line.04 『伊月零』
綾瀬詩亜と会ったのがいつの頃だったのか、伊月零は今も覚えていない。
ただ同じクラスになり自然と関わるようになってすぐに、気にくわないヤツだと思うようになった。
綾瀬詩亜は目立つような存在じゃない。
大人しめの性格だし、いつも教室の隅で本を読んでいるという印象は、クラスメイトの誰もが共通して持っていた。
なのになぜか目が離せなかった。
嫌悪感と言うほど強くはない。
ただ単に気にくわない。
そこに存在していること自体が気にくわない。
きっと相手が物語の中の人間だったり、ブラウン管の向こう側の人間だったりしたらこれほど気にすることはなかったのだろう。
好意も悪意も抱かず、ただその存在を普通に受け入れることができただろう。
同じ学校に入り、同じクラスになってしまった。
ただ同じ場所に存在してしまった。
――その時から、彼女の存在は零にとって、到底許容し得ない存在となったのだった。
そうしてその事実は零にとってではなく、綾瀬詩亜側にとっても同じようだった。
普段大人しくて本を読んでいるような少女が、零に関わるごとに活動的になる。大人しく静かなはずの少女の口から途切れなく飛び出てくるのは伊月零に対しての理不尽なまでの暴言。理屈でもなく感情でもなく生理的なものでもない。自分自身にも理解できていない理由から互いに相手を否定し合う気持ちが生まれてきて、理由がないゆえに口から零れるのも、自分自身すらも理不尽であると断じざるを得ない文句なのである。
どうして綾瀬詩亜がそんなに気にくわないのか。
初めの頃は自分の感情の動きが自分自身でもわからず、それに振り回されて悩んだこともあった。
必要以上に構ってしまうことから、ひょっとすると自分は綾瀬詩亜のことが好きなんじゃないだろうかと疑ったこともあった。
今でも理由はわからない。
ただ気にくわない。
しかし理由はない。
そして嫌いではないのだ。
無理やり客観的な視点に立てば、綾瀬詩亜のことは良いやつだと思う。
顔立ちも美人とは言えないが、まあまあ見られる顔だし、大人しいから目立つことはないが、地味に愛嬌もある。なんとなく「あの子の良いところに気付いているのはクラスの中で俺だけだろう」とクラスメイトの半分くらいに思わせるような、隠れ美人的な雰囲気を持っている。たぶん雰囲気美人ってヤツだろうとは思うのだけれども。
きっと本来ならば、モテるのだろう。
だが零との関わりにより、周囲に与える性格を徹底的にまで破壊された少女はモテることはない。
本来ならばクラスメイトの中に埋没するような大人しい目立たない少女は、毎度毎度の零との衝突により、非常によく目立つ、口が悪く喧しい少女になってしまった。
一部の誤解により、ツンデレなんて称号も得てしまっている。
だけどアイツは違う。
詩亜は本気で、零の存在を拒否している。それは零の方も同様だ。
周囲がどのように評価しようとも、その事は決して変わらない。
零と詩亜は、決して同じ場所にいることはできないのだ。
存在それ自体が反発し合っているのだ。
彼女の父が死んだという。
綾瀬時頼という、本名がペンネームでもある彼は作家であり、その死は尋常成らざるものだったと噂された。
何やら怪奇ものやスリラー小説にでてくるような、それは異常な死に様だったらしい。
聴いたことのない漢字ばかりで構成された病名も、何やら意味の掴みにくいものであり、ゆえにその死に関しては実に様々な想像が、無秩序に、そして素早く広がっていった。
通夜にも葬式にも零は参列しなかった。
学校代表として何人かの生徒や教師が参列したと言うが、零はそれに呼ばれることはなかった。
むしろ「お前は絶対に行くな」との生活指導の教師の言葉は、普段の零と詩亜の関係をよく、そして正しく知っているからこそ出たものだろう。
当然、零としても参列するつもりなど初めからなかったし、普通にただ、可哀想だなと半分以上他人事のように感じただけだった。
キャッチャーな話題を振りまいていようとも直接面識のない人物の死は、零にとって画面の向こうの他人事の話だ。
たとえ零とは並々ならぬ関係のある、あの詩亜の実の父の話題であろうとも。
零は意識せずに。
――いや、意識しないように振る舞って。
