第三章 述懐(ジュッカイ)  2 陽花

「最近、優梨が何か元気ないんだよね。息抜きに誘っても、乗ってこないし」

 そう言いながら、陽花はアイスコーヒーの氷をカラカラと鳴らした。

 陽花は風岡と、栄のドーナツショップにいた。風岡は、エンゼルフレンチをかじっていた。

 今回風岡は、学生服ではなく、ポロシャツ、短パンにコンバースのスニーカーを履いていた。

 陽花はバレーボール部に所属している。夏季大会の予選があったのだが、勉学優先の進学校は、早々と敗退してしまった。それから、宿題や学習塾の課題を解きつつも、遊ぶ時間を楽しみにしていたが、四人で会ってからの優梨の態度に異変があり、陽花の遊び相手がいなくなっていたのだ。もちろん他にも学校の友達がいるのだが、優梨がいないと何だか物足りないと思っていた。

 その原因を探るべく、風岡は陽花に呼び出されていた。約二週間前に、四人で集まった時に、連絡先を交換していた。原因を探るだけならメールや電話で確認しても良かったのだが、ちょうど陽花は退屈していたところであった。風岡は不得意科目の数学や生物の課題で困っていると聞いて、それなら教えてあげると陽花は言った。陽花も、優梨ほどではないが、進学校の理系クラスで数学は得意としていた。

 風岡は正弦せいげん定理、げん定理の問題で苦戦していた。

「いやー、助かるよ。俺、文系で、本当に数字とかギリシャ文字とか公式とかダメなんだよね」

「えー? 正弦定理とか数学Ⅰの範囲じゃない? しかもギリシャ文字なんか出て来ないし。簡単でしょ」

「これのどこが簡単なんだよ。何でこの定理が成り立つのか理屈から分からんよ」

 陽花は白紙を取り出してシャープペンシルで作図した。

「こうやって、三角形ABCに外接する円を描くでしょ。ちなみにここでのAは鋭角とするね。ABCの向かい合う辺をそれぞれa、b、cとする。そして、Bから円の中心Oを通る線を描く。そしてBOの延長線と円の交点をDとするでしょ。つまりこれが円の直径を示す線ね。半径つまりBOをRとすると、BDは2Rの長さね。そしてDとCを結ぶと、角BCDは直角になるよね。よってsinD=a/2Rね。ここまではいい?」

 陽花の解説はよどみなかった。

「大丈夫、だと思う。」

「そうすると、円周角の定理で角Aと角Dは等しくなる。よってsinA=sinD=a/2Rとなるわね。等式の両辺の逆数をとっても等式は成立するから1/sinA=2R/a。さらに両辺をa倍するとa/sinA=2R。そしてこれは角Bと角Cについても同様だから、a/sinA=b/sinB=c/sinC=2R」

「ちょっと待って!? なんでBとCといきなり等しくなるんだ?」

 陽花はちょっとうんざりした。

「また同じ説明をさすつもり? Bを円周角にした場合でも、Cを円周角にした場合でも話は一緒でしょ?」

「あ、そっか」風岡は頭を掻く。

「ちなみにAが鈍角の場合でも一緒よ。同じように補助線を引けば、角Aと角Dの和は180度だから、sinA=sin(180-A)=sinD」

「さすがだな、陽花」

「任しといてよ、風岡」

 いつの間にか『陽花』『風岡』と呼び捨てにし合う仲となっていた。陽花は県下一の女子校で成績はどちらかと言うと上の方だ。風岡は偏差値中等度の公立高校で勉学は決して得意ではないから、風岡の質問には陽花はたいてい何でも答えられた。

「ついでに、メンデル遺伝も教えてもらっても良いかな? あれも難しいよな?」

「いやいや! こんなのもっと簡単でしょ」

「あれ? 優性と劣性の違いって何だっけ?」

「優性って言うのは現れやすい形質のこと。例えば父親からA型の遺伝子、母親からO型の遺伝子を子供が受け継いだとき、子供の遺伝子型はAOとなるけど、表現型、つまり実際の血液型はA型となるわけ。このときA型はO型に対して優性であるってこと。ね、簡単でしょ? ちなみにB型もO型に対して優性ね。AとBを両方持った場合はAB型となり、不完全優性っていうの」

