第三章 述懐(ジュッカイ)  3 優梨

 優梨はストレスを勉強して知識欲を満たすことで解消していた。実際その間、父の洋酒をいくらか失敬したことは、内緒である。受験は来年なので、夏休みを青春に捧げている同級生も多かったかもしれないが、優梨は予備校を除けば自宅からほとんど出ることなく、勉強以外の時間は基本的にみんむさぼっていた。とは言っても、最低限太らない程度にはコントロールした。

 優梨が大城医療総合センターに行って、二週間くらいが経過し、優梨の心の傷が少しずつ癒え始めた日のことであった。いつものように夕飯が終わって部屋に戻り、飼い猫の『メッチェン』を抱きながら、その夜はバームクーヘン積分法の問題を解いていた。優梨にこれと言って苦手科目はなかったが、特に数学や理科の問題は得意中の得意科目であり、解くことにエクスタシーを感じるくらいであった。まだそのとき父はまだ勤務先から帰ってきていなかった。

 突然、家のドアホンが鳴った。夜の八時を過ぎた頃であった。しばらくすると一階から母が優梨を呼んだ。こんな時間に自宅まで来て自分に用がある人などいないと思ったので、一体誰だろうといぶかしげに階段を下りた。

 一階のリビングにいたのは足達医師だった。

「こんばんは。いまお勉強中だったかしら?」

 足達医師は、こんな夜なのにチークや口紅からアイラインに至るまでまでしっかり化粧をしており、髪も綺麗にセットされ、手にはビビットカラーの付け爪、足の爪にもペディキュアが施されていた。服装もTシャツにハイウエストデニムパンツ、素足なので分からないがおそらく靴にもオシャレが行き届いていそうだった。いつも帰宅前にメイクをしているのだろうか。今からしぶはら宿じゅくで買い物でもするような格好であった。そんな足達医師の見た目は二十歳そこらにしか見えず、百歩譲っても中堅どころの医師には見えない。優梨はますます驚愕してしまった。

 対する優梨は、Tシャツと女性用のショートステテコ姿であった。優梨は慌てた。

「先生、すみません! 急いで着替えてきます!」

「待って!」

 部屋に駆け上がる優梨を制するように言った。

「今日は、アポイント無しで訪問した私が悪いの。優梨さんが気にならなければその格好で私は構わないわ」


 優梨は、足達医師と一緒に自分の部屋へ移動した。

 優梨の母は、リビングでお話することを勧めたが、足達医師は、失礼を承知の上で、もし良ければ優梨の部屋でお話させて頂きたいとお願いした。表向きは、精神科疾患に興味のある優梨にいろいろ教えるため、一部で患者の情報などデリケートな部分についての会話になるからだと言うことだが、本音はおそらく優梨と影浦という若い男女の関係を家族に悟られないように配慮した結果かもしれなかった。リビングには優梨の母の他に弟もいる。敢えて父がいない時間帯にしたのだろうか。

 猫はすれ違うように部屋を出て階段を下りていった。

「綺麗な猫ね。名前は何て言うの?」

「『メッチェン』です」

「さ、さすが、医者一家ね……」

 足達医師は、ちょっと呆れ顔であった。ちなみにメッチェンはドイツ語で『少女』という意味であるが、一方でメッチェン(正確にはメッチェンバウム)という手術用のハサミが存在する。

「ところで、今日はどういったご用件なんでしょうか?」

「先日はかなり辛辣しんらつな発言をしたけど、私もいろいろ考えてね。昨日ちょうど影浦くんの施設の近くを通ったから、寄ったの」

「影浦くんの施設?」

「そう。先に言うけど、影浦くんにあなたのことを知っているか訊いたの。そしたら知っていると答えたんだけど、ちょっと前に風岡くんとあなたのお友達と四人で会ったそうね。そのときにいろいろとあったようで、その件についてあなたに謝りたいと言っていたわ」

「謝りたい?」一体どういうことだろうか、と優梨は思った。

「そう、私は何のことかは分からないけど、双方のプライバシーにさわることならいけないと思って深くは追及しなかったわ」

 意外だと優梨は思った。おそらくドリンクバーでの一件で間違いないだろうが、あのとき理性が止まらず暴走したのは優梨の方だった。影浦はまさか自責の念に駆られているのだろうか。

 足達医師はさらに続けた。

「そして、あなたが影浦くんのことをいろいろ知りたがっているということを告げたら、影浦くんの交代人格が現れて、『瑛もあの女のことを知りたがっている。俺は構わないから瑛の良きに計らってくれ』と言ってきたわ。つまりは瑛くんの方も、きっとあなたに伝えたくて伝えられないことがあると思ったわけ。そこで、私が壁となってあなたと影浦くんの信頼関係ラポールの構築にあたって、邪魔しているようなら、それはいけないと思ったの。瑛くんの情報を教えてあげるわ」

