第七章 慈愛(ジアイ)  2 優梨

「まず、なぜ私が宮崎からここに来て話をすることになったか。疑問にお持ちだと思います」黒木の口調は相変わらず優しく穏やかだった。

 瑛も落ち着き払っている様子で言った。

「黒木……さんでしたっけ。あなたが僕に用事がある理由は分かりませんが、宮崎県と聞いてどこか遠い記憶が蘇ります。少なくとも僕は宮崎県に行ったことがあるような気がするんです。優梨さんを助けに行くときに、道中でたまたま見たフェニックス並木。あれを見てどこか懐かしさを感じたのです。何でそう思ったか分からない。正確には、優梨さんを助け出すことで頭がいっぱいだったから思い出す余裕なんてなかったのですが、あそこで感じた既視感は気のせいではなかったのでしょうね」

 瑛は『優梨さん』と言った。どこか違和感を感じたが、ここには優梨の家族がいるから、呼び捨ても『ちゃん』付けもそぐわないからであろう。

「瑛くんの言う通りです。君は宮崎に来たことがあるのです。君のお母さん、緑さんに連れられて。それは、君と私に、瑛くん自身も知らない共通点があるからです」

「知らない共通点……」

「それは血液型に関することです」

 優梨は、これから語られようとする瑛にとっての新事実に、当人がどう感じるかに興味を示した。そして、この不思議なからくりがどのようにしてこの事態を招いたのか、いよいよ答えが明かされるのだと思うと、武者震いせずにはいられなかった。

 黒木は続けた。

「ここからは医学的、生物学的な話題になります。大病院の院長でもある大城先生を差し置いて若輩者の私が説明するには、僭越せんえつなことだとは思いますが……」

 そう言うと、黒木は義郎を一瞥いちべつした。

「ここでは、やはり当事者であるあなたから瑛くんにメッセージを伝えるのがいちばん良いと思うのです」義郎はひと呼吸おいてからそう言って、語り部役を黒木に委ねた。

「分かりました。では申し訳ないんですが、ホワイトボードとかありますでしょうか?」

「あります。看護師さん、病棟のムンテラ室から持ってきてください」

 ムンテラとは『ムントテラピー』の略で、患者や家族への病状説明のことである。病棟には、多くの場合で病状説明用の部屋がある。

 看護師によってその部屋からホワイトボードが運ばれてくると、さっそく黒木は説明を始めた。

「今回の事件もしかり、これまで瑛くんの人生を大きく動してきた様々な出来事の多くには、実は血液型が絡んでいます。そこで、まず血液型のお話をしたいと思います」と前置きしてから黒木は話し始めた。「血液型はABO式血液型が最も一般的です。誰しもがA、B、O、AB型のどれかに分類されると思います。しかし、それ以外にもいろんな血液型の分類方法があるのはご存知でしょうか?」黒木は瑛に尋ねた。

「Rhプラスとかマイナスとかは、生物の授業で聞いたことがあるような気がします」

「その通りです。ABO式の次によく知られているのが、Rh式血液型です。Rh陽性/陰性は、一般的に赤血球上のD抗原というものの有無で分けています。抗原とは、簡単に言うと、ここでは赤血球上に乗っている目印のようなものです。抗原とそれに対する抗体は互いに結合します。体内で起こっている免疫反応も同じ原理です」

 黒木はホワイトボードに簡単な絵を描いて示し始めた。そして続けた。

「Rh陰性の方は日本では200人に一人と言われており、レアな血液型です。ここで問題になるのは、Rh陰性の女性がRh陽性の子供を二回妊娠したときです。一回目の出産で母体にD抗原に対する抗体、つまり抗D抗体が産生されるので、二回目の妊娠で胎盤を通じて胎児の体内で抗原抗体反応、いわゆる溶血を起こします。これが血液型不適合妊娠です」

「溶血……」

 黒木はマーカーで『溶血』という文字を書いた。それに瑛が反応したのだ。黒木はなおも続ける。

「Rh陰性の方も珍しいのですが、それでもまだ200人に一人です。ちなみに海外ではもっと陰性の方は多いと言われています。そこまでマイナーではありません。私に言わせれば序の口です」