「そっか、A型やB型がO型より優秀って意味じゃないんだな」

「それは全然違います。一体、授業中何を聞いていたのよ? よく、こんな知識でテストに臨んだわね」

「授業中は、基本的に寝る時間だからな。でも大丈夫! 理科と数学は捨て科目だけど、日本史とか世界史なら得意だから、聞いてくれ!」

「アタシ、地理選択なんですけど……」

 勉強では、すっかり陽花に言いたい放題にされている風岡であるが、別に機嫌悪くなったりする素振りはまったくなかった。陽花も、はじめはなぜ夏休みに栄まで来て、彼氏でもない男に勉強なんて教えているんだろうと思ったが、満更でもない気持ちになってきた。

「本当に陽花は頭良いな! 滄女ってみんなこうなのか!?」

「みんなかどうかは知らないけど、少なくとも風岡よりは賢いかも」

「そうだよな。俺ももっと中学の時勉強しておけば良かったな」

「ちなみに優梨は、滄女で一位よ」

「何かそうらしいな。一位だと門限がないって約束らしいぞ」

「その約束も面白いけど、ちゃんと実行する優梨も優梨だわ。アタシも優梨に勉強教えてもらうことあるけど、説明が難しすぎてこっちも理解するのが大変なのよ」

「じゃあ、俺じゃチンプンカンプンだな、きっと。大城は、小学校の時でも近年まれに見る天才美少女って言われてたっけな。あいつが満点以外の点数を取ったことを見たことないな」

「優梨は一回聞いただけで憶えてしまうくらいだから、知識量もすごいわ。お父さんがお医者さんだから、病気とかめっちゃ知ってるし」

「生まれながらにしてのお医者さんなんだな。天才美人女医として将来テレビに引っ張りだこかもしれんな。今のうちにサインもらっといた方がいいかもしれんな」

「そうよね。ところでさ、何で優梨は元気ないのかな?」

 不意な問いかけに、風岡は少しだけ答えるのに間を置いた。

「それについては、彼女も隠したいことがあるだろうから、深くは言えんよ」

「風岡、知ってるの!?」

「一応はね」

「じゃあ、アタシはカラオケで何かあったと踏んでるんだけど、やっぱりそうなのね?」

「まぁ、大城のために俺の口からは勝手には言えないけど、取りあえず救済手段は差し伸べておいた。あの二人がどうなるか分からないけど、ある程度の方向性が見えて、決着つきそうなら陽花にも教えるよ」

 風岡は、そう言って言葉を濁した。

「何か、とても曖昧な言い方ね」

「あとは、大城本人に聞いてもらうか」

「だから、電話で聞いても答えてくれないのよ」

「本人が教えたくないことは、俺から勝手には言えないよ。こう見えても口は堅い方なんだ。一応、当人のプライバシーに関わるからね。実際デリケートな問題だし。悪く思わないでくれ」

「……うん、分かったよ」

 陽花は、渋々ながらも納得した。


 陽花と風岡は会計を終えて外に出た。風岡は、授業料として陽花の分も支払おうかとしたが、付き合ってもない男に奢られるのは抵抗があったので、拒否した。取りあえずこのまま帰るのももったいないので、どこか行きたいかと風岡に尋ねられた。特に希望はなかったが、あてもなく松坂屋方面に向かっていた。その辺りに行けば、買い物もできるし、映画館もあるし、ちょっと足を伸ばせば大須にも行けるという判断であった。

 夏はいよいよ真っ盛りであった。この名古屋の中心は、アスファルトとビル群と車の排気ガスで、いっそう熱気がこもっているようであった。

 そのなか、全身赤いジャージのような服装でビラを配っている女がいた。素通りしようとしたが、ビラを渡されたので思わず受け取った。ビラには『生命探求の会』と書かれていた。

