第五章 弥撒(ミサ)  3 陽花

 風岡と陽花は交番を出たあと、話し合う場所を探した。人通りが多いので安心ではあったが、陽花も三日前に襲われたばかりの身であり、できるだけ顔を上げないようにして歩いた。風岡は陽花の手を握っていた。

 昼食をとった直後であるし、このような状況下で改めて飲食する気には到底なれなかった。名古屋駅の西口には噴水があり、その前に少々座れる場所がある。落ち着かないが、ひとのない場所も不安であった。またインターネットカフェのように人がいても静かな場所は、万が一誘拐した犯人の仲間がいて話を聞かれると危険なので、噴水前のベンチに腰をかけることを決意した。その前に、念には念をで、名駅西口付近の地下街で、つばつきの安い帽子を探した。ワークキャップを色違いで一個ずつ購入した。さらに陽花はサングラスまで購入した。顔を隠すためではあったが、オシャレでスタイルも良い陽花は、それなりに格好がついていて、とても高校生には見えなかった。傍から見れば普通に大学生くらいのカップルのデートに見えたかもしれない。

 二人はなるべく自然を装いつつも、監視しているような輩がいないことを確認した。風岡は陽花に話しかけた。

「大城は一体何を思いついたんだろうな」

「優梨が何か閃いたときの状況はどんな感じだったっけ?」あの時のことをさいに思い出してみる。

「あいつ、猫と話をしていたな」

「そうそう。黒猫ね。あの子、猫には目がないから。猫のことならめちゃめちゃ詳しいわよ」

「ちなみにそのとき確か俺らは……あ、聖飢魔Ⅱの話をしていたっけ? 陽花がミサに行きたいって」

「そうだったね。でもそれって何か関係あるのかな」

「ごめん。さっぱり分からん。悪魔のヘヴィメタルバンドと猫ってどういう接点だ? でも大城は、影浦に関する秘密が分かったって言ってたな」

「影浦くんの秘密って、風岡がいちばん把握してるはずでしょ?」

「でも、その秘密は影浦本人も知らないって、大城は言ってたぞ」

「それでも風岡は、影浦くんからいろいろ話を聞いているでしょ? そこから彼の秘密を見つけられるかもしれない。彼のことを詳しく教えて」

 風岡は少しだけ間を置いてから答えた。

「参ったな。足達先生に怒られちゃうな」と言って、帽子の上から頭を掻いた。


「解離性同一性障害って、どういう原因でなるか知ってるか?」風岡は陽花に問いかける。

「アタシもテレビで観たくらいの知識しかないけど、子供の頃の心的外傷トラウマだよね」

「そう。子供の頃に経験した命を脅かすような災害や事故や虐待などによる心的外傷後ストレス障害、つまりPTSDが原因と言われているらしいけどな。影浦は小さい頃、虐待を受けていたんだ」

 風岡は専門用語を交えて説明した。これは、影浦という人物を理解する上で学んだのだろう。しかし、風岡の表情はどことなく暗かった。親友の過去の凄惨せいさんな歴史を語らなければならない状況に、鬱屈うっくつしているようだった。

「親から?」

「親は親なんだけど、生みの親ではないらしい。これがまた複雑なんだけど、実の親は確か一歳くらいのときに離婚していて、そこからしばらく女手ひとつで育てていたらしい。そしてそのあと、なぜか実の母親は影浦を手放したらしい」

「え? 何で?」

「何でって、影浦も理由を知らないらしい。そして、そのあと養子に入れられたんだ。影浦という苗字は養子縁組したあとの苗字らしい。ところがそこの養母はまだ良いとして、養父がなかなか凶暴な性格らしくてな」

「そこで虐待を受けた、と?」

「かなり壮絶な虐待だったらしいぞ」

「……」陽花は恐ろしさに言葉を失いかけた。

「あいつはもともと出血しやすくて痣もできやすい体質らしくて、胴体は傷痕きずあとだらけなんだ」

「……夕夜くんはその虐待が原因で生まれたの?」

「ああ。あるとき養父がナイフを持ってきて影浦を虐待しようとしたらしい。命の危機を感じた影浦『瑛』は、『夕夜』へと変貌した。それが夕夜の誕生のようだ。夕夜は養父をバットで殴打した後、瑛へと戻った。そして気を失い、養母に発見されて病院に運ばれた。瑛と夕夜の話からまとめるとそういうことらしいぞ」

