第五章 弥撒(ミサ)  2 優梨

 優梨のスマートフォンは空しくバイブレーション音が鳴り響いていた。

 見知らぬ車の後部座席の中央に揺られ、鞄の中のスマートフォンを見やった。しかし手は身体の後ろに縄でしばられ、そのうえさるぐつわを口にまされていたので、どうすることも出来なかった。

 右隣には、いつしかのスキンヘッドの男、左にはアイパーの男が座っていた。今回は眠らされたりすることはなかったが、前と同じくバッグバルブマスクを押し当てられ声を封じられたまま、二人の男に抱えられるようにして一気に車に放り込まれた。

 運転席には、なぜかカメラらしきものを首からぶら下げた小柄そうな男がいた。助手席には、真紅のジャージ姿の、生え際が黒くなった薄汚くて長い金髪で、せた体型の、しかし比較的若そうな女性が煙草を吹かしていた。後方の二人とは異なり、この二人はサングラスをかけていなかった。

 車の後部の窓には透明度の低いスモークフィルムが貼られていた。この色の濃さでは、外からではまず内部の様子は窺えないだろう。

「おい、バラボルフ。携帯の電源を切っておけ」

 スキンヘッドの男がアイパーの男に指図した。アイパーの男は黙って、鞄の中から無造作に優梨のスマートフォンを取り出した。もうバイブレーションは止まっていた。電源ボタンが長押しされ、ディスプレイは消えた。

 ところで、『バラボルフ』とはどういった呼び名なのだろうか。そして彼らはどういった団体なのだろうか。犯罪組織であるのは間違いないが、暴力団にしては、コードネームが似合わないし、自分のようなかたの人間を襲うことはあまりないのでないだろうか。となるとマフィアかギャングか。でも日本語をちゃんと話しているあたり、外国人っぽくない。今や日本で暗躍している組織もあるのだろうか。そのようなどうでも良いことが優梨は気になってきた。

 外の景色から察するに、名古屋駅の中心部付近を南下しているようだった。この道は確か川線がわせんと呼ばれる名古屋の主要道路だ。高速道路の下を走っているので間違いないであろう。

 優梨は嫌な予感がした。港に向かっている。直感的に、海に沈められて殺害されはしないだろうかと思った。

 車は六番町の交差点を通り過ぎた。影浦は、今日この近くのコンビニエンスストアでバイトしているという。さらにはもう少し南下した辺りの、地下鉄名港線の東海とうかいどおり駅付近からは大城医療総合センターが見えた。近くにいるはずの影浦や優梨の父を横目に見ながら、空しく車は通り過ぎて行った。

 さらに南下して名古屋港のポートビルが見えたところで、車は右折した。ポートビルは優梨が影浦と初デートした場所であった。優梨は何をされるのか分からない恐怖と戦いながらも、なるべく冷静に置かれている状況を、少ない情報から分析しようとした。心を少しでも落ち着かせるために、影浦との数少ない想い出に浸りたいくらいであったが、車は名古屋港ではない方向に向かって行った。

 この道路の行き先は……しばらく優梨は考えたが、道路の案内表示を見て思い出した。『きんじょうとう』だ。

 金城埠頭は名古屋港からさらに南南西に進んだ名古屋の臨海工業地域である。同時に催し会場であるポートメッセ名古屋やその他各種商業施設、名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線(あおなみ線)の終点として『きんじょうとう駅』を設け、さらには名古屋港湾の夜景を彩る『名港めいこうトリトン』と呼ばれる世界有数の長大斜張橋が三橋連立する場所だ。名古屋では名の知れた場所であるが、名古屋港駅からも8キロメートルほど離れた工業地域であるゆえ住宅地らしいものはなく、ポートメッセ名古屋や商業施設などに用事がない限りは、部外者はあまり立ち寄らない場所である。

 車の進む道からして、そこへ向かっているのは間違いなさそうな気がした。そこに連中のアジトがあるのだろうか。

 取りあえず、優梨はどこに自分を連れて行く気なのか、どうするつもりなのか訊こうとして発声を試みた。当然ながら猿轡のせいで口が思うように動かせず、モゴモゴとしか話せなかった。

「お前! 黙ってろ!」

 スキンヘッドの男が左手で、優梨の脇腹を殴った。男にしては少しの力だったのだろうが、それでも優梨のような細身の女子高生にとっては大きな衝撃であり、前屈みになって悶えてうめいた。

「オーガ! 何やってんだ!? バンに見せるまでに傷モンにすんな!」助手席の女がイライラした様子で言った。顔立ちからして若くて、凛々しい顔立ちはしっかり化粧すれば美人だろうが、歯は着色して黄ばんでいて、ヤニの臭いが漂ってきた。そして耳や鼻や舌に複数のピアスが付けられていた。

「カーミラ! このアマめ!」オーガと呼ばれた男が怒鳴った。

「おめぇ、バカか! この女子高生は大事なサンプルだ。それに、あの坊やを引き出す大事なキーパーソンだ。忘れたか、このハゲゴリラめ!」カーミラと呼ばれた女は怯むことなくせいを言って返した。

 サンプルと言うことは、やはり自分は血を抜かれるのだろうか。しかし、それ以上に気になったのは、『坊やを引き出す』というフレーズだ。『坊や』ということは、子供だろうか。いや、優梨に子供でこれと言って特に親しい人間は思い当たらなかった。ましてや、明らかに堅気ではなさそうな人間の標的にされるような子供などは尚更のことであった。

 ひょっとして、弟の純祐だろうか。純祐は中学二年生だから若い。だから献血の対象として選ばれたのか。でも、何だか理由がしっくり来なかった。若いというだけなら、別に敢えて弟を選ぶ理由もないだろう。そして何ゆえそれまで若い女性ばかりだったのに、今度は男なのだろう。ここに来て疑問がまた増えてしまった。

 一方で分かったことは、メンバーのうちの何人かのコードネームだ。

 スキンヘッドの男は『オーガ』、助手席の女は『カーミラ』だ。これらは海外の妖怪の名称である。『オーガ』は人喰い鬼。そして『カーミラ』は女吸血鬼だ。『吸血鬼』とだけあって、優梨は自分の血液を抜き取られることをやはり覚悟せざるを得なくなった。

 アイパーの男は『バラボルフ』と呼ばれていた。最初は意味が分からなかったが、妖怪から類推すれば、実は『バラボルフ』ではなくて『ヴァラヴォルフ』。元は『ウェアウルフ』、つまりおおかみ人間であろう。呼び名の発音からドイツ語読みではないかと推察した。

 運転手の男のコードネームは会話中に登場せず、依然として不明のままであった。

 そしてもう一つ、たぶんボスと思われる男の存在だ。『バン』とカーミラは言った。いや、ひょっとして『ヴァン』かもしれないが。『バン』とか『ヴァン』という妖怪は、優梨は聞いたことがない。一体何なのか優梨には分からなかった。

 以上より、少なくとも五人の構成員の存在が推量された。そして、自分が献血対象であるという推理は、確信へと変わりつつあった。


 車が埠頭内のどこかの敷地に入った。徐々に減速し、アジトというにはあつらえ向きの廃工場のような建物の前に停車した。

 車から降ろされ、オーガとヴァラヴォルフに腕を強く掴まれて、廃工場の中に引っ張られた。

 廃工場の内部は広く天井も高かった。パイプ、バルブが無数に張り巡らされ、さらに圧力計や何かの貯槽などが多数に設置された鉄の迷路のような無機質な内観であった。窓から射し込む自然光が思ったよりも明るく、中に蛍光灯でもあるような錯覚に陥った。しかし、空気はほこりっぽく、何かの薬品のような独特の異臭が立ちこめていた。

 優梨は鉄製の大きな支柱に、今度は身体ごと縄でくくり付けられた。代わりに、猿轡は取り外され、発言が出来るようになった。

「あなたたちは、何をするつもりなの?」優梨はおそるおそる問いかけた。

 カーミラが優梨の前に立った。

「なるほど。これはかつてないほどのじょうだまだね……こいつは一儲けできそうだ。そして、あのイケメン坊やと繋がっているとはね。楽しくなりそうだよ」

 そう言いながら、カーミラは優梨の顎先を右手の親指と人差し指で軽く挙上して不気味な笑みを浮かべた。俗にいう『顎クイ』と呼ばれる動作だが、堅気でない、しかも同性にそれをされたところで快感はまったくなかった。