「他にも、血液型があるんですか?」

「そうなんです。それ以外にも実はたくさんの血液型の分類方法があります。抗原の種類で数百種類とも言われています。それに伴いたくさんの稀な血液型が存在します。代表的なものとして、pスモールピー-D-バーディーバーK0ケーゼロなどといったものです。これらはおそらく広くは知られていない血液型でしょう。瑛くんも初耳かもしれません」

「……ええ、どれも聞いたことのないものばかりです」

「さらには、A、B、O、AB型のいずれにも当てはまらないと言われる血液型があります。それが、瑛くんと私の共通点」

「共通点……それは一体何でしょうか?」はじめは無関心そうだった瑛も、徐々に耳を傾け始めていた。

「世界で100万人に一人、日本ではたった数十人しかいないと言われる、レア中のレアな血液型『Bombayボンベイ型』と呼ばれる血液型の持ち主が、君と私なのです。ちなみに、インドの都市『ボンベイ』、今はムンバイと呼ばれるようになりましたが、そこで発見された血液型なので、そういう名前がついたそうです」

「ボンベイ型? 何ですかそれは? 僕はO型って言われています」瑛にしては珍しく、少し苛ついた様子で聞いた。確かに、四人で初めて栄で会ったときにも水族館デートのときにも、瑛は自分の血液型をO型だと言っていた。

「きっと、そうだと思います。どういうことか、ボードに描きながら順番に説明します」

 そう言うと、また黒木はホワイトボードマーカーを手に取った。

「赤血球上に抗原があることはお話した通りです。A型の人はA抗原、B型の人はB抗原、AB型の人はその両方を持ち、O型の人はその両方を持っていません。このA抗原、B抗原は赤血球の表面、つまり血球膜にダイレクトにくっついているわけではなく、糖鎖とH抗原と呼ばれるものを介在して、その先にA抗原やB抗原が付着しているわけです」

 黒木は、黒、赤、青、緑さまざまな色のマーカーを駆使して、赤血球の膜から上に伸ばす形で、丸や四角や三角などで、糖鎖や抗原を表現した。実に分かりやすい模式図だった。そのまま黒木は続けた。

「しかし、このBombay型はそのH抗原を持ちません。H抗原を作る遺伝子に変異をきたしてしまっているのです。なので、Bombay型ではH抗原を欠いているので、その先にあるはずのA抗原、B抗原をつなげることが出来ません。よって、普通のABO式血液型の検査ではA、Bの両方の抗原を欠いているということで、ただのO型と判定されます。瑛くんはO型と聞かされている所以ゆえんはそこなのです」

 黒木の説明はよどみなかった。まるで、今日の日のために練習してきたかのようであった。

「僕はO型ではなかったのですか……」

「Bombay型はO型のしゅとも言われますが、本質的にはまったく異なるものなのです。知っていないと時に大問題を引き起こしかねません。それは一体何なのか? まず、輸血の問題です。例えばA型の人にB型の血液を輸血できないことは有名でしょう。それはA型の人には抗B抗体があるからです。抗体と言うのは、生体内に侵入した異物を認識してそれを破壊するような役割を持ちます。A型の人が持っている抗B抗体が、B型の輸血血液中のB抗原と反応し、赤血球が破壊される。これが、先ほども出てきた溶血と呼ばれる現象です。しかも先ほど挙げたD抗体は、Rhマイナスの人にRhプラスの血液を輸血してから生じる後天的な抗体なのに対し、ABO式の血液の抗体は自然抗体といって明らかな抗原感作を受けていないにも関わらず体液中にはじめから存在する抗体、つまり生まれながらにして持っている抗体なのです。よってABO式の異型輸血は、初回の輸血から溶血を起こしてしまうのです」

 黒木は『溶血』の文字を丸で囲って、さらに説明を続ける。

「A型の人は抗B抗体、B型の人は抗A抗体、O型の人は抗A抗体と抗B抗体の両方を持ち、AB型の人は抗A抗体と抗B抗体のどちらも持たない。しかし私たちBombay型の人間は抗A抗体と抗B抗体の抗体に加えて、もう一つ抗体を持っています」

「もう一つ?」

「抗H抗体と呼ばれるものです。その名の通りH抗原に対する抗体です。抗H抗体を自然抗体として持っているBombay型の人間に、普通のA型、B型、O型、AB型の血液を輸血するとどうなるか。A型、B型、O型、AB型の赤血球にはH抗原もくっついていますから……」

