第六章 寂滅(ジャクメツ)  5 優梨

「瑛くん! おめでとう!」まず優梨が声をかけた。

「いや、まだ退院じゃないから」影浦は恥ずかしそうな表情で笑った。

「でも、意識が戻って、ICUからここに移れたわけだし」

「先生や看護師さんたちのおかげだよ。そっちは大丈夫なの?」

「私は、針を刺されただけだし。もうヘッチャラよ」

 本当は左手の正中神経麻痺があった。しかし完全に麻痺しているわけではなかったし、影浦がICUを出た喜びで忘れかけていた。また、採血用レストレーナーに固定された影響で生じた四肢の強い痛みも最初こそあったものの、今は少しずつ改善してきた。

「それは良かった」影浦は息をついた。

「あ、紹介するね! 私の母、こちらが弟のじゅんすけ!」

「この度は、娘がご迷惑をおかけしました。優梨を助けてくださって本当にありがとうございます。影浦さんには何てお礼したらいいか」母、さちは深々と頭を下げた。優梨もそれに続いた。

「きょ、恐縮です」こんなところで、しかもこんな形で恋人の親と顔を会わせるなんて、滅多にない経験だろう。影浦はひどく照れた様子だ。

「これからも娘をよろしくお願いします」

「こちらこそ、お願いします。ありがとうございます」影浦も頭を下げた。

「お父さんにはもう会ったよね?」優梨は問いかけた。

「うん。センター長が呼吸の管を抜いてくれたんだ」影浦は、口から気管チューブを抜く動作を手で示した。

「そうなの」優梨は微笑んだ。

「センター長にまで、娘をよろしくと言われてしまって……おそれ多いよね」影浦もぎこちなく微笑んだ。

 生活環境や経済水準に格差のある二人であったが、親にその関係を認められた瞬間であった。


「そう言えば……」影浦は思い出したかのように言った。

「どうしたの?」

「夕夜が消えた」

「夕夜が消えた!?」優梨、風岡、陽花は同時に声を上げた。この発言に足達医師も怪訝な表情を見せた。

「そうなんだ。頭から身体から夕夜の気配が一切しなくなったんだ」

「普段は夕夜の気配がしていたのか。でもそれがなくなったと?」風岡が確認するように訊いた。

「眠っている間に夕夜が語りかけてきたんだ。」

「何を語りかけてきたの?」今度は優梨が尋ねた。

「いや、あの、一つ気になることがあるんけど……」風岡は優梨をさえぎるように訊いた。「今回、瑛が助けたって本当か?」風岡は、意識がなくなる直前の夕夜から聞かされた話をまだ鵜呑うのみにできずにいた。

「そ、そういうことになるのかな」瑛は照れているのか、曖昧な返事をした。すると、代わりに優梨が答えた。

「間違いなく瑛くんよ。私、見てたから。あのとき右利きだったし口調も表情も、夕夜くんではなかった」

「優梨がそう言うなら、やっぱりそうってことか」

「確か、あのとき、夕夜は僕に救出に向かわせたんだ。優梨と勝手に契約を結んだのは僕だから、僕がケツ持ってはじめて意味があるんだよってね」

「で、お前、瑛が優梨を救出した」風岡はまた確認した。すると優梨が答えた。

「実は、正確に言うと、組織のボス、コードネームはヴァンパイアという、正体は『生命探求の会』のトップだったんだけど、そいつとその部下たちを撃退したとき、銃弾を浴びて気を失ったように瑛くんは倒れ込んだの。そのあと、夕夜くんに人格交代したの。その夕夜くんが私に言った。『これは、卒業試験なんだ』と」

「卒業試験?」

「夕夜くんは、優しすぎる瑛くんが性格的に独立することを望んでいたみたい。その試金石として今回の事件を利用したみたいなの。そして瑛くんは組織を負かした。だから夕夜くんは、瑛くんのゆう姿を見届けて、影浦という肉体から姿を消したんだと思う」

