第四章 孟買(ムンバイ) 5 義郎
義郎は、内科病棟に来ていた。担当病棟看護師を引き連れて、リノリウムの床を歩き、その患者の個室をノックした。
「失礼します。
「はい。何でしょう?」
加藤と呼ばれた中年女性が返事をした。
加藤には診察を開始した当初から
加藤は主治医とは違う医師、しかも大城と名乗るいかにも院長と思しき医師の突然の夕食どきの訪問に、かなり驚いた様子であった。
「驚かせてしまったようで申し訳ありません。主治医の渡辺先生にもご相談した上で、こうして加藤さんのお部屋に伺っております。こんな時間にすみません。ご無礼をどうかご容赦ください」
義郎は軽く頭を下げた。加藤は黙っていた。
「あの、
「はあ」
「我々は、どうして次々に発生しているのか。地域保健対策推進の観点から、この原因を究明する責務があるのです。どうしても答えたくないことは答えて頂かなくて構いませんが、できれば教えて欲しいのです」
「何を教えるのですか?」
「お尋ねしますが、最近どこかで輸血、もしくは医療機関以外で注射針を身体に刺したご経験はございますか?」
「あ、ありません。本当です」
その声はやや
「あと、『生命探求の会』という言葉をお聞きになられたことはありますか?」
加藤は目を見開いた。
「ど、どうしてそれを……」
「ご存知ですか」
「で、でも私は注射をしていないです。定期的に受けている採血だけです。それは事実です! 申し訳ありませんが、これ以上はどうしても話したくはありませんので、どうかお引き取り願いませんでしょうか?」
加藤は懇願した。
「分かりました。お時間を取らせてしまいすみませんでした。失礼します」
義郎と看護師は、再度頭を軽く下げて部屋から辞去した。
加藤の主治医である渡辺医師に連絡した後、センター長室に戻り携帯電話を取り出した。履歴から『優梨』を探した。
「優梨か。たびたびごめんな」
『ひょっとしてもう訊いてきたの?』
「そうだ。早いところ解決した方が良いからな。どこかで
『で、どうだったの?』
「半分だけ正解だ」
『半分だけ?』
「おばさんは、おそらく間違いなく『生命探求の会』に関わっている。たぶん、入会しているだろう。それは間違いないと思う」
『やっぱり。そうだったんだ!』
「でも、輸血を受けたり、注射針を使用したりはしていないそうだ。あの答えっぷりからするとどうやら嘘はついていなさそうだ」
『え、ウソ!?』
電話越しで優梨は、ひどくビックリした様子だった。
「でも何か隠しているかもしれない。どうやら本人は答えたくないみたいで、それ以上のことは聞き出せなかった」
『分かった。連絡くれてありがとう』
そう言って、優梨は電話を切った。
義郎は、優梨からの指摘で『生命探求の会』のホームページを開いたとき、その記載内容から激しい
会が
以前、この研究について発表されたときは、義郎も論文の内容に興味を持って目を通した。非常に素晴らしく画期的な内容で、臨床応用されるいつかその日を、楽しみに思ったものであった。これで認知症や心疾患などの予防が果たせれば、どれだけ多くの人間のQOL(Quality of Life;生活の質)とADL(Activities of Daily Living;日常生活動作)が向上できるだろうか。しかし、実際にこれがヒトのレベルで適用されることは、安全面、倫理面など大きなクリアすべきハードルがあることは言われずとも理解している。特に日本で認可されるのは、相当先なことであるのは間違いないだろう。
ところが、『生命探求の会』ではもう既にその手法を取り入れている。ヒトでの応用はまだ研究段階のはずだ。アンチエイジングの手法の一つとしてこの原理を勝手に都合良く解釈して、本当に若い人の生き血を勝手に美容目的にて信者に転用しているのであれば、それは献血してくれた人々の良心を
義郎には、輸血に関して苦い思い出があった。あれはかれこれ十年以上前になるだろうか。まだ、大城医療総合センターが『大城病院』という名の頃であった。一人の若い女性がトラックに
実際、輸血が出来たとして、本当に彼女を救うことが出来たかは誰にも分からなかった。しかし義郎は、最善の処置を行えなかった罪悪感に
それから院内備蓄をより
その重要な血液製剤を、私腹を肥やすためだけに安全性も中途半端に勝手に利用しているとはいかがなものだろうか。もしこれが事実で、しかも今回のB型肝炎ウイルス感染の連鎖に関連しているとなれば、やはり糾弾しなければならない。義郎にそんな使命感が湧いてきたのであった。
しかし、加藤は注射行為を行っていないと言った。嘘をついていないという保証はないが、おそらくあの目からすると事実だろう。それでも、何かを隠しているような気がしてならなかった。そして何となく不吉な予感がしていたのも事実であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます