第四章 孟買(ムンバイ)

第四章 孟買(ムンバイ)  1 優梨

 夏休みもお盆前に入り、一年でいちばん暑い時期となった。ニュースでは各地で猛暑日を記録していると、報道していた。ここ名古屋も例外ではなかった。この時期の全国の天気予報を見ると、那覇よりも予想最高気温が高いのでげんなりする。でも優梨は、名古屋という都市が好きだった。一、二時間ほどバスや電車に揺られれば、夏はプールや海水浴場があるし、冬はスキー場もある。もちろん名古屋市内ではないが、夏と冬のレジャーが両方とも、さほど時間をかけなくても楽しめるところは、ありがたいことだと思う。

 特に優梨は、影浦と付き合うことが出来て楽しみが止まらなかった。金銭的な面と時間的な面で彼は制約があるが、金銭面では私が負担しても良いから、できればたくさんの時間を共有したいと思っていた。


 交際して恋人として会う初デートを明後日に控えた夜、優梨は家で東海地方の情報雑誌を呼んでいた。明後日のことが楽しみで、正直明日の夏期講習は億劫おっくうであった。

 弟のじゅんすけが話しかけてきた。

「最近お姉ちゃん、機嫌がいいよね。何か良いことあったの?」

「そ、そうかな? ジュンの気のせいだよ」

「本当に? でもすごくニヤニヤしていたよ」

「もう! だから気のせいだって」

 純祐は中学二年生である。優梨とはとても仲が良い。

 優梨は、一応は隠しておいた。しかし果たして隠し切れているかどうかは分からないが。影浦とはまだ付き合い始めたばかりであることと、児童養護施設に入所していることについて家族がどう思うか分からなかったからだ。優梨の両親は、人の育った環境だけを聞いて先入観や偏見を抱くタイプではなかったが、世間の一般的には、いくら綺麗事を並べたって、心の中では良家の家庭で育った人の方ができれば望ましいと思う人の方が多いことだろうと考えていた。

 明後日はどこへ行こうか。影浦『瑛』はそういうことにあまり積極的ではないと思われるので、こちらからプランを立案したほうがスムーズかもしれないと思った。


 純祐は気付くと自室に戻ったようで、リビングにはいなかった。優梨の母、祥子は台所で後片付けをしていた。

 優梨の父、義郎は当直明けで早く帰ってきていた。

 義郎はセンター長でありながら、自らも当直をしていた。一般的にこのような病院はきっと多くはないであろうが、義郎は救急科の医師であり、病院の長であるからこそ現場に立つと言うポリシーのもとで、他の常勤医師と同様に当直のローテーションに組み込まれていた。義郎と一緒の日に当直や夜勤が回ってきた特に若手医師や看護師たちは、さぞかし緊張することであろうが、義郎は決して権力を振りかざすことはなく、丁寧に他のスタッフに指示し、分からないところがあれば時間を惜しまず優しく指導していた。そんな義郎は、他の医師や看護師をはじめとするコメディカル、事務員などからもしたわれていた。優梨としても誇らしい存在であった。


 リビングでくつろぐ義郎から、突然話しかけられた。

「そうそう。優梨、ちょっといいか」

「何? お父さん」

「このごろ病院で不可解なことがあってな。最近、センター内で特定の感染症の患者さんが立て続けに来ていてな。それも、もともと感染症があるって分かっている人ではなくて、うちで受けた検査で新しく分かった人がね。普通は日本では流行するようなものじゃないんだ」

「何が流行ってるの」

「B型肝炎だ」

「B型肝炎?」

 確かに妙だ。今の日本で、流行というには一般的に聞かない名前だと思われる。

「B型肝炎ウイルスの感染経路は分かるか」

「知ってるよ。血液とか体液でしょ。針の使い回しとか、刺青いれずみとか」

 義郎は優梨に、たまに口頭試問の様に医学知識を問うてくることがあった。別に答えられないから怒られるというわけではないが、優梨は医学知識を予習するくらいの余裕があり、大抵の質問には答えられた。

「そうだな。あと、母子感染や性交渉もあるが。でも不思議なことに最近B型肝炎が発覚した患者さんは、どれも当てはまらない。あ、もちろんうちでは針の使い回しなんてしていない。ちゃんとスタンダードプリコーションを徹底してやっているからな。以上を踏まえて何で感染したんだろう?」

「えっと、それは答えが分かっていて質問しているの? それとも分からないから私に意見を求めているの?」

「後者の方だ。院内でも疑問の声が上がっているんだ」

 確かに不思議だ。B型肝炎の感染経路は、みず疱瘡ぼうそう麻疹はしかなどに代表される空気感染、インフルエンザやりゅう行性こうせい耳下じか腺炎せんえん(おたふくかぜ)などに代表されるまつ感染、あるいは伝染でんせんせいのうしん(とびひ)やりゅう行性こうせいかく結膜けつまくえん(はやり目)などに代表される接触感染ではない。よって、通常は流行することなんて考えにくい。昔は針などの使い回しなどで患者が増えて問題視されたこともあったが、今では義郎が言うように『スタンダードプリコーション』という院内感染対策の予防策がどの病院でも徹底されてきており、採血や点滴などの際もディスポーザブル、つまり使い捨ての注射針を使用することでその危険も減ってきている。

