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 東の海から薫る潮風は温かく、胸がすくほど心地良かった。

 そびつフェニックスが揺らめくここ南国の地は、同じ日本でありながら異国情緒が漂うほど、見慣れぬ景色であった。

 緑は空港を出て、タクシーに揺られていた。運転手に海風の薫りを堪能したいと言って、タクシーの窓を開けさせてもらった。幼い息子は初めての搭乗で耳が痛いと不機嫌な様子であったが、窓から吹いて来る風と初めて見る海岸の景色に心を奪われている様子であった。

 緑は少ない収入を切り詰めてようやく旅費をめんした。もちろん観光に来た訳ではなかった。

 目的はたったひとりの青年に会うことであった。それ以上でもそれ以下でもなかった。その青年とは面識もないし、友人のつてでもなかった。


 緑は、この地に来る前、とある会社の扉をノックしたのだ。まさに暗中模索であった。スタッフに研究所で伝えられた話を説明した。聞き慣れない相談内容に、対応したスタッフは戸惑った。しかしながら、個人情報の取り扱い上、答えかねるとの返答であり、肩を落としてその場を辞去した。そしてもうひとつの会社にも足を運んだ。だが、そこでも有力な情報は得られなかった。

 緑は落胆した。みな薄情者だと思った。愛しい息子の有事に備えて準備することは、そんなにいけないことなのか。我慢できずに最初に訪ねた会社に、もう一度訪ねてみた。

 すると、社内でも討議が交わされたのであろうか。支社の最高責任者が話してくれた。普段は絶対タブーとされていることであるが、今回の事情を察して、特別に情報を与えてくれた。しかし登録されている個人は、それぞれ自分の有事のために備えているものだという。体質があまりにも稀有すぎて、一般的な同じ行為の目的として、そもそも恩恵を受けるべき対象が異なるのだ。リストに載っていたのはたった十人足らずであった。リストに示された個々人は、それぞれ未来のおのれのための奉仕行為、そして保険のため備えているのである。

 緑は住所をもとに近いところから回ることにした。近いと言っても少なくとも同じ県内にはいなかった。全国に十人足らずしかいなければ、おのずと県をまたぐことになる。一軒回るにしても、泊まりがけのスケジュールであった。しかも、その中で比較的若く、体力に余力のありそうな人は限られていた。さらには、その用件を快く受け入れてくれない人もいた。気持ちは分かるが、自分も同じ境遇であるわけで、他人のために自分が犠牲になることがあっては困るというものだ。一方で、少しなら協力できるという人もいた。しかし、長きに渡って協力できるかは確約できないということであった。

 一人、かなりの遠方ではあるが、条件の良さそうな男性の名を見付けた。クロキコウイチという二十歳の青年であった。緑より七歳年下であった。大学生であろうか。アパートっぽい住所なので、下宿しているのかも知れない。ただし、ここから空路を利用すべきほど遠方なのがネックだった。しかし、何かに突き動かされるように、緑は搭乗の手続きを調べていた。


 タクシーに揺られておよそ二十分。外はすっかり山間やまあいの景色へと移ろっていた。こんなところに住んでいるのかと訝しんだが、タクシーの運転手によると、付近に大学があると言う。やはり大学生なのだろう。

 到着した場所は、やはりいかにも年季の入ったようなアパートであった。おそらく一人暮らしだろう。不在の可能性が頭をよぎったが、呼び鈴を鳴らす。がちゃりと解錠する音がして、青年が出てきた。Tシャツと短パン姿というだらしない格好であったが、スポーツ刈りの髪と色黒な肌と筋肉質な体格が健康そうな印象を与えてくる。そして彫りが深くはっきりとした顔立ちが、目を奪った。

「何でしょうか」青年は見知らぬ女性と幼児を見て、怪訝そうな顔をした。

 緑は突然の訪問で驚かせてしまったことを詫びた上で、事情を説明した。

 しかし、青年は戸惑った様子であった。確かに青年の身体は健康そのものだと言う。息子と共通する自分の体質は理解していたようだ。ただ、若さゆえか慈善行為自体に興味が湧かなかったようだ。痛みを伴う行為も苦手だと言うことだ。