――――いや、意識しないように意識して、振る舞った。
「ふーん。あいつのオヤジさん、死んだのか。それは気の毒に。だからアイツ、学校休んでるんだな。よかった。数日だけだろうが、しばらく平和だな」
気のない様子を意識して、一度だけそう呟いて、あとは一切そのことを話題に出すことはなかった。
不謹慎というか失礼というか、これまでの確執のこともあって、それは零にとってギリギリの、何かを抑えた言葉だった。
その振る舞いが成功したのかしなかったのか、わからない。
けれどもそれ以上、零の前で詩亜のことが話題に上ることがなかったのは、確かなことだった。
偶然だった、と零は思っている。
けれどもぼんやりしていたからといって、普段通らない道をわざわざ通ったのはどこかで彼女の、詩亜のことを気にしていたからではないか。そう思う。
毎週通っている塾の帰りだった。
ふと顔を上げると、見覚えのありすぎる詩亜の姿があった。
見知らぬ、幼稚園児くらいの幼い少女と共に、坂道をゆったりと歩いていた。
いつも通りの、どこか気取ったような詩亜の表情を見た瞬間、ごく素直に、気に入らないと感じた。
その事にどこか安堵する自分を不思議に思いながら、零は声を掛けたのだった。
「これからデートか?」
それからの会話はいつも通りの詩亜との会話だったように思う。
いつもと変わらない、何があっても変わらない。たとえお互いの立場や心情が変わったとしても、自分たちの関係性は決して変わらない。
そう断言できてしまいそうな、そんな永遠性を感じさせる会話だったと、零は思う。
最後は「悪の研究所」に乗り込むなどと言う、人を煙に巻くような言葉で締められてしまったけれども、これはいつも通りだと、零は安心していたのだ。
だからそのまま自宅に帰ろうと思った。
この様子なら、明日からもきっと同じようにできると、手応えをつかんだから。安心したから。
そうして丘の上にある住宅街、さらにその外れにあるという、零でも知っている有名なお屋敷に向かって駆けていく二人の少女を見送った。
ぼんやりと。
昔から、丘の上に住宅街ができる前から在ったという洋館は、幽霊屋敷として有名だった。
数年前、改装工事があって建物が綺麗にリフォームされてからはそんな噂も下火になったのだが、どこかの大学に勤める研究者が所有しているという話が流れてからは、元々あった怪しげな雰囲気と妙に混ざり合ったのか、謎の組織に寄る秘密の研究施設なのだという、訳のわからない話になっていた。
何をしに行くのかわからないけれども、きっともう大丈夫なのだろう。
父の死に対して詩亜が何を思ったのか、何を感じたのか、それは零にはわからない。
けれども今の詩亜はいつも通りの詩亜だったから、零は安心して――、
何を感傷に浸ってるんだかと自嘲して――、
詩亜の消えた丘へと背を向けて、雨が降り出す前に家に帰ろうかと――、
――一歩踏み出そうとした時、道の先に変なモノを見つけてしまった。
薄暗い、ほとんど陽の落ちた道。
街灯の明かりに照らされて、白いエプロンドレスが光を反射して浮き出るように目立っている。
真っ直ぐな黒髪は闇に溶けるようで、白っぽい肌は逆に世界から浮き出ているようにも感じられた。
それは少女だった。
存在感があるような、ないような、目立つような、目立たないような、ひどくアンバランスな印象を醸し出している少女だった。
一瞬、幽霊でも見たかのように、零の心臓が跳ねた。
だが次の瞬間、それはとても幽霊には見えず、どこにでもあるような存在に思えた。
だが、街中で当たり前のようにエプロンドレスを、それもどこか古めかしい、メイドというよりは「女中」と言った響きが似合うような格好をした少女がいるというのは、不自然にもほどがあった。
よく見ると中々の美少女だった。
少女はゆっくりと道を歩いて来て、零の方へと向かってきていた。
いや、零の方に向かってきているのではない。きっと少女は丘の上、住宅街の上の方へと向かっているのだろう。
丘の上には例の洋館がある。
リフォームされたとはいえ、元々の造りは古い建築様式の洋館だ。
そんな家ならば、少女のようなメイド姿でも、きっと違和感がないのだろう。
そんなことを思いながら少女がゆっくりと歩いてくるのを、零はその場に留まって見ていた。
