第四章 孟買(ムンバイ)  8 優梨

 三日後、世間ではお盆休みが終わっていた。

 蝉の大合唱は少し勢いを弱めたが、まだまだ夏の蒸し暑さは健在の日々であった。

 優梨と陽花は夏期講習で同じセミナーを受講していた。

 場所は名古屋駅。三日前に襲われた現場から徒歩圏内にその予備校はあった。優梨も陽花も、まだあの事件の恐怖の映像そして感覚は、鮮明に身体および脳裏に焼き付いていた。名古屋駅の西口に立ったとき、そこから一歩外に歩き出そうとしても、思わず足がすくんでしまった。しかし、高い受講料を払ってもらって受けている夏期講習も、それなりに大事であった。夏期講習は午前中であるので、まず大丈夫だろうとは思ったが、一応ボディーガード役として風岡に名古屋駅からの行き帰りに付き添ってもらっていた。優梨は赤の比較的目立つチュニックカットソー姿であった。そのファッションと風貌から、周囲から本当に有名女優の護衛をしているようにも見えたかもしれない。なお、犯人の多くを撃退した影浦は、アルバイトのため都合が付かなかった。児童養護施設に入所している影浦にとって、アルバイトの収入は必要不可欠だ。

 時間は午後十二時半。三人は予備校のすぐ近くのマクドナルドで昼食をとっていた。

「あの講義、全然意味分からんな。どういうこっちゃ?」と風岡は二人に言った。

「あの講義って?」陽花が聞き返す。

虚数きょすうだのふく数平面すうへいめんだの何あれ? あんなの勉強して意味あるのか?」

 影浦がいれば二人で時間を潰すための選択肢がいろいろ思い浮かぶだろうが、風岡ひとりだけでは時間を潰すための有効な方法が思いつかず、仕方なく優梨と陽花の受講しているセミナーに潜り込んだのだった。

 陽花は答えた。

「ある二次方程式は実数解を持たないけど、『解なし』じゃ困る。どうしても解が欲しいときに意味があるの」

「???」風岡は内容がまったく理解できません、という表情をする。

「解がないところに解を見出す。それが虚数解」

「だから虚数なんてものが必要なのかな?」

 優梨が代わりに答えた。

「最初、自然数、つまり1、2、3……の概念しかないとする。するとx+3=3またはx+3=2という方程式は解けない。これを解けるようにするため0やマイナスという概念が出来ました。これが整数ね。でも2x=1という方程式が解けないよね。これを解けるようにするため分数が生まれました。整数を含めて分数で表現できる数が有理数ね。でもこれではまだxの二乗=3という方程式は解けない。これを解けるようにするため無理数が生まれました。有理数と無理数を合わせて実数。でもxの二乗=−1という方程式はまだ解けない。これらを解けるように考え出されたのが虚数や複素数なの」

「ごめん。どうしても俺には屁理へりくつの様にも聞こえちゃうな」

「確かに最初は私もイメージが付きにくかったわ。虚数は想像上の数。つまり実態を持たない数。でも、虚数という想像上の数をしつらえた世界のほうが、『解なし』としてそれを仮定しない世界よりも、便利で実用性が拡がったことが判明したのよ。虚数は、平面上に描記すると合理的に幾何学的な意味付けを与えることが出来るわ。これが複素数平面という考え方ね」

 優梨は紙とシャープペンシルを取り出して図を書き始めた。

「x軸つまり実軸は一般的な数直線で、y軸はそれに直交する純虚数を表す虚軸とする。実軸上の1を−1倍すると、0を中心に180度左回りに『回転させる』と考える。でもiの二乗=−1だから、1から0を中心に左回りに90度回転させれば良いだろうと考えて、つまり虚軸上にiを定義したの。そうすることでa+biで表される複素数も複素数平面上に置くことが出来るの。一次元だった数直線を二次元にすることによって複素数まで表せることになった。それが大きいのよ。これによって二つのパラメータを有する、例えば家庭用の交流電流なんかは、出力の振幅と位相を複素数平面上に置くことによって驚くほど簡単に計算が出来るようになるらしいの」

「うーむ。難しいが、今の説明でちょっとは何となく分かったような。とにかくすごいと言うことは分かった。でも陽花も大城も、何かとてつもなく高度なことを勉強しているんだな。俺やっぱ文系で良かったよ。日本史や国語ならちょっとは解けるんだけどな」

「いや、文系でも複素数平面は範囲だったでしょ?」と陽花は言った。

「えっ? 嘘!?」

「昔は数Bで教えられていたらしいからね。今は数Ⅲの範囲だから大丈夫! 良かったね! 風岡!」

 陽花が笑いながら風岡の肩を叩いた。からかっているのか慰めているのか、優梨には分からなかった。

「昔の話かよ。もう驚かさないでくれよ」

 勉強の話になると、風岡は女性陣二人に手も足も出なかった。

「まあ、こうして仲良くなったし、一応、ボディーガード役も引き受けてもらっているし、勉強のことなら、いつでもアタシたちが教えてあげるよ!」陽花はニヤニヤと得意気な表情をした。

