第一章 邂逅(カイコウ)  4 優梨

 結局のところ、陽花の指摘は図星であった。

 あの後、スターバックスで陽花とたわいのない話をしたが、どんな話題だったかあまり思い出せないほどであった。そして、家に帰ってきてから一日半もの間、ずっとあの影浦という男が気になって仕方がなかった。しかし、ルックスが良いとか身長が高いとか、そういったことは優梨にとってまさしく二の次であった。あの程度の(と言っては失礼極まりないが)イケメンはいくらでもいると思うし、実際それ以上にカッコいい男から、街中でお誘いを受けることも多かった。ちなみに、基本的にお断りしているが。

 しかし、自覚的にだけでなく他覚的にも顔に紅潮するほどまでに、特定の異性を意識し能動的な気持ちになるのは初めてかもしれない。いや、初恋自体は既に小学校五年生で経験済みであった。でもそれは、決して自分にアクションを起こさせるものではなく、極めて一方通行ないわゆる片想いのまま卒業を迎えた。

 それから女子中学校、そして女子高校に入学。成長とともに女性としての美しさにいっそう磨きがかかっても、その環境ゆえ異性の経験値は高くはなかった。合コンをよくやっている同級生ももちろんいるのだが、優梨には無縁の世界であった。少なくとも中学生時代までは弟や父親や教師以外の異性とまともに話したことはなかったであろう。優梨はLGBTと呼ばれる性的マイノリティーではない。恋愛対象は男性のみであり、しっかり恋愛に興味を持っている。ちゃんと自慰行為もしている。今となっては、世の中優梨ほどの美貌を兼ね備えた女性をみすみす逃すわけもなく、数回は男性とデートしたことはあったが、交際に至るまで優梨を燃え上がらせるものではなかった。ただ今回のこれほどまでの気持ちは、初恋を超えるほど熱く抑制しきれない、初めての感情だと思う。不覚にもこれが本当の恋心なのだろうか。

 ただ、理由は至って明確であった。あの影浦という男は、おそらく何かしらの精神障害を抱えている。あの短時間の出来事で分かった。『かい性同一性せいどういつせいしょうがい』ではなかろうか。実は以前、精神医学の書物を父の書斎から失敬して読んで、興味を抱いたのだ。それによって、自分も精神科に従事したいと思っていたところだ。

 影浦にはきっと心の奥深くに、やみを抱えているような気がする。もしそうであれば、どうしても放っておけない気持ちになってしまっていた。幸い、影浦の友人である風岡とは、顔見知りだ。連絡先まではさすがに分からないが、小学校の頃は他のクラスメイトと共に彼の自宅に上がったことがある。住所さえ変わっていなければ、きっとそこで情報が得られるだろう。もし引っ越していたりしても、止社高校に行けば風岡に会えるはずだ。あわよくば、影浦にいきなり直接コンタクトを図れるかもしれない。そういう確固たる自信が優梨の中で湧いてきた。

「影浦くんのことを、風岡くんから聞き出さなきゃ」

 優梨は、思わず部屋で独り言を呟いていた。


 土曜日、優梨はさっそく、昔の記憶をたどって風岡の自宅前に来ていた。優梨の記憶に知る風岡の自宅はマンションの一室であり、優梨の自宅から徒歩でも行ける範囲である。同じ小学校に通っていて良かったと心から思った。まずは容易な手段で風岡に会おうと試みた。しかし、閑静な住宅街で、自分のような妙齢の女性が道端で何時間も待ち伏せすることの不自然さに限界を感じてきたし、何よりも暑さが身に堪えた。本当は部屋番号を押して(優梨は何号室かまで記憶していた)、仮に留守でも、大城という名前を告げば、風岡の母は憶えていてくれるかもしれないから、風岡に約束を取り付けてくれるかもしれないと思ったが、引っ越ししているかもしれない。できれば体裁の悪い真似はしたくなかった。

