞られるのだった。

 幸いこの世界に於いて、彼女と僕は同性だし、そう言った意味で会いに行くのにまったく何の気兼ねもいらない。


 宮藤くどう美音みお

 もちろん本人オリジナルではなくてそのクローン体。

 MM_BIRTH_TYPE.SE0021。

 オリジナルの遺伝子を操作して、精神感応能力を付与したクローン体の二十一体目。

 昔、普通にバイト先で知り合い、普通に意気投合して仲良くなった女の子だ。

 彼女は僕がTS体だからといって差別しなかった、すごく良い子だ。

 TS体のクローンなんて、だいたいが性処理用に作られているので、存在自体に嫌悪感を持つ人は、結構いる。男性なんかはもちろん色眼鏡で見てくるし、女性なんかはもう、同じ人間扱いしてこない。

 生きているだけで汚らわしいとか、近寄っただけで汚染されるだとか、昔は本当に色々言われたものだった。

 幸い僕のオリジナルである藤堂由樹は良い人だったので、そんな話を聞けばすぐに人を寄越して対処してくれたので、僕ら藤堂由樹のTS体たちはそれほど酷い目にはあってこなかった。けれどもこの問題は、イジメの原因の第一理由にも挙げられるほど慢性的な社会の病気として広まって、そして定着してしまっていた。

 そのくせ、女性オリジナルの男性TSクローンには、さして差別もないのが、女性蔑視というか色々と納得のいかないところ。でもまあ、男性としての意識がわりと強い僕としては、どうとも応えようのない、何とも複雑な気分にさせられるのだった。


 たぶんは何事も無かったら普通に男性として生まれるのだろう。

 今まで女性として存在した二例は、いずれも変則的であり、人為的なものが含まれていた。

 自然のものをわざわざ歪めないと、は女性として存在することはできないのだ。


 ということで、着替えて外に出る。

 デニムのパンツに長袖のシャツ。ちょっとそこまで出掛けるような、非常にラフな格好だ。どことなくボーイッシュで、女性らしいところのあまりない、普通の格好。長い黒髪を帽子の中に押し込めるようにして深くかぶって、なるべく肌を露出させないようにして。

 わりと大きめの、自己主張する胸囲は隠しようもないが、一見してぱっと見、男の子のようにも見えなくもない。そんな格好が出掛ける時の僕の定番だった。


「……というわけで、美音に会いに来たのです」


 幸い美音は家にいた。

 ある意味当然だと思う。

 美音は朝が弱くて、休日は昼近くまでいつも寝ていることを知っていたし、同じバイト先なので美音の休日スケジュールも僕は知っていた。

 僕の長々とした話を聞いた美音は、胡乱げな目を僕にやりながら少し困ったように首を傾げた。


「前世云々は前に聞いたことがあったけど…………今度は夢?」


 その声色は、懐疑的というよりもどこか困惑している様子だった。

 当然だと思う。

 誰だってそんなこと、事前知識なくいきなり知らされては、相手の意図が読めず困惑しか残らないだろう。ましてや相手が普段信頼している者ならば、尚更だ。

 僕はと言えば、美音の家で、美音のベッドにだらしなく仰向けに寝転がったまま、勉強机に座っている美音に首だけを向けたままうなずきを返す。

 我ながら適当な返答だ。まるで本気の気持ちなど、欠片も含まれていないかのような適当な相槌。けれどもそんな僕の態度に美音は何かを感じたのか、深々とため息を吐くとうな垂れて首を左右に振るのだった。


