line.06 『織峯渡季』



 ゆうらりと流れる波に揺られ、漂っていた。

 ただ流れに任せて身を委ねていた。

 自分の意思ではなく、また誰の意思でもなく、ただかつては何か意味があったのかもしれない想いの欠片が、偶然により幾重にも重なり、混ざり合い、ゆえに創り出された壮大な、意味によって形作られ、意思を無くした力の流れとなった。

 その流れに従い、時折様々な意味の欠片を拾い上げる。

 拾い上げられた欠片は――漂うその中で、意味のある形へと構築され、再び意思を獲得する。

 そうして生まれた意思は、流れに漂ったまま、待つ。

 いつかどこか、流れの行き着く先で、また流れから零れ落ち、打ち上げられたどこかの岸辺で、何か意味のあるものになることを、ただ、待つ。


 何かに耳元で囁かれたような気がして詩亜は目を覚ました。

 けれども開けた視界に入ってきたのは薄暗い部屋。見知らぬ天井。

 寝惚けたようなぼうっとした頭のまま体を起こすが、部屋の中には誰の気配もなかった。


「ここは……」


 つぶやいた瞬間、くらりと目眩がした。

 鈍い、とても鈍い痛みが、頭全体に広がっているような気がした。

 この感覚には覚えがある。

 睡眠時間を削った一夜漬けの試験勉強の後、いつも起きる時間になり、学校へ行かなくちゃと自覚した時に気付く、自分の頭が働いていないという自覚。何か頭に詰まっているような感覚はあるのだけれども、詰まりすぎていて、渋滞していて、巧く働いていないと自覚した時と同じ感覚。


「ああ、そういうこと」


 詩亜はうなずいた。

 自分はとても膨大な情報を知ってしまったのだけれども、それが頭の中で詰まってしまって巧く自分自身で理解できていない。

 確かに知っているはずの情報が、絡まって、詰まって、動かない。

 でも、膨大な情報の持つ圧力に押されるように、詰まっていた知識は少しずつ動き出していく。

 そして少しずつ理解していく。

 重たい。

 頭の中はとても重たいけれども。

 詩亜は、わかっていく。

 そして、寝ている場合じゃないと気付いて、飛び起きた。


 周りを見るが、見覚えのない部屋の中。

 寝ていたベッドは豪奢な造りで、棚やスタンドライトや壁にある絵画なんかも、何だかとても高級そうな感じだ。

 牢屋とか、鉄格子の嵌められた部屋にでも閉じ込められてるんじゃないかと一瞬想像したけれども、そんなことはなかったみたいだ。何で自分がこの状況で五体満足に、普通に目覚めることが出来たのか、少し不思議というか符に落ちない気分になるけれども、どうせレナか、たぶんくん辺りが何かをどうにかして、こうにかしてしまったのだろう。

 きっとレナのことだから。

 どうせユキくんだから。

 うん、自分の中にある記憶の、膨大な量の記憶の中で、そんな文句は幾度も繰り返してきた。

 あの二人の示す結果のベクトルは別種のものだけれども、どんな状況でも適当にどうにかしてしまいそうな信頼感は同じものだった。


 ともあれ警戒だけはしておこうと、詩亜はベッドから下りた。

 服は記憶にあるままの状態で、特に脱がされたり着替えさせられたりした様子は無かった。その精で、起き上がった時に体がなんだかするような感覚があったが、ほっとして息を吐いた。

 丁寧に床に揃えられた自分の靴を履いて――さすがに靴を脱がされたことに関しては気にしないことにした――詩亜は何か武器になるものがないかと周囲を見回す。

 目に止まったのはベッドの脇のサイドボードの側面につり下げられた靴べら。黒光りする、一見して材質が何かわからない感じだが、とにかくこれはだ。詩亜はとりあえずこれをにすることにした。

 手に持って振ってみると、なかなか確りした造りのようで、わずかにがあるけれども、望み通り、空気を斬り裂いてくれるような音が響いた。


「うん、これでよしっ」


 あとは謎生物マスコットなどがいると完璧なんだけど。

 そう考えた瞬間だった。


「何が良いのだね?」


 詩亜しかいないはずの部屋に、声が響いた。

 いつの間に入ってきたのか、大柄の男が気配もなくドアの前に立っていた。

 扉が開く音はしなかったように思う。不思議に思うのだが、高級な造りのドアは、詩亜の家の建て付けが少々心許ないドアと違い、開く時に音などしないのだろうと思う。それに、ドアの音がしないこと以上に、大柄な男、織峯渡季が同じ部屋の中に立っているというのに、何の気配もないことの方が異常のような気がした。