「何これ?」

「知らないわよ」

「『生命探求の会』だと? 『あなたも永遠のエナジーと若さを手に入れませんか』だってさ。何だか通販の商品のキャッチコピーみたいだな」

「いやー、それよりは宗教っぽいでしょ。だって『聖水のお導き』って上に書いてあるじゃん。しかも、あの配ってた人も全身赤い服装だし。すごく怪しいわよ。捨てましょ」

「そうだな。怪しいな。ビラ配りも行政の許可とかいるんだっけ? 許可取ってやってるか分からないよな」

「絶対取ってないわよ。アタシは血液型占いとかは好きだけど、宗教的や本格的なオカルト系統は苦手なの。こう見えて理系女子なの。略して『リケジョ』よ」

「『リケジョ』って言葉、前流行はやったな。陽花も大城も、見た目によらずだよね」

「一応、褒めてるんだよね?」

「もちろんだよ」

「なら、良し!」

 そんなやり取りをしているうちに、松坂屋に着いた。風岡は、顔立ちも体格も悪くないが、服装はもっとおしゃれできるんじゃないかと思った。陽花は、自分の暇つぶしに付き合ってもらっているような感じだから、ちょっと一肌脱いであげたくなった。

「よし、買い物行こうか? あんたに似合う服装選んだげる」

「全身赤の服装は勘弁してな」

 ビラを捨てようとしたが、残念ながら取りあえず近くにゴミ箱はなかったので、風岡はビラをいったん鞄にしまった。


 陽花は風岡と買い物を一通り楽しんだ。

 とは言え、もともとは買い物が目的で集まったわけではないから、陽花は風岡に似合う服を選んだものの、実際買ったのはボトムズ一枚だけだった。デニムのハーフパンツであったが、風岡が今着用しているポロシャツにもよく似合っていた。

 一方の陽花も、スキニーで細身のパンツを購入してさっそく履いていた。173センチの長身を生かして、非常に脚が長く見えるフォルムであった。風岡や他の男性の視線を感じていた。

「どう? 似合う?」

「陽花すごく脚長いな。バレーボール部だからもっと太いかと思った」

「太いって……美脚はアタシの取り柄よ。顔と頭脳は優梨に勝てないけど、脚なら勝てる、ほら!」

 陽花は前方に脚を伸ばして、得意気にご自慢のおみ足を披露した。

「そうかもしれんな」と風岡は言った後、一度咳払いして、ちょっとかしこまって続けた。「今日は、何ていうか、いろいろありがとうな。勉強教えてもらっただけでなく、服まで選んでもらって」