「何が言いたいのか、情報が多すぎてわけわからないんじゃない? もう少し整理して、話してよ」


 信じる気になった、というより、信じているというていで話を進めていくことに決めた、といった態度で美音はため息混じりに声を出した。

 僕はごろりとベッドの上で転がりながら「んー」と声を上げた。


「うーん。整理って言っても……僕もわけわかってないんですよ」

「だったら尚更じゃない! ユキ君が理解できないことを理解できないままに語っても、私には何にもわからないわよ」

「えーでも……」


 本当に理解できないのかと逆に僕が疑惑の視線を美音に送る。

 何だかずっと昔から、美音はやたらと僕の言葉に対する理解度が高かった。

 だから親友になったのだとも言えるけれども、ひょっとすると、僕自身が理解できていないことまでも、拙い雑多な僕の口から出る言葉の情報を独自に解析し、理解してしまうようなところが美音にはあった。僕限定のことなのか、他の人にも値することなのかはわからないけれども、出会った頃から美音は僕に対してずっとそんな感じだ。だからこんな自分でもわけわからないだろうと想像している言葉に対して、美音は何らかしらの回答を与えてくれるんじゃないかって、期待するのだった。

 元々その為に美音に会いに来たわけだし。

 美音はやっぱり困ったように微笑する。

 どこか年下の、悪戯っ子を見るような、微笑ましく感じながらも少し迷惑そうでいて、色々と諦めているような、そんな複雑な微笑だった。


 うん、なんかおかしい。

 この世界のミオは、僕と親友であることには変わりないが、どこか敵対的な雰囲気を持っているように感じられる。敵意とまではいかないけれども、どこか対立するような空気が感じられる。

 僕が女だからなのかな、と思う。

 男女の仲の友情って、一般的には成立しにくいって話だけれども、成立してしまった状態で比べると同性同士の方が距離を感じるように思うのは、やっぱり僕が女だからなのだろうか。となると、どこかの世界のユキの言う、女同士だから問題なく親友となれるだろうという憶測は、間違いだったのかもしれない。むしろ、同性同士だからこそという問題もまたあるのだろう。


