第四章 孟買(ムンバイ) 7 優梨
一同は会計を済ませた後、店を出て名古屋駅へと向かった。八月とはいえ、お盆ともなると、西の空はまだ若干明るくとも東の空はさすがに暗くなってきていた。日の入りの時刻も過ぎたであろう。
この辺りは、名古屋の繁華街である。十八歳未満が立ち入れない店の入った雑居ビルが林立していた。
風岡は、近くのコンビニエンスストアに入りたいと言った。どうやら話に集中しすぎてレストランで小用を足すことを忘れていたようだった。影浦も同様であった。影浦も風岡のあとに続くように、二人店内に入っていった。
コンビニエンスストアの前のゴミ箱が散らかっており、与太者風な輩が集まっていたので、店から遠い位置で陽花と優梨は待機していた。店から遠い分、その光が届きにくく暗い場所であった。
すると背後からいきなり二人組の大柄な男が現れた。一人はスキンヘッド、一人はアイパーの髪型で、二人ともサングラスをかけているようだった。スキンヘッドの男は優梨に、アイパーの男は陽花に一人ずつ抱きつくように腕を回した。動きを封じ込められたかと思うと、声を上げる隙も与えられず、スキンヘッドの男は左手で優梨の口にマスクを強く押し当てて、そのまま路地に抱えられるようにして引き摺られた。マスクといっても、呼気がまったく外に漏れないようにゴム製の枠で口と鼻の周囲の皮膚と密着できるような代物であった。ちょうど心肺蘇生に使うバッグバルブマスクのような形をしていた。声を上げても、それを外に届かせることができなかった。大きなはずの陽花の声すら聞こえない。しかし、そう言った意識も
しかし、聞いたこともないような怒声が聞こえた。風岡と影浦だった。風岡は陽花を絞めつける男に、影浦は優梨の方の男に、それぞれ襲いかかった。いや、あの
風岡はかつてラグビー部で仕込まれたと思われるタックルで、アイパーの男を突き飛ばして
一方の夕夜も、優梨の身体に当たらない様にわずかの隙間からスキンヘッドの男のオトガイを狙い、強力な左アッパーカットを放った。優梨を眠らせることに意識を集中させていた男は防御のしようもなく、この一撃で崩れ落ちて、優梨から身体が離れた。優梨を安置し風岡を助太刀しようとした。しかし、男の仲間と思しき取り巻きの二人が優梨を
風岡は完全に力を失ってしまった陽花を
しかし、アイパーの男はすぐに立ち上がりたまたま近くにあった鉄パイプを掴み取った。夕夜に向かって勢いよく鉄パイプを
なおも、夕夜はとどめを刺すかのように鉄パイプを振り上げた。
「やめて!!」優梨は朦朧とした意識の中、渾身の叫び声をあげた。
夕夜は動きを止めた。隙を見て二人の男は慌てて逃げて行った。
夕夜は、少し冷静さを取り戻したかのように先ほどの凍てつくような目付きから少し温かさが戻ったように見えた。そして優梨の方へと近付いてきた。
「大丈夫か!」夕夜は尋ねた。
「わ、私は大丈夫だけど陽花が……」
そう優梨は答えたが、身体が動かず言うことを聞かなかった。
風岡は、意識を失っている陽花に、ぎこちない様子で陽花に人工呼吸を試みようとしていた。夕夜はパシっと風岡の頭をはたいた。
「痛っ! 何だよ!」
「馬鹿か! 呼吸している人間に人工呼吸をやる奴がいるか? この変態野郎が!」
「え?」
「こいつは寝ているだけだ。見ろ! 胸郭が上下に動いている」
よく見ると、その通りであった。夕夜は続けた。
「犯人は、こいつらを襲った二人の男。それからそのあと優梨を攫おうとした二人。うち一人は女のようだ。あともう一人いたかもしれん。ビデオカメラのようなものを首からぶら下げていた奴」
「そんなにいるのか」風岡は訊いた。
「複数犯だ。五人は最低でもここにいた。寝かせるために使っていた道具といい、複数の実行犯がいるところといい、いかにも組織ぐるみの犯行くさいな」
「セボフルラン……」優梨は言った。
「ん?」
「あれは確か、吸入麻酔薬のセボフルランの匂いだわ……」
「なるほど、そんなたいそうな物をお持ちとは。おもしれえ。おそらく劇薬だろう? こいつは医療機関との癒着もあるかもしれんな」夕夜は不敵な笑みを浮かべる。
「まじか……」と、風岡は呟いた。
そのとき、一瞬
「こん中の誰が目的かは知らんが、写真を撮られたようだぞ」夕夜は含み笑いを見せながら続けた。「まだ何か起こるかもしれ……」
そう言いかけた後、夕夜は眉間に皺を寄せ少し苦悶の表情を見せて
「おい、どうした?」と慌てて風岡が訊いた。
瑛は気を失ったかのように眠った。
「こら! お前まで寝てどうする? もうどうしようもない奴だな……」
しばらくすると、優梨も身体が動き始めた。陽花も覚醒しつつあった。
「あ、何なの? これ? 何か後ろから誰かに襲われたような……でも全然そこから憶えてない」
「大丈夫。何もなかったわ。風岡くんと影浦くんが助けてくれたの」
「……」
まだ陽花は寝惚けているようだった。
「おい、影浦! 起きろ! もう眠り姫たちはお目覚めだぞ!」
風岡は影浦の顔を数回叩いた。
「何? 眠り姫って!? 死ぬかと思ったのよ」優梨は苦言を呈した。
「いや、それを言うなら、まず影浦にお礼を言ってやってからにしてくれ。最初に襲われているのを気付いたのは影浦なんだ」
優梨は礼を言っていないことに気付いた。
「瑛くん、夕夜くん。ありがとう」影浦の二つの人格にお礼を言ったあと「もちろん風岡くんもね」と付け加えた。
すると、呼応するように瑛も目を覚ました。
「お、起きたな。こいつめ。やっぱり最愛の彼女の声じゃないとダメだな! この!」と風岡は笑った。
「風岡。ありがとう」
陽花もお礼を言った。まだ意識は完全に回復していないようだが、その目にはうっすらと涙を浮かべていた。風岡は照れた様子だが隠すように言った。
「よし、もーちょっとしたら行こまい。こんなところをうろついていたら危ない。そして俺たちから離れるんじゃないぞ」
「こら、風岡くんよ! もともとあなたがトイレに行きたいって離れたんじゃなくって?」優梨もようやくツッコミを入れるくらいの余裕が出てきた。
「細かいことは気にしない。交番に行くぞ」
身体が回復するのを待って、一同はゆっくり交番へ歩き始めた。
交番では、しっかりと事情聴取を受けた。
確実に影浦は門限を破りそうであった。警察官から、児童養護施設『しろとり学園』に連絡が入れられたようだ。
優梨や陽花も親に連絡を入れた。さすがの非常事態だけあって、優梨の母もひどく心配した。まだ義郎は帰宅していなかったようだ。B型肝炎の調査を行っているのだろうか。
警察の話では一連の事件と今回の事件とで、手口が共通しているようであった。B型肝炎ウイルスの件や『生命探求の会』についても伝えようとも思ったが、憶測の域を出ないものとして迷った
だが、その後さらなる事件に巻き込まれようとは、優梨は想像だにしていなかった。
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