第五章 弥撒(ミサ)  8 優梨

「優梨ぃいいい!!!」

 それはまさしく影浦の声だった。混濁とした意識を一気に清明にさせるほどの、エネルギーがあった。

 しかし、『瑛』と『夕夜』、どちらの声なのだろうか。瑛は、呼ぶとき『ちゃん』付けだし、夕夜はきっと呼び捨てだろうが、はっきり名前で呼ばれた記憶はない。でも夕夜っぽくもない。きっと瑛か。しかし、ちゃんと考える余裕などない。

「あき……モゴッ!」

 渾身の力を振り絞り大声で叫ぼうとしたところ、カーミラによって非情にも口を抑えられた。

「勝手なことされちゃ困るねぇ。まぁ安心しろ。こちらで丁重におもてなしすっからよ」

「優梨ぃいいい!!!」無情にも、影浦の声がこだまする。

「随分とまた坊や、早かったじゃねぇか。坊や、相当お前に惚れてんな」

 カーミラは優梨の口を抑えながら言った。

 カーミラの疑問はもっともだ。なぜこんなに早く来たのだろうか。影浦は午後五時まで確かアルバイトだと聞いた。まだ一時間以上も早いではないか。

 もしかすると、優梨の嘘に気付いて監禁されているのを察して、わざとだまされたふりをして、助けに来たのか。仮にそうなら、自分の演技力のなさをはじめてありがたく思うところだ。ただ、その場合は瑛ではなくて、交代人格である夕夜が出現しているはず。三日前、名駅で襲われたときがそうだったように。でも、あの優梨を呼ぶ声は、夕夜とは思えなかった。

 そんなことを考えていると、先ほどまで自分が意識混濁していたのが不思議なくらいに、思考力が回復していたことに驚いた。これも影浦の声のパワーであろうか。

「坊やがこちらを探してるみたいだね。オーガ、ヴァラヴォルフ、迎えに行って差し上げな! もちろん丁重にだぞ」

 そう言うと、大人しくオーガ、ヴァラヴォルフの屈強な男二人組が立ち上がって、廃工場の外へ向かった。

 男たちに命令するあたり、カーミラはこの二人よりも上の立場なのか。オーガ、ヴァラヴォルフともサングラスでよく分からないが、カーミラよりは年上に見えるから不思議だ。

 優梨の口を抑える手の力が弱まったので、訊いてみた。

「あなた、ところで何歳なの?」

「ん? あたいか? こう見えてまだ二十四だ。何でそんなことを訊いた」

 二十四か、せいぜい襲われないように注意しな、とでも言おうと思ったが、やめておいた。夕夜なら、ひょっとしてカーミラをレイプするかも知れない。恋人に自分以外の人をレイプすることを所望するとは、はっきり言って正気の沙汰ではないが、この極限の状況の中ではそんなことまで滑稽に思えた。

「男たちよりも立場が上なのね」

「ここは、女が強い組織なんよ」

 トップが女性だから、ここでは男卑女尊なのだろうか。

 ヴァンパイアの声が再び聞こえてきた。

「どうやら、メインディッシュのお出ましのようね。随分と早いわね。カーミラ、このお嬢さんから血液は採れたかしら?」

「もう少しで4単位採れるところです」

「ではもう2単位行ってちょうだい」ヴァンパイアは平然とした表情で指示した。

「イヤ、死ぬから!!」優梨は訴えかけたが、聞き入れられなかった。

「分かりました。今度もまたAから行きます」

 カーミラは、今度は一回目に刺した側の腕の手首を執拗に舐め始めた。手首の動脈ということは撓骨とうこつ動脈からか。カーミラが舐め始めてから、思い出したように優梨はとても嫌な予感に襲われた。

「ちょっと!?」優梨はいったん制止しようとした。その予感とは、皮肉にも優梨の疑問の一つを解決するかも知れないものであった。「あなた、もしかしてB型肝炎ウイルスのキャリアじゃないわよね!?」

「お前、勘が働くな。どうやらそうらしいな」

 優梨の思惑通り、カーミラの刺青が物語っていた。いや、もしくは覚醒剤の回し打ちなのかも知れない。そして、優梨は崖から突き落とされるような思いがした。

「あなたのその舐める儀式は何なの?」

「儀式だと? そんな大層なもんじゃない。あたいは男でも女でも美しいものには目がないんだ。張りのある肌があれば、誰でも舐めたくなるものだろう?」

 そんなことはないと優梨は反駁したかったが、今はそんなことは重要ではなかった。

「他の若い女の犠牲者に対しても、そうやって舐めてきたのでしょう!?」

「それの何が悪いんだ?」

「あんたはそうやって感染を拡大させたのよ!」

 B型肝炎ウイルスのキャリア、つまり持続感染者には、血液ほどではないにしろ唾液中にもウイルスが検出される。通常キスだけでは感染しないと言われているが、今回のように舐めた部位に針を刺すという行為は、充分に感染に値する行為だ。父、義郎の言う若い女性三名の被害者はおそらくそうなのだ。針を使い回ししなくても充分だ。確かに、吸入麻酔薬などが潤沢に手に入る環境でありながらディスポーザブルの注射針が足りなくなって使用を惜しむとはおかしな話であった。

 優梨は採血用レストレーナーに固定されるということと血を抜かれるという、まったく種類の異なる肉体的な拷問に加えて、B型肝炎ウイルスに罹患したかも知れないというもう一つの肉体的と精神的な拷問で気が狂いそうになっていた。自分がB型肝炎ウイルスの予防接種を受けておらず、抗体を持っていないことを悔やんだ。しかし、パニックになりかけながらも、優梨はさらなる問いかけを続けた。

「もしかして、感染した五十歳のおばさんは、を飲んだのね!?」

「そうだ。あのババアはあたいの血液を希望したんだ」

「酷い! あんたがすべての発端なのね!」

「安心しろ。お前の大切な坊やの肌は舐めないでおいてやろう。あんたと違って、傷モンにはできんからな。でも、お前は既にあたいと同じ穴のむじなだ」カーミラは、再び優梨の皮膚を、その非常に長くてみだりがわしい舌で何往復も舐め回した。

「や、やめて!」さらなるウイルス感染のリスクが高まるという恐怖と、それ以前にこれ以上血を抜かれると死ぬかもしれない恐怖とが交錯していた。

 高々と、使用済みの17G針を掲げた。カーミラは白眼はくがん嘲笑あざわらった。

「イッ、イヤァアアアアー!!!!」

 そのときだった。

 バン、と戸が開く音が、建屋内に大きく鳴り響いた。カーミラは手の動きを止めた。

「遅くなった! 優梨」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る