「養父はどうなったの? 死んだの?」

「死んではいない。命に別状はなかったそうだ。そして暴行罪か傷害罪で実刑判決を受けたとか」

「実刑判決……」

「そりゃそうだ。日常的に暴行を加えていたんだぞ。情状酌量じょうじょうしゃくりょうの余地などないだろう。しかもナイフまで持ち出して。殺人未遂罪でもいいくらいだ」

「影浦くんはどうなったの?」

「児童養護施設だ。いまに至るまでな」

「そう……だったの」

「以前は夕夜が好き勝手やって、瑛もまったく手に負えない状態だったらしい。それを心療科の足達先生という人がカウンセリングの末、やっと二つの人格が共存して生きていけるようになった。もちろん、俺も友人の一人として足達先生からいろいろ指導を受けたけどな」

「そうなんだ」陽花は、影浦の病状の概要をようやく知った。そして続けた。「えっと、親元には帰ってないの?」

「いくら何でも、それは無理だろう。影浦にとって心的外傷トラウマ巣窟そうくつみたいなところだぞ。精神衛生上悪いに決まってる。影浦にさらなる交代人格を生み出してしまうかもしれんし」

 しかし、陽花にある疑問が湧いた。

「でも、だって、いまも養父母の苗字を使ってるって」

「養子関係は一応継続しているらしい。完全に名ばかりだと思うが。何らかの意図があるかもしれないけど、どうしてかは分からん」風岡といえども、完全には影浦のことを把握できていないらしい。

「影浦くんって、謎が多いわね」

「そうそう!」風岡は何か思い出したかのように目を見開いた。「謎と言えば、あいつの実の父だ。いや実の父と言うのか? 実の父だと言われている人間と血が繋がっていないらしいんだ」

「は??」どういうことなのか陽花はさっぱり分からなかった。

「ほら、陽花の好きな血液型だよ。俺、あまり遺伝のことは分からないからダメだけど、影浦のO型は、その実の父親と思われているその男と母親からは、生まれるはずがないらしいんだ」

「どういうこと?」

「つまり影浦は、自分は母親が不倫した男との間に生まれた子供だと思っている。だからあいつはひどく生みの母親を憎んでいるんだ。不倫して離婚した上に、自分を捨てたと言ってね」

「そんなことがあったなんて。アタシ、彼に悪いことしちゃったわね……」

 陽花は、四人で最初に集まったとき、血液型を話題に出したことをひどく申し訳なく思った。風岡はすかさずフォローした。

「知らなかったものはしょうがない。本人は陽花が思うほど気にしちゃいない」

「でも……」

 陽花は肩を落とした。サングラス越しでも少し泣いてしまったのが分かってしまったかもしれない。風岡が優しく肩に手を添えてきたが、その感触が痛いくらい温かかった。

「そんなに自分を責めるな。そしていまそんなことで落ち込んでいる場合じゃない」

「そ……そうだよね……ごめん、風岡」

「ざっと、俺が知っている影浦の情報はこれくらいだ。大城から連絡来たか?」

 陽花は優梨から連絡がないことを、風岡の指摘で思い出した。

「ないわ。風岡もない?」

「残念ながら。悪いがもう一度電話かけてみてくれないか」

「分かった」

 陽花は再度優梨に電話をかけてみた。予想していたことだが、先ほどと同じように電波が繋がらないか電源が入っていないとの音声を聞くだけであった。驚いたことに時間は午後二時四十分くらいを指しており、はじめに優梨に電話してから一時間ほど経過していた。その間に交番に行ったり顔を隠す用の帽子などを買ったり影浦の過去の話などを聞いたりして、かなりの時間が経っていたのだ。

「やっぱり、優梨は誘拐されたのかもしれん。これはいくら何でもおかしい」

「ああ……優梨! お願いだから無事でいて!」

 陽花も悪い事態を想定せざるを得なかった。今度は本当に涙が溢れてきて、思わずサングラスを外した。風岡はただ陽花に寄り添っていた。


「あ、そう言えば」と言って、風岡は手がかりになりそうな記憶を思い出した様子を見せた。「大城が影浦の秘密について思いついたとき、何か呟いていたな……」

「えっ?」

「確か、『赤い玉』、『紅玉』、『黒い猫』……って」風岡は詳細に覚えていた。

「『赤い玉』、『紅玉』、『黒い猫』……」陽花も反復した。

「あの黒猫って、どういう品種だろう? 何かを連想させるようなヒントがあったのかな?」

 すべては憶測でしかないが、少ない手がかりの中ではとにかくどんなことでも調べてみないことには始まらない。すぐさま陽花はスマートフォンを取り出して、猫の品種について調べてみた。

