第四章 孟買(ムンバイ) 3 優梨
優梨は影浦と名古屋駅でカラオケに興じていた。
お盆休みの初日なのでレジャー施設はとにかくどこもかしこも賑わっていた。本当はプールや海水浴場にでも行きたかったが、わざわざいちばん客が多そうなお盆に行くのはかなり気が引けた。花火大会もあったのだが、名古屋から遠方であり影浦の門限を破ってしまう可能性があり止むなく名駅で歌うという選択肢に落ち着いた。と言っても、カラオケもかなり混雑していたので、小一時間適当に時間を潰してからとなった。
カラオケと言えば、優梨には以前に苦い思い出があったが、影浦『瑛』が優梨の歌声をもう一回聴きたがってくれていた。優梨は歌に自信があったので、苦い思い出があっても、最愛の男性が望めば断る理由などどこにもなかった。
優梨は、伸びやかに熱唱した。大抵の女性シンガーの歌であれば、歌い上げることができた。普段から音楽をよく聴いているので、レパートリーも多かった。特に『MISIA』や『Dreams Come True』の歌は得意で、歌えばあまりの美声に、他の客が廊下に立ち止まり扉のガラス越しに覗いているのを自覚した。当然、影浦『瑛』も聞き惚れている様子であった。
一方の影浦『瑛』は相変わらず歌は上手でなかった。声域は狭いし、リズム感も音程も狂っていたが、『Mr. Children』の歌を一生懸命に歌っていた。
フリータイムで入っていたが、お盆につき混雑のため三時間が上限であった。ちょうど昼食の時間に差しかかっていたので、お互いに空腹であった。まだ一時間半ほど時間があったので、カラオケルーム内で食事を注文することにした。適当にスナックやポテト類を注文すると、混雑の割に早く店員が届けてくれた。
そう言えば、優梨は『夕夜』とあまり話をしていないと思った。名古屋港で雨の中で服を脱がされそうになったときに、一瞬出現したが、すぐに瑛に戻ってしまったため、ほとんど話ができなかった。
もし自分に心を開いてくれていたら、夕夜も出現してくれるだろうか。試しに呼び出してみようか。カラオケで襲われる可能性も否定できないが、そのときはホテルでもどこでも行ってやるつもりであった。
「ねえ、瑛くん。夕夜くんともお話できないかな」
「えっ? 夕夜と? いや、良いんだけど、また優梨ちゃんを襲ったりしないかな?」
「そうだね。くれぐれもここでは襲わないように、言っておいて」
「分かった」
瑛は口を小さく動かして呟くようにしていた。おそらく、夕夜に話しかけているのだろう。
やがて、瑛が顔を
「おい、俺をわざわざ呼び出して何の用だ?」
夕夜は、瑛とは似ても似つかない声色でそう言いつつ、いきなり優梨をソファーの上に押し倒そうとした。
「ちょ、ちょっと! こら! ここはカラオケだからダメだって!」
慌てて、優梨は夕夜を身体から引き剥がしながら言った。
「瑛くんに、襲わないように言われなかったの!?」
「それは、俺が決めることだ」
「もう! でもとにかくここではダメ! あなたとお話がしたいのよ」
「何について話したいんだ」
何かと問われると困るが、これは優梨と影浦が今後も良好な関係を築いていくために、夕夜とのコミュニケーションも必要だと思った。取りあえず、優梨は夕夜しか知り得ない過去について探りたかった。
「夕夜くんの記憶について知りたいな」
「記憶だと?」
「そう。あなたの記憶。あなたはどこで生まれたの?」
夕夜はひとつ間を置いて、低い声でゆっくりと口を開いた。
「俺は十年前に生まれた。最初に見た光景は、
優梨は、突如展開された緊迫した場面の回想に、思わず唾をごくりと飲み込んだ。
「清志って、ひょっとして養父のこと?」
「そうだ。養父なんてただの肩書きで、実際はただの酒乱のクソ野郎だ。そんとき内なる悲鳴を聞き、俺は激しく突き動かされた。それと同時に、生まれながらにして、置かれた状況と自分の使命を瞬時に理解した。目の前の男を
「ドタマ?」
優梨は聞いたこともない俗語と思われる単語の連続に戸惑った。
「頭のことだよ。ンなことも知らんのか。まあいい。俺はまだ小さい身体で必死だった。清志の野郎はそれまでと打って変わって、恐怖に怯えた間抜け顔になりやがった。ありゃ傑作だった。そして血を流してそのまま倒れ込んだぜ。そして、どこかからか『夕夜』という名を与えられて、それが俺の名前だと認識した。このときから確実に俺という人格が影浦瑛の肉体に宿ったということを自覚したんだ。だが、とどめを刺そうと思ったが瞬間意識が遠退き、そっからは憶えとらん。まったく情けねえザマだ」
「そこが夕夜くんの始まりなのね。そう言えば、そのこと瑛くんは記憶にないと言っていたわ。気付いたら病院にいたと言っていたような気がする。夕夜、あなたはこの養父を殴ると言う記憶は、瑛くんには教えないようにしているのね」
「奴には毒だろう。あいつは血を見ただけで倒れるような野郎なんだ」
優梨は夕夜の優しさを垣間見たような気がした。夕夜が出現してからは、凄惨な記憶はなるべく瑛と共有しないように、情報をうまく取捨選択しているのかもしれない。
「あなた、優しいのね」
「優しいだと? お
優梨は、意外と言っては失礼だが、夕夜の口調は別として発言内容が知性的であることに驚いた。夕夜は実は賢いのではなかろうか。そう言えば、瑛は困ったときは夕夜が助言してくれるとか言っていたか。
それはさておき、優梨は一つ疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「あなたは今も影浦という苗字のままでいるけど、養子縁組の関係はまだ続いているの?」
「事実上は破綻しているし影浦のバカ親共がどこで何をしているか知ったこっちゃないが、戸籍上は続いている。そして瑛を生んだ母親の苗字は俺も知らない。瑛は母親のことをひどく
養子は一応続いていると言うことか。しかし、夕夜の発言が確かなら、なぜわざわざ影浦と言う苗字は今後も変えないように言ったのだろうか。
夕夜は突然立ち上がって言った。
「あー! もうシケた記憶を蘇らせやがって! この野郎! 俺にも何か歌わせろよ!」
夕夜は電子目次本を乱暴に手に取ると、左手でタッチペンを握った。
フリータイムの三時間が楽しくてあっという間に過ぎたような気がした。シャウトを続けた夕夜は疲れたのか、いつの間にか途中で『瑛』に交代していた。
店を出ると二人は名古屋駅の地下街を歩き始めた。
「もー、僕は声がガラガラだよ……」
優梨は思わず吹き出しそうになった。それは当然のことだ。最後は、『夕夜閣下』の
しばらく歩いていると、見慣れた姿の女子と、最近よく目にする男子の二人組が目に入った。思わず優梨は声をかけた。
「陽花! 風岡くん! こんなところでどうしたの?」
陽花は偶然の友人との遭遇に、驚きのあまり若い女性特有の黄色い声を出しそうになったが、隣に影浦の姿を確認し、すぐに口に手をやって自制した。風岡も、もちろん影浦も驚いた。
「ちょっと、あんたたちこそ何してるの!?」
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