fragment/line.05 『丘の上の洋館の異端な科学者』
別に定義的に間違っていようとも、状況が一般的に言われる、いわゆる『並行世界』と酷似しているのならば、もう別に『並行世界』で良いんじゃないかって思うけれども。
どこかの世界のメイウも『並行世界』って言葉を使っていたし。
しかし言葉を操らないことに掛けては右に出る者がいないメイウにとって、言葉の定義の錯誤によって攻撃を受けるのは致命的なんじゃなかろうかと思うのだがどうだろうか。
ただでさえ理解不能な彼女の言語が、定義の曖昧な言語を採用することにより、さらに渾沌とした状況を成していく。
もはや誰の追随も許さない。
まあ、もっともの所、追随する者なんてどこにもいないのだろうけれども。
大丈夫なのかね?
他人事のように、僕はある世界では姉だったこともある彼女のことを想った。
そんな寝惚けた頭のまま目が覚めた僕は、ともあれ頭を抱えた。
――どうしよう。
今まで色んな状況に置かれて、その都度混乱していたけれども、僕は僕として、何とか折り合いを付けてその世界を乗り切っていた。
しかし今回ばかりは本当に、どうしようもない。
目が覚めて自覚する。第三者的に自分の立場を自覚する。
この世界に於ける僕は、悪人である。
正確に言えば、悪人の家族であり、物語的に言うと、黒幕の手下そのいちだ。しかもある程度の自由を与えられた幹部クラス。
もっと具体的に言えば、この
うわあ。どうしよう。さすがにこんなケースは考えていなかった。
そんな嘆きさえ、どこか空虚に感じられるほどのどうしようもなさ。
第三者的な視点――別世界の『ユキ』の視点を得て、僕は
何やってるんだお前はと。それでも僕なのかと。
けれども僕の中の
「おはよう、ユキ。目が覚めた?」
そんな僕に掛かる、幼い少女の声。
レナだ。
これまで色んな場所で存在を予告されていたけれどもなかなか出会うことのなかった少女、だと思う。たぶん。
確信が持てないのは、今まで僕がレナと会ったことがなかったからなのだろう。
レナの方の僕に対する態度が親しげというか、なんか確信めいたものになっているのは、レナにとって僕は、よく知った存在であるからなのだろう。
目が覚めたそこは、屋敷の二階にある僕の自室だった。
どこかの高級ホテルを思わせる造りは、今まで暮らしたどの自室よりも豪華なものだったが、今の僕には何だか落ち着かないもののように感じられた。
僕はベッドに、服を着たまま寝ていたようだった。
直前の行動を思い返す。
確か、レナと一緒に来たもう一人の少女、綾瀬詩亜が、何の警戒もなく当たり前のように睡眠薬入りのシャンパンを飲んだのを見て、慌てて僕も同じものを飲んだのだった。
兄がシャンパンに睡眠薬を入れていることを、僕は知っていた。
何せ食事を用意したのは僕自身だったし、兄はすでに僕に対して自らの悪事を隠すようなことはしなかった。僕に罪悪感があり、未だに色々な事を躊躇っていると兄は知っているのだが、すでに一蓮托生であり、逃れられないこともよく知っていたからだ。
見回すが、部屋の中にはレナ以外に誰もいない。
詩亜はどこへ行ったのかと首を傾げていると、その内心を読んだかのようにレナは笑みを零した。
「詩亜は別室で寝てるよ。まだね」
その言葉に疑問符が浮かぶ。ほぼ同時に睡眠薬入りのシャンパンを飲んだんだから、僕が目を覚ませばそろそろ詩亜も目を覚ます頃合いじゃないかと。
「詩亜とあなたは条件が違うよ。あなたは、私が起こした。ほら、睡眠薬からの目覚めにしては、いつもとかわらないでしょう?」
言われて気付く。そうだ。どんな種類の睡眠薬を飲んだのか、その詳細な知識は僕にはないけれども、無理やり寝かされて起きたにしては、今の自分の寝起きは普段の目覚めと何も変わらない。
いつも朝、日常的に行っている目覚めと、そして、ユキとして数々の夢世界を渡って、新たな世界に来た時の目覚めと、何も変わらない。薬から目覚めたのだから、もっと体というか頭とかに何らかの違和感があるものなんじゃないだろうか。
「……レナ、君が?」
体を起こしながら訊ねると、レナは嬉しそうに笑った。小さな体をとことこと走らせ、僕の方に駆け寄ってきて、ぴょんと飛び跳ねるようにして、ベッドに腰掛けた。僕のすぐ隣に、寄り添うようにして座る。
僕はぎょっとする。
無防備な、あまりにも警戒のない態度である。
僕は、この世界に於ける僕は確かに悪人であり、そのことをレナ自身も知らないはずがないというのに。