 詩亜はわずかに息を飲む。

 その存在に気付いてしまえば、その巨漢はとてもではないが無視できるものではなかった。

 思わず靴べらを構えるように自らの体の前に持つけれども、とてもではないが大柄の男に迫られては、靴べらなんかでは何の抵抗もできないと感じられた。

 警戒する様子の詩亜を見て、渡季は深々と息を吐く。


「もう君の身に何かをするのなら、とっくにしている。それより君たちは一体何をしにここまで来たのだね?」


 その言葉に詩亜はきょとんとしてしまった。

 それは、この目の前の人物が詩亜の知る『』ならば、決して出て来るはずのない言葉だったからだ。

 ということは必然的に導かれる答えとしてはひとつだ。

 この人物は、少なくとも今は、詩亜の知るではない。

 そうなってくると現状は非常に拙い状況ではないのかと、途端に嫌な汗が流れ始めた。

 トキという存在は、おおよその世界で最強クラスの異能を発揮する異才である。

 ならばきっと、この織峯渡季という人物も、その例外ではないだろう。

 これが『』ならば、話は違う。

 自分たちが争い合うことの不毛さを知っているから。だからきっと、自ら進んで争うことはせずに、何らかの妥協点を話し合いで探ろうとするだろう。

 でも『』でないならば――、今この目の前に立っている男は、詩亜にとっての敵であり、等しく父の仇でもあった。


 ああ、そうなのだ。

 この目の前の男は、父の仇なのだ。

 そのことを改めて理解しても、詩亜は何も感じなかった。

 いや、そんなことはない。

 深く心の中を覗いてみれば、目の前の紳士の皮を被った狂人に対して、深い憤りを感じるし、憎しみもある。

 けれどもそれらはひどく水で薄めたかのように希釈され、詩亜の中へと広がって、完全に理性の下に、思考の下に隠れている。

 ああもう、自分は綾瀬詩亜ではないのだな。

 詩亜ではなく、詩亜を含んだ、より大きな意思に組み込まれてしまったのだ。

 詩亜という存在の記憶は確かにこの体の中に詰まっている。けれどもその感情と意思は、すでにより大きな意思に飲み込まれて、希釈されてしまったのだ。

 消えてしまったわけじゃない。

 その感情と想いは薄く、途轍もなく薄く、広がっていっただけ。

 広がってしまった想いを集めてまたひとつにすることはできるだろうけれども、それにはとても強大なエネルギーが必要であることを、詩亜は知っていた。


 この状態を何と呼ぶのか、詩亜は知っていた。

 何と呼ばれているのか、詩亜は思い出していた。


 ――覚醒。


 綾瀬詩亜は、今、ひとつの大いなる存在へと覚醒を果たしている。

 その手法が、ユキの『夢渡り』に便乗するという他力本願なのが少し微妙だけれども、それ以外の手段を詩亜が採るには世界に深刻なダメージを与えかねないから仕方がない。


 詩亜はそれを何と呼ぶのか、知っていた。

 何と呼ばれていたのか、思い出していた。


 ――エセル。


 ある世界では魔法少女と呼ばれ、ある世界では世界の第三紀を創世した女神として知られる、魔法を統べる意志である。


「ほう……? 顔付きが変わったね?」


 感心した声が流れる。

 声は響かない。

 空気に溶けていくように、自然に染み渡っていく。


「……思い出しましたから」


 絞り出すような声は、何かを押し留めるような、ひどく抑えたものだった。

 詩亜は靴べら型のステッキを横に振るう。

 空気を軽く斬り裂く音が短く響いた。

 織峯渡季の表情は変わらない。

 大人の余裕というか、とても落ち着いた感じで、詩亜のすることを見ている。

 詩亜は顔をわずかに俯かせ、表情が見えないようにして、静かにほくそ笑む。


 スイッチを入れる。

 誰かが言った。

 並行世界なんて、存在しない。

 正確に言うならば、並行世界は理論上ならば存在できるが、互いに観測することはできず、情報の授受も不可能である。

 それはすなわち、もう、ある意味、ていうか完璧に、というか徹頭徹尾というか、完全無欠に、うん、どんな修飾子も不適切だと思うけれども、とにかくそんな感じに、存在していないと、同義、まったく同じ意味なのだ。