そしてさらにぎょっとする。
少女の後を長身の男が付き従うように歩いていることに今気付いたのだ。
長身の男は存在感が薄かった。
まるで意図的に街灯の明かりを避けているかのように、その存在は常に影に入って薄れさせていた。
男は細身だが非常に長身だ。ぱっと見だが一九〇はあるんじゃないだろうか。
そんな存在に今まで気付かなかったことに零はアンバランスな少女の存在以上に驚いていた。
そしてなんとなく、この二人は丘の上の洋館へ向かっているのだろうと確信していた。
二人が近づいて来た時、零の存在を認めた少女の表情がわずかに不審そうに歪んだ。
思わず注視しすぎてしまったかと慌てて零は顔を背ける。だが零が視線を外したその瞬間、笑うような、花のような声が零れ落ちた。
「こんばんは」
はっと顔を上げると、少女は零を見て微笑んでいた。どこか親しみのある、暖かな笑みだった。
後の男は少女の影に隠れて見えない。
――そんなはずはないというのに、見えない。
零は再び心臓の音が大きくなるのを感じた。
「こ、ここっ、こんばんはっ」
盛大にどもってしまった。
羞恥に顔を赤らめると、くすりとおかしそうに笑う声が漏れ聞こえた。
「ふふっ、レイさんも来ていたんですね? まあ、シアがいるので、当然と言えば当然ですが」
そして、よくわからないことを言った。
「――は? 詩亜が、なんだって?」
突然出てきた天敵の名前に、零は素に返って声を上げる。そんなレイを面白そうに見やり、少女はくすりと笑みを零した。
「丁度良い機会なので、一緒に行きましょうか?」
「は? どこへだよ」
一方的に意味のわからない話をする少女に反感を覚え、零の返答も少し反発の混じったものとなる。
少女はそんな零の様子を理解しているのかどうなのか、さして気にした素振りも見せずに不敵に笑うのだった。
「もちろん、この世界に於ける黒幕の居城――悪の研究所ですよ」
そのフレーズは先ほど詩亜が漏らした言葉と同じものだった。
何なんだこいつらはいきなり。
突然出てきて、何を言い始めるんだ。
一方的なわけわからない言い分に、零の不快感は増すばかりだ。
「お前ら、一体、何なんだ? 誰なんだよ?」
怒鳴るように言うと、少女は想定外のことを言われたかのようにきょとんと目を丸くした。
そしてしばし考えるように顎に手を当てて視線を明後日の方に向けるが、すぐにうなずくと大仰に手を広げて応えた。
「私は――、そうですね、どうせすぐ思い出すことに対して言葉を費やすのは時間の無駄のような気もしますが、あなたはシアと連動しているので、どうせ思い出すのはもう少し先でしょう。無知のまま誘導するのは難しいでしょうし、ならば当たり障りのないこと程度ならば、情報を言葉に出すことも、色々な意味でストレスの軽減になって良いかもしれませんね? うん、あなたに教えるのも吝かではありません」
どうしてだろう。
少女は人に遣える、給仕服を身に着けているというのに、その言動はどう見ても上から目線であり、零を見下しているような雰囲気だ。
だからこそ苛つくのだが、零は思うのだ。こんな喧嘩を売っているかのような物言いの少女の言動でも、あの綾瀬詩亜の存在ほどには零を苛つかせはしないのだ。
こんなのでも詩亜の存在よりはマシだと思えてしまう。
詩亜の存在がなければ、零はとっくにこの少女に対して切れていて、怒鳴るか、もしくは無視して帰宅してしまっていただろう。
しかし、不意に少女はふわりと笑った。
邪気のまるで無い、柔らかな笑みだった。
「……冗談ですよ? うん、ええと、申し遅れましたが、私の名前は
まるで浮かび上がるかのように、エプロンドレスの裾を両手でつかんでの大仰なお辞儀。
自らの存在を誇示するような大きな動作に何か圧せられるものを感じて、零は何も言葉を返すことができなかった。
香美絵は右手を上に掲げて、自らの背後を指して言う。
「こっちは、私の兄である
影のように少女の背後に付き従う長身の男を指し示したが、男は小揺るぎもしなかった。
会釈することもなければ、零と目を合わせることすらしない。何の反応もなく、また相変わらず目の前で見ていても影のように薄い存在感に、一瞬零は、人形かロボットでも見ているような気分になった。
そうして少女はさらに言葉を続ける。