「私の質問には答えないの?」

 優梨が言うとカーミラの形相が変わった。

「おい! 許可なく勝手な口聞いてんじゃねーよ。ここまで目隠しをされずに連れてこられたことがどう言うことか分かるか? え!? あたいたちの顔をさらしているわけだ。ということは、こちらはてめぇを解放する気などさらさらないということだ。少しでも生き長らえたければ大人しくしてろ!」

 絶望的な言葉であった。普通は、解放されたければ大人しくしていろ、と言うべきところだと思うが、この場合の二者択一は、役目を終えてさっさと死ぬか、一生ここで喰い物にされるか、ということなのか。冗談じゃない。

 カーミラは続けた。

「まず、あんたにはやってもらわないといけないことがある。あの坊やだ。あの坊やをここに呼び出すんだ」

「……坊や?」

「三日前に、あたいたちに楯突いた若い男だ。リザードマン! 写真見せろ」

 三日前と言えばもう二人しかいない。風岡か影浦か。先ほどイケメンというフレーズが出たが、これは各々の主観が入るから、何とも言えない。しかし、イケメンとは関係なくこの二者択一ならもう何となくどちらなのか予想がついた。

 運転手の男が、首にかけられていたビデオカメラを開いて撮影した写真を見せてきた。運転手のコードネームは『リザードマン』であるらしい。

 写真は紛れもなく影浦であった。予想通りであった。この表情は『夕夜』のものだ。三日前、犯人たちを撃退した後にフラッシュがたかれたようだが、このときに撮られた写真だと推測できた。坊やとは影浦のことだった。一見若そうなカーミラにとって、高校二年生の影浦は『坊や』扱いなのか。ちょっと違和感があった。しかしながら、やはり影浦には秘密があることは間違いなさそうだ。

「この坊やはダチかなんかだろう。あんたの携帯電話で呼び出すんだ。電話番号くらい、今の学生ならしっかり交換してるだろう?」

 ここで、友達ではない、携帯電話の連絡先など知らないと、シラを切ろうか一瞬迷った。しかし、三日前の状況を思い出した。優梨と陽花を救出した後に写真を撮られているということは、その後の影浦や風岡たちとの会話を聞かれているのは間違いなかった。優梨と影浦が親密だということも把握されていれば、連絡先など知らないのは嘘だと言われて、下手したらそのまま殺されるかもしれなかった。しかも、優梨は『影浦瑛』と本名でアドレス帳に登録している。この連中がどこまで情報を把握しているか分からないが、名前が割れていれば結局のところ優梨のスマートフォンの電話帳から検索されてしまうまでなのだ。

「連絡先は知ってるんだろう!?」カーミラは怒鳴るように再び問いかけた。

「……れ、連絡先は知っているわ」優梨は、弱々しく答えた。

 カーミラは優梨の鞄を探りスマートフォンを取り出して、電源を入れた。

「フン。いかにも今どきの女子高生だね。生意気にデコレーションしやがって」カーミラは鼻で笑った。「さあ、電話帳から坊やの番号を、口で指し示せ」

 優梨は疑問に思った。奴らは影浦の顔は知っているが名前は知らないのか。相手に情報を与えるような真似はどうしてもしたくはなかったが、優梨は言わばじょうこいの状態であり、言いなりになるしかなかった。

「か……影浦瑛」

 カーミラは電話帳の画面をスクロールさせた。『影浦瑛』の項目を見付けて番号を表示させた。

「これだな。今は影浦というのか。珍しい苗字だな。この番号で間違いないな」

「そ、そうよ」

 今のカーミラの発言から、瑛という名前は知っているものの、現在の苗字は把握していなかったことになるか。養子に入る前の旧姓の時代に何かしらの繋がりがあることが考えられた。

「いいか。今からこの番号に電話する。お前は、影浦瑛を呼び出すんだ。ポートメッセ名古屋で彼の興味を引くようなイベントをやっているとでも言え。絶対に怯えているような声を出すな」とカーミラは言って優梨をめつけた。