「夕夜は、自分で、あくまでも瑛のサブパーソナリティーとして徹底していたんだな。そして瑛を一人前にするためにサポートしていた」

「すごく、献身的な人格だったのね」陽花も口を開いた。

「足達先生、そんなことがあり得るんですか?」優梨が訊いた。

「私も、外傷を機に人格が統合する症例は経験したことないわ。逆にむしろストレスによって解離が起こる方が多いと思う」

「そうですよね。そっちの方が自然ですよね」優梨が同調する。

「でも、きっかけ云々うんぬんではなくて、時が経つにつれて自然と解離症状がなくなることもあるのよ。交代人格は役目を終えた場合、自然と眠るように消えていくこともあるみたいだわ。いや、消えると言うよりも、存在はしていているんだけど、表に出てくることがなくなると言った方が正確かも。もともと交代人格は、ホストを助けるために生まれてきたのだから、使命を終えると自分たちの居場所に帰って行くのだわ。今の瑛くんと夕夜くんのやり取りからするとおそらくそうだわ」

「そうなんですね」風岡はどこか物寂しげに答えた。

「でも、影浦くんの解離症状がなくなったことは、良いことなんじゃない?」陽花が取りなそうとする。

「そ、そうなんだけど。それは間違いないんだけど、夕夜もいい奴だったからな……瑛と同じくらい」

「風岡くんには、彼のいちばんの親友として、精神医学の立場からサポートをお願いしていたわ。風岡くんは見事その役割を果たしてくれていて、瑛くん、夕夜くんの良き理解者になった。まあ、今は優梨さんという、新しいパートナーも加わったようだけどね。夕夜くんが突然いなくなったら、ぽっかり穴があいたような気持ちになるよ。友達とお別れしたような気持ちになっているかもしれない」足達医師は、しんしゃくするように言ったが、これは足達医師自身の気持ちを語るかのように、彼女もまたどこか淋しそうに見えた。

 一同が、粛々しゅくしゅくとしていると、瑛は言った。

「みなさん。本当にありがとうございます。僕はこのとおり、あまり友達を作るのが得意じゃなかったけど、こんなにも、夕夜も含めて愛してくれている人がいて、本当に幸せです。夕夜は気配をどこか消してしまったけど、きっとどこかで見守ってくれていると思います。でも、これからは影浦瑛という一個人で頑張っていきたいと思います。何せどんくさい僕だから、いろいろご迷惑をおかけしちゃうかもしれないですが、引き続きよろしくお願いします!」

 しばらく間があったが、風岡がまず口を開いた。

「いい所信表明演説! 俺は影浦の友達を続けさせてもらうからな!」

「ずるい! 私だって負けないんだから!」優梨もなぜか張り合おうとした。

「友達としての経験日数なら俺が断トツで上だな!」

「え!? 風岡くんは男でしょ? 私は付き合ってるのよ!」

 風岡と優梨のどうでもいいやり取りに、堪え切れず陽花、足達医師をはじめ、一同は笑った。


 扉がノックされて開く音がした。

「影浦瑛くん。良いかな」義郎の声だった。

「は、はい!」瑛はやや慌てたように答えた。

「お、おー、こんなにも大勢いるとは。しかも、あ、優梨までもいるのか」

 義郎は目を丸くした。通常、入院患者が他の入院患者の個室、ましてや若い異性の個室に入るなんてあってはならないことだが、その相手が娘の交際相手であり、さらには命の恩人であるからか、もしくは他の見舞客もたくさんいたからか、叱ったりはしなかった。

 義郎は、瑛ひとりに用事があったのかも知れないが、大勢の前に立ってえりを正したように話し始めた。

「まず、この度は娘である優梨が、皆様に多大なご迷惑をおかけしたことを深くお詫びします」

 義郎とともに、優梨、祥子と純祐も頭を下げた。義郎は続けた。

「ここにいる皆様はご存知だと思いますが、ある組織犯罪に娘が巻き込まれました。ここ最近、名古屋の中心部で若い女性が次々と狙われて襲われるニュースがありましたが、それと同一のグループだと思います。今回、影浦瑛くんは、同じくご友人の風岡くんと河原さんと協力して、優梨を救出したとともに、犯罪組織の検挙に貢献したのです。その勇気に心から感謝しています。しかしながら、その代償として、生死を彷徨さまようほどの重傷を負ってしまいました」