まるで何も知らない幼女のように、その前身から溢れているのは僕に対する好意のように思われた。
レナについて――水口麗奈について、僕が知っていることは少ない。
そのほとんどが兄である渡季からの又聞きである。
なんでも海外に拠点を持つ名士の孫娘であり、彼女自身も幼いながらもある種の影響力を世界に対して持っているのだとか。
ただのちょっとませた幼女なんかではなく、それどころか大人以上に警戒するべき、一種の化け物であるらしい。
はっきり言って意味がわからない。意味がわからないが、その事について兄は非常に真面目に語っていた。ゆえに冗句でも何でもなく、事実なんだと僕は認識した。実際にこの屋敷を訪れたレナは、確かにただの幼女には出せるはずもない、不可思議な存在感を全身から溢れさせていた。
――と、そこまでが織峯遊季の知ること。
僕にとって、ユキにとってのレナとは、また別の意味を持つ。
僕は覚えている。
かつてどこかの世界で、メイウによって予告された八人の存在を。
いや一度聞いただけだし、メモなんかも残せるはずがないから、正直の所、八人の名前が何だったのか曖昧な部分もあるのだけれども。
でも「レナ」と。
その名前だけはメイウが特に強調していたように思うから耳に残っている。
その名前は、僕がこの奇妙な夢渡りを始めるはめになった、原因と考えられる八人の容疑者のうちの一人。そしておそらく、あのメイウの口ぶりから言うと筆頭格。
これはひょっとして、いきなりラスボスというか、黒幕が現れたってことなんじゃないか?
「さあ、答え合わせをしましょう」
幼い容姿に似合わぬ、艶然とした口調でレナは言った。
得も言われぬ存在感に、僕は気圧される。飲まれそうになるのに反抗するように、僕は声を上げた。
「君は何をするつもりなんだ?」
それでも相手が幼女とあってか、僕の声はずいぶんと抑えたものになったと思う。
しかしその声に含まれた忌避感に気付いたのだろう。レナはわずかに眉を寄せて不審げな表情を作った。
「何をって……、とりあえずこの世界の物語を崩そうと思うのよ?」
「……どう言う意味なんだ?」
「だって、トキ君がこれだけあからさまに悪役やってるのなんて、この世界くらいなものだもの。そりゃあ、トキ君は立場的に悪役になりやすい立ち位置にいるけれども、それは悪の四天王の五番目とか、直接は関わりの無い資金提供者とか、そんな裏方的な立場が多かったんだもの。明らかにいつもとやっていることが違うから、裏に何か別の目的があってカモフラージュしてるんじゃないかって思ったわ」
「…………は?」
「だから物語の本格的な舞台が整う三年後より前に干渉して物語を壊そうとしたのよ。トキ君の弟として悪に手を染めるユキ君を、まだ引き返せるこの段階で舞台から引きずり下ろしてやるのだわ。ユキ君は例によって目立った動きはないけれども、けれども実は、誰にも代替できない重要なピースなのだわ。だからきっと、それだけで物語は崩れるはず、でしょう?」
何を言ってるのかさっぱり意味がわからなかった。
いやもちろんメイウみたいに単語が異次元とか、文脈が繋がっていないとかではなく、ただ前提条件としての情報を僕が知らないゆえにの無理解である。
レナは楽しそうに話している。
そしてその答えを、まるで僕が知っているかのように同意を求めてきているのだ。
――何か変だぞ。
ユキは思った。
話がとても、ひどく、噛み合っていない。
何だかお互いが前提条件として持っているはずの情報に、何だか齟齬があるみたいだ。
「ちょ、ちょっと待ってレナ。ちょっと、良いか?」
まだ話を続けようとしているレナを、僕は慌てて止めた。
レナは不思議そうな顔をして、僕を見ている。
僕は答えた。
「レナ。僕は、君が、何の話をしているのかわからない」
真剣に目を見てそう言った。
レナはきょとんとして、目をぱちくりと瞬いた。
そしてこくんと、可愛らしく小首を傾げた。
「……わからない? どうして?」
「どうしてって、何がどうしてなんだ?」
問うとますますレナは不思議そうに僕を見て、首を逆方向に傾ける。
「あれ? ユキくんだよね? ほら、夢渡りをしている」
「…………君の言うその『夢渡り』とやらが、夢から醒めても夢で、その夢から醒めてもそれもまた夢で、と延々と夢から起き続けることによって世界を渡っていることならば、そうだよ」
「…………あれ? なのにどうして私の言ってることがわからないの?」
ええと?