 優梨は、病院のトップを含めた医師や看護師たちの集団が解決できないような難題を、現役高校生の自分にぶつけられても分かろうはずがない、とも思った。

「あの、もうちょっと情報を教えてよ」

「感染者は四名ですべて女性」

「すべて女性?」

「そうだ。優梨にこんな話をするのはあまり良くないが……」そう言って父は一度咳払せきばらいした。「そのうちの二人はホステスだ。二十歳と二十二歳。キャバクラで働いていて、ともに店でも人気の看板娘的存在のようだ」

「じゃあ……性感染?」

 優梨は先入観だなと思いつつも訊いた。

「いや、最近、彼女らは性交渉していないらしい。しかも残り二人のうち一人は十九歳の大学生で、性交渉の経験すらないみたいだし」

「タトゥーや覚醒剤の可能性は」

 覚醒剤も針の使い回しをしていれば、ウイルスが蔓延まんえんし得る要因だ。

「タトゥーは誰にも入っていない。覚醒剤は、もしやったとしていても『はい、やっています』と正直には答えんだろう」

「ま、それもそうだね。あとの残りの一人はどんな人?」

「それがな、よく分からんことに、五十歳のうつびょうと糖尿病持ちのおばさんなんだ」

「おばさん?」

「そうだ」

 優梨は、先の三人とはまるで共通点のなさそうなパーソナリティーに驚いた。

「それはもとから感染してた、とかじゃなくて?」

「ご本人の話では、五年前くらいに、他の病院で糖尿病を患って教育入院した際の検査では、すべて陰性だったそうだ。その後定期的に、糖尿病の検査で採血はしているが、注射針も使い捨てのご時勢で、そこで感染したとは考えにくいとは思うが。年齢的にちょっと性感染も考えにくいし」

「若い三人に関して親が感染しているとかいう可能性は?」

 B型肝炎ウイルスは、親から子にでんすることがある。

「たぶんそれもない。というのも、十九歳の大学生の母親も、うちで昔、手術をやっていて、そのときの術前の感染症検査では陰性だ。他の人も母親がウイルス性肝炎だという話は一度も聞いたことはないそうだ」

「予防接種を受けた場所が一緒とか?」

 優梨は今では到底考えられない可能性を提示してみた。日本では昭和の終わり頃まで幼児期の集団予防接種での注射針や注射筒の使い回しが行われていた。

「そこまでは訊いていなかったな。少なくとも住んでいる場所は全員病院に通える範囲ではあったと思うが、お互いには別段近くはなかったような。確か区はバラバラだったと思う。でも念のため訊いてみないとな。とは言え、今どき針を使い回している病院やクリニックなんてあるのかな」

 確かに五十歳の女性を覗いては若年者であり、使い捨ての時代に予防接種を受けているはずなので可能性はまずないだろう。

「あと、B型肝炎ウイルスって確かDNAウイルスだよね? DNAの塩基配列を調べることはできないのかな? そうしたらウイルス株の相同性が分かるよね」

 B型肝炎ウイルス感染者が複数発生した際に、感染源を同定する目的で分子系統解析を行うことがある。主にはB型肝炎訴訟に関わってくる問題なのだが、今回のケースでも応用できるだろう。

「実は、もうPCR検査を依頼したんだ。塩基配列もじきに分かるかもしれないな」

 PCRとはPolymeraseポリメラーゼ Chainチェイン Reactionリアクションの略で、特定のDNAの領域を増幅することである。その得られた増幅DNAからダイレクトシークエンス法と呼ばれる方法などを用いて塩基配列を同定することができる。

「それなら、それを待ってみることだね」

「あ、そうそう。そう言えば……」

 義郎は、何か重要な情報を思い出したかの様に素振りで言った。

「何?」

「言い忘れたことなんだが……若い三人は全員、なかなかの美人だ!」

 優梨は拍子抜けした。

「それはお父さんの主観でしょ!?」

「いや、言っているのは僕だけじゃない。一般外科の渡辺わたなべ先生もナースたちもそう言っている。ま、それはそうとして、彼女たちは数ヶ月前に通り魔に襲われたことがあるそうだ。あ、おばさんを除いてな」

「え? 通り魔?」

 それをもっと早く言うべきだ、と優梨は思った。

「どうやら急に背後から何かをがされたかして気を失ったそうだ。でもにわかに信じ難いな。ドラマとかでクロロホルムを嗅がせて眠らせるというのはあるが、実際にはそれでは量が少なすぎて眠ることはないだろうし」

「きっと方法はいくらでもあるでしょ? B型肝炎に罹患したうちの三人が襲われたなんて、とても偶然とは考えにくいな。きっとそれが関与しているに違いないでしょう。眠っている間にレイプされたとか……」

「分からん。しかし、衣服を乱されたりした痕跡はなかったそうだ。それによって妊娠した女性もいない。金品やカード類を盗まれるということも。実質的な被害がなくて、警察に通報したりはしていなかったみたいだ」

「でも、やっぱりそこでレイプされたんだと思う。全員美人なら、残念ながらそれが自然だよね。恐ろしい話だな。襲われた女性たちは彼女たちだけ? 他に襲われた人がいてその人たちは感染したのかな」

「今のところそういう情報は入ってきていないが……あと、若い女性の一人が言うには、両腕に内出血のような痣と痛みがあったそうだ。あと、立つとき眩暈めまいがして、歩くどころか起き上がるのもやっとだったとか」

「それは気を失ってから目覚めて起きたから?」

「そういうことかな。あと、五十歳のおばさんに関してはどう考える? ちなみに実年齢にしては見た目若い印象だけど、お化粧を頑張って若作りしているような感じもあった。外見にコンプレックスでもあるのかな? ちなみに、彼女には申し訳ないけど、痴漢に狙われる外見では決してないな」

「医療従事者である可能性は?」

「ない。ごく普通の専業主婦だ」

 医療従事者であれば、誤刺ごししてしまう可能性といつも隣り合わせの環境も多いと思ったが、義郎はきっぱりと言下に答えた。

「それだけでは……うーん、ちょっと情報が少なくて私には推測できない。少なくとも若い三人とはまったく因果関係がないような気がする」

 本当に、なぜ一人だけ中年のおばさんが含まれているのだろうか。単なる偶然の可能性で済む話だろうか。

「そうだよな。でも新聞に記事があったが、このごろ通り魔が連続して栄の近辺で発生しているみたいだな。しかも犯人は未だ逃走中だそうだ。犯人が本当にB型肝炎でレイプを目的としているのなら実に危険だ。優梨はまだワクチンを接種していない。だからとにかくお前も気を付けること。遅い時間にうろつくんじゃないぞ」

「はーい」

 結局は、門限がなくても早く帰ってくるように、という勧告だったのかということが分かって、優梨は気のない返事をした。

 優梨は門限がないからと言って夜中遅くまで遊び歩く非行少女では決してなかったが、束縛されるのはいい気分ではなかった。


 優梨は部屋に戻って、布団に入って考えていた。

 若い三人の女性が本当に数ヶ月前に襲われたことが原因なら、その数ヶ月がB型肝炎ウイルスの潜伏期間と考えれば、みんな症状が一斉に出ると考えて特におかしいところはないだろう。

 確かに、無差別に避妊せずレイプしたというのなら運悪く妊娠してしまう女性がいても良さそうだ。仮に、本当にレイプでないとしたらどういうことか。両腕に痣があったことも気になる。

 まさか意図的にB型肝炎ウイルスの入った血液を注射筒に入れて、ウイルスを注入したのだろうか。犯人は男性とは言っていなかった。美しい女性に強い嫌悪感を持つ者が、美をねたみ、感染させてしまったのだろうか。もしそうならばたぶん感染はまぬがれないだろう。B型肝炎ウイルスは感染力が強いと言われているからだ。襲われた女性が全員、B型肝炎にかかってしまっているのか、たまたまそれらの一部が父の病院に集まったのかが気になるところだ。

 しかし、意図的に注射した場合について、果たして両腕に針を刺すだろうか。片腕では不充分だと思って、えてダメ押しで両腕に注射したのだろうか。となると、犯人は医療従事者なのだろうか。それとも素人が、片腕では感染させるには不足していると思ったのだろうか。

 いや、なぜそもそもB型肝炎ウイルスなのだろうか。B型肝炎ウイルスは、適切な対応でウイルスの増殖は抑えられ、肝障害を呈さなくなった状態、つまりセロコンバージョンに移行できる疾患だと聞いている。本当に強い恨みであれば、考えたくはないが、HIV、すなわちエイズウイルスを打つ方が自然だ。根絶することが未だ研究段階のエイズは、治らない病としての認識が強く、そちらの方がきっと精神的ショックが大きいのではないか。それともHIVの感染力はB型肝炎ウイルスのそれより遥かに低いから、確実に感染させるためにB型肝炎ウイルスを選択したのだろうか。B型肝炎ウイルスはヒトの体外でも一週間ほど生き延びると言われている。

 ただ、いろいろ考えたところで、所詮は優梨の憶測の域を出ないものであった。可能性を列挙することは出来るが、結局、故意なのか事故なのか、はたまたひつの故意なのか、それすらも分からなかった。五十歳の女性の件に関しては、推度すいたくすらできなかった。また、義郎から追加の情報が得られたら、考えてみようと思った。

 とりあえず今、優梨にとっては、明後日のデートプランを考える方が先決であり楽しいことであった。

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