 優梨は、正確には風岡と陽花は、瑛が助けたあとに現れたのだと、訂正しようかとも少し思ったが、やめておいた。

「瑛くんの手術は、無事に終了しました。大量出血に起因すると思われる意識レベルの低下が続いて、正直不安でしたが、奇跡的にこの通り回復してくれました。もう少し落ち着いたら、これからは歩行のリハビリを始めることになるので、まだ入院は続きますが、彼は若いので早期の回復を期待したいところです。また娘も、出血はありましたが、幸いにも輸血の対応のみで、大きな後遺症もなく経過しております」

「良かった……」そう言ったのは陽花だった。

 見た目の回復具合から、みな何となくそう思っていただろうが、センター長の口から聞くことで、改めて安心した表情になった。さらに義郎は続けた。

「実は、瑛くんの手術は、銃弾による負傷ということで言うまでもなく日本では珍しいのですが、それよりももっと手術を困難にさせる要因が彼にはあったのです」

「どう言ったことでしょうか?」瑛はやはり事情を知らない様子だ。

「まず、血液データが良くないのです。赤血球の数は出血に伴い減少していたのですが、どういうわけか白血球、血小板の数まで少ないのです。白血球数は外傷時にはすみやかに上昇します。血小板数は血を止めるのに使われようとすると減少しますが、一方で反応性に上昇することもあります。白血球が少ないと感染のリスクが増えるので、抗生剤を多めに投与し、何とか今のところ術後感染等の問題は出ていない模様です。しかし、血小板の方は止血に必要な成分です。この出血多量の状態では、まさしく生死に関わってくるくらいの問題でした。瑛くんの病態はもっと精査してみないと断定はできませんが、ひょっとしたらはんけっきゅうげんしょうと呼ばれる症候かもしれないのです」

 瑛はかつて、優梨に自分が病気がちでくらみが起こりやすいことを告げた。さらには、あざだらけの胴体を見たことも思い出した。貧血、易感染性、出血傾向。やはり血液データ上でも裏付けがされているのだ。

「従って、今回輸血を大量に行いました。しかし、そこで瑛くんを救命することを著しく難しくさせるもう一つの要因があったのです。正直な話、私自身も、おそらくは他の医師も、同じタイプの患者に出会ったことはなかったでしょう。これだけで、充分に学会報告ものと呼べるほど珍しい症例です。ところが、本当に奇跡的にも、とある方の献身的な行為のおかげで、瑛くんは一命を取り留めたと言っても過言ではありません」

「とある方、ですか?」瑛は怪訝な表情を見せた。

「その方が、実は今日は来てくださっています。どうしても瑛くんにお話したいことがあるのだそうです。通常、こういった個人情報を第三者にお話することはないのですが、その方はあなたも知らない秘密をすべて把握しておられました。そして、しつけなのをご承知の上で、瑛くんにどうしてもお話したいのだそうです」

「僕に?」瑛は困惑の表情で言った。

「そうです。優梨が瑛くんの手によって救われたように、瑛くんもまたその方によって救われたのです。その方は九州から来て、瑛くんの意識が回復するまでずっと待っていてくださいました。くろ皓一こういちさんとおっしゃいます」

 ご紹介にあずかった、黒木と呼ばれた三十歳前後と思われる男が、軽くしゃくをして病室に入ってきた。半袖カッターシャツにスラックスという出で立ちであった。短髪で色黒の肌で体格が良く、彫りの深い顔立ちの男だった。

「こんにちは。黒木皓一と申します。宮崎県から来ました。あなたの実のお母さんからのお願いで、血液を提供させて頂きました」

 瑛はその男を見て目を丸くした。

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