第一章 邂逅(カイコウ)

第一章 邂逅(カイコウ)  1 優梨

 七月のある梅雨晴れの蒸し暑い木曜日のことであった。蝉の声はまだうるさくなっていなかったが、じりじりと太陽は照りつけており、いよいよ気温は三十度を超えこれから夏真っ盛りを迎えようとしていた。さらに、ここ名古屋市内は湿度も高く、半袖一枚でも汗ばむには充分の気候になりつつあった。

 大城おおしろゆうは高校二年生の一学期の期末テストが終わり、確かな手応えを感じていた。今回も中間考査に引き続いて学年一位が取れそうな予感だった。一位を取るのは自身の名誉のためなどではなくて、ただ単にその報酬として次回の試験の成績発表まで門限がなくなるという親との約束のためだけであった。もともと束縛が嫌いな優梨にとって時間から解放されるというのは魅力的なことであった。不良少女とか言われるかもしれないが、成績がトップであれば親といえども文句を言われる筋合いはなかろう。さすがに制服を着て深夜に出歩く真似はしないが、少し大人びた容姿の自分なら私服ではまず警官に呼び止められることもあるまい。かと言って、別に夜遊びが好きなわけでも外泊するわけでも、ましてや不純異性交遊をするわけでもない。しかも、最近名古屋市内で若い女性が理由なく襲われる事件が起きているらしいので、もちろん夜遅くの外出は危険だと分かってはいる。しかし、時間的拘束から解き放たれるということは厳しいしつけのもとで育った優梨にとってのしょうけいであり、ゆえに勉強へのモチベーションに直結するものだった。

 優梨は学校を出て徒歩で最寄りの地下鉄駅に向かっていた。そして、これから高校のクラスメイトで無二の親友である河原かわはらはると、名古屋駅で買い物と、カフェで女子トークに花を咲かせる予定であり、気分が高揚していた。普段は優梨が合唱部、陽花がバレーボール部の部活動のため、なかなか帰る時間が合わない。予備校では同じクラスだが講義が終わるのが遅く、さすがにそのあとどこかに遊びに行くことはしない。試験期間中は最終日も含めて午前中で学校は終わるうえに、部活動は休みになるため、進学校といえどもどの生徒もだいたい打ち上げに明け暮れるのだ。優梨たちもごぶんれずそうであった。地下ちかてつひがし山線やません高畑たかばた方面に乗って目的地に向かった。サラリーマンや、同じような学生たちで混み合い、座席に座れなくても、楽しみな気持ちが先行していて気にならなかった。早くも車内の女子トークが幕開けされた。

「今日のテスト、優梨はどうせまた全科目満点なんだよね、いいないいな」

「何言ってるの!? そんなことあるわけないでしょ?? 自信があるのは化学、生物と数学くらいよ」

 優梨も陽花も理系科目選択である。

「それが、自信のない科目でも優梨は90点取っちゃうんだからな。本当に脳みそ分けて欲しいくらいだよ。さすがは特待生さん」

おだてたところで、スターバックスのマンゴーフラペチーノ、おごったりしないからね」

魂胆こんたんバレたか。ひゃはは!」

 電車の走行音がやかましくても、陽花は声が大きくて高いためとてもよく通った。しかし、優梨は一瞬、鋭い視線を感じたような気がして身震いした。夏服で多少肌の露出が多いとはいえ、さらには自分たちのスタイルの良さには少々の自負があるとはいえ、下心を感じるような視線ではまったくなく、もっと不穏なものであった。むしろ、若干殺気立った気配をも伴っていた。

「どうしたの?」

「いや、ちょっとエアコンが効きすぎていたかも」

 優梨は戸惑いを隠すように続けた。実際のところ、汗ばんだ後での冷気の直撃が却って寒さを感じさせていた。

「私は夏の期間限定のクールライムを飲もうと思っていたけど、車内で身体冷えちゃいそうだからどうしようかな? 夏だしホットで期間限定ものはさすがにないよね」

「本当に、優梨は優等生なのに、期間限定ものに目がないのね。笑えるー」

「成績とそれとは関係ないでしょ!?」

 車内で声高に談笑していたそのとき、鋭い視線を感じたその先から、突然男の声で怒号が浴びせられた。

「うるせぇ!! 静かにしねぇと殴り倒すぞ!」

 最初は自分たちに対してのものではないかと思ったが、いきなり食って掛かるように学生服を着たちょう身痩しんそうの男が近付いてきた。眉間にしわを寄せ、ものすごい剣幕でけてきた。一見おとなしそうに見える黒髪のぼつ性的せいてきな髪型だが、眉にかかる前髪と顔の彫りの深さが、その表情にいっそう迫力を持たせた。他の乗客も、突然の出来事にこちらを一斉に見ていた。