 そんな感じにぼんやりと美音との関係性を思い浮かんでいたのだが、美音の方はと言えばまったく違う事を考えているようだった。


「……んで、ユキ君はどうしたいの?」

「んー?」

「あなたの……ほら、その原因って人、たぶん、あの鳴兎メイウなんでしょう?」


 問われて僕は首を傾げる。

 ひとつ前の世界でレナとの会話において判明した、今回の事件の黒幕。

 メイウ――鳴兎とは、おそらく彼女の、この世界での名前だ。

 テレビにも出ているような有名な占い師。

 彼女自身が占いをすることは滅多にないが、かなりの正解率を誇るのだという。

 とあることで知り合った、僕と美音の共通の知り合いなのだが。


「……正直どうなんでしょう?」


 ごろりと寝返りをうって、僕は美音を見る。

 美音は美音だけれども、美音本人ではない。宮藤美音のクローン体。

 その正式な名前は『宮藤美音MM_BIRTH_TYPE.SE0021』となり、多数存在している宮藤美音クローンのひとりにすぎない。

 僕だって、言うまでもないけれども『藤堂由樹UK_FLOAT_TYPE.TS0014』という、やたらと長ったらしい名前を持っている。

 それと同じように、鳴兎もまた、その本体のクローンだ、と思うのだけれども、正直の所、よくわからない。

 鳴兎は芸能人であるし、その名前は芸名だ。

 いや、明確に芸名だと聞いたことはないんだけれども、そうに決まっている。

 そして、そういう立場にある者の常として、たとえ彼女自身が誰かのクローンであったとしても、とは完全に切り離して、区別して扱われる。

 彼女は誰かのクローンではなくて『鳴兎』という固有名を持つ一個の存在である。

 つまりはとして扱われるのだ。

 だからこそ、僕にとってはややこしい。


 鳴兎が、これまで『ユキ』が数々の夢世界の中で出会ってきたたちと、明確に同じ存在なのか。


 彼女にもきっと、多数のクローンが居るはずだし、常識的に考えて、彼女はその多数のクローンの中のひとりなのだろう。

 その中で、僕の直接知る彼女が、なのか。


 ふと僕は顔を上げて美音を見る。

 美音は、どこの世界でも、他の夢世界の記憶、情報など一切持っていない。

 ああ、だから僕は真っ先に、美音に逢いに来たのだ。

 いつかどこかの世界でも、選択肢が並べられた時、最初に選んだのはミオだった。


『どんな世界でどんな状況にあっても、君と僕は親友でありそれ以上でもそれ以下でもない』


 いつかどこかの世界で言った言葉を思い出して、僕は少し笑った。


「……突然、どうしたのよ」


 少し漏れた僕の声を聞いて、若干不快そうに美音は顔を歪めた。

 僕はそれを見て目を細める。


「いやあ、美音といると安心しますなぁって」

「バカにしてるの?」

「そんなことないですよぉ?」


 ああそうか。この世界の美音は少しツンなのだな。

 そんな納得をしてみたりして。僕はケタケタと声を上げて笑った。


 メイウはメイウなのかわからない。

 ひとつ前の世界であった詩亜という少女も、エセルというの同僚、っぽい関係の人だったそうなのだけれども、出会って話をした時点では、彼女はではなく、僕――いや、織峯遊季もではなかった。


 でも、ミオはどこの世界でもミオなのだ。

 記憶を持たないからこそ、どこにいても何をしていてもユキとの関係は変わらないのだ。

 だから安心できる。


 夢の中を渡り続けるにとってみれば、ミオの存在は日常の象徴だった。

 だから目が覚めて、わりとすぐに、どの世界でもミオの痕跡を捜すのだ。


 この世界に、ミオはいるのだろうか?


 明確に言葉にはならなくても、常にそんな思いが心の奥に宿っていた。

 思い返せばそう思う。

 途方に暮れた時、一番に逢いたいと思うのは、どんな世界でも、どんな状態に於いても、この親友だったのだ。

 それは絶対の安心感から来る信頼。

 ミオならば、大丈夫だという確信。

 それがあるから、僕は誰よりも、ミオを選んできた。

 時にミオよりも近しい位置にいることのある、メイウや、トキよりも、まず先に。


「その……って、一体、何者なのよ?」


 面白くなさそうな顔で、少し遠慮がちに美音が訊いてきた。

 それは僕を含めた八人のこと。『お茶会』のメンバーのことだ。


「……お茶会?」


 レナが、毎回開いている交流会。

 僕たち八人は、いつもそこで、集まっていた。

 全員がそろうことなんて滅多にないけれども、特にここ最近は、色々と世界が動いていることもあって、集まりはすごく悪かった。


 さて、これは一体の記憶なんだろう。


 先ほどからちょくちょく、記憶にない知識が僕の中から零れてきている。

 今まで色んな世界を夢で渡ってきて、こんなことがあっただろうか。

 わからない。

 けれども、これほどの知識の、まるで奔流のような溢れ方は、これまで出し惜しみしてきたものを、ここが勝負だと決めたかのように一気に押し出そうとしてきているかのようで。


「お茶会……それに、第二地球……」


 ふと見ると、美音がそんなことを呟きながら何かを考えていた。


「どうしたんですか?」


 訊くと、美音はいつになく真剣な目で僕を見詰めて来る。そのいつもよりもさらにきつい眼差しに、慣れている僕も少し及び腰になってしまった。いや、美音は真剣になっているだけで、別に何かに怒っているってわけじゃないってのは、わかっているのだけれども。


「…………たぶん、その【お茶会】とやらが開かれているのが、あなたの来た世界なのね?」

「……そう、なんです、かね?」


 訊かれたが、あまり自信はなかった。

 そんな気もする。けれどもそうでない気もする。


「自信が無いのは、たぶんそれよりもっと、前を知っているからよ」

「……前?」

「うん。ユキ君。あなた、前世の記憶があるのよね?」

「ありますけども……」


 でも前世はたぶん、じゃなかった。


「あのね? たぶんなんだけど、その、第二地球とか言う記憶。の前世、なんじゃない?」

「……? ええと?」


 何を根拠に、とまず思ったのは否定の言葉だった。

 けれどもその発想は自分にはなかったものであることは確かで、一考してみる価値はあるんじゃないのかと、すぐに考え直した。

 そして、考え直そうとして頭に思い浮かんだのは、強烈な困惑だった。


「あ……、あれ? あれっ? おかしい……なんですこれ?」


 記憶が、知らないはずの記憶が、識っているはずの忘れていた記憶が、じわりと染み入るように意識の表層に滲み出てくる。


「そうです……レナは確か。いや、そうです。夢世界は霧に変じて無に近づいているけれども、決して無から生まれたものでは、霧から生まれたものではないはず。現実から零れ落ちて霧に沈もうとしている世界群。それが夢世界のはず。重力に囚われた物質のように、霧の中へと落ちていく世界。それを浮上させる為に、僕たちは…………ならば、浮かび上がれないその世界群は、元々どこから落ちてきた?」