「一応って何だよ……」風岡は気色ばんだ。

「『アタシたち』って、私も? 別に私も教えるのは良いけど」優梨は少し戸惑いながら言った。

「あ、優梨は影浦くんにか! ごめんごめん。でも良かったな! アタシたちのような美人による勉強の個別指導が受けられて! 夢かドラマのような世界じゃないか! 風岡!」陽花は風岡の肩をまた強く叩いた。

「い、痛いって! もう、自分で言うなよ……」風岡は呆れた表情で、思わず失笑した。

 優梨は、本当にこの二人はお似合いの組み合わせだと思った。


 三人は外に出て名古屋駅へと歩みを進めた。時間は午後一時半になろうとしていた。

 猫が歩道のビルの陰で休んでいた。全身漆黒しっこくだが均整の取れた体格であった。そしてつややかな毛並みでこんいろの瞳が印象的な美しい猫であった。

「あら、猫ちゃん。こんにちは。可愛いね! こんなところでお散歩の休憩中かしら?」

「名古屋駅で野良猫だなんて珍しいな。あまり見ないよな?」

「この子は首輪を付けているわ。飼い猫よ」

「黒猫って、不吉の象徴だろ? 大丈夫かな」

「何言っているのよ。そんなの迷信よ。迷信! この黒猫ちゃん、めっちゃ可愛いし、すごく人懐っこいわよ」

「優梨は本当に猫に目がないね。『メッチェン』がヤキモチ焼くわよ」

 風岡と陽花の指摘を無視して、優梨は黒猫に語りかけながら撫でたり抱っこしたりしていた。黒猫もそれに応えるかのように優梨に懐いていた。こうなってしまったらしばらく終わりそうにない。仕方がないので、陽花と風岡は二人で喋り始めた。

「風岡。あの『聖飢魔Ⅱ』の何て曲だっけ? 夕夜くんが歌ってたという……」

「えっと、確か『赤い玉の伝説』……」

「そうそう! あの曲、ネットで聴いてみたんだけどさ! カッコいいよね! 他の曲も良い曲だし、シャウトもシビれたね!」

「本当かよ!」

「『アダムの林檎』も良かった! アタシも『ミサ』に行ってみたくなった!」

「『ミサ』に行くと、こうぎょくが食べたくなるらしいぞ」

 そのとき、優梨は急に立ち上がった。と同時に、たとえるなら脳に電撃が走ったような感覚がした。

「え! まさか!?」

「えっ!? 何? 優梨。どうしたの?」

「大城、どうした?」

「『赤い玉』、『紅玉』、そして『黒い猫』……」優梨は陽花と風岡の問いかけには答えず独りごちた。頭の中で、影浦が以前話してくれた様々なフレーズが現れては、それが面白いように瞬間的につながろうとしていた。

『実の父親と思われる人からは生まれてこないはず』

『あの女も僕と一緒でO型らしいよ』

『病気がちだった僕』

『身体も弱くてよく風邪を引くし、しょっちゅうくらみだって起こる』

『昔からあざが出来やすいんだよね』

『影浦という苗字を今後も変えないように』

 そして『虚数解』……

 そう、影浦は優梨にとっての『虚数解』であった。影浦と以前話したときに教えてくれた不思議な発言が、ずっと優梨の頭の中で謎となって残って引っ掛かっていた。それがやはり本当であれば、影浦は理論で説明できないような、人智を超えた生命の神秘そのものではないだろうか。影浦は理屈を超えた存在なのか。解離性同一性障害といい、本人すら知り得ない謎といい、へいはあるかもしれないが、影浦に優梨はけいの念すら抱いていた。

 しかし『虚数解』と思われていた不可解な現象が、様々なキーワードを足掛かりにして一本に繋がり、意味を持ちはじめ、優梨の脳内で実数化しようとしていた。

「そっか! そういうことだったのね!!」

 優梨は一人で大きい声を上げて納得した。そして一足先に優梨は歩き始めた。

「だから、どうしたっていうのよっ!」陽花も大声で訊いてきた。風岡もかなり困惑していた。

「陽花、風岡くん! 瑛……いや、影浦くんの秘密が分かったのよ! しかもとんでもない秘密を抱えているかもしれないの。しかもその秘密は本人も知らないことなのよ!」

「は? どういうこと?」陽花の表情はいかにも不可解そうだ。

「話すとかなり長くなるわ! 悠長にしていられないかも! 三日前の事件を考えると、もしかしたらとても危険なことになるかもしれないわ! どうしても急いで確認しなくちゃいけないことがあって……今から名駅のタワーズの……また後で連絡するね!」

 ちょうどどこからか大きなクラクションの音が聞こえて、優梨の『タワーズの』の後に続くフレーズが掻き消されて伝わっていなかった。

「え!? ごめん! 優梨、もう一回言って!」

 しかし、陽花の声が伝わらなかったのか、急ぎ足で優梨の言う目的地に先に行ってしまい、曲がり角を曲がって視界から消えてしまった。

 陽花と風岡も急いで後を追った。曲がり角を曲がると、もうそこには優梨の姿は忽然こつぜんと消えたように見えなくなっていた。まるで神隠しに遭ったようであった。陽花は大声で呼びかけた。

「優梨ぃー!!」

 応答はなかった。

 二人の隣を黒いセダンが走り去って行った。優梨はこんなにも早足で行ってしまったのか。二人は途方に暮れていた。

「何だか不吉な予感がするのだが……」

 風岡はそう呟いて、陽花の顔を見た。

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