 何という思いがけない展開なんだろうか。影浦と優梨の関係の修復のために、交代人格が一役買っていたことに、どうしても驚きを隠せなかった。もちろん望みが叶いそうになって嬉しいのだが、素直に喜ぶべきことだと判断するのに、若干の時間が必要であった。『あなたに伝えたくて伝えられないことがある』とえんきょく的に足達医師は表現したが、文脈から、影浦も優梨のことを『気になる存在』ということは察することができよう。自分にとって非常に都合良く捉えれば『好きである』と解釈できるかもしれない。それは優梨にとってとても喜ばしいことであったのだが、同時に心療科医である足達医師に筒抜けになっているこの現状に内心じくたる思いであった。たちまち優梨は、顔の紅潮を自覚しつつあった。この内容を母や弟に聞かれていないことを切に願った。

「影浦くんの情報を、ぜひ知りたいです」


 時間は夜の九時になろうとしていた。

 優梨の父はまだ帰ってきていないようだ。そう言えば、今日は、月一回の救急科・ICU合同ミーティングの日だったか。


 足達医師は言った。

「影浦くんは、児童養護施設『しろとり学園』に入所しているの」

 なるほど、だから先ほど影浦くんの『施設』という言い方をしたのだな、と優梨は思った。

「しろとり学園ですか」

「そうね、あなたの通う滄女そうじょには、そんな生徒はいないでしょうから、初耳でしょうね」

「影浦くんは、両親はいないんですか?」

「核心に触れる部分は、あまり私としても教えられないけど、児童養護施設はそもそも親がいないか虐待を受けていた子供が入るところだからね。いまアルバイトをして頑張ってお小遣いを貯めながら高校生活を送っているわ」

 優梨は、風岡や陽花と四人で会ったときに、風岡と影浦が制服で現れたことについてようやく納得がいった。影浦は本当に制服が一張羅であったのだが、風岡はそんな影浦が浮いてしまわないように、一緒に制服を着てきたのだ。風岡は影浦を傷付けないためにそうしたのだろう。

 足達医師は続けた。

「そして、あなたのいちばんの関心のある解離性同一性障害、ちなみに英語ではDissociative identity disorder、心療科医師どうしでは略して『DID』と呼んでいるんだけど、影浦くんの病態は、DID症例の中でも軽症な方だわ。まず確認されている人格は主人格の『瑛』くんと、交代人格の『夕夜』くんだけよ」

「解離性同一性障害って、普通もっとたくさんの人格が共存しているのですよね?」

「そうよ。普通、交代人格は男性で九人ほど、女性で十五人ほどと言われているわね。中には『ジェニーの中の400人』に代表されるようなとてつもない人数の症例もあるみたいだけどね」

「400人って……」

 まったく想像がつかなかった。

「DIDは、通常主人格は交代人格の記憶を保有していなくて、気付いたら別の場所にいたとか、気付いたら犯罪を犯していたとか、自殺しようとリストカットしようとしていたとか、そういうことが多いの。いちばん最初に診察したとき瑛くんもそうだったの。でも今は『夕夜』くんと、記憶を共有し意思の疎通まで図れるようになっているのよ」

「そんなことが、本当にあるんですね」

 優梨は、目を丸くして言った。

「そして、DIDの治療と言えば、よく人格統合が挙げられるけど、彼の場合はまったく適応外だと私は思っているわ」

「なぜですか?」

「夕夜くんは、あなたも見たことあるんでしょうけど、実はよっぽどのことがない限り表には出ないくらいに今はなっている。しかも夕夜くんは短気で凶暴なところがあるけど、瑛くんに対して友好的で、彼を守ろうとしている。瑛くんの話を聞いていると、実際、困ったときは夕夜くんからの指南で決定したり動いたりしていることもあるようなのよ」

 優梨は、にわかに信じられなかった。交代人格間でコミュニケーションが取れると聞いたことはあったが、心のどこかでは所詮テレビやアニメの世界だと思っていた。実際そういうことが可能とは、驚きであった。

「だから、敢えて統合はしない。夕夜くんは瑛くんにとって有益な存在なのよ。もっとも最近は無理な人格統合は無益であるばかりか、セラピストとの信頼関係が破綻して、新しい交代人格を生む可能性だって言われているわ」

「そうなんですね。『解離性同一性障害』イコール『統合』だと思っていました」

「彼の場合、診断上は間違いなくDIDだし、交代人格の発生要因も典型的なものだわ。夕夜くんは明らかに瑛くんと性格を異にしているし、身体的能力や利き手までもが違う。でも、彼にとって夕夜くんは交代人格なんかではなく、ちょっと気の荒いイマジナリーフレンドと呼んだ方が適切かもしれないわね」

