第五章 弥撒(ミサ)  9 優梨

 扉の向こうに、オーガとヴァラヴォルフに挟まれるようにして、一人の見慣れた青年が立っていた。影浦だった。そして影浦の右手には傘が握られていた。

「ようこそ、いらっしゃいました。ミドリさんのお坊ちゃんですね。本当に生き写しね。ミドリさんに似て、とても美しい顔立ちをしていらっしゃいますね。ふじあきらくん」ヴァンパイアの態度は不自然なほどうやうやしかった。

「僕は藤井なんて苗字ではありません。あなたに用はありません。そこにいる大城優梨を返してもらいに来ました」

「それはそれは。失礼致しました。藤井は旧姓でしたね。今は影浦瑛くんと言いましたかね。このときを待っておりました」

 そう。まぎれもなくそこに立っていたのは瑛であった。夕夜ではなかった。なぜ夕夜ではないのだろう。夕夜の攻撃的で好戦的な性格とは正反対の瑛が、ヴァンパイアたちとたいしていることに優梨は違和感を覚えた。まさに今こそ夕夜の出番ではなかろうか。

「そんなことはどうでも良いです。優梨を返してください」

「分かりました。このお嬢さんはお返ししましょう。ここまで容姿端麗なお嬢さんはなかなかいないけど、代わりがいないわけではないでしょう。その代わりあなたはここに残ってもらいます。私はあなたに用があるのです」

 嘘だ、と優梨は思った。影浦の協力を得るための手段として、私を返すと言っているだけで、組織の秘密のほとんどを知った私を自由の身にするとは到底思えなかった。解放したと見せかけて、また監禁されるか抹殺されるかに決まっている。

「何であなたが僕に用があるのですか? 僕はあなたのことを知りません」

「あなたが知らなくても、私は知っているのよ。ついでにミドリさん、つまりあなたのお母さんのことも知っている。私があなたに用があるのは、あなたが、優秀なお母さんの遺伝子を受け継いでいるからよ」

「どういうことですか? あんな女、母親じゃない!」

 瑛は声を荒げた。それだけ母親に憎悪を抱いていると言うのか。あれほどまで語気を強めた瑛を優梨は初めて見た。

「いくらあなたがそう言っても遺伝子は嘘つかないのよ。あなたの受け継いだ遺伝子によって、国境を越えた名士の命を助けることが出来るかもしれないの」

「国境を越えた名士?」

 優梨もまた、心の中で瑛と同じく疑問形で呟いた。国境を越えた名士とは一体何なのか。唐突とうとつに登場した予想もしないキーワードに困惑した。

「そう。その名士を、私たちの力で助けるのよ。そしてそれが出来るのは、この日本ではごく限られた人間だけなのよ。人数にして五十人にも満たないくらい。その中の一人があなた。選ばれし優秀な人間なのよ」

「ありがたい言葉ですが、僕は協力できません。こんな強硬手段で優梨を誘拐したり、僕を誘い出したりする人たちに力を貸すことは嫌です!」

「私はあなたに会うために十年以上も探し求めてきたのよ」

「だから何だと言うのですか。僕には関係ない!」

「あなたは、実の親がいなくて、きっと不自由な暮らしをしてきたのでしょう。ああ、何て嘆かわしいこと。これからあなたが私たちの仲間になれば、末長く裕福な暮らしが保証される。これはウン千万、もしかしたら億は下らないかもしれないのよ」

「あなたといっしょにいて何千万もの悪銭を身につけるよりも、たとえ質素でも優梨といっしょにいた方がいい」

「まだ、瑛くんには理解が及ばないようね。これから起ころうとする何ひとつ不自由のない世界も、そしてあなた自身の素晴らしさも」

「べ、別にそんなこと知らなくたって良い」

「それなら、失礼ながら、手荒く行かせてもらうわ。生け捕りにしなさい。さあ、カーニバルの時間よ!」

 隣にいたオーガとヴァラヴォルフが、瑛の腕を取ろうとした。ヴァラヴォルフの手にはいつの間にか、優梨たちを眠らせたときのバッグバルブマスクが握られていた。それを予期していたかのように、瑛は腕を払って、五歩ほど後ろに下がって傘を右手に持って身構えた。