 だが、それは逆に言えば――、詩亜たちが渡る夢の世界群は、夢を介して情報の授受を可能にした世界群は、そう、それを可能にする程度しか離れていないのだと言える。

 物理的な問題ではなく、物質的な問題ではなく、概念的な問題ともちょっと違う。

 あえて言うならば主観的な問題、だろうか。

 詩亜は専門家ではないのでよくわからない。

 どこかでそれを専門的に研究している人がいるって話も聞かないから、ひょっとすると人類でそれを真に理解している人なんて、どこにもいないのかもしれない。

 けれどもわかるのは、その世界は並行世界ほど、存在しない世界ほどには、離れていない。

 存在している程度にしか、離れていない。


 だから、無から有を作ることなんかに比べたら、それはよっぽど楽なことなのだ。

 そうして詩亜は、呪文を唱える。


第三の女神エセルシアの母――ラ・シエル・ネイアの名において命じます――光よ、成れ!」


 その瞬間、部屋の光量が一瞬減衰したように思われた。

 真っ直ぐ水平に伸ばされた靴べらステッキを持った詩亜の右腕が、仄かに膨れあがったように見えた。

 そんな錯覚ともつかない一瞬の出来事の後、ゆっくりと詩亜の右腕が渡季を指した、その時。


 ――ステッキの先から七色の光が放たれた。










 こうしてその本――『丘の上の洋館の異端な科学者』はまるで連載が打ち切られたかのように唐突に終わっている。

 その本はシリーズではなく、続刊が出ているわけではない。

 一巻の売れ行きが悪かったので、続きは発刊されなかったのかもしれない。

 というか、内容が変わっている。

 元よりこの本は、『丘の上の洋館の異端な科学者』という物語の数年前、前日譚を描いた番外編のはずだったのだ。だが、色んな人が、外部からちょっかいを入れたことによって内容がまったく変わってしまった。そもそもこの作品は本来、本格要素も含んだサスペンスミステリーのはずだったのだ。そうなのだが、どうしてファンタジー要素が入っちゃってるんだろう。いきなり並行世界なんてSFちっくな概念に加えてさらに魔法少女なんてものまで出してきてしまって、この作者は一体何を考えていたのだろう。イロモノというか、何だか途轍もなく地雷臭しか感じない。

 うん、つまりは、駄作だ。

 一巻で打ち切りとなるのもやむを得ない。

 前日譚のはずなのだが、本編すら発刊されていない。

 なぜか、この本からは『前日譚』の文字が削られていて、本来の本編の題名そのままで発表されている。

 というより、発刊されたのが奇跡のような代物だ。

 編集は普通、止めないのだろうか?

 きっと、企画とか色々なしがらみがあったりしたりして、発刊せざるを得なかったのだろう。色々と不幸な話だ。編集にとっても、作家にとっても、何より読者にとっても。

 しかし結果、この本は発刊され、今現在、《この図書館》に蔵書として存在している。

 裏表紙に書かれたあらすじ……というか内容説明が本来の本編にままになっていて、実際に収録されているストーリーがまったく違っていようとも。意図のわからない伏線ばかり敷き詰められて、まったく何も完結せずに打ち切られようとも。とにかくこの本は存在してしまっていて、ここにある。

 その先が存在しないのは、ただ私の手の届かない場所に行ってしまったからってだけの話。

 作者の胸の内か編者の構想の内か、夢か現実かはわからないけれども、それは決して存在しないわけではない。

 ただそれは、私の感知できない場所にあるということだけは、事実なのだ。

 私の決して知ることのない物語のその先。

 それは私にとって、存在しないことと等値であり、それはまた、私にとって既知であるこの世界群と、存在しないと規定されたどこかの並行世界と同じ関係性のようである。

 ようするにここで私が言いたいのは――


 私の読めなくなったその物語『丘の上の洋館の異端な科学者』の続きの世界は、夢すらも飛び越えて、決して情報の授受が、ありとあらゆる手段において不可能である世界――並行世界の向こう側へと消えてしまったのだ。