「溶血が起こる」

「その通りです。よってBombay型の人間はBombay型の人間の血液しか輸血できないのです。Bombay型であることを知らずに、自分はO型であると思ってO型の血液を輸血すると、大変なことになります。異型輸血は死を招く可能性もあります」

 優梨は一応知識として知っていることとは言え、改めて解説を聞くと、恐ろしさに思わず戦慄わなないた。当人の瑛は意外なことにあまり表情を変えず落ち着いているように見えた。黒木はさらに続ける。

「さらにもう一つ。Bombay型の人間には、常識を覆すような一見不可解な現象をもたらすことがあります。まるで神様の悪戯いたずらのような……これが瑛くんの悲劇そのものなのです」

「神様の悪戯?? どういうことでしょうか?」

「それは、ABO式血液型の遺伝の法則に必ずしものっとらないことです」

「遺伝の法則に則らない??」瑛は驚いたように目を見開いた。

「そうです。一体どういうことか」そう言うと、黒木はホワイトボードを消して、新たに表と図を描き始めた。

「ABO式血液型は複対立ふくたいりつ遺伝子で、A型の遺伝子とB型の遺伝子が同等に優性遺伝子、O型が劣性遺伝子です。遺伝子型がAA、AOのときはA型、BB、BOのときはB型、ABはそのままAB型、O型はOOの時だけです。これは高校生物で習う範囲なので、知っての通りかもしれません。よって理論上、例えばAB型とO型の親からはA型かB型の子供しか生まれません」

 黒木はABO式血液型の、両親の組み合わせでどの血液型の子供が生まれるかという、よく見られる表でそれを説明した。

「そうですね。授業でも出てきました」

「しかしながら、Bombay型の遺伝子が絡んで来ると、この挙動を示さないことがあります。Bombay型はH抗原を作る遺伝子に変異をもつ染色体をホモに持つことで初めて成立します」

「ホモ?」瑛は聞き慣れない言葉に怪訝な表情で聞き返した。

「ヒトは常染色体を22対と性染色体XYもしくはXXで通常46本の染色体を持っています。そして母親と父親から一本ずつ染色体を受け継ぎます。そして遺伝子変異とは、正常とは違う塩基配列、悪く言えば傷みたいなものです。遺伝子変異があると、その遺伝子によって作られるはずのタンパクが産生されません。Bombay型はH抗原を作る遺伝子に変異をきたしています。しかし、遺伝子変異があっても片親から正常な染色体をもらっている、つまりヘテロであれば、Bombay型にはなりません。一本の正常な染色体だけで補償できるからです。Bombay型になるためには、両方とも変異のある遺伝子の染色体を継承したときのみです。これを常染色体劣性遺伝形式と呼びます」

「劣性遺伝形式……」

「瑛くんには、悲劇が重なりました。瑛くんは生まれてからO型と言われてきました。君の生みのお母さんはO型ですが、実の父親はAB型だったのです。通常はどう考えても、瑛くんはA型かB型にしかなりません。ここでBombay型が悪戯をします。実は君のお母さんもBombay型の保因者、つまりヘテロでH抗原の変異遺伝子を持っていた。そしておそらく実のお父さんもそうだったはず。そして両親から、理論上は四分の一という確率で、それぞれH抗原の変異遺伝子を受け継いでしまった。すると瑛くんはBombay型となるが、Bombay型は先ほども言ったように、通常のABO式血液型ではO型と判定されます。つまりあり得ない血液型の子供として瑛くんは誕生したのです」

「そういうことだったんですか……」瑛は初めて明かされる新事実に、驚きを隠せない様子でいた。

「ここで、さらに運が悪いのは、お母さんがO型で、お父さんがAB型だったことです。Bombay型とかcisシス-AB型とか、そのような非常に特殊な条件を考慮しない限りは、お父さんはAB型の場合に、いかなる条件でもO型の子供は生まれないのです。一方の母親はO型ですから、通常の条件でもO型の子供はあり得る。つまり父親は、瑛くんは母親が不貞行為の上に授かった息子だとかんったわけです。しかも瑛くんは……私も緑さん、いやお母さんの顔を知っているので言えるのですが、生き写しのように母親似です。それが不幸にも父親の子供でないと信じさせる後押しとなってしまったのです」