「イマジナリーフレンド?」

「イマジナリーフレンド。文字通り『空想の友達』のことなんだけど、幼い頃、自分の中に、目には見えない自分だけの空想の友達を持っている子供がいるの。これは病的なものではないし、海外の研究では、保護者のアンケートで幼児の約半数にイマジナリーフレンドがいたとする報告もあるのよ」

「半数も?」

「あなたにも昔いたかもしれないわね。だから、影浦くんにとって、人格統合は望まれないことなの。いまや夕夜くんは気心の知れた仲といるだけか、それ以外では必要性に迫られたときにしか現れない。そうでないときは、夕夜くんは瑛くんのために自粛しているのよ」

 そのとき、玄関のドアが開く音がした。おそらく父だろう。足達医師と優梨は話をやめ、リビングへと階段を下りていった。

「夜分にどうも失礼しております」

「これは、これは、足達先生。今日はどうされたんですか?」と驚いた目で訊いたのは、やはり父、義郎であった。

「以前、優梨さんが精神科領域の話を聞きたいというので病院にいらしてくれたんですが、なかなか時間が取れずだったので。今日、たまたま近くを通って時間も空いていたので、しつけと思いながらも訪問してみました」

 足達医師は、当たらずとも遠からずの回答をした。

「それはどうも、優梨のためにすみません。さち、先生にコーヒーを出して差し上げてくれ」と義郎は指示する。

「あ、もうこんな時間ですし、そろそろおいとましようかなと思っていたところです。どうかお気遣いなく」

「そうですか。遅い時間までありがとうございます。良ければうちの者が、車で送らせて頂きますが」

「いえいえ、ここは駅から近いですし、私、電車一本で帰れますから」

「分かりました。このあたりは比較的に街灯も少なくはないとは思いますけど、こんな時間ですから、どうかお気をつけ下さい」

「ありがとうございます」足達医師は笑顔でお礼を言った。

「優梨、勉強になったか? 足達先生は解離性障害の研究で学位を取られて、その後開院されたんだが、今もN大学に非常勤講師として所属していらっしゃる。そして、N大学時代のよしみで、かれこれ十年くらいうちにも来てもらっている。心療内科では著名な先生だぞ」

「あらやだ、先生。年がバレちゃいます!」

「あ、これは失礼」

 優梨は素早く計算した。そして、前から気になっていた質問を、敢えてぶつけてみた。

「あのー、先生って、おいくつなんですか?」

 足達医師は平然と回答した。

「え? 私? 今年で四十四よ。何か問題あったかしら」

「どひぇー!!?」

 優梨は驚愕した。思わずれつな声をあげてしまった。

 

 優梨は足達医師を、家の門まで見送った。足達医師はヒール付きのサンダルで、やはり足下にもオシャレに気を遣っていた。

「今日は本当にありがとうございました」

「私にお礼は要らないよ。もともとこれは影浦くんの意志なんだから」

「いや、私の知りたがっていたことですから。本当に先生には感謝しています」

 本心であった。

「ところで。影浦くんには会いに行くの?」

「行きたいです。もう、先生であればお気付きなんでしょうけど、恥ずかしながら私、影浦くんのことが気になって仕方がないんです」

「センター長のご令嬢と影浦くんか……格差カップルか。あ、いや失礼。でも好きになったものは仕方ないから、私がとやかく言うことではないわね」

 優梨も二人の間には格差があることを承知していたが、束縛を嫌う優梨にとっては、度外視したい内容であった。

 足達医師は続けた。

「私は、瑛くんも夕夜くんもひとりの人間として好きよ。あ、もちろん恋愛対象じゃないから誤解しないでね。私、こう見えて既婚者だし。でも一つだけ忠告があるかな」

「何でしょうか?」

 足達医師は優梨の耳に近付いて小声でささやいた。

「夕夜くんは瑛くんと違って、超肉食系男子なんだから。そのあたり注意してね。あなたは、器量が本当に良いから特にね! スキンシップが少々手荒いけど、そこまでは私責任取れないからね」

「ま、まさか。先生、夕夜くんに襲われたんですか?」

「イヤね! まさか! 『先生みたいなオバはんは、この俺でも完全にストライクゾーンから大きく外れてるぜ』って言われたんだから! もーホント、あのクソガキったら! その時は超ムカついたわ! 私だってこう見えて実はモテるんだから、と言ってやったわよ!」

 優梨と足達医師は二人揃って噴き出した。

 足達医師は優梨に別れを告げた後、ヒールをアスファルトに響かせて、駅の方向へと消えて行った。

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