第三章 述懐(ジュッカイ)  8 優梨


 雨はさらに強くなってきていた。遠くの空から稲光が見え、続いて遅れて雷鳴が響いた。二人は傘もなくただひたすら雨に打たれ、髪も身体も衣服も濡れ始めてきた。

「大城優梨か」

 優梨は実際に夕夜を目前にして、威圧的な口調に若干おののいたが、それでも毅然とした声で答えた。

「そうよ。あ、瑛くんのことが好きなの。そしてあなたもね。あなたたちを守りたいの」

「守りたいだと!? 笑わせんな! 俺は自分のことは自分で守ってきたし、瑛の野郎についてもそうだ! お前が出る幕じゃねぇ!」

「でも、さっき瑛くんと約束を交わしたの。一緒になること。そして今度はあなたともね」

「勝手に決めんなや!」

「でも瑛くんは私の気持ちに応えてくれた。あなたも瑛くんから聞いていないの?」

 告白したときに、瑛が空を見上げていたあのおよそ一分間は、夕夜と相談していた時間ではなかったというのか。

「瑛の野郎がどう言おうか知ったこっちゃねぇ。俺と一緒になりたいだ? じゃあ、さっそく今から示してもらおうか! こっちに来い!」

「示すって!? な、何!?」

 優梨が驚く間も与えずに、夕夜は左手で強引に優梨の右腕を引っ張ると、傘も鞄も放置したまま走り出した。ストローハットも飛んでいって置き去りのままだった。夕夜の力は相当強く、優梨の肩が脱臼するくらいの腕力と手が潰れるくらいの握力で牽引けんいんされた。水族館の裏側の芝生のエリアまで来ると、優梨を乱暴に濡れた芝生の上に寝かせた。その細い身体の上に夕夜はまたがった。そして優梨のオトガイを左手の親指と人差し指で掴み、夕夜の方に引き寄せつつ、夕夜も顔を近付けてきた。

「おめぇ、よく見ると、結構いい女じゃねぇか」

 優梨の心臓は、ある種の快楽と興奮と恐怖が混在して、飛び出そうな程に鳴り響いていた。それを隠すように不敵な笑みで優梨は言った。

「そ、そうよ。いい女でしょ? 私みたいな美人はめったにお目にかかれないわよ」

 現に、優梨はたとえ雨に濡れてメイクが落ちていたとしても、素顔も肌のツヤもそれなりに自信を持っていた。

「ふん、どうだか」夕夜はしょうした。

「さあ! あなたの好きにするがいいわ!」

 夕夜は無言で、引きちぎれんばかりの勢いでブラウスのボタンを外した。優梨は身体をあずけた。右手はくびれた細い腰に手を回し、下着の下からは身勝手に左手指が入り込み、まだ誰にも触られたことのない優梨の、とても発育して前方に大きく丸みを帯びた艶やかで柔らかでつ滑らかな脂肪組織と腺組織で満たされた美しい隆起と、その尖端の対照的に硬くち上がった鴇色ときいろの小突起に触れた。その瞬間、優梨の身体は敏感に反応し、大きくくねらせて身悶えた。

「ああん……!」 

 優梨は恍惚こうこつのあまり声を出したが、雨音に掻き消された。濡れて体表面は冷える一方で、それに反発するように内部からは火照りはじめていた。優梨のしなやかな右手は無意識に、血流でたぎっているはずの夕夜の股間の一物を彷徨さまよい求めてまさぐろうとしていた。そして夕夜は、口唇を強く優梨の口唇に密着させてきた。互いのぜつにゅうとうを激しく摩擦させた。優梨の初めてのキスの相手は影浦『夕夜』であった。

 そのとき、夕夜の動きが停止した。思考ごと停止したように。そして数秒後。

「あああああああああああああ!?」

 夕夜は叫んだ。いや、もうそこに夕夜はいなかった。そこには突如交代して慌てふためいている瑛がいた。瑛は一気に二十メートルほど後退した。

「ごごごごごめんなさい! な、何で!? 僕、優梨ちゃんを襲ったのですか!? しかもこんなずぶ濡れで泥んこで! 本当に、いやもう、謝ってもダメだよね!? あぁ! もうどうしたら……!」

 瑛は後退した先で、雨の中にも関わらず土下座した。

「プププ……! プッははははははは!」

 優梨は我慢できずに、大笑いした。

「と、取りあえず、風邪引いちゃうから着替えなきゃ! でも、あれ? 鞄は? 傘は? 帽子は? どーなってるの!?」

「さっきのベンチに放ったらかしだよ」

「嘘!? ベッタベタじゃん! 早く戻らなきゃ!」

 瑛はてんてこ舞いになっていた。

 服装を改めて急いで戻ると、幸い鞄や傘などはそのまま置き去りになっていた。

「鞄、大丈夫かな……」

「いいの。高価なものじゃないし」


 ひとまず二人はポートビルに行った。夏休みで遅くまで開館していたのが救いだった。中の多目的トイレでまた着替えることとした。今日まさか二回も、しかもトイレで着替えることになるとは思わなかった。影浦は、用意の良いことにもう一着着替えを持っていて、それを優梨に渡した。着替えるときはもちろん影浦は外に出て待った。優梨はもう今さらだし恋人になったのだから別に問題ないと思って、怪訝な表情をしてみせたが、今現れているのは『瑛』なのだから致し方ない。サイズはかなり大きかったが、濡れたブラウスのままよりはマシであろう。さすがに優梨のパンツや影浦の分の着替えは持ち合わせていなかった。これはタオルで拭いて何とかするしかなかった。

「優梨ちゃん、風邪引かないといいな」

「それはあなたに対してよ」

 雨は少し弱くなってきた様子だった。まだ濡れているが、時間も時間なので、近くのファーストフード店で済ませて、帰ることとした。

 影浦はまだ罪悪感を感じているような素振りであった。優梨は、影浦の左腕の内側にそっと右腕を回して、ぎゅっと腕を組んだ。

「気にしなくていーの。ありがと。これからもヨロシクね」

 優梨から溢れた微笑みは、ごく自然に影浦の自責の念を解かしていった。

 優梨は最高潮に幸せな気持ちであった。


 しかし、幸せは間もなく無残にも打ち砕かれ、命を脅かすほどの恐怖が訪れることになることを、まだこのとき優梨は知らなかったし、知るよしもなかった。

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