僕は記憶を思い返して見ても、レナとここ以外の世界で直接会った記憶はなかった。
「この前『最果てのフェアリーテイル』の世界で会ったじゃない。ほら、ユキ君は共和騎士団帰りの元騎士で、私はそのペットの鳥」
鳥って……おい。
なんか、すごく心当たりがあるぞ。
「……いや、確かにあの白い鳥の名前は『レナ』だったけれども、何だその『最果てのフェアリーテイル』ってタイトルみたいなのは」
「タイトルみたいっていうか、タイトルそのものだけども……あれ? 何だこれ?」
「何だって……何がどうだって言うんだ?」
「あれ? ユキ君本当に忘れてる? てか寝惚けてる? ……にしては夢渡りを自覚しているっぽいし……どうなってんの?」
「どうなってるって言われても……さっぱり現状を理解してないんだけど……」
唖然としたようにレナは口をあんぐりと開けて、僕を見てくる。
いや、唖然とされようとも、呆然とされようとも、僕にはどうしようもないんだけれども。
なんだろう、このぐだぐだ感は。
自信満々に「答え合わせをしよう」とか言われたのだが、僕にはそもそも問題が何なのかすら正確に、明確に理解しているとは言い難い。
この夢を渡っている状態が、どうにも拙い状態らしいということは、どこかの夢の中でメイウから聞いた問題。その時の話により、なんとなく理解したような気にはなっているけれども、たぶんそれはそうなっているだけで、僕自身に危機感はなく、実感も薄い。けれどもなぜかレナは、僕がレナと同じように問題を熟知していて、その解決に当たろうと共同で動いていると思っていたようなのだ。
「え? どうして? 何で?」
それは僕のセリフだ。
本当に何がどうなっているのか。
「そもそもさっきから『物語』だの『タイトル』だの、何なんだ? この世界が本の中の世界だとでも言うのか?」
「え? もちろんそうだけど?」
何を当たり前の事を聞いているんだ、みたいな目をして言われた。
……そうなのか。この世界は本の中の世界だったのか。
どうりて巨大ロボットだとか魔法少女とかが当たり前のように出てくると思った。
「さっき、三年後って言ってたのは……」
「この世界の物語が始まるのは三年後で、今はまだ物語が始まる前の前日譚ってことよ」
「どんな話なんだ?」
「違法な研究を進める科学者が、引き籠もりながらも世界に対して重大事件を起こした、って話みたいよ?」
たぶんその科学者ってのが兄の渡季のことなのだろう。世界に対して重大事件を起こしたというが、僕の知る限り、今の所兄がやっているのは違法な人体実験とそれに付随する殺人である。確かにそれは重大事件なのだろうけれども『世界に対して』という形容はかなり大げさにすぎるのだろう。だからたぶんその物語は、レナの言う通り、三年後、もっと先の話なのだ。
さてと。
僕は頭を抱える。
突然、自分のいる世界が本の中だと言われて、納得出来る人がはたしているものか。
それはいくら思い当たる節があろうとも、とても同意できるものではないし、実感することもできない。
だが僕の悩んでいる様子を見てか、レナはあっけらかんとした口調で明るく言うのだった。
「あ、でも誤解しないでね? この世界が本の中だってのは、私にとってはの話よ。私以外の人にとってはまた別問題だし、きっと現実なんでしょう。いえ、ユキ君にとっては、夢かしらね?」
その言葉はストンと僕の中に落ちてきた。
この世界が夢の中だってのは、これまで散々経験してきてもはや言うまでもないことだった。
けれどもそれは、僕に限って言えることで、それぞれの世界で生きている彼らにとっては紛れもなく現実だっただろう。
真っ先に思い浮かぶのは一人の少女。
僕の親友であるとても明るい少女。
僕とは違い夢の記憶を持たず、けれども多くの世界で僕の『親友』という立ち位置で存在し続けている少女。
――ミオにとっては、どの世界だろうとも現実で、僕とは違い、その世界にちゃんと立って生きている。
僕にとってそれは夢の中の出来事、夢幻にすぎないのだとしても。
「……ということは、この世界はレナにとっては本の中の出来事だとしても、僕らにとってはそうではないと?」
「う、うん……その通りなんだけど、ユキ君、本当に忘れてるんだね?」
うーん。レナの言うところ、この情報は本来僕にとって既知であるものらしい。