 美音はうなずいた。


「それはきっと、ね?」


 ちょっと待て。混乱してきた。

 世界の下には無の霧があって、夢世界群はそれに落ちてしまわないように浮上し続けている。けれども、下に落ちようとする力を完全に振り切ることはできなくて、レナの言う所、できるのは現状維持だけだ。けれども夢世界を次々に渡って、引っかき回し続けていると、世界同士のバランスが崩れて、一斉に無の霧へと落っこちかねない。それを防ぐ為に僕たちは、夢世界の先へと逃げた犯人を追っている。

 これまでの僕の行動と、レナの言葉をまとめれば、そういうことになる。

 僕は元々それを自覚して夢渡りをしていたはずだけれども、寝惚けた隙を突かれて、記憶を奪われてしまった。

 誰に?

 メイウに。

 僕の姉に。


『私はいかなる世界のいかなる私であろうと、必ず貴方の力となるでしょう』


 彼女がそう僕に言ったことを覚えている。

 だから僕は、メイウが犯人だという言葉を、実は未だに信じ切れていない。

 それは、この世界に於いての知り合いである鳴兎のことを考えても、同様だ。

 けれども、それは本当に?

 メイウが僕の記憶を奪ったのなら。

 同時に、僕からの疑念を防ぐ為に、そういう記憶を植え付けた、なんてこともあり得るんじゃないのか?


 ……頭を振って、その考えを振り払う。

 記憶の改竄が可能ならば、物事に何の根拠も得られなくなる。

 僕が美音に感じている友情という名の絶大なる信頼も。

 だからメイウに出来ることは、出来たことは、僕に対する記憶の封印だけなのだ。そういうことにしよう。


「ねえ、気付いてる?」

「なにを……ですか?」

「ユキ君がこれまで渡ってきた、夢世界の共通点を」

「……共通点? 場所が光花市だったり、僕やミオがいるってことですか?」


 それ以外はどれも皆、バラバラだ。

 ロボットがいたり、魔法があったり、クローンがいたり、ファンタジーだったり、戦争中だったり。それこそひとつの世界から他の世界を見たら、間違いなく互いを夢だと断じるような、そんな世界ばっかりだった。

 その中でただ共通しているのは、場所が光花市であることとか、一部の人物が共通していたりだとか、そんなことだけ。


「ううん。そんなことじゃない。もっと大きなことよ。世界的な枠組みのこと」

「……枠組み、ですか?」


 何を言っているのかわからなくて、首を傾げる。

 すると美音は少し面白そうに笑った。


「ちょっと気分が良いわね。いつも解説するのは、ユキ君の方だったから。あなたが気付かないことを私が気付いているのはずいぶんと気分が良いわ」


 どこか上から目線で、人を見下すように言うその態度は、美音によく似合っていた。色んなミオを見てきたけれども、一番人を見下すのが似合っているのはだと思うのだけれども、それはとても褒め言葉ではないので口にはしなかった。

 黙っていると美音は少し得意気に言った。


「夢世界群は、のよ」

「閉じている、ですか?」

「そうよ。夢世界群は、狭い世界の中から、出られないでいるのよ」

「…………出られない?」


 何を、と思った。

 世界は閉じてなんかいない。

 この都市の上には成層圏にまで達している、【本物の人間】たちが暮らす世界がある。

 その周りを人工衛星が浮遊し、月にも航空宇宙局の基地があり、国際宇宙ステーションも日々巨大化されていっている。今では火星にまで有人飛行しようと、そんな話が真面目に健闘されているほどだ。

 この世界だけの話じゃない。

 多くの世界では人は月まで到達しているし、それは僕の前世世界なんかでも同様だ。


「でも、それは精々、地球圏を越えたものじゃないでしょう?」


 冷静な美音の指摘に、僕の心は漣立った。


「この世界でも、火星の有人飛行の話が出たのはもう、二十年以上前だし」


 そうだ。他の多くの世界でも、人類は月まで達しているが、それから何十年も、その先には進めていない。

 アポロ11号の月面着陸からもう四〇年以上、人類はその先に進めていない。


 どこの世界の記憶なのかわからないけれども、そんな言葉が思い浮かんだ。


 それは、どうして?