 そこで、風岡が地下鉄通学していると仮定した場合、最寄りとなるてんちょう駅の出入口の階段のすぐそばの喫茶店に入り、窓側の席に座って監視することとした。これなら、長時間でも自然に、かつ楽に待ち伏せできると思った。何だか、探偵業にでもいたかという気分になったが、そこまでさせるくらい、自分でも不思議な衝動に駆られていた。よくよく考えたら、学校が休みのはずの土曜日に風岡が地下鉄で出かけている保証などどこにもない自分の浅はかさに気付いた。影浦を想う気持ちは、優梨の冷静な判断能力を低下させているようだ。しかし、もう夏休み前あと残りわずかの日数しかないのに、平日に自分の学校が終わってから止社高校に移動して、そこで下校時の風岡にアプローチを試みるのもリスクが大きい気がしてきた。止社高校の時間割など優梨は知るよしもないし、もし行った先ですでに風岡らが帰ってしまった後ならば、徒労に終わる。全然関係ない生徒に風岡や影浦のことを訊いて回るのも、おくれする。夏休みまでの日数が少ないので、何とか来週に突入する前、できれば今日か明日に情報を得たい。と言いながら、本音は来週までこの膨れ上がった気持ちを待たせることなど到底できないのだと思った。最悪なのは、実は風岡が違う場所に引っ越していて情報が得られないまま夏休みに入ってしまった場合だ。これではもうどうすることもできない。行動開始初日ながら、時間だけが経過してなかなか風岡が現れないことにだんだん焦燥を感じてきた。思えば、家が近所で学校も地下鉄で同じ方面でありながら、高校に入りこれまで一度たりともばったり会ったこともないことを思い出すと、可能性の低さを認識せざるを得なくなった。


 とうとう夜の九時を過ぎてしまい、そろそろ諦めて帰ろうとしたとき、風岡とおぼしき学生服を着た人影を確認した。思わず飛び出すようにして席を立ち、お金を払って釣り銭も受け取らずに店を出ては急いで追いかけて声をかけた。

「風岡くん!」

 呼び止められた男は慌てて振り返った。紛れもなく風岡であった。影浦は、いない。風岡は、そんな優梨の焦燥や緊張にまったく気付かないかのように、あくびをしながら少々眠たそうに応答した。

「ん? あれ? 大城じゃないか。また会ったな。どうした? 走ってきて。こんな時間に何か用か?」

「あなたに話があるから来た。いろいろ訊きたいことがあって」

「こんな時間にか? お嬢様なのに、門限は良いのか?」

「うん。うちは、試験で学年一位を取ったら門限なくすという約束なの。約束どおり一学期の中間試験で一位だったから、時間は気にしなくても良いの」

 優梨がそう答えると、風岡は目を丸くした。

「すごい約束だな。そんでもって、それをちゃんと遂行する大城もすごいよ。でもなぁ、今から長くなりそうなら、明日にしようぜ。俺もちょっと今日はお疲れだし眠たいし、こんな時間に制服姿じゃ、補導されてしまう」

 残念だったが、風岡の言うことはもっともだと思った。

「わかった。じゃ、風岡くんの連絡先を教えて」

 風岡の高校って土曜日もこんな遅くまで学校があるのかはなはだ疑問だったが、訊かないことにした。優梨と風岡は、互いのスマートフォンの番号を交換した。どうやら風岡は小学校時代から引っ越していなかったようだ。小学校卒業してから四年以上経った今もご近所さんであった。

 さっそく明日午後一時に会うようアポイントを取り付けた。風岡は勢いに押されたかのように少しビックリしていたようだが、無理もない話だろう。

 駅から帰るとき、汗をかいていたことに気がついた。夜で涼しくなってきた時間帯であり、間違いなく気温以外の要素によって体調の変化を来していた。抑えきれない胸の高鳴りを覚えながら、それが風岡にバレていないかどうか少々気がかりだった。影浦に会うわけではないのに、とにかく明日が待ち遠しかった。

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