 それは謂わば、この世界で言う『現実』とは『別の現実』へ行ってしまったということ。


 羨ましいことだと、私は思う。

 きっとその瞬間をあの世界で迎えた登場人物である綾瀬詩亜は、この夢に囚われた世界群から抜け出て、その先へと行くことができたのだろう。その詩亜が、たとえ無数に存在するエセルの意志の、ほんの一部にすぎないとしても。

 この現実になり損なった夢世界群――【Somnia】は、常に危機を迎えている。

 無数の世界群が互いに互いを夢へと貶めようとしていて、常に足を引っ張り合っているために、ひとつとして現実として安定できる世界はない。存在しない。

 最も基底部にあるとされている夢世界【ARBOS】にいるが、無の霧、夢の霧へと沈み込もうとする世界群を無理やり引っ張り上げることにより浮上させ、奇跡的なバランスを持って、現状を維持している。し続けている。


 ――そう、現状維持だ。


 決してすべての世界群を安定的に浮上させて、確固たる現実へと固定させることに――意図的に成功したことはない。

 今回のそれも、そんなイレギュラーのひとつと言えるだろう。

 だから私は、この後の綾瀬詩亜の行き先について、何も知らない。

 彼女たちが無事屋敷から抜け出して、織峯渡季と何らかの決着を付けたのか――知らない。知り得る術はない。

 ユキの言う所、それはすでに別の物語ですらなく、ただの別の現実。

 別の現実という並行世界の存在は、繰り返すがこの世界からは理論上、観測できないゆえに、存在できないのと同じ。


 私は、レナ・グリムは、息を吐く。

 ここにいないもうひとりの私――【ARBOS】のレナの最終目的は、すべての夢世界群を並行世界の向こう側――観測できない世界へと導き、現実にすることである。

 その為にレナの【お茶会】は活動し、夢の霧に堕ちそうになる夢幻化世界群を浮上させることに、日々邁進している。

 夢世界を現実世界へと導く方法は幾つか確立されている。

 けれどもそれを意図的に行うことは、現状できずに、夢に堕ちるのを辛うじて防ぎ続けているのは、単純にマンパワー不足、人手不足が原因だとされる。

 レナは、自分たち以外の人員がいずれどこから現れることを期待しているけれども、メンバーの大半は否定的に見ている。それよりも、理論的、もしくは技術的なブレイクスルーがどこかで起きて、すべてを解決してくれる時が、いずれ訪れるんじゃないかと、そちらの方を期待しているようにも思える。

 レナはそちらも否定はしない。

 夢世界群は広大であり、彼らにもすべては、とてもではないけれども把握できていないし、そんな時間もない。

 夢世界それぞれの中でもまた、様々な形で技術の進歩があり、そこから未知の技術が日々生まれてきていることも確かなので、現状を打破する技術がどこからか転がりおちてくる可能性も意外に高いのかもしれない。

 けれども今の彼らに出来ていることは、現状維持だ。

 夢に堕ちそうになる世界群をどうにか押し留めて、浮上させ続けている。


 ――そこに、今回の事件だ。


 誰かが夢を渡り、意図的に世界を掻き回し始めた。

 それぞれの世界は不安定となり、不安定となった世界は少しずつ現実から乖離して、夢の霧に堕ちそうになる。

 彼らはそれを防ごうと奔走し、そして手が回らなくなり、いくつかの世界は零れ落ちて夢の霧に沈んでいってしまった。

 一度沈んでしまえばもう二度と浮かび上がることはできない。

 それは今私のいる


 私は、霧の下からすべての世界を見上げている。

 二度と浮かび上がることのできない、無の霧の底、夢の霧の奥から。

 すべてが壊れて、滅びてしまった、このの中から。

 完成しなかった第八の写本レナ・グリムとして、ここにいる。


 ここから霧の上に聳え立つ巨大な樹を見上げて、すべてのレナに向けて本を送っている。

 私はもう、ここから抜け出せないけれども、いつか、あなたたちの誰かが、この夢の世界を抜けて、現実世界へと浮かび上がることを、ただ祈って。


 だから私は、本を棚に戻して、最後に口ずさむ。

 歌うように、囀るように。

 いつもの言葉を――



「さあ、目を覚まして」

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