よく考えてみれば、突然夢渡りを始めたと自覚し始めるというのも何だかおかしい。
どうにも自覚はないのだけれども、世界の危機的な何かがあって、それに対処するためにこの夢渡りを始めたらしいので、そこに自らの意思が介在しているのならば、そのことを覚えていなければ仕様がない。だというのに、今のこの僕はこの状況がどうして引き起こされているのか、それを知らない。自覚なく、ただ夢を渡り続けていて、その度に訪れた夢の中でただ右往左往しているだけなのだ。
好い加減に落ち着きたいのだけれども、どうすれば落ち着けるのかわからない。
僕は状況に流されるまま、次々と転職を繰り返して安定しないフリーターの如く、ただ夢を次から次へと渡り続けるだけなのだ。
「それ以前に自分が何で、どういうことができるのかがわからないというか……レナは、この世界が本の中だってことは、これから何が起きるのか知ってるのか?」
本の中に入るってことはそういうことなのだろうと思ったのだが、レナは意外にも首を左右に振って否定した。
「まだ
「……夢が崩れるって」
どういう意味なのか、よくイメージができなかった。
「夢が夢じゃなくなる。物語が物語じゃなくなる」
「……それって、この世界が消えるってことか?」
レナはきょとんとした表情をしたと思ったら、すぐに笑った。
「そういうことじゃないの。ただ、私たちに干渉できなくなるだけよ。この世界は、物語は、夢は、この閉じた空間から抜け出して、開けた世界へと旅立つわ。かつて私たちが普通に暮らしていた外の世界にね。今の私たちがどうしても抜け出すことのできない、現実になりきれない、仮定現実世界群の外に」
「仮定現実世界群?」
「うん、あなたが言い始めたことよ? ユキ君。『この世界群は現実と仮定された限定的な夢なんだ』ってね」
「……覚えていない」
「そんなことまで忘れちゃったの? 今は状況が悪すぎて現状維持しかできないけれども、私たちの最終目標でしょう? この閉じられた、可能性の限定された世界から抜け出して、外の世界に帰還するってことは」
外の世界って一体何のことだ。
また、新しい情報が出てきたぞと僕は頭を抱えたくなる。
どこもかしこも、どの世界でも、おおよそ常識とは掛け離れたような情報が次々と当たり前の事のように平然と出てきて、僕の中で理解する前に、消化してしまう前に、さらに新たな情報が折り重なるように、畳み掛けるように出てきて、理解を追いつかせない。
でも何だろう。
なぜだろう。
僕はそれを知っている。
そう感じている。
レナは語る。
「私たち八人は、放っておくと霧の中に沈もうとする世界群を浮上させようとした。けれども力及ばず、現状維持しかできなかった。だから他の誰かの手を借りようと、待った。新たな可能性が出て来るのを、現状維持して、ずっと待っているの」
混ざると危険。夢渡りは夢同士を混ぜる手法。混ざった夢は実体を取れなくなって、やがては無の霧に沈んでしまう。
そんな言葉を思い出した。
いつの言葉かは、例によって思い出せない。
夢世界へはメモを持ち込むことができない。
だから聞いた言葉はすべて僕の記憶の中にしか残らない。
本当にそんなことを言ったのか、一語一句間違いないのか。難解な、理解し難い物事であればあるほど、わずかな時間で記憶は愛昧になって、かつて確かに納得いったと思った現象ですら、確証を持った実在として実感できなくなってしまう。
すなわち、現実が夢幻と化すが如く。
レナが羨ましい。彼女の場合は本に残るのだから。体験したことを後からいくらでも読み返して確認することができる。
その後という時間が一体いつなのか、僕にはさっぱり理解しようがないのだけれども。
「……現状維持」
「そうよ。私たちには現状維持しかできていない。でも、世界に立ち向かえるのが決して私たちだけだとは思わない。だから私は、私たちの知覚の外からこの世界群を安定的に救ってくれる人が現れるのを期待しているのよ。それは私たちではない九人目かもしれない。既知の誰かかもしれない。そういう意味で、ユキ君のミオさんにも、少し期待しているのよ」
「……ミオに?」
この世界には知り合いにそれっぽい人はいないけれども、多くの世界で常に僕の親友である女の子のことだ。
「あなたと彼女の関係性はとても面白い……って、こんな話も昔したよね」
僕は覚えていない。
