第一章 邂逅(カイコウ)  5 優梨

 風岡とは、名鉄神宮前めいてつじんぐうまえ駅で待ち合わせた。

 名古屋で神宮と言えば基本的にあつ神宮じんぐうを指す。あつ田区たくという名前の区があるほどその認知度は高い。正月三が日はおびただしいはつもうでの客で非常に混雑する。地下鉄、名鉄、JRの駅がそれぞれひしめき合い、金山、名駅めいえき、栄、おおそれぞれにアクセスの良い、とても利便性の良い場所だ。

 今回はもちろん参拝が目的でもなければ、別に駅から電車に乗ってどこに行くわけでもなかった。ただ単に、お互いの家の近くで、落ち着いて話ができそうな店がいくつか並んでいるためであった。

 この日も暑く日差しはまぶしかった。体感的には三十度を超えていた。暑いのは得意ではないので、仕方なく付近のコンビニエンスストアで待機した。でもこの暑さは単に気温のせいだけではないかもしれなかった。

 午後一時、風岡は待ち合わせ時間きっかりに現れた。

「やあ。悪い、悪い。汗かいてるね。待ったか?」

「大丈夫よ。時間ちょうどだし」

 本当は三十分以上も前から待っていたことは、隠しておいた。

「それにしても、どエラいオシャレしてきたんだな」

 風岡は名古屋弁を交えてリアクションした。

「これくらい普通よ」

 優梨は白のブラウスに黒いスカートにハイヒールの靴。ネックレス、ピアス、指環、バッグも含めてすべてブランド物であった。髪型はアップでまとめてみた。対照的に風岡は、Tシャツにステテコ、サンダルという、コンビニエンスストアでも行くようなラフな出で立ちだった。

 ちなみに昨日は、風岡に会える保証がなかったのと、部外者に大城が待ち伏せしていると気付かれたくないため、地味で化粧っけのない格好で、帽子まで忍ばせていた。

「なんか、デート行くみたいじゃないか。その格好。これで渋谷とか歩いたら、スカウトされそうだな。ってか、俺着替えてきた方が良いかな?」

「別に良いわよ。とりあえず暑いからどっかお店でも入ろう」

「お高いのは無理だぞ」

「普通のところで良いわよ」


 二人は近くの喫茶店に入った。店内は日曜日のためか、比較的混み合っていたが、運良くほとんど待たずに席へと案内された。

「一応言っておくけど、おごるほどお金持ってないからな」

「いや、こっちから誘ったし、その前にデートじゃないし、出してもらおうとは思ってないわよ」

「そいつは助かります」

 優梨はサンドイッチセットを、風岡は鉄板ナポリタンを注文した。

「で、本題に入りたいんだけど……」

「そうそう。わざわざ待ち伏せしてまで、俺と話したいことって何だ?」

「待ち伏せだなんて、人聞き悪いな」

 実際、待ち伏せ以外の何物でもなかったから、反論はできなかった。優梨は続けた。

「こないだの木曜日、電車の中で会った彼のことだけど」

「彼? あ、あーあー、影浦のことか?」

「そうよ。その人のことなんだけど」

 影浦のことを話題にするだけで、身体の内側から熱くなってくるものを感じたが、何とか表情に現れないようにできる限り平静を装った。

「あの人って、解離性同一性障害でしょ」

 瞬時に、風岡の表情が曇った。

「……」

「え? 何か、マズいこと私言っちゃったかな?」風岡の沈黙に優梨は戸惑った。

「……何でそう思った?」

「いや、だってあの、ものすごい態度の豹変っぷりだったし。表情も全然、同一人物とは思えないくらいだったでしょ。それに利き手が左から右に変わったような気がするんだよね。決め手は、貴方が『ユウヤのほうだな』と呟いたから。あれは統合失調症とかではなくて、きっとホスト人格と交代人格が存在していて、それぞれに名前が存在していると思ったわけ。いわゆる多重人格障害だよね」

 『多重人格障害』は学術的にはかつての呼び名であり、現在の名称は『解離性同一性障害(Dissociativeディソウシエイティヴ identityアイデンティティ disorderディスオーダー)』である。『解離性障害』と呼ばれるカテゴリの病態の中で、最も重いものである。

