第四章 孟買(ムンバイ)  5 義郎

 義郎は、内科病棟に来ていた。担当病棟看護師を引き連れて、リノリウムの床を歩き、その患者の個室をノックした。

「失礼します。とうさんですね。救急科の大城ですが少しお話良いですか?」

「はい。何でしょう?」

 加藤と呼ばれた中年女性が返事をした。

 加藤には診察を開始した当初からうつびょうの傾向もあり、心療科のだち医師に診察依頼をお願いしていた。そのカルテ記載によると、加藤は上流階級と言っていい家庭に暮らす専業主婦であったそうだ。良識ある夫と二人の息子に恵まれ、経済的にも不自由なく、客観的に見て申し分のない幸せな生活を送っていた。しかし、息子の進学について夫婦間で喧嘩が絶えず、また夫の帰宅が数年前から遅くなったことによって、不倫をしているのではないかとかんるようになり、ストレスの蓄積する日々を送っていた。以前は化粧やファッションにも気を遣い、美意識の高い奥様として知られていたが、度重なるストレスによる暴飲暴食のせいで体型が維持できなくなったという。泣きっ面に蜂と言わんばかりに、今度は糖尿病をわずらってしまい、それがさらなるストレスのトリガーとなり、急激な肌荒れを実感していた、と記されていた。顔の所見としては、歯周病で何本か歯が欠損し、乱れた歯列と、退縮を起こした歯肉を見ると、残念ながら実年齢よりも幾分か老けているように見える風貌であった。

 加藤は主治医とは違う医師、しかも大城と名乗るいかにも院長と思しき医師の突然の夕食どきの訪問に、かなり驚いた様子であった。

「驚かせてしまったようで申し訳ありません。主治医の渡辺先生にもご相談した上で、こうして加藤さんのお部屋に伺っております。こんな時間にすみません。ご無礼をどうかご容赦ください」

 義郎は軽く頭を下げた。加藤は黙っていた。

「あの、つかえなければ教えて頂きたく思います。実は、最近あなたの疾患と同じ疾患の方が相次いでお見えになっているのです。もちろん院内感染ではありません。当センターは、感染対策には徹底して力を入れていますから」

「はあ」

「我々は、どうして次々に発生しているのか。地域保健対策推進の観点から、この原因を究明する責務があるのです。どうしても答えたくないことは答えて頂かなくて構いませんが、できれば教えて欲しいのです」

「何を教えるのですか?」

「お尋ねしますが、最近どこかで輸血、もしくは医療機関以外で注射針を身体に刺したご経験はございますか?」

「あ、ありません。本当です」

 その声はややどもっていた。やや狼狽うろたえている様子であった。

「あと、『生命探求の会』という言葉をお聞きになられたことはありますか?」

 加藤は目を見開いた。

「ど、どうしてそれを……」

「ご存知ですか」

「で、でも私は注射をしていないです。定期的に受けている採血だけです。それは事実です! 申し訳ありませんが、これ以上はどうしても話したくはありませんので、どうかお引き取り願いませんでしょうか?」

 加藤は懇願した。

「分かりました。お時間を取らせてしまいすみませんでした。失礼します」

 義郎と看護師は、再度頭を軽く下げて部屋から辞去した。


 加藤の主治医である渡辺医師に連絡した後、センター長室に戻り携帯電話を取り出した。履歴から『優梨』を探した。

「優梨か。たびたびごめんな」

『ひょっとしてもう訊いてきたの?』

「そうだ。早いところ解決した方が良いからな。どこかで蔓延まんえんし続けていたら大変なことだ」

『で、どうだったの?』

「半分だけ正解だ」

『半分だけ?』

「おばさんは、おそらく間違いなく『生命探求の会』に関わっている。たぶん、入会しているだろう。それは間違いないと思う」

『やっぱり。そうだったんだ!』

「でも、輸血を受けたり、注射針を使用したりはしていないそうだ。あの答えっぷりからするとどうやら嘘はついていなさそうだ」

『え、ウソ!?』

 電話越しで優梨は、ひどくビックリした様子だった。

「でも何か隠しているかもしれない。どうやら本人は答えたくないみたいで、それ以上のことは聞き出せなかった」

『分かった。連絡くれてありがとう』

 そう言って、優梨は電話を切った。


 義郎は、優梨からの指摘で『生命探求の会』のホームページを開いたとき、その記載内容から激しいぞうを抱いた。

 会がうたっているアンチエイジングの原理を見たとき、かの有名なインパクトファクターの高い国際ジャーナルの論文が引用されていた。

 以前、この研究について発表されたときは、義郎も論文の内容に興味を持って目を通した。非常に素晴らしく画期的な内容で、臨床応用されるいつかその日を、楽しみに思ったものであった。これで認知症や心疾患などの予防が果たせれば、どれだけ多くの人間のQOL(Quality of Life;生活の質)とADL(Activities of Daily Living;日常生活動作)が向上できるだろうか。しかし、実際にこれがヒトのレベルで適用されることは、安全面、倫理面など大きなクリアすべきハードルがあることは言われずとも理解している。特に日本で認可されるのは、相当先なことであるのは間違いないだろう。

 ところが、『生命探求の会』ではもう既にその手法を取り入れている。ヒトでの応用はまだ研究段階のはずだ。アンチエイジングの手法の一つとしてこの原理を勝手に都合良く解釈して、本当に若い人の生き血を勝手に美容目的にて信者に転用しているのであれば、それは献血してくれた人々の良心をにじる許されざる冒瀆ぼうとくである。

 義郎には、輸血に関して苦い思い出があった。あれはかれこれ十年以上前になるだろうか。まだ、大城医療総合センターが『大城病院』という名の頃であった。一人の若い女性がトラックにかれ大量出血で搬送されたが、搬送されたときには意識は失いかけつつも、まだ息があった。しかし、運悪く彼女の血液型のRCC(赤血球濃厚液)が不足しており、命を救うことが出来なかった。ちょうどその日、同じ血液型のRCCを他の患者に使用して、足りなくなってしまったのだ。彼女の、遺言を遺すかのように最期に呟いた言葉が印象的であった。

 実際、輸血が出来たとして、本当に彼女を救うことが出来たかは誰にも分からなかった。しかし義郎は、最善の処置を行えなかった罪悪感にさいなまれることとなった。

 それから院内備蓄をよりじゅんたくにした。いつ何時なんどきでも、どの血液型でも対応できるようにした。それによってこれまでたくさんの命が救われてきたと思っている。義郎は輸血の有効性、重要性をとても理解していたし、スタッフにもなるべく献血をしに行くように勧めている。

 その重要な血液製剤を、私腹を肥やすためだけに安全性も中途半端に勝手に利用しているとはいかがなものだろうか。もしこれが事実で、しかも今回のB型肝炎ウイルス感染の連鎖に関連しているとなれば、やはり糾弾しなければならない。義郎にそんな使命感が湧いてきたのであった。

 

 しかし、加藤は注射行為を行っていないと言った。嘘をついていないという保証はないが、おそらくあの目からすると事実だろう。それでも、何かを隠しているような気がしてならなかった。そして何となく不吉な予感がしていたのも事実であった。

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