「興味を引くイベント?」

「そうだ。何か趣味のひとつくらいあるだろう」

 影浦の興味を引くようなイベントについて思い出そうとした。しかし付き合いがまだ浅いため、彼の趣味が一体何なのか聞いたことがなかった。そんなことなど気にする様子もなく、勝手にカーミラは影浦の番号に電話をかけて、考える暇なく優梨の耳に押し当ててきた。

 でも、影浦はアルバイト中のはずだ。優梨は電話に出ないだろうと思った。そして、どうにか電話に出ないで欲しいと思った。電話に出て呼び出すことになれば、彼を危険な目に遭わせるのは必至だ。しかし、誰かが助けに来ない限りは、この状況を打開できないのも事実だ。複雑な心境だった。

 複数回の呼び出し音の後、予想に反して影浦が電話に出た。優梨は天を仰ぎたくなった。

「あ、もしもし瑛くん? きゅ、急にごめんね。いまバイト中だったよね? あ、休憩中だったかな? あ、実は今夜、ポートメッセ名古屋で、えっと……せ、聖飢魔Ⅱのミサが急遽行われるみたいで、チケットを二枚もらったんだけど……私も興味あるから、来てもらえるかな」

 優梨は、影浦を電話でやり取りをした。一分くらいの通話を終えて電話が切られた。その後、カーミラによって再度スマートフォンの電源を落とされた。

「来てくれるそうよ」

「おめぇよぉ。ポートメッセ名古屋のような狭い会場でライブやるかよ。もう少しマシな嘘つけや。まあいい。坊やも坊やで、こんな分かりやすい作り話で釣られるとはね。で、何時頃になる?」

 ポートメッセ名古屋の野外特設会場があるではないかといちいち反論しようとは思わなかった。優梨は素直に質問に答える。

「たぶん、夕方五時半過ぎ、と」

「遅いな」

「五時まで用事があるそうよ」

「そっか。しかし、聖飢魔Ⅱのファンとは驚いた! はっは! あたい、そういう男嫌いじゃないね!」

 カーミラは品のない笑い方でこうしょうした。その笑い声は、非常に優梨の生理的嫌悪感を掻き立てるものであった。

 それにしても、なぜ影浦を呼び出そうとしているのだろうか。優梨が連れ去られる直前に閃いた、影浦の秘密が関与しているのだろうか。しかし、その秘密は、思いついただけで誰にも話していないから、誰かに聞かれたわけでもない。影浦本人も知らない内容なのだ。

 今は二時半。陽花や風岡はどうしているだろうか。突然いなくなり連絡が取れなくなったことで、慌てていることであろう。

 影浦は五時半過ぎに来ると言う。影浦が来る以上、やはり助けてもらえることを期待せざるを得なかった。三日前に見た『夕夜』の強さは目を見張るものがあった。しかし、今回は敵のアジトだ。他にも多くの仲間が潜んでいるだろうし、場所が場所だけに助けを呼べるような環境ではなさそうだ。

 影浦が来るまで、予定ではあと三時間余りだ。これからやはり奴らの思う存分に優梨の生き血をふんだくられるだろうか。影浦が優梨を助けられない場合、それは永遠のものになるかもしれなかった。我に返ると、やはり背筋が凍る思いであった。いくら優梨が二面性のある性格であったとしても、これは恐怖以外の何物でもなかった。

 奥の方からもう一人、廃工場の中に入って来るきょうおんを感じた。そしてカーミラがその人物に言った。

「バン。ただいま、ドナーの一人を連れて来ました」

「カーミラ。ご苦労さまでした。ワーラットは?」

 『バン』と呼ばれた人物は、カーミラや他の男たちに比べると実に落ち着いた口調であった。しかも驚いたことに声色は女性であり、不気味な穏やかさを内包していた。

「西口で待機させています」

 新しいコードネームが出て来た。西口とは名古屋駅西口だろうか。離ればなれになってしまった風岡や陽花は大丈夫だろうか。今更ながら気になった。

 『バン』と呼ばれた人物が近付いてきて優梨の前に立った。

「まぁ何と美しいお嬢さんでしょうこと。しかもあなたがミドリさんの坊やのお友達なのね。今夜はこれまでにないほど楽しいカーニバルになりそうね!」

 『バン』と呼ばれた人間は、優梨も見たことのある貴婦人であった。

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