 オーガが瑛の背後に回ろうとした。オーガとヴァラヴォルフで挟み撃ちにするつもりだろうが、瑛もそうはさせじと素早く動いて間合いを取った。するとリザードマンが機敏な動きで後ろから近付いてくる。リザードマンはビデオカメラの代わりに手錠を握っていた。

「瑛! 危ない!」優梨は辛うじて意識を保ちながら叫んだ。

 瑛は振り向き、間一髪のところで、傘で手錠をはらった。その瞬間、オーガが首を絞めにかかろうとした。しかし瑛は身を屈めて、傘を反対向きにして右手で鳩尾みぞおちを衝いた。オーガはうずくまって悶絶した。

「望むところ! ミサの始まりだ!」瑛は、強く言い放った。


 優梨は不思議で仕方がなかった。なぜ『瑛』なのか。

 あれほどまで喧嘩慣れしていると思われる夕夜が影を潜めて、瑛のまま応戦していることに。それは傘を右手に持って戦っていることでも明らかであった。夕夜は左利きである。実際、肉体は共有しているで理論的には瑛も夕夜も身体能力は同じはずである。しかし、経験値や能力を引き出す力はきっと違うのではないだろうか。ひょっとして、表に出ているのは瑛だが、実は身体を操縦しているのは夕夜なのだろうか。人格間の意思疎通を図れる解離性同一性障害患者はそんなことまでも可能なのか。しかし、それなら左手を使っているはずである。さらに、夕夜なら蹲ったオーガにとどめを刺していたかもしれないので、その説はどうも考えにくかった。

 ならば夕夜が助言しているのだろうか。とにかく、内向的で平和主義の瑛からは考えられない光景であった。


 傘を持っている瑛に対抗するように、ヴァラヴォルフは鉄パイプを拾ってきた。

「いいか。絶対に殺しだけはするなよ。気絶させるのがいちばん良い。あくまで生け捕りだ」カーミラが指示した。

 ヴァラヴォルフは黙って首肯しゅこうすると、鉄パイプを振り上げて襲いかかった。瑛は傘で防御する。さすがに相手の鉄パイプの衝撃に傘はしなった。別方向からリザードマンも来る。瑛は防御せずに、身を横にかわすと、空を切った鉄パイプがリザードマンのすねに当たった。弁慶べんけいの泣き所であり、リザードマンも立っていられなくなった。

 しかし、瑛が避けたすぐ後ろにオーガがいた。蹲っていたはずのオーガは瑛の両脚を捕らえた。たちまち瑛は前方に転倒した。両手をついて受け身を取ったかわりに、衝撃で傘が手から離れた。逃れようとしたが、その手をヴァラヴォルフが持ち上げる。瑛は身体を起こされた。瑛はヴァラヴォルフによって背後から羽交い締めにされた。

「瑛!!」優梨は思わず叫んだ。

 オーガは、瑛の口にマスクを当てて眠らそうとした。瑛は、勢いよく頭を後ろに振り、ヴァラヴォルフの鼻を、さらにかかとを後ろに蹴って、ヴァラヴォルフの脛を強打した。ヴァラヴォルフのひるんだ隙に、身を屈めてオーガの鳩尾を再び殴った。

 瑛の素早い身のこなし、確実に急所をくあたり、動きにまったく無駄がなかった。優梨は目を見張った。

「お前ら何やってんだ!? 情けねぇ」カーミラが立ち上がった。「あたいの出番かな。このイケメン坊やを可愛がってあげるのは」

 瑛は蹲っている男三人から離れて、カーミラと対峙した。

「早く、優梨のその束縛を解いて欲しい」

「悪いけど、それは無理だね。まずあんたが、あたいの可愛いペットになってもらわないと」

「何を訳の分からない妄想を抱いてるんですか? 夢の中でもめんこうむりたい」

「悪いけど、ここでは女が強いんよ。見せてあげる」

 瑛はカーミラに殴りかかった。手加減しているようには見えない。しかし、カーミラはすっと身体を沈ませると、瑛の後ろを取った。その瞬間、瑛は崩れ落ちるように倒れ込んで動きがなくなった。

