第三章 述懐(ジュッカイ)  7 優梨

 優梨と影浦は水族館の外に出た。

 まだ外は、雨は降っていなかったが相変わらずどんよりとした曇り空であった。そして風が強くなっていた。

 二人は名古屋港のガーデンとうに置かれたベンチに腰をかけていた。ひとはまばらで、まもなく日没の時間であったのであたりは薄暗かった。

「えっと、どこから話そうかな。僕が児童養護施設に入所していることは聞いているよね」

「ええ。足達先生から聞いたわ」

「知ってると思うけど、そこには両親が死んでしまったり、いろいろな事情で親と一緒に暮らせなくなったりする人たちがいるんだ。もちろんずっと居るわけではなく、途中で親元に帰る人もいる。里親が見つかって新しい家庭へと巣立つ人もいる。そうでなくても高校を卒業したら通常は出て行かないといけない」

「そうね」

 そう答えてみたが、優梨の周囲にそのような人はいなかったので、テレビのドキュメンタリー番組くらいで観た知識くらいしか持っていなかった。

「僕は、六歳からその施設にいるんだ。今は十六歳だから。もう十年だね」

「もうずいぶんと長いのね」

「そう。僕が施設から出られない理由があるんだ。それは二重人格だから。これは性格に二面性があるとか、そんな生易なまやさしいものではなくて、れっきとした一つの交代人格なんだ。精神科医師の診察を受けなきゃいけないくらいで、解離性同一性障害という病気なんだ」

「それが、電車の中で出会ったときのあなたなのね」

「そうなんだ。彼の名前は『夕夜』。僕よりもしっかりした芯を持った強い男。短気ですぐ手が出るし、みんなからは敬遠されるけど、根は優しい奴なんだ。夕夜は、僕に足りない全部を補ってくれている」

「瑛くんに足りないものって何?」

「すべてにおいて足りていない。僕は優柔不断だし気が弱いし、身体も弱くてよく風邪を引くし、しょっちゅうくらみだって起こる。頭も夕夜と比べて良い訳じゃない。でも夕夜は、賢いし状況判断能力もあるし、体力もある」

「瑛くんには瑛くんの良さがいっぱいあると思うけどな」

「でも、ダメなんだ。僕は弱いから、今までいじめられてきたんだ。全否定され生きてきたんだよ。これまでどれだけ死にたいと思ったことか。でもその地獄のような日々から救ってくれたのは夕夜なんだ」

 優梨は、影浦の心の悩みをすべて受け止めたかった。今はもう自分の知識欲や興味ではなく、好きな人に対する愛情からであった。でも前みたいに誤解されないよう、やんわりと言った。

「瑛くん、もし答えたくなかったら答えなくていい。思い出したくなかったら思い出さなくていい。でも話すことが出来たら話して。あなたの心の支えになりたいの。あなたの小さい頃、どんなことがあったの?」

 影浦はしばらく黙って、視線を落とした。それまでの影浦になかった物憂げな表情だった。優梨は踏み込んではいけない影浦の心の闇に踏み込みそうになり躊躇したが、影浦はゆっくりと口を開いた

「あれは僕が四歳の……」影浦は訥々とつとつと語り始めた。

「思い出したくなければ思い出さなくて良いよ!」優梨は慌てて止めようとした。

「大丈夫。もう終わったことだから。僕が四歳の頃。あの女は僕を捨てて、若い男の家に転がりこんだんだ」

「どういうこと? あの女って?」

「僕を産んだ実の母だよ。もっとも僕はあの女を母親とは思いたくない」

 穏やかな瑛の口から、『あの女』などという嫌悪感をたっぷり含んだ発言が出るとは、にわかに信じられなかった。しかも実の母親だという人に対して。しかし、どう考えても夕夜でもなかった。発言しているのは間違いなく瑛のようであった。

「お母さんが? え? どういうことなの?」

「どうもこうも分からない。だってまだ四歳だったから。そして僕は、里親に育てられることになったんだ。養子になって苗字が変わった。影浦という姓はそのときについた苗字らしいんだ。その前は何と言う名前だったかよく憶えていない。フ……ナントカって聞いたような気がするけど。まぁそんなことはどうでもいいか」