「やれやれ、俺の発言が決め手とは、かつだった。ご明察だな。さすがは天才の大城優梨さんだ」

「やっぱりその通りだった?」

「その通りだよ。バレてしまったな。影浦はもともと『ゆう』じゃなくて『あきら』というのが本当の名前だ」

 バレてしまったことが良くなかったことなのだろうか。風岡はやや投げやりな口調で返したので気にはなったが、我慢しきれずに優梨は矢継やつばやに質問を浴びせた。

「影浦くんには、人格はいくつあるの? 過去になんか心的外傷トラウマを抱えていたの? 人格の統合は図れているの?」

「やめてくれ、大城。お医者さんのご令嬢で興味津々なのは分かる。分かるんだけど、これはあいつにとってはかなりデリケートな問題なんだ」

 風岡の口調が強くなった。二人の注文した食事が出来上がり、ウェイトレスによって運ばれてきた。

「でも私は、医者志望として放っておけないの。何とかしてあげたいの。彼の力になりたいの!」

「いや、それでもダメなんだ。影浦は実際にもう心療科と臨床心理士の先生とで、カウンセリングを受けている。そして俺はいま、あいつのいちばんの親友として、影浦瑛と交代人格との付き合い方などについても忠告を受けている。俺は影浦の表の顔も裏の顔も好きだ。それぞれに良さがあるんだ。だから平等に仲良くしているつもりだ。本人が自分の病気についてどういう風に考えているかまでは分からないけど、少なくとも自分の過去のことについて、俺以外の誰かに話しているところは見たことがない。きっと、今まで自分の特殊な性格のせいで、友達と仲良くなることができなくて、恐れているんだと思う。影浦がやっぱり過去のことをひた隠しにしようとしていて、俺がいくら医者の卵である大城であっても、許可も得ずに勝手に話してしまってはあいつとの信用問題に関わる。影浦が俺のことを友人として信頼してくれている限り、それを傷つけるような真似はしたくない。どうしても知りたいのなら、影浦自身から教えてもらうべきだと思う」

「そっか……」

 優梨は非常に悲しくなってきた。いや、悲しさだけでなく無念さと悔しさと淋しさとねたましさとが複雑に混ざり合ったような表現し難い心苦しさであった。自分の家系からしても、そして成績からしても、ほぼ医者になることが確約されていて、今でも医学的な予備知識を持ち合わせておきながら、たった一人の人間の心の支えにもなれなんなんて、と思った。かたや、医者志望では(たぶん)ない風岡の方が、精神科サイドから全幅の信頼を寄せられているというのか。

「悪いけど、今日のところは引き取ってくれないか」

「ごめんなさい……」

「申し訳ない。実は昨日出かけていたのは、影浦が受診する日だったから、それに付いていっただけなんだよ。そのあと、寄り道してたら遅くなっちゃったんだけど」

「そうだったんだね……」

 優梨の返事も途中から覇気のない声になってきていた。影浦に会えない悲しさか、あるいは自分の浅はかさからか、涙がこみ上げてきて、自然とうなれてしまってきていた。一方の風岡は、目の前にいる女子高生を泣かせてしまった罪悪感と体裁の悪さにさいなまれたかように、どもりながら口を開いた。

「か、影浦に聞いてみようか? 大城が会いたがってる、と」

 風岡は、『どうしても』の部分にアクセントを置いた。

「ほ、本当に?」

 優梨は涙目で顔を上げた。

「俺だってただの意地悪じゃないよ。仮にも昔のクラスメイトだろう? 協力できる範囲でするよ。ただ、あいつはバイトやってて、なかなか予定が合うかどうか分からないけどな」

 『仮にも』の意味がよく分からなかったが黙っておいた。それにしても影浦の高校はアルバイトが可能なのかと思った。

「あ、ありがとう」

「だってさ、顔に『好きです』って書いてあるからしょうがない。俺、彼女がいたことがないから女心を読む自信はないけど、大城はなんか分かりやすいな」

 優梨は涙目を見られたのみならず、好意を抱いていることがバレバレであったことに、顔から火が出る思いであった。無論、耳や眼だけでなく顔全体が真っ赤っ赤で、冷房の効いた空間に居ながら汗までかいていた。通常なら反駁はんばくしたいところであったが、今はそれ以上に歓びと興奮と感謝の気持ちでいっぱいであった。

 この気持ちが、ただの使命感ではなくて恋心であることを、遅ればせながら自分でも認めざるを得ない状況になってきていた。そして、自分だけではなくて風岡や陽花にも認知されはじめていた。恋心を悟られるのはとても恥ずかしかった。しかし、大袈裟かもしれないが、暗転しかけた部屋に一筋の希望の光が差し込むような、少しだけ晴れやかな気分になった。影浦はどうか快諾してくれるだろうか。何としても彼にもう一度会いたいと強く願った。

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