「ちょろいもんね。こんなに簡単に効くなんて、よっぽどピュアな奴なんね」

「瑛に何をしたの!?」思わず優梨は叫んだ。

「ちょいと、くびの血管に薬を入れてやったんだ。強めの即効性の鎮静剤と、少し筋弛緩剤も入ってるけどな」カーミラは不敵な笑みを浮かべて答える。

 目にも留まらぬスピードであった。カーミラの注射が得意という情報は本当なのかも知れない。しかし、感心している場合ではなかった。

「筋弛緩剤ですって!? 息できなくなるわ! 死んじゃう!」

「大丈夫、あたいが人工呼吸してやっからさ!」

「あなたが!?」

「あんた、本当にイケメンね。あたい、タイプよ」カーミラが動かない瑛の顎を持ち、口づけようとした。

「やめて!!」優梨は、他の女によって、しかも肝炎ウイルスのキャリアだとに分かった上で、故意に自分の恋人が下心満載のマウス・トゥ・マウスの人工呼吸を受けようとすることに、激しい憎悪を抱いた。

 そのとき、カーミラが、後ろにった。

「この変態女が。そんなことで本当に気絶するとでも思ったのですか?」

 カーミラは頭突きを喰らったらしく、鼻を抑えて悶絶した。その鼻からは出血していた。

「瑛!」

「優梨。心配させてごめん。この女が針で何か刺して来ようとするのが見えたんだ。だから刺された瞬間に少し身体を引いて、薬が効いたように演技したんだ。ちょっとだけ針は刺さったけど、大丈夫だよ」

 瑛は、けいの刺し傷の出血を指でぬぐった。

「すごい!」

「さあ、ミサも終わりです。優梨を解放してもらう」瑛はヴァンパイアに向かって、毅然とした態度で要求した。

「くそったれ!」ヴァンパイアの語気は荒くなり、優梨の採血用レストレーナーの向こう側へ距離を置いた。

「こちらも強硬手段を使う。毒を以て毒を制すだ!」

 瑛は、ヴァンパイアを襲撃しようとした。しかし十メートルほど走ったところで、突然、身体の自由が利かなくなったように倒れ込んだ。

「瑛!?」優梨の希望は絶望へと変わった。

「は、ははは、ははははは! 薬は筋肉注射の場合、遅れて効果が出るんだよ! この小僧めが!」ヴァンパイアは、先ほどの丁寧な口調はどこかに消え去り、発言は悪意と嘲笑に満ちあふれていた。

 しかし、瑛はふらつきながらも立ち上がった。

「まだまだだ!」瑛は叫んで、もう一度立ち向かおうとした。

「このゾンビ野郎め!!」理性を完全に失った表情のヴァンパイアが言い放ったその瞬間、乾いた破裂音が数回、廃工場内に大きく反響した。

 銃声だった。

 ヴァンパイアが拳銃を握り締めていた。

 銃弾は優梨の動脈からの血液バッグを破裂させ、さらに留置針ごと吹っ飛んで行った。優梨は浅緋の飛沫しぶきを身体中に浴びた。なおも刺入点から脈々と溢れ出している。無論、採血用レストレーナーで固定されている優梨にはどうすることも出来ず、意識はさらに混濁していった。

 その消えかけて行く意識の中、その延長線上にいた瑛も被弾しているのを確認した。腹部、いやでんから流血しているか。瑛はたまらず倒れ込んだ。

「あああああああああああぁあぁあああぁああああ!!!?」

 優梨は絶望の深淵しんえん微睡まどろみながらも、瑛の断末だんまつのようなたけびを聞いた。

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