「記憶にない?」
こくんと首を傾げるレナの問いに僕はただ頷くことしかできなかった。
「じゃあ、誰がユキ君の記憶を奪ったのかしら?」
知らずに体が大きく揺れた、ような気がした。
「……記憶を奪う?」
「だって、どう考えたっておかしいもの。私はユキ君が問題解決の鍵となるって思って、夢渡りに送り出した。いつかどこかでユキ君が辿り着く場所――そこが決戦の場所だって思っていた。だからこの世界で、本来登場人物にいなかったはずの『織峯遊季』と出会えたから、間違いないって思ったもの」
「……それが初めの『答え合わせをしましょう』ってセリフ?」
「うん、私は犯人のミスリードに引っかかったんだと思う。完璧にね。折角準備を整えて、詩亜と一緒に乗り込んできたのに」
そこで僕は忘れていた、レナと共に来たもう一人の客の存在を思い出した。
「そうだ。綾瀬、詩亜だったっけ? 先日亡くなった綾瀬先生の娘さんだってことだけど……何者なんだ?」
綾瀬時頼。亡くなったというか、兄が殺したんだけれども。現在、この世界に於いてそれを証明する手段は兄自身しか持ち得なくて、ゆえに完全犯罪が成立してしまっている。僕はそれを証言できるけれども、物証はない。証言したところで、兄に見捨てられて終わるだろう。そんな犯罪を、兄は幾つも犯している。それを僕は知りながらも、ただ傍観しかできない。ただ出来ることは、一人一人の犠牲者のことを、確りと記憶に留めておくことだけ。どうやって兄と関わり、どうやって死んでいったのか。僕は、綾瀬時頼という翻訳家のことを、よく覚えている。どんな仕事をしていて、どんな暮らしをしていたのかを。だから当然、そのひとり娘のことも知っていた。
その娘。綾瀬詩亜。
彼女の存在を僕は知っているのだけれども、ここに来て彼女がレナと関わっているってことは、そんな表面的なことじゃ実は何も知らないに等しいんじゃないかと気付く。
うん、色々と甘いというか迂闊というか、あっさりと何の疑問も持たずに睡眠薬入りのシャンパンなんかを飲んでしまい、どこにでもいるようなごく普通の少女のようなのだけれども、たぶんレナか連れてきたのだからきっとそれだけではない。と、訊いておきながらも僕はなんとなくその正体を推察しつつあった。
「詩亜はエセルよ。私たちがそう呼んでいる子。ユキ君も知っている子よ」
それは何度か話に出てきた、八人のひとり、ということなのだろう。
そのわりには何も知らなさそうな感じだったのだけれども。
「まだ覚醒前だけれどもね。たぶん、起きたらきっと、目覚めてるよ」
何だか夢だとか、本の中の世界だとか、また違うニュアンスの言い方だと思った。
「ユキ君がいて、トキ君が悪人で、あたしもいて、詩亜――エセルがいる。私の従者にはカミエがいて、その兄はクランだし、エセルのクラスメイトにはレイもいる」
つらつらと並べられた言葉。
並べられた名前。
数えれば当然気付く。
「ひとり、足りない?」
ああ、いない。すぐに気付いた。気付いたその名前が意識に登るより早く、レナは問い掛けてきた。
「ねえ、ユキ君が夢渡りを自覚するようになって、初めて会ったのは、誰?」
それは八人の中で、初めて会ったのはということなのだろう。
「……メイウ」
答えがわかっていたのか、レナは困ったように嘆息した。
「そう。欠席裁判というか、休みの人にクラス委員を押し付けるような感じでいやなんだけど、たぶんそうね、真犯人は――――」
その先の具体的な言葉を、僕が聞くことはなかった。
なぜならばその瞬間、どこかの世界で別の僕が目を覚まし、僕の意識もまたそこに引っ張られて去ってしまったのだから。
そして色々と中途半端になってしまったけれども、未来が変わったというこの世界に、夢から外れたとされるこの世界に、物語が崩壊してしまったこの世界に、僕の意識が還ることは二度となかった。
そして、真犯人の弟という重要なポジションでありながら、三年後の本編において主要登場人物になれなかったという『織峯遊季』の運命を――――察して、僕は哀しんで良いのやら、そんな世界から離れられたことを喜んで良いのやら、とても複雑な気分になるのだった。
それはもはや別の物語ですらない、ただの別の現実なのだ。
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