 年が近いこと、若くて健康なことで、かなり期待を込めて訪れただけに、緑は落胆して帰路についた。緑はどうしようか迷った。他の人物を当たるか、もう一度彼に会ってみるか。ここで通常なら、前回訪問して少しだけでも協力してもらえるところに電話して、もう一度お願いするのがいちばん労力も時間も金銭も奪われない方法で、合理的であると思われる。ところが、クロキを諦め切れなかった。気のせいかも知れないが、彼の顔立ちから誠実さが垣間見えた。もう一度行けば、何かしら手応えがあるのではなかろうか。


 一方で、何かと最近何者かに尾行されているような気がしてならなかった。そして何かと、街中で背広を着た男に声をかけられたりした。残念ながらナンパと呼ばれる行為ではない。その内容は、息子の関する体質について尋ねてくるものであった。しかし、何も情報提供してくれるわけでなく、こちらのことを探るばかりだ。情報が漏れたとすれば、研究所の職員や医師か、秘密を打ち明けて相談した紫、もしくはそのあと手探りで当たった二つの会社のいずれかだろう。情報を得て行動するところは、緑も同じようなことをやっているので、悪いことは言えなかったが、やはりされてみると快いものではなかった。

 緑はクロキにもう一度会うための旅費を工面するために、雇われ先のスーパーマーケットで再び働いた。ある日、スーパーマーケットの裏口に、店で発生した段ボールの空き箱を畳んで運び出しているときであった。背後からナイフを突き付けられると、手首を後ろに縛られ口はガムテープで塞がれ、黒いセダンの車に乗るように指示された。恐怖におびえながら言われるがまま車に乗ると、着いた先で、見た目からして四十〜五十くらいの婦人に会った。婦人は言った。

「あなたが今していること、今やろうとしていることを、すべて私たちに任せなさい」

 冗談じゃない、と緑は思った。こんな強引な手段を使う、おそらくは犯罪組織に、息子の命を託すことなど到底出来なかった。緑は、一瞬だけ監視が離れた隙に、奇跡的にも逃げ出すことが出来た。手首に縛られた縄が解けかかっていたことが何よりも幸運だった。また、緑は足が速かったのも幸いした。

 危ないところだと思った。急いで帰宅して何事もなかったかのように無事でいる息子を見て安堵した。息子のことを気にしすぎて警察にも届けなかったくらいだ。もし息子が襲われているかもしれないと思うと、居ても立ってもいられなかったのだ。幼稚園に行かせてあげられないことを可哀想に思っていたが、このときだけは行かせていなくて良かったと感じた。緑は予定を変更し、すぐにでもクロキに会いに行くことにした。一つは早く目的を達成するため、もう一つは安全な場所に避難するためだ。実は、クロキに何度も頭を下げに行くことも視野に入れて、最初から長期間の滞在を考えていた。経済的に厳しくなれば、現地で働いても良いつもりでいた。

 しかし、その前に緑はある人に電話しなくてはいけないと思った。ゆかりだ。今回は本当に運良く難を逃れることができたが、今後どうなるか分からない。もし、また同じように自分だけが組織に拉致されてしまったら、残った息子をどうするか。万が一の有事に備えて、息子を引き取ってくれるようにお願いした。もちろん、そのことで紫たちが襲われる可能性がないわけではない。しかし、他にお願いできるところがなかった。紫には子供がいない。不妊治療を行っていたが効果が上がらなかったのだ。紫はもともと子供好きだと聞いたことがあった。親のいない子供を引き取っても良いかな、と漏らしていたことを思い出した。紫は、はじめは渋い反応を見せながらも、お願いを繰り返すうちに、前向きに検討すると言ってくれた。


 再び、緑と息子は飛行機に乗った。現地周辺でマンスリーマンションと短期のアルバイトを探した。比較的、現地での作業はとどこおりなく進んだ。アルバイトも、スーパーマーケットのレジ打ちの仕事が見付かった。経験者ということで優遇もしてくれた。また、息子には内緒で、ホステスの仕事にも手を出した。これなら短期でも高額の収入が確約される。緑は近所でも評判の美人であったし、出産後も体型はまったく崩れていなかったため即採用が決まった。

