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 緑は恐怖にひしがれていた。

 こんなはずではなかった。浮かれ気分によるひと時の油断。迂闊な自分を緑は責めた。

 組織は、一度脱出したことを厳しくきゅうだんしてきた。構成員たちは一ヶ月もの間、緑の生活圏内を必死で捜し回ったらしい。緑は組織に忠誠を誓ったわけではないので、糾弾される筋合いはなかったが、そんな道理など通じる相手ではなかった。

 今度は、以前よりも頑丈に拘束された。とても自力で脱出できようもない。屈強な男たちに常に見張られた。どこかも分からない建屋の柱に、縄でくくりつけられていた。

 一方で、何か不穏な会話を耳にした。

 まず、第一に絶望的だったのは、自分が解放される見込みはどうやら一切ないこと。

 第二に、自分がどうやら組織によって一生献血もしくは採血を受けさせられること。

 第三に、ターゲットは緑が握っている記憶の中の情報、あるいは、息子であること。

 そして、第四に……これが極めつけだった……緑は恐怖と極限の不快感で気を失いかけた。

 何と、非人道的なことを考えていることであろう。この組織は、道義や倫理といったものは完全に無縁であった。

 緑は、絶望の淵へと追いやられていた。

 何としてもここから脱出せねば。ここで一生組織の喰い物にされるくらいなら死んだ方が何倍もマシだと思った。ダメもとで脱出を試みて、その行為に激昂した構成員によって命を絶たれるなら、それでも構わないと。しかし、成功のチャンスは一回限りだと思った。

 緑はまた隙を窺った。組織がいつものように採血用レストレーナーと呼ぶ台を準備するときを狙っていた。採血用レストレーナーは重いようで、最低でも屈強な男の一人がその運搬に使われる。そしてそれに固定されるときに、縄は解かれる。最近は抵抗を示さないように見せかけていると、構成員たちの動きも等閑なおざりになってくる。採血用レストレーナーに入ろうとする直前を狙うのだ。献血のあとではいけない。なぜなら血を抜かれるとふらふらになるからだ。

 縄が一瞬解かれて、採血用レストレーナーに向かった。従順に見せかけていると、取り巻きの男も力をあまり入れなくなる。

 その一瞬だった。緑は渾身のパワーを下肢の筋肉に送った。身体をすっと屈めて、最大限の瞬発力をその脚にこめた。緑は、油断していた男の隙間から勢い良く飛び出した。緑は、学生時代もリレーの選手に選ばれるほど、足が速かった。慌てた男たちは、緑を追いかけた。幸いなことに屈強な男たちは、自らの筋肉の重さからか、距離を縮められない様子だった。しかし百メートル程走るとさくがあった。緑は柵を勢いよくつかんだ。とにかくがむしゃらだった。これも火事場の馬鹿力と言うのだろうか。見事に柵をよじ登ることが出来た。しかし、すぐに男たちも柵に辿り着いた。一方が踏み台になり、他方がそれを利用して、緑の足を引っ張ろうとした。

 ちょうどその時だった。柵の外側に面する道路の向かいに一台の車と、聞き覚えのある男の声がした。

「緑さん!!」

 クロキであった。緑は一瞬目を疑った。何と言うことか。こんな遠くまで助けに来てくれていたのだ。

 足を掴みにかかる男から振り解いて、勢い良く道路に飛び出した。

 その瞬間だった。

 緑の身体は鈍い音を立てて宙に舞った。

 無残にも一台のトラックが横切ったのだ。フロントガラスの一部が砕かれて、トラックは停車した。

 緑はアスファルト上に強く叩き付けられ、身体のどこかから自らの生き血が失われていくのを自覚した。

 しかし、構成員はなおも柵を越えようとしていた。すぐさま緑を荷台に載せ、クロキは手持ちの服で、圧迫止血を試みていた。

「病院だ! どこか病院に向かえ!!」と、トラックの運転手に大声で指図するクロキの声が聞こえた。しかし、柵を越えた一人の構成員が、それを阻止しようと荷台に手をかけた。

「くそったれ! お前は何なんだ!!」

 クロキは男の顔や腕を殴って、荷台に乗せじと奮闘した。「早く発進しろ!」

 ようやく走り出すと、構成員の男の手は離れた。

「119番通報だ! そして消防署まで行け!」

 トラックのドライバーに命令すると、クロキは呼びかけて来た。

「緑さん! しっかりしろ!」

 相変わらず出血は止まらなかった。クロキの必死さが伝わって来た。

「緑さん! 耐えてくれ!!」クロキの叫びは続いた。

 しかし、次第に緑は意識が朦朧もうろうとしてきた。圧迫も空しく組織に献血される量よりも多くの鮮血が流れ出ているような気がした。

 気が付くとサイレンの音がした。

 そして、十分程して病院の中に搬送されたようだった。

 院長と思われる医師は、まだ若く見えた。

「早く、O型の血液を用意しろ!」

 必死な声が聞こえた。

「チキショウ! 圧迫では追いつかない!」

 意識が混濁していても、緑は自分がもう助からないような雰囲気を察した。

 緑はなけなしの力を振り絞って、医師に呼びかけた。

 か細い声で遺した緑の最期の言葉は、その若い医師の胸に後々のちのちまで深く深く刻み込まれることとなった。

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