「……」

「実際には、お母さんは不貞行為などはしていなかった。しかし、疑念を抱いた父親はこっそり自分の血液型を調べてもらって、やはりAB型であることを証明した。そしてはやてんして、腹いせのように父親も不倫をしてしまった。お母さんは旦那の不貞行為を察して追及すると、逆上して瑛くんが母親の不倫で授かった息子だと主張して、離婚届を突き付けて、そのまま蒸発してしまったのです。それは瑛くんがまだ一歳のときの出来事でした」

「嘘だ!」と瑛は声を荒げた。しかし、すぐに声のトーンは小さくなった。「そんな漫画みたいな出来事が僕だなんて……あり得ない。あり得ない……」瑛も、次々と明かされる真相を、整理しきれていない様子であった。

「いや、これは真実なのです。私の血液を輸血している時点でそれは間違いないことなのです。いろいろ、やりきれない気持ちは分かります。このことを君にお話することは辛いことではありますが、でも君はどうしても知っていないといけないことなのです。特に輸血によって一命を取り留めた今だからこそ……」黒木がここに来て初めて悲しげな表情を見せた。

「大きな声を出してすみません。お話を続けて頂いてもいいですか」瑛は落ち着きを取り戻して言った。

「分かりました」そう言って、黒木は続けた。「父親と音信不通となってしまった瑛くんのお母さんは、そこから女手一つで瑛くんを育てることを決意しました。もちろん、お母さんは瑛くんをBombay型という特殊な血液型だということは、そのときはまったく知らず、不思議に思いながらも日々を過ごしていました」

「確かに、僕は母の顔しか記憶していません」

「瑛くんは、当時、どちらかと言うと内気で人見知りのする少年だった聞いていますし、私自身もそのように記憶しています。そして病気がちだった。よく風邪を引き、怪我をすればんだり治るのが長期化したりしたそうです。さらには痣の出来やすい少年だったとも聞いております。お母さんは血液型ではなく、君の体質にかなり悩んでおられました」

「あの母が……」瑛は小声で呟いた。

「そこで、お母さんは、ゆかりさんという自分のお友達に相談しました。すると、たまたま小児・障害者複合施設に勤務する研究員の友人がいて、その友人を紹介してもらったのです。瑛くんの症状と、ついでに血液型の謎について相談しました。研究所に併設の病院で検査をしてもらったところ、瑛くんは軽度の再生不良性貧血という診断が下されました。そして、血液型については瑛くんがBombay型、瑛くんのお母さんがその保因者ということが判明したのです」

「調べられていたのですか」

「そうなんです。再生不良性貧血は出血傾向が認められるので、何らかの原因で症状が重症化したときに出血が続いたりすると、輸血が必要になる可能性が生じます。その際、同じBombay型の血液しか受け付けることが出来ないこと。さらにこの血液型は100万人に一人と言われる、非常な稀な血液型であるので、輸血が難しいことを告げられたのです。稀な血液型の人は、通常、自分の有事に備えて、自己血貯血をすることが多いのです。自分の血液をあらかじめ献血しておいて、それを最大で十年まで冷凍保存しておいて万が一の事態に備えるのです。しかし、瑛くんは当時四歳で、献血など出来るはずもありません」

「それを聞いて母はどうしたのですか?」

「瑛くんのお母さんは、絶望的な気持ちになったそうです。せめて自分がBombay型であれば、自分の血液を提供できたのに、それも出来ないと、無力感を味わったそうです。しかし、お母さんは諦めなかった。今後起こるかも知れない瑛くんの有事に備えて、暗中模索でしたが自力でBombay型の血液を確保しようと、全国を奔走ほんそうしたのです!」

「え?」瑛はにわかに信じられない表情になった。

「まず、お母さんは、赤十字血液センターに向かいました。そこでBombay型の血液を有する献血登録者の情報を得ようとしました。しかし、残念ながら、個人情報の提供はできないと門前払いを喰らってしまいました。次に、同じく献血と血液製剤の確保、運搬を行っている『愛血会』という会社にもおもむきましたが、そこでもBombay型の献血登録は得られませんでした」

「そうですよね。普通は教えてもらえないでしょう」

「しかし、それでも諦め切れなかったお母さんは、もう一度赤十字血液センターに向かったのです。そこで、情に訴えて、個人情報保護の垣根を越え、Bombay型の献血登録者情報を手に入れたのです」