 タクシーに乗ってクロキのもとを再び訪れた。クロキはかなり驚いた様子であった。遠いところから再び幼い子供を連れて来られて、さらには現地で仕事をしながら短期的に滞在するとまで言われては、あしには出来ないという様子であった。

「狭い家で良ければ上がってください」

 クロキはそう言って勧めた。緑は応じた。息子は人見知りをしている様子であったが、緑は徐々にクロキと打ち解けていった。クロキは明るい性格であった。

 ここに来た本来の目的については、もう少し考えさせてくださいと言った。クロキは自分の体質がそこまで稀なものであるとは知らなかったらしい。それより何よりも、おそらくこの体質のせいで、緑が襲われたことに驚いていた。それは同様にクロキにも、何かしらの危険が迫るかもしれないというけいしょうでもあった。一週間以内に返事をしますと言った。クロキは、緑たちの身を案じてか、マンスリーマンションまで自分の車で送ってくれた。

 一週間が経過し電話をかけようと思ったところであった。マンションのインターホンが鳴った。一瞬、例の犯罪組織がこの場所を突き止めたかと思って心臓が止まりそうだったが、玄関越しにいたのはクロキであった。

「突然、来てしまってすみません。でもこれ、おあいこですよね」クロキは微笑んだ。

 組織に居場所がバレたかと思った、と言いながら緑はふくれてみせた。ここで良いですと言うクロキを制止して、家に上がるように半ば無理矢理勧めた。

 クロキは一週間前のお願いに対する返事を言いに来たのだった。そして、笑顔で快諾してくれた。僕が生きている限り、もしくは自分が重篤な病気にならない限りは、必ず約束すると言ってくれた。それだけのために、マンションまで来たのだった。

 思わず緑は涙ぐんで、クロキに抱きついた。クロキは言った。

「なぜ、こんなに簡単なこと、いちばん最初に来てくれたときに決断できなかったんだろう、と思って今では恥ずかしいほどです。これが、自分の健康を他の人におすそ分け出来るいちばん簡単な手段だと思ったら、心が軽くなりました」

 感慨深い言葉だった。この青年に諦めずにお願いして本当に良かったと緑は思った。緑は何度も礼を言った。青年は続けた。

「あなたのおかげです。あなたの心に打たれたのです。今までボランティアとは無縁で自堕じだらくな生活を送ってきた僕にも人の役に立てると、あなたが気付かせてくれたのですから」

 そう言うと、今度は涙と震えが止まらなくなった。その場で泣き崩れる勢いだったが、クロキがその身体を支えて優しく身を起こすと、自然と二人の口唇が触れ合った。ここ最近感じることが出来なかった、五秒間ほどの温もりを感じることが出来た。

 目的を果たした今、あと三週間ほどの滞在期間をどうするのか、クロキは尋ねてきた。当初の予定通り、一ヶ月間はマンスリーマンションに滞在して、仕事もその間は続けることを言った。

 だが、緑の中ではこのままここに住んでも良いくらいに思い始めていた。緑の住む町よりも田舎ではあるが、それでも人も気候も暖かく居心地の良さを感じていた。何よりもクロキに好意を抱きはじめていた。息子はまだ慣れていないようだが、クロキの優しさはきっと息子にもそのうちに伝わるだろうと、思えてきたのだ。

 一ヶ月が過ぎ、クロキともより親密になった。まだ二十歳の大学生と、七歳も年上の子持ちの母親が交際するには、少しハードルが高いように思えた。しかし、それも時間の問題かと思った。はじめは、自分に何かあったら紫夫妻に息子を託すつもりだったが、今はここに移住することを決意したと伝えると、クロキは歓迎してくれたのだった。飛行機で戻ったら、すぐに転居と引っ越しの手続きをして、ここに戻ると約束した。行きとは異なり、とても晴れやかな気持ちで飛行機に乗って空港へ戻ってきた。

 自宅に戻って息子を置いて、すぐに役所で手続きを踏もうと市営住宅を出てしばらくしてからの出来事だった。実にかつであった。これが緑の人生で最大の後悔となった。

 再び緑は背後から男に襲われたのだった。

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