「えっと、実のお父さんは?」

「実の父親は知らない。もっともっと前に離婚したと聞いているよ」

「そうなんだ」

「というか、実の父が父かも分からない」

「えっ? どういうこと」

 優梨は影浦の言うことが理解できなかった。

「養母から聞いた話では、実の母親とは顔が似ているらしいから、母親は間違いないけど、実の父親と思われる人からは生まれてこないはずらしいんだ。血液型がありえないとかどうとか……言ってたような気がする」

「実の母親は何型?」

「あの女も僕と一緒でO型らしいよ。父親が何型かは知らないけど」

「……」

 O型女性がO型の子を産む場合、父親の遺伝子型がAA、BB、ABの場合は絶対にあり得ない。そういうことだろうか。

「だからきっと、母は父ではなくて別の男との間に僕をもうけたんだ。それで離婚したんだと思う。そうとしか考えられない。しかもそれでいて、さらに僕を捨てて別の男に行くなんて……」

「それは酷いね……」

 優梨は同情せざるを得なかった。

「あの女に捨てられた後、子供のいない影浦家に入ったけど、その後の僕の生活は悲惨だった」

「……」

 優梨はこれ以上尋ねていいものなのか分からなかった。話の行く末に恐れをも感じていた。それを反映しているかの様に、静かに小雨が降ってきた。

「人見知りで病気がちだった僕にごうを煮やした養父によって、肉体的、精神的、性的に暴力を受け続けた。殴る蹴るや罵声、無視はもちろん、根性焼き、ベランダで野宿、裸のまま服を着させてもらえない、性器をいじられるなど、いろいろやられた。養父の虫の居所次第で、何をされるか分からない日々が続いた。身体の古傷の多くはそのときに受けたものなんだ。どういうわけだか昔から痣が出来やすい体質で、虐待を疑われるのを恐れて病院にも連れて行ってもらえなかった。もちろん幼稚園にも通わせてもらえなかった。顔を傷付けると服で隠れないからって言って、もっぱら胴体に攻撃は集中した。養母は養父に絶対に逆らえない人だったからね。養母も、おそらく僕が来る前は養父からドメスティックバイオレンスを受けていたのかもしれないけど、僕が来たことによって僕を避雷針代わりにしていたかもしれない」

 優梨は身の毛がよだつ思いをした。聞くのが辛くなってきた。目の前にいる男は想像を絶する陰惨な日々を過去に送っていた。

「ゆ、夕夜くんはそのときに生まれたの?」と尋ねる優梨の声は、恐怖で少し震えていた。

「その時は分からなかったけど、たぶんそうだと思う。あるとき、いつものように暴力を振るわれていた。しかもナイフを持っていて、僕を殺す気だったのかもしれない。僕は、我慢しきれなくなって一瞬自分が自分でなくなったようになった」

「自分が自分でなくなった?」

「うん。でも、そこから先のことは憶えていない。気付いたら養父は血まみれになって倒れていた。死んではいなかったけど、家の中はめちゃめちゃになっていた。養父の出血を見て、さらに自分も右手から出血していた。僕は再び吐き気をもよおして、また気付いたら病院にいた。後から思えば、夕夜が身の危険を感じてやったんだと思う」

「そこで全てが明るみになったのね」

「警察だけでなく児童相談所にも連絡が行ったんだと思う。心療科にも受診して、そのときに初めて、僕にもう一人の交代人格が出現したことも判明したんだ。足達先生の診察を受けてね。そこで里親の下での養育は不可能と判断されて、退院後、児童養護施設に入所することになったんだ。最初夕夜は、僕の意志とは無関係に僕の身体を乗っ取って、知らない間に好き放題やる困り者だったんだ。でも、足達先生や臨床心理士の先生のアプローチで、夕夜と根気強く意思疎通を図ってくれて、僕と夕夜とでコミュニケーションをとることができるようになった。最初は好き勝手に派手に、しかも気付くと痣だらけ傷だらけにしてくれていた夕夜も、少しずつ理性を保つようになってくれて、僕の記憶を共有して、必要なときのみ現れるボディーガード的存在となってくれた。虐められていても夕夜が撃退してくれるようになった。さらには困ったときは助言をしてくれるまでの存在になったんだよ」

「交代人格ではなくてイマジナリーフレンドとなったのね」

 少しずつ雨脚が強くなってきた。影浦は折り畳み傘をさして、優梨が濡れないように支えた。

「本当は、僕が消えて、この身体が全部、ゆ、夕夜のものになれば良いんだ」

「何で? そんなことを言うの!」優梨は影浦の発言に驚いた。もしかして急に情緒不安定になってしまったか。彼の精神状況がいざ不安定になってしまったら、優梨はどうしたら良いのか分からなかった。これで、もし新たなる交代人格を形成されようものなら、足達先生や風岡に会わす顔がない。優梨は慌ててつくろった。