「……夢世界が、それ以上の広さを持たないからじゃないの?」


 僕の心の声に応えたわけじゃなかったのだろう、と思う。いや、本当はどうなのか、僕にはわからない。美音は、精神感応能力に長けたクローン体だ。だから僕の心の声を敏感に読み取ったのかもしれない。


「広さを持たない?」

「そう。広くない。閉じられている。だからこの世界は、それ以上先へ進めないのよ。きっと」


 心の漣が、突然嵐に変わった。

 僕は胸を抑える。

 ベッドに仰向けになったまま、胸を抑えて美音の厳しい顔を見上げている。

 厳しい美音の目付きが、少し哀しそうにも見えた。


「…………じゃあ、第二地球とか、そんな記憶は」

「あなたが夢世界に来る前の、現実世界の記憶なんじゃないの?」


 それを覚えている存在だからこそ、あなたは特別であり、今、ここにいるのだ。


 そんなことを言われたような気がした。


「……第二、地球…………」


 僕は、それどころじゃなくて。


「そ、そうです……第二地球じゃなくて、第四地球です」

「……だいよん?」

「うん……そう。地球型惑星の四番目、ってことじゃなくて、まさしく『地球』としか呼べない歴史を辿った生命が存在する惑星の、四番目ってことです」

「じゃあ、二個とか四個とかじゃなくて、もっと他に有人惑星ってたくさんあるのね?」

「ん……帝国や外宇宙のことまではわからないけれども、星連には少なくとも1000以上の有人惑星があったはずです」

「『地球』としか呼べない歴史を辿った惑星って、どういう意味?」

「そのままの意味。宇宙には『地球』って呼ばれる惑星と、途中までまったく同じ歴史を辿った星が、公にされているものだけで八つ存在しています」

「……何よそれ」

「うん……原因不明。【太古意識エンシェント】の一種である【アースメーカー】によって創られたってことが最近の研究でわかっています。けど、その【アースメーカー】は行方不明。外宇宙の、人類勢力圏の外のどこかで未だに『地球』を創り続けているって話です」

「……なんか、スケールが大きすぎてさすがに理解できないんだけど?」

「ん……うん」


 美音は混乱しているようだけれども、僕も混乱している。

 今まで知らなかった既知のことが、次々に自分の中から溢れてきて、整理が追いつかない。

 これは、ああたぶん、メイウが僕に仕掛けた、記憶の封印が解けてきているのだなとわかった。

 けれども追いつかず、混乱は収まる様子を見せず、僕は仕方なく言葉にして、何とか知識を固めようとするのだった。


「そうです、ここは元々は第四地球『イグディシア』でした。その崩壊と、強力な夢幻化作用によって……いや、反発が出たのかな? うん、巧く思い出せません。ともあれ、夢幻化によって惑星が崩壊したのは……いや、夢幻化させたのは崩壊を防ごう、いや、先延ばしにしようとしたのでしょうか? ……わかんない。でも、結果、こうなりました」


 混乱したままの思考なので、物事は纏まらない。導き出された結論も、また混乱に拍車を掛けることになる。


「どんなに強力な夢幻化作用でも、その有効範囲は精々第四地球の惑星圏を出ることはない。だから、なのかもしれません」


 この世界は閉じている。

 どんなに外に出ようとしても、それ以上は行けない。

 現実は、狭いのだから。

 まるで檻の中に閉じ込められているみたいだ。

 だからそこから出ようとする。

 現実世界を目指す。

 レナは、すべての世界を現実に返すと言った。


 ――すべての世界、だ。


「僕の世界だけじゃありません。レナの図書館は、八番目の神の書を作ろうとしたけれども、それは失敗し、彼女は産まれませんでした。だからレナは未だに図書館の中に囚われたままです。彼女が一番、閉じ込められていることを知っています。本だけでしか、彼女は外の世界を知りません。ゆえに憧れをますます募らせます」