「何よ!」と陽花が、応戦するような返事をした。

「お前らが喧しいんだよ!!」

 ふんの形相で、言った通り今にも左腕を振り上げて殴りかかってきそうな勢いになったとき、もう一人、別の学生服の男が現れた。

「お? 影浦かげうらじゃないか! あれ? もしかして大城か?」と言った後、「ユウヤのほうだな」と付け加えた。後から現れた男はネープレスの髪型で、怒鳴った男よりも身長は少しだけ低めだが、代わりに身体つきは太く筋肉質であるように見えた。表情はまるで怒声が無かったかのように穏やかで、かつ爽やかそのものであった。優梨はその男を見た覚えがあった。思わず目を丸くする。

「あなたは……あ、もしかして風岡かざおかくん?」と優梨は問うた。

「まあまあ、影浦、落ち着きなって」となだめてから、優梨の問いかけに応じた。「おう! 久しぶりだな、大城。元気か?」

「誰だ、お前の知り合いか?」すごんだ声で影浦と呼ばれた男は問う。

「そうなんだよ! 小学校のときの同級生なんだよ」

 風岡は、笑って答えた。

「本当に久しぶりね、風岡くん。あなたはどこに通ってるの?」

とめやしろ高校だよ。こいつと同級生。大城は?」

滄洋女そうようじょよ。中高一貫だから知っているかと思った」

「そうだったね! さすがは滄女そうじょ! さすがは名門! そしてお嬢様! ところで何で一緒にいるの? 影浦の知り合い?」

 風岡が介入したおかげで、却って賑々にぎにぎしくなってしまった。風岡もまた声が大きかった。事態はなごやかに収束したように見えたが、今度は陽花が剣幕を見せながらばっさりと言った。

「知り合いじゃないわよ! あんた何様? 少ししゃべってただけじゃないの!? そんなに大声で怒って! あんたこそ迷惑だわ! 謝りなさいよ!」

「いや、ホントごめんな。許してくれんか」と、代わりに風岡が謝った。でも陽花も引き下がらなかった。

「あんたじゃなくて、隣のあんたよ。謝りなさいよ!」

 陽花は青筋を立てながら、風岡の隣にいる影浦と呼ばれた男を指差した。

 影浦と呼ばれた男は、どういうわけか痛そうに頭を抱えていた。その後、顔を上げた表情は別人のように穏やかなものとなっていた。

「あ、お二人ともごめんなさい。大声出してしまって。ビックリさせちゃいましたよね? 風岡くん、仲裁してくれてありがとう」と言って影浦は、風岡に握手を求めようと右手を差し出した。風岡はさりげなく応じた。

「大丈夫だよ。ま、そんなところで。お二人さんとも邪魔して悪かったな! ごめんな! あれ? 大城はここで降りないのか? そっか、じゃあな!」

 気付くと電車はさかえ駅に到着していて、風岡と影浦と呼ばれた男は、にこやかに電車を降りていった。


 陽花は、きつねにつままれたような顔をしていた。

「何? 何? あの人、最後急に態度を変えたね!」

 陽花は戸惑いを隠しきれない表情であった。

「そうね、変わった人。謝ってくれたからいいけど……」

「いや、いくら謝ったってあの怒り方はちょっとおかしいわよ。異常よ。ちょっと長身で顔が良いかもしれないけど、アタシはムカつくな」

「確かに、顔はカッコ良かったね……」優梨は素直に感想を述べた。

「あら。優梨にしては、男のルックス褒めるのなんて珍しいわね! でも、あの性格じゃダメよ。あんな爆竹みたいな男、手に余るわ。まだ優梨の知り合いの、カザ……ナントカという男の方がいいわよ。うまいこと仲裁してくれて」

「風岡くんのこと? あの人は小学校時代の同級生で、家が近所だし。クラスも一緒のときはよく学校で遊んだり喧嘩したりしたな。まぁ、ちょこっと変わってるけど、根はいい人だから人気者だった覚えがあるよ。ってか、あれ仲裁っていうのかな? 却って風岡くんが来てからの方が確実にうるさかったよね?」

「確かにそうかも! ひゃはは!」

 今度は大声で会話しても、それをとがめる者は現れなかった。ふし〜名古屋駅間の急カーブでさすがの陽花の声も掻き消されていたかもしれない。

 そのような会話を続けているうちに、名古屋駅に到着した。先ほどの出来事を忘れるかのように意気揚々としている陽花や、何事もなかったかのように足早に階段に消え去っていく他の大勢の乗客らとは対照的に、優梨は今の一件で何か深く考えさせられるものがあった。

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