「そ、そんなことないよ! 瑛くんには瑛くんの良いことがいっぱいあると思うよ」

「だって、僕のような出来損ないの人間より、少々乱暴なところはあるけどしっかりしている夕夜のほうが、この肉体を持つのに相応ふさわしい。現に彼は、僕の代わりに身体を鍛えてくれているんだ。自分の身を守るように。本来なら僕がやらなきゃいけないことを彼がやってくれてるんだ」

 なるほど、あのたくましい肉体はそのように形成されたのか、と優梨はひそかに納得した。しかし、感心している場合じゃなかった。何とか慰めないと、と思った。

「そんなことはない。瑛くん、あなたはあなたよ! 誰にも汚されない尊い一人の人格なのよ。だからそんなに思い詰めないで!」

「ありがとう。そういう言葉だけでも嬉しいよ……」

 影浦は身体を前方に倒してうつむいた。傘は手から離れたので、代わりに優梨が傘を支えた。影浦は涙目になっているように見えた。いや、実際微かなえつが聞こえるような気がしたから、泣いていたかもしれない。

 優梨は、傘を反対の手に持ち替えて、影浦の背中に手を回してそっと寄り添った。昔の恐ろしい記憶を想起したとき、フラッシュバックしたようにパニックになったり身体に異変を来したりすることがあるという。優梨はどういう声かけをすれば良いか分からなかった。影浦を包み込むことが、自分に唯一出来ることだと思った。

 しばらくそのままでいた。影浦は少しずつ落ち着きを取り戻しつつあるようだったが、依然として俯いたままだ。俯いたままだが、優梨が寄り添っていることで、少しずつ安心が得られ始めたのかもしれない。そして優梨自身も、影浦に寄り添うことの心地良さを感じていた。

「私はあなたのことが好きなの」優梨は意を決して言った。

「えっ?」

「あなたのことが好きで好きでたまらないの。大好きになっちゃったの! あなたが解離性同一性障害だってことは、実は初めて会ったときから気付いていた。この病気の患者さんは、あなたのように心的外傷トラウマを抱えていることが多いわ。好きな人が心の傷や苦痛を背負っているなんて、私にはどうしても耐えられないの。私のような、ひよっこが出来ることなんてたかが知れているかもしれないけど、それでも私が心の支えになりたいの! 瑛くんも夕夜くんも私は平等に愛したいわ。それくらいあなたのことが愛しいの! 離れたくないの!」

 一度言い始めると、優梨の胸の内側で膨らみきっていた思いの丈が、一気に溢れんばかりに出てきた。

「本当に?」

 影浦の瞳は涙で潤んでいた。

「嘘なんかつくわけないわ。私はあなたと一緒になりたい」

「僕なんかで良いのかな? 僕はいろいろな問題を抱えているし、児童養護施設にいる人間なんだ。滄洋女子とは格が違いすぎる」

「そんなのは関係ない!」優梨は立ち上がった。「家や親のこととか関係ない! 私はあなたじゃないとダメなの! あなた以外を愛するなんて考えられないわ。付き合って欲しい」

 影浦はすっかり暗くなった雨空を見上げた。夕夜と相談しているのだろうか。しばらく無言で何かを考えているようであった。一分間くらいそうしていただろうか。影浦はようやく口を開いた。

「分かりました。優梨ちゃんの言葉を信じます。こんな僕で良ければよろしくお願いします」そう言って、影浦は優梨に頭を下げた。

「ありがとう!!」

 優梨は感極まって、思わず大粒の涙を流した。傘もいつも間にか優梨の手を離れてベンチの後ろに転がってしまっていた。雨と涙の区別はつかなくなっていた。

 すると、なぜか影浦は両手で頭を抱えて、うなっていた。

「ど、どうしたの? 頭が痛いの?」優梨は何かあったのだろうかと思った。

「……よう!!」

 先ほどとは明らかに異なる低く太い声だった。見上げた顔は、眉間に皺が寄り、眉とまなじりは吊り上がっていた。優梨はその表情を一回だけ見たことがあった。電車の中で初めて影浦に会ったときの『夕夜』の顔であった。

「……おめぇか。久しぶりに会ったな……!」

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