「……とは言っても、あなたも知っての通り、私と黒蘭には血のつながりはないんですけれども」
当然ながらそんな事実かどうかもわからない話を零は知らない。
そもそも初対面の挨拶に、なぜに既知の情報があると思うのか。
零もよく知る詩亜とどうやら知り合いらしいけれども、詩亜と零は顔を争えば喧嘩ばかりの犬猿の仲であり、そのプライベートはお互いに一切知らないはずだ。詩亜にどんな知り合いがいてどういう交友を結んでいるのか、学校での接触する範囲であれば多少はわかるし、思い当たる面もいくつかあるけれども、一歩校外へ出てしまってはさっぱりとわからない。だから詩亜の知人であるはずのこの少女の兄妹事情など、零が知るはずもないのだ。
なのに当たり前のように言ってくる少女に、言葉ではなくてその存在に、何か気味の悪いものを感じた。
思わず後退る零の動きを見たかのように、一歩、さらに少女は接近してきた。
「あ、あんた……詩亜とはどういう関係なんだ?」
「シアさん? この世界での関係は、隣人、ね?」
少女が一言、言葉を口にする度に気持ちの悪さが膨れあがる。
思わせぶりな言葉。
傍点でも振られているように、妙に頭の中に残る言葉がある。
この世界って、どの世界だ?
そんな自分でも意味のわからない疑問が、零の中で生まれる。
そしてそれを察したかのように、少女はさらに気持ちの悪い言葉を継ぎ足していく。
「そもそもあなたの方がよくご存じでしょう? 『シア』という名前は彼女の存在を示す記号の一部にすぎないって。本当の名前は別にあるって。あなたはいつも彼女を別の名前で呼んでいた。憎悪の含まない、純粋な、単純な、敵意を持って。いいや。むしろ逆かも。あなたが敵意を持って接しているがために、彼女はそれになった。本当はどんな因果関係を持っているのか、あなたたちではない私にはわからないけれども、だとすると、そうだとすると、あなたの存在はとても罪深いものなのかもね。それもあって無意識の内に、あなたたちは互いに敵意を抱き合っているのかもしれない。…………なんてまあ、戯れ言に過ぎるかしら?」
熱量すら持っているかのような気持ちの悪い言葉に、零はただ圧せられる。
その様子を観察するように、興味深そうに少女は見て、薄く微笑む。
見下されているのだ。
何も知らないと、嘲笑われているのだ。
明らかに害意に近い敵意を持って言葉をぶつけられているのだ。
だがどうしてだろう。
それほどの強い敵意をぶつけられながらも、その言葉はただ気持ちが悪いだけで、零に何の感情も与えることはなかった。
いや、正確に言えばそれも違う。
零の中に敵意はある。
根深い、決して消えない敵意が。
気持ちの悪さの原因はわかっている。
少女の言葉が、少女の口から零れ落ちたものであることは明らかなのに、それによって生まれてくる零の感情は、敵意は、どうしてかすべて、詩亜に向けられるものだったのだ。
詩亜に腹が立つ。気に入らない。すぐさま声を上げて口喧嘩を始めたい。
なのにその対象になるはずの詩亜はここにはおらず、言葉すら発していない。
その齟齬が、とても気持ちが悪いのだ。
「……冗談ですよ?」
もう一度少女は微笑んで、零から一歩距離を取った。
「安心してください。もうすぐきっと、あなたにもわかりますよ。そうすれば、その気持ちの悪さもすぐに消えるでしょう」
「……何を、言って?」
「あなたの知っているはずのことを、きっと、あの子と連動して、思い出すのです。さあ、行きましょう?」
そうして誘うように少女は零に手を伸ばす。
気持ちが悪いというのに、明らかな敵意を少女に、その少女の向こうに感じる詩亜に向けているというのに、零はなぜかその手を取ってしまった。
そんな零に、少女はさらに笑みを深くする。
「……クラン、行きましょう。レナ様たちの所へ」
街外れの丘の上には洋館がある。
謎の組織の秘密研究所があるという、訳のわからない噂が流れている、洋館が。
詩亜はそれを『悪の研究所』と呼ぶ。
流れる噂からただ、冗談で言ったのかもしれない。
けれども零はなんとなく悟ったように思った。
たぶんその詩亜の言葉は、真実なのだと。
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