第四十二章 9

 時折、思考を取り戻すこともある。

 多くの時間は、狂気と怨念に支配されて、正常な思考など保てない。情念そのものが蠢いている状態だ。

 思考を取り戻した時、自分がそんな存在になったことも自覚し、悲嘆に暮れる。短い時だけ許された正気の時間で、思い出に浸りながら、微かな悦びと多くの悲しみと怒りに震え、やがてまた怨嗟の塊となって蠢く。


「キーッ!」


 彼女は叫ぶ。自分の正気を繋ぎ止めようとするかの如く。誰かに気付いて欲しいと言わんかの如く。


 自分は何故ここにいるのか? ここはどこなのか? 考えても理解できないことばかり。しかしわかっていることも幾つかある。何より重要なのは、恨みを晴らすまでは、この世に留まり続けるつもりでいるということ。

 そして彼女は出会った。自分がよく知る懐かしい者二人と。


(みっちゃん……タカシ君……あたしももうすぐ……そっちへ行けるかも……)


 それは果たして如何なる巡り合せなのか、運命の導きによる必然だったのか、いずれにせよ、想いが果たされる機はやってきた。


「キーッ!」


 思考が残っているうちにもう一度叫ぶ。もっとも狂気と怨嗟に支配されても、彼女は叫び続けている。意味も無く叫んでいる。しかし今の叫び声には確かな意味が込められている。

 それは復讐と解放の時への歓喜の叫びであり、決意の叫びだ。


***


「かくかくしかじか――って話さ」


 犬飼はロビーでバイパーに、事情の全てを説明した。

 それから巨大ダンボールの中味をバイパーに見せる。箱の底の裏に隠したものをだ。


「こんなもん、どうするんだ?」


 ガラクタのようなものを見て、バイパーが訝る。


「武器のつもりだぞ。これで奴等と戦うつもりだった」

「これが武器か」


 どう見てもガラクタであり、武器には見えないが、犬飼が言い切るのだからそうなのだろうと、バイパーは納得する。


「手を汚すのは俺がやる。バイパーは護衛してくれるだけでいいよ」

「その護衛で俺だって働くわけだから、その台詞はおかしい」

「そうだったな。まあホテルの名の如く益荒男様が来てくれて助かるよ」

「マスラオって普段使わん言葉だな。ホテル名にするセンスもわからんが」

「マスラオホテルってネーミングがホモくせーし、そういう関係のラブホみたくも思えるしな」

「その発言、差別くさくね?」


 軽口をたたきあいながら、二人はロビー内を歩く。正確には、犬飼がロビーをうろうろしているので、バイパーがついていってるだけであるが。


「馬鹿言うな、いちいち差別だと意識することこそ差別だし、そんな意識にばかり持っていく奴こそ、俺から言わせれば差別主義者レイシストだね。LGBTは一つの個性だと思っているし、俺に偏見の目は無いよ。もちろん差別もしねーし。その個性を扱う差別だなんていう、ねじくれた捉え方する奴が社会にいる限り、差別はされ続けるだろうな。理屈でも感情でも、ただの個性として割り切って何とも思わない、俺のような人間ばかりになってこそ、差別は消える」

「その理屈だと、つまり俺は差別の片棒担ぎだったってのか……」


 子供の頃に、散々移民差別の的となっていたバイパーからすると、犬飼の主張は非常に受け入れがたいものがあったが、一方で理はかなっていると認めてもいた。


「そうなるな。差別を意識している方が、差別を助長する。我こそは被差別者様だとギャーギャー喚いちまえば、普通の奴等からするとすっげーうざく感じるし、煙たがられるのが当たり前なんだよ。嫌うな、差別するなと言っても無理だ。嫌われるようなことを自分でしておいて、俺を嫌うな差別するななんてほざく奴なんて、そりゃ嫌って当然だろ。弱者の立場を盾に取った、ただの嫌な奴だからな」

「だからって差別されたら黙ってろっていうのか?」


 犬飼が続けて口にした理屈に、バイパーは反発を覚える。


「程度があるってことだ。明らかに人を傷つける不当な差別なのか、差別とは思えないものも勝手に傷ついたと訴えて差別扱いするか。そういう話を俺はしているんだぜ?」

「なるほど、悪かった」


 犬飼がやんわりとした口調で言い、バイパーは前髪を払いつつ謝罪する。


「そもそも嫌うのと差別