 僕はベッドから起き上がる。


「世界の運命が破壊された瞬間、人々は客観の視点を失いました。運命の女神の仇を成り行きで討つことになったトキは、最終的にその仕事を肩代わりすることになりました。しかしやはり元々人間の精神にはそれは荷が重たかったのでしょう。結果、トキの世界は再び崩壊して、こうなりました」


 美音を見る。


「エセルとレイの世界はもっと単純で、ただ世界同士がぶつかって、喧嘩しただけです。人見知りの子供同士のように、初めての出会いで衝突して、それを未だに二人は引きずっています。それは世界同士の衝突によって世界が崩壊しても、変わりませんでした」


 美音に右手を伸ばせば、美音は僕の手を握った。交互に、指を絡め合わせるように。


「クランとカミエは、よくわかりません。前に『次元の旅人』と自称していたので、多分そうなのでしょう。今の夢世界にも、彼女の気紛れで立ち寄っただけなのかもしれません。けれども、レナとは親友同士と言っても良いほど、友好関係を築いているみたいですけどね」


 僕たちみたいにと笑うと、美音は軽く首を傾げた。


「……そして、メイウは」


 僕は一拍を置いて。


「……


 美音は眉をしかめた。


「それは……、まだ記憶を奪われている?」


 その問いに僕は首を左右に振ります。


「僕は元々、彼女の正体を知らないのです」


 そう。八人の中で、彼女だけが正体不明だ。

 言語能力が不自由というか不可思議というか不安定で、意志の疎通が難しかったと言うこともある。けれども、まったくコミュニケーションが取れなかったわけじゃないのだ。まったく何も知らないというのは、メイウが隠していたからなのか。それとも、彼女自身も知らないからなのか。

 どこか苦々しげに、美音は言った。


「今度の休み、一緒に鳴兎に逢いに行くよ」


 僕の右手と指を絡ませたまま、どこか苦々しげに美音は言った。


「……うん、別にそれは良いんですけれど、あんまり意味はないんじゃないですか?」


 どうせ僕はまた次の世界へと旅立つのに。

 そりゃあここのメイウが本当はどうなのか、気にならないわけじゃないけれども、この世界の事情と夢世界の事情は違うだろう。別の夢世界での敵対が、この世界でもそのまま適応するとは思えない。むしろ問題提起をすることによって、変な凝りになっちゃうのもイヤだな。

 そんなことを考えていたけれども、美音はひどくおかしな顔をした。

 不思議そうな、呆れているような、哀れんでいるような、そんな色んな感情が入り交じった顔だった。

 僕は正直、嫌な予感しかしなかった。


「ひょっとして、気付いていないの?」

「な、何をですか?」


 今日は本気で僕、少し調子が悪いのかもしれない。いや、調子が悪いのは『ユキ』ではなく藤堂由樹UK_FLOAT_TYPE.TS0014の方だ。いや、藤堂由樹の方が、これが常態のような気がしてきた。うん、藤堂由樹はユキの中でも色々とスペックが低いのかもしれない。


「あのね、ユキ君。あなたは何で、まだなの?」

「…………は?」


 それはどういう意味なのか、考えようとして、気付いた。

 美音の言葉が虚しく、僕の耳の中を流れて行く。


「あのね、どこかの夢世界で『ユキ』がら、あなたはそこに移動するのでしょう? でも、今日はなんで『ユキ』のままなの? もう、昼近いよ?」


 今朝目を覚まして、僕はずっと、今の僕のままだ。

 はここにいて、どこにも行っていない。

 昨日はあんなに次々と転移して行ったというのに。


 そうして次の日も、僕はのままだった。

 その次の日も、そしてまた次の日も。


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