「服選ぶのは、おやすい御用よ。アタシ、センス良いんだから。べ、勉強だって、あれくらいのことならいつでも教えてあげるよ」

 ちょっと照れくさそうに、陽花は言った。本心だった。

「そう、ところで、あー、あのー、何と言うかな。えっと、良かったら……つー、つー」

 突然のこのタイミングにまさかの展開を予感して、陽花の心拍は一気に強く早くなった。

「つ、次の交差点の角に美味い中華料理屋があるから、そこで飯でも食わないか」

 陽花は転げ落ちそうになった。

「あーいや、でも家でご飯用意してあるんだろうな? ごめんごめん。」

「風岡! どもって言う内容じゃないでしょ!」

「悪い! 悪い!」

 そう言いながらも、風岡はまったくわるれた様子ではなかった。

「いいわよ。家に今日はご飯食べないって言っとくから。晩ごはん付き合ってあげる」

 二人は、中華料理店に入った。


 中はちょっと小汚いが、厨房からの煙と、中華鍋とお玉の摩擦音と、漂う香ばしい薫りが、食欲をそそった。

「ここの中華料理は全部美味いけど、特に台湾タイワンラーメンが美味いんだな」

 風岡の発言を聞いて、陽花は念のための確認をした。

「ちなみに、台湾ラーメンって、台湾の料理じゃないの、知ってるよね?」

「えっ!? 台湾じゃないの!? どこなの? 香港ホンコンか!?」

 陽花は呆れた。

「名古屋よ。台湾ラーメンは名古屋発祥なの!」

「何でよ!? おかしくないか?」

「おかしくてもそうなの。常識よ! でもアタシ、食べたことないんだよね」

「それなら、一度食べてみやー、美味いから! 辛いの好きか?」

「苦手ではないけど」

「じゃあ決まりな! すみませーん! 台湾ラーメンを二つと……」

 風岡に勝手に注文を決められてしまった。

 じきに台湾ラーメンが運ばれてきた。陽花はあまり空腹ではなかったが、店内の薫りの影響で、だんだんおなかが空いてきていた。出された食品を前に、陽花は食欲をそそられて、つい勢い良く食べようとして、箸で麺を持ち上げ一気に湯気ゆげを吸い込んだ。その瞬間、熱気と辛さの影響で、たちまち大きく咳き込んだ。

「ゴホッ! ゴホッ! 何これ!?」

「何って、台湾ラーメンだ」と風岡は言って、陽花に冷水の入ったコップを差し出した。

「湯気から辛いよ」

「だから、これが台湾ラーメンだって」

「そうなら言ってよ! あーもう、汗もかいてきちゃった。化粧取れちゃいそうじゃん!」

「あ、これ。めっちゃ汗かくよ。ほら、他の人みんな、汗かいているでしょ」

 見渡すと、みんな汗を拭いながら食事をしていた。

「どーしてくれるのよ! メイク落ちて恥ずかしいじゃん」

「何で恥ずかしいんだ? 俺は性格が良ければ、見た目は二の次だな。マジな話ね」

「いやー、そうとは言ってもね! ゴホッ! ゲホッ! 女子は男の前では気にするものよ」

「そっか、気にしてくれているのか。嬉しいけど、俺は気にしないぞ。はい、タオルで拭いて」

 風岡は陽花にタオルを差し出した。一見、ぶっきらぼうに見えて、実は結構、気が利く奴なのかな、と陽花は思った。


 食事が終わってゆっくりしていると、店内のテレビでニュースが流れているのが気になった。もう午後六時を回っていた。スタジオが切り替わって、東海地方のニュースになった。

 名古屋で連続して、若い女性ばかりをターゲットにして襲われる事件が起こっている、という報道がなされた。名古屋の繁華街の界隈で、次々と女性が気絶させられているという。金品や衣服を盗られたり肉体的や性的な暴行を受けたりすることはないとのことだったが、警察では引き続き犯人と原因の究明について調査しているとのことであった。しかし、そのニュース自体は以前にも報道されていたことがあり、陽花も聞いたことがあった。

「怖いな。駅の電光掲示板でも注意を促していたけど、名古屋も物騒になってきたな。何のためにやってるんだろうな」

「単なる嫌がらせよ。女性の寝顔を見たいとか言う、変態がいるんじゃないの?」

「そんな奴がいたら、俺が撃退してやる! 女性を襲う奴は許せない」

「風岡に撃退できるの?」

「バカ言ってんじゃねぇ。俺は元ラグビー部だぞ。タックルできるんだぞ」

「ラグビーって言ったって、入ってすぐ辞めちゃったんでしょ? 現役バレーボール部のアタシの方が強いわよ」

「俺だって、部活辞めた今もなお筋トレ続けてるし、体育は得意だぞ。もし陽花が襲われたら任せとけ!」

「たぶん、風岡が来る前にアタシが自分で、痴漢をやっつけてると思う」

「ちなみに大城は?」

「優梨は合唱部だから全然ダメよ。でも声量はあるから、気絶しなければ助けは呼べるね。でもあの影浦くん、ひ弱そうだから無理か」

「あいつは意外と細マッチョなんだぜ! 俺より筋肉あるかも」

「じゃあ、どんだけ風岡は筋肉ないのよ」

「だから、俺は結構筋肉あるって!」

 風岡の信憑性の低い自信が滑稽こっけいで、陽花は笑えてきた。風岡は道化師の様に、自分をさりげなく下に見立てて、相手を立てるタイプだと思った。本当はとても献身的な男なのだろうなと、陽花は次第に感心しはじめていた。

 中華料理店を出た後、地下鉄の駅まで向かってそれぞれの家路についた。陽花は、風岡と離れるのを少し淋しく思ったが、表情に出さないようにした。

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