「え? 猫って百種類以上もあるの!?」陽花は驚いた。風岡も驚いた様子で画面をのぞき込んだ。そのサイトには猫の品種名が五十音順に列記され、それぞれの写真が並んでいた。

「知らない猫ばかりだ。何だ、このスフィンクスって猫、毛がないぞ。すげえな、猫なんて三毛猫くらいしか知らんかったよ。黒猫の品種はいるかな?」

「待ってね。この中で黒猫は、えっと、上から順に、アメリカンポリダクティル、キンカロー、クリッパーキャット、コラット、シャルトリュー、シャンティリー、ハバナ、バーミーズ、ボンベイ、マンダレイ、ヨークチョコレート、ロシアンブルー……」

「そんなにいるんかよ!?」風岡は漫才のツッコミのような声を上げた。

「いや、取りあえず黒い猫と黒っぽい猫が写ってる品種の名前を挙げてるだけだから。たまたまここに写ってる猫が黒いだけかもしれない。ほら、柴犬だって、茶色以外に黒いのもいるでしょ」

「確かに。じゃあ一個ずつ見て行こうか。大変だけど」

「じゃあ、まずアメリカンポリダクティル」陽花は猫の写真をタップした。すると猫の詳細な説明が表示された。

「え? この猫は指が多いのが特徴だって!? そんな猫の品種がいるんか。知らんかった。でも、特に毛が黒いとかはないみたいだな」

「はい、じゃあ、次はキンカロー」

 そのとき、隣のベンチで名古屋名物のういろうの三色団子を美味しそうにほおっている男がいた。それを見たのか、風岡の腹鳴ふくめいが聞こえた。

「風岡、まさかもうお腹空いたの?」

「いや、隣の三色団子が美味そうに見えたもんで」

「こんなときに、もう。何だか子供みたい……ん!?」陽花は目を見張った。

「ん? どうかしたか?」

「『紅玉』、『赤い玉』からアレを連想したのね」食べかけの三色団子を見て、陽花は呟いた。

「どういうこと?」

「そっか!」突然、陽花が手を叩きながら、声を大きくして言った。「風岡、この猫を調べましょう!」

「え? 何? どれ?」

「これよ!」陽花は画面をスクロールさせタップした。「えっと……この猫は、毛色はブラックのみ! 唯一の黒猫のみの純血種ですって! ほら来た! 優梨はたぶんこれを連想したのよ! そしておそらくこれが影浦くんの秘密よ!」

「何? 俺はまったく意味が分からないんだけど。影浦が特に猫好きだと言う情報は一度も聞いたことがないんだが」

「猫は関係ないの! 取りあえず説明は後回し! アタシもうろ覚えの知識だし、説明するにもとても難しいし、かなり長くなるのよ。でもこれならいろいろと辻褄つじつまが合うかもしれないの。そして、もし優梨が実際にさらわれたとしたら、ひょっとして奴らが珍しいものを目当てにしてそれを悪徳の売買に利用していたら、本当の目的は……優梨じゃなくて、実は影浦くんだったりして……!」

「マジか!?」風岡は仰天したように声を上げた。

「分からない。自信はない。でも、ひとつだけ言える。影浦くんはその秘密のせいで、助かる命も助からないかもしれない! だから影浦くんは奴らとこれ以上関わってはいけない。優梨が危険なことになるかもしれないっていう意味も分かるし、優梨がさっき行こうとしていたところも見当がついたわ。とにかく影浦くんに電話しましょう! ひょっとしたら優梨の居場所を知ってるかもしれないし、助けに向かおうとしているなら止めなきゃ! そして警察に言わなきゃ!」

「ごめん。俺には難しすぎて何もかもが分からんが、この際陽花を信じさせてもらう。影浦に電話するぞ!」

 風岡は、影浦の電話番号を履歴から呼び出した。

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