第七章 慈愛(ジアイ)
第七章 慈愛(ジアイ) 1 優梨
重症個室には、患者である瑛に加え、ベッド脇には風岡、陽花、優梨、優梨の父でセンター長の義郎、母の祥子、弟の純祐、足達医師、しろとり学園の施設長、病棟の看護師、そして黒木がいた。狭い部屋であり、人口密度はかなり高かった。風岡の買ってきた大きな花や、輸液バッグをぶら下げた点滴棒や、念のため取り付けられた心電図モニターが、居所をなくしたように部屋の片隅に追いやられていた。
外は相変わらず、蝉がうるさく鳴いているようだった。天気は非常に良くていかにも暑そうだが、木々がなびいて、適度に風を感じる光景であった。窓越しの景色からそれが伝わってきた。
どこからか子供が遊ぶ声も聞こえてくる。そうだ、今は夏休みだったか。
それまで当たり前のように過ごしてきた、夏休みの平凡な日常から、一転して生死を彷徨う事態になるまで
去年までは、いや正確にはつい一週間程前までは、平穏な夏休みだったのが、一瞬にして、ほとんどの人がまず経験し得ないような劇的な局面を迎えたのだ。そんなことを果たして想像できただろうか。
そんなと非日常的な世界と、窓ガラス一枚だけ隔てた向こうに広がる日常的で平和な世界。優梨はそのギャップに違和感を覚えずにはいられなかった。
しかし、これまでと同様に、自分自身の体温を感じ、鼓動が聞こえ、涼しい空気が肺胞を膨らませ、五感が神経線維を伝って正常に脳を刺激する、普遍的で変わらない世界をとてもありがたく感じていた。
一方で、瑛が優梨と同じように感じているか分からない。今はそんな余裕はないだろう。おそらく言えるのは、彼にとって目の前に現れた黒木という男の存在は、非日常的な存在なのかもしれなかった。
瑛は、どことなく落ち着かない様相で、病室に入ってきた黒木の顔を見て言った。
「あ、あなたは……た、確かどこかで……」瑛は一生懸命思い出しているようだが、頭を抱えている。しばらく考え込んでいた。
「ごめんなさい、分かりません」やはり思い出せなかったらしい。
優梨は過去の瑛や夕夜との会話から、黒木と思われる男の情報を思い出そうとしたが、さすがに分からなかった。
「見覚えがありますか。でも思い出せなくて当然です。何故なら、君と会ったのは、君がまだ四歳の頃だったから」
黒木の表情は穏やかで、口調も優しかった。
「四歳……」一方で瑛の顔が少し曇った。優梨は瑛の表情から、少なくとも男を歓迎しているようには見えなかった。
「そうです。今日はこれからそのお話をしたいと思ってこちらまで伺ったのです。せっかくお友達も一緒の中、いきなり割り込んでしまって申し訳ないんですが、どうしても話さなくてはいけないのです」
表情を変えずに黒木は言った。その目はまっすぐ瑛の方を見つめている。そして、その発言とまっすぐな眼差しから、何か瑛にとって非常に大切な情報を含んでいることが示唆されているようであった。それは今まで、影浦瑛を十六年もの間に構築してきた価値観を覆すくらい、大きなものになるような気がしてならなかった。
「一体どんなことでしょうか?」
瑛は神妙な面持ちで黒木に問いかけた。黒木は表情を変えずに答えた。
「単刀直入に言うと、あなたのお母さんのことです」
「え!?」瑛には少しだけ目尻を吊り上げた。
「突然ですが、『愛』って何ですか、と訊かれたら、瑛くんはどう答えますか?」
「あ、愛ですか!?」瑛は黒木の
「そういう風におっしゃる方もいるかもしれませんが、私は違うと考えています」黒木はあっさりと否定した。
「え?」
「人を好きになることは、言わば『恋』ではないでしょうか? 主に男女の関係で使われる表現だと思います。では親子の関係ではどうでしょう。人を好きになるというのは、ちょっと表現としては適切ではないと思います。あと、常にそばにいて欲しいことが愛なのでしょうか? 『愛』というものはもっとも、好きだとか物理的な願望とかを超越したものだと思います」
「……」
「君のお母さんは、まさにその答えを教えてくれたのです。お母さんの話題となったときに、君があまりいい思いはしないだろうということは実は予想していました。でも君がそのときまだ四歳で、誤解があったのです。とにかく順序立てて、説明していかなければなりません」
そして黒木は周りを見回して続けた。
「これから話す内容は、実は少し聞くに堪えない内容をも含んでいると思います。もしそう言うお話が得意でないというなら、申し訳ありませんが、少しだけ席を外して頂いた方が良いのかもしれません。でもその前に、瑛くんが他人に聞かれたくないようなら、ここでは話さずにまた後で改めて君だけにお話に来ますが……」
「べ、別に僕は良いですよ。他人に聞かれて特に困る内容はないです」瑛は静かな口調で答えた。
「分かりました。ではお話を始めます。皆様はよろしいでしょうか?」
誰一人としてその場を辞去する者はいなかった。
それは、話の行方を全員で見届けたいという意思表示なのかもしれなかった。
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