第五章 弥撒(ミサ)  7 影浦

 瑛は、しろとり学園に戻った。

 ここには自転車が何台かある。しろとり学園を出所したOBあるいはOGから寄贈されたものだった。幸い、自転車が一台余っていた。もちろんロードバイクやマウンテンバイクなどといった立派なものではない。ごく普通のシティーサイクルである。

 施設職員に鍵を借りた。自転車に跨がってペダルを漕ぐ。六番町の駅もバイト先も基本的に徒歩なので、乗るのは久しぶりであった。

 瑛は、取りあえず地下鉄名港線めいこうせんに沿うように、名古屋港に向かって自転車を漕ぎ始めた。大通りなので車通りも多く、また信号も多かった。金城埠頭の場所は分かっても裏通りやかい道路までは知らない。赤信号になるたびしびれを切らした。車がなければ、信号を無視して渡った。とにかく早く優梨を探し出すことが最優先であった。

 つきぐち駅まで来た。ここは終点の名古屋港駅の一つ前の駅である。ポートビルが見えた。さらにその向こうには名古屋港水族館もある。瑛は、優梨と水族館に入ったこと、雨の中自分の過去をカミングアウトしたこと、交際を申し込まれたことを思い出した。ほんの少し前の出来事のはずなのに、懐かしく思い出される。

 金城埠頭へは、築地口から南西方面に右折して行かなければならない。ここまでは住宅地や公園など、生活感のある景色が見て取れたが、途中から少しずつ工場が多くなり始めた。あおなみ線のせき駅を過ぎた当たりからそして代わり映えのしない、工場のみが立ち並ぶ景色へと変わった。無機質な工業地域を突っ切るように、中央分離帯にフェニックスが延々と直立する風景はどこかミスマッチであったが、瑛はなぜかデジャヴを感じた。この道を走るのは初めてのことだ。デジャヴの正体が何なのかは分からなかった。

 そして遥か遠くの上方に名港トリトンが見えた。金城埠頭はあの奥だろうか。すでに信号は随分少なくなってきたので、ひたすらペダルを漕ぐのみであった。車通りもいつの間にか少なくなってきていた。たまに、制限速度を大幅に無視して走るバイクの音が耳障りだ。焦る気持ちがなければ、このように信号もなく平坦な道路はサイクリングにはきっと最適なのだろうが、そんな心の余裕はいま瑛には一切なかった。

 徐々に、名港トリトンが迫ってきた。あと一つ橋を越えれば、どうやら金城埠頭らしい。残暑の厳しい季節で、大量の汗をかいた。タオルも水筒も持っていない。だからと言ってどこかコンビニエンスストアに立ち寄るつもりもない。そんなゆとりはまったくといって良いほどないのだ。

 きんじょうばしを越えると、いよいよ名港トリトンを真上に眺めるところまで来た。金城埠頭だ。今日はイベントが行われていないのだろうか。平日ということもあり人は少なかった。時刻は午後三時三十五分。予想よりも少し早く着くことが出来た。しかし、どこに優梨はいるのだろう。ポートメッセの北側と言った。北側と言えば名港めいこうちゅうおうインターの真下あたりか。ロサンゼルス大通りと呼ばれる通りの沿いだろうか。

『瑛、そこに傘が落ちているだろう。そいつをものとして持って行け』

 内なる声が聞こえてきた。夕夜の声だ。捨てられたものと思われるが、かなり大きくいかにも丈夫そうななかなか立派な傘があった。指示通り瑛は落ちている傘を拾った。

 確かに罠の可能性も高かった。ポートメッセ名古屋の北側と言っても、優梨は別の場所にいて、ただ単にそのように言わされているだけかもしれないのだ。しかし、今ある情報はそれだけしかなかった。優梨を襲った組織の構成員がいるだろうか。時にはその構成員に誘導させて、優梨の場所をあぶり出すしかなかった。しかし、電話では夕方五時半過ぎと伝えたので、構成員がいる保証はなかった。

 右手に傘を持って構え、自転車を再びゆっくりと走らせた。構成員とおぼしき人間は見当たらなかった。やはり早すぎたのだろうか。これでは暗中模索だ。金城埠頭といっても探す範囲は広い。時間になるまで待つしかないのだろうか。

 組織のアジトと呼ばれるところはどう言ったものなのか瑛は知らなかったが、試しに工場を一つずつのぞいてみた。敷地内に勝手に中に入れるところもあれば、入れないところもあった。しかし、怪しい人影は見られなかった。おそらく皆、かたの人間だろう。

 ロサンゼルス大通りもいちばん西端まで行き、南京なんきん大路と呼ばれる道路まで差しかかったときであった。

「キャーッ!!」

 遠くから女性の叫び声が聞こえた。その声は瑛の聴覚を鋭く刺激した。これは優梨のもので間違いないと瞬時に判断した。

 一気に瑛の鼓動が早くなる。傘を右手に持ち、音がしたと思われる方角へとおそるおそる向かった。しかし、周囲にはトラックも多く、近付けど優梨の声と思われるものは聞こえなかった。静かであれば聞こえていたかも知れないが、工業地域ゆえ、騒音に掻き消されたかも知れない。

 もう一度耳を澄ましてみたが聞こえない。苛立ちと焦りと恐怖が瑛を襲った。我慢できずに瑛は叫んだ。

「優梨ぃいいい!!!」

 この際『ちゃん』などと、可愛らしく呼ぶことは瑛といえども出来なかった。

 数秒後、「あき……!」という、女性の応答が出かかってすぐに消えた。優梨だ。優梨に間違いない。

 とにかく、瑛は何回も呼びかけた。しかし、その後応答はなかった。

 すると、どこかで見たことのある屈強な男二人組が、その向こうに待ち構えていた。男たちはこちらに近付いてきた。瑛の鼓動はますます早くなる。

「お待たせ致しました。影浦瑛様ですね」

 二人組の一方、スキンヘッドの男が丁寧な口調で言った。

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