「えっ!? 教えてもらったんですか!?」

「母の情は個人情報保護の壁を取り払いました。ただし、Bombay型の献血登録者情報は、そのレアさゆえに、日本全国といえども十数人しかありませんでした。そこから何とお母さんは、近いところから一軒ずつお願いに回ったのです。しかしながら、Bombay型の患者さんも、自分が何かあった時のために大切にストックした血液を簡単には赤の他人に提供できないと、厳しい言葉を突き付けられてしまいます。中には全面協力は出来ないけど、少しなら協力できるという方もいらっしゃったそうですが、お母さんの望んでいたのは、できれば瑛くんが生きている間、できればずっと献血を保証してくれる人だったのです」

「そ、そんなこと……」

 瑛は言葉を詰まらせたが、黒木は話をそのまま続けた。

「実はそうすると、おのずと条件はしぼられてしまいます。例えば九十歳のおじいさんにはお願いできないでしょう。若い方、全身疾患のない方、感染症などのない方、できれば歯が健康な方……全身疾患、感染症、歯の状態までは、もちろん献血登録者の情報からは分からなかったと思いますが、おそらく若い方であればその可能性が高いと思ったのでしょう。そこで、当時二十歳の大学生だった私に白羽の矢が立ったのです。そして瑛くんを連れて、私の住む宮崎にまで来られたのです」

「それがデジャヴの正体か……」瑛は確認するように言った。

「宮崎はフェニックス並木がいたるところにありますからね。君が既視感を感じても何ら不思議ではありません。しかし、飛行機に乗っていきなりアポイントなしで宮崎県にある私の下宿先に訪問してきた瑛くんのお母さんを、恥ずかしながら、最初は非情にも追い返してしまいました。当時、私は慈善行為にまったく興味がなかったのです。私もはじめはただのO型だと思っていました。私の場合、偶然にも両親ともO型なので、自分がO型であることを疑う余地はまったくなかったのですが、たまたま面白半分に献血を体験したときにBombay型ということが発覚したのです」

「母はその後どうしたのですか?」

「瑛くんのお母さんは、いったんは名古屋に帰りました。しかし、諦めずまた宮崎に行く計画を立てたのです」

「なぜに? もっと近いところにいたでしょうに」

「それは私にも分かりません。緑さんが求める条件の人が他にいなかったからなのか、もっと他の理由があったからなのか……」

「……」

「しかし、ちょうどそのとき、お母さんの身の回りに異変が起こり始めました。お母さんは何かと街中で声をかけられることが多くなったのです。その内容はやたらと息子、つまり瑛くんのを探ろうとするものでした。怪しく感じたので、問いかけには応じず、そのままシラを切ってごまかしたのだそうです。すると今度は尾行されたりすることが多くなったのです。そして、とうとう職場にまで押し掛けてきて、一人になった瞬間、お母さんは拉致されました」

「ええ!?」この声は瑛だけではなくて、他の人からも上がった。急激な不穏な展開にざわつき始めた。

「拉致した組織は『生命探求の会』と呼ばれる宗教団体で、愛血会とはまさしく蜜月みつげつの仲の組織です」

「生命探求の会……以前にも聞いたことがあります。これもどこで聞いた情報かは思い出せなかったけど」

 ここで、優梨、瑛、風岡、陽花の四人が先日話した内容が関わってきた。しかし、十年以上前にもさかのぼるとはさすがに思わなかった。そう言えば、四人で集まったときに、瑛は、どこかで聞いたことがあると言っていたのを思い出した。この時の出来事が脳内の片隅に残っていたのだろうか。

「生命探求の会は、ここ名古屋を中心に活動しております。若者の血液を献血することによってアンチエイジングを図ろうとしており、大規模ではないながらも、四、五十代の女性を中心に会員を増やしています。その概要は、若者の血液を輸血するとアンチエイジング効果がある、というもの。眉唾まゆつばものだと思いましたが、実際に医学研究で名のある国際ジャーナルで報告されています。アンチエイジングというのは具体的に骨格筋、心臓、神経細胞に効果を示すのだそうです。美容にも効果を示すかは分かりませんが、生命探求の会の会長を名乗る女性が実際にそうだったそうですから、そういう効果もあるかもしれませんね。この研究は、医学に新しい可能性を示す素晴らしい研究なのは間違いありません。しかし、この会が問題なのは、ヒトでの安全性や効果が証明される前にさんな管理で営利目的に使用していること、さらには献血用に採血された血液、言わば自己犠牲を払って誰かの救命のために提供したを血液を無断で横流ししてきたことなのです。言ってしまえば悪徳団体です。愛血会で輸血用に採血された献血のうち、特に若者から採取したものを、生命探求の会は勝手に不正転売させて、会員に膨大な金額で提供していたのです。そして、その利益を愛血会と共有していた」

「なんてことを……」

「お母さんは愛血会にBombay型の情報を得ようとして相談を持ちかけた。それをきっかけにして、裏で繋がっている生命探求の会に情報が行き渡ったのでしょう。生命探求の会は稀血まれけつであるBombay型の血液を狙っていたんです。それによって、お母さんは組織に一度はさらわれてしまったんですが、何と自力で脱出しました。しかも何よりも息子である瑛くんの安否をいち早く確認したいあまり警察へも通報しなかった」

「警察に言わなかったのですか?」

「それが親心と言うものです。まぁ、独身の私がそんなこと言っても説得力はありませんがね」黒木は自嘲気味に言って苦笑した。

「それでどうなったんです?」

「お母さんは、宮崎に行く二度目の計画を早急に練りました。今度は宮崎にマンスリーマンションを借りて、現地で働きながら私を説得するという作戦です。これは、説得に時間をかけられるとともに、私の情を突き動かすにももってこいの行動でした。そりゃそうでしょう。献血のお願いをするために、わざわざ宮崎に瑛くんを連れて一緒に来て、住んで働きつつ、うちに来て説得に来るんですから。さすがに断ることは出来なかったです。根負けですね。しかもこの行為によって、組織からの攻撃をまぬがれることも出来ます。この宮崎の滞在は、説得と避難という二つの目的があったのです」

「それで宮崎の記憶が頭に残ってるのか……」瑛は独りごちるように言った。その表情はどこか悲しげであった。

「そうかもしれません。正味一か月、宮崎に滞在していたわけですから。そこで、私は彼女の情熱に押され、瑛くんのために一生献血すると約束したのです。だから私は自分の緊急用のストック以外にも、たびたび献血に訪れて、身体が許す限り、献血に行きました。そして得られた赤血球濃厚液、濃厚血小板、新鮮凍結血漿の各種血液製剤は冷凍保存にして愛知県に送ってもらっていました。これが君の母親である、藤井緑さんの功績です。緑さんが私に頭を下げに来たからこそ、君は助かったのです。それを分かって欲しかった。君のお母さんは瑛くんを心から愛していたんです」

「……そうだったんですね」瑛の目は涙ぐんでいた。「僕は母のことが嫌いでした。自分は母に捨てられて、それから僕の人生はおかしくなってしまったと思っていました。憎んでいました。それは誤解だったのですね」

「そうです。君の安寧だけを生き甲斐に、頑張って来られたのです」

「母さん、ごめんなさい……本当にごめんなさい」

「その言葉が聞けて良かったです。それだけで、私まで救われました。ここで最初の話題に戻りますが、これがまさしく『愛』とは何かという問いの答えではないのでしょうか? 一言で置き換えるなら『いつくしみ』や『自己犠牲』と呼ぶものだと私は思うのです」

「なるほど。その通りですね……」

 瑛の涙につられるように、黒木の目にも涙が浮かんでいた。そして気付くと風岡も陽花も優梨の家族たちも目を潤ませていた。そして気付くと、優梨自身も視界が滲んでいた。

 無理もない。自分の命を救うべく東奔西走とうほんせいそうしていた瑛の母。それをどういう因果か憎む形で誤って捉えてしまっていた瑛。その母子おやこ間の齟齬そごが十年以上もの時を経てひょうかいされたのだ。

 しばらくの沈黙の後、瑛は口を開いた。

「でも僕は、影浦家に養子として入ることになったんです。それは一体どういうことなんでしょうか? 母はどこかにいるのでしょうか?」

 ハッとしたように、黒木は少し驚きの表情を見せた後、すぐに悲しげな表情を見せた。同時に隣にいた、義郎も似たような表情を見せた。

「この話の続きはとてもとてもまわしく聞くに忍びない出来事です。それを承知で聞いてくれますか?」

 いつの間にか、会話が二人だけの世界になっているようであった。それだけ、黒木は瑛のことをずっと気にかけていたのだろう。

「はい。真相を教えてください」

 瑛の声は揺るぎなく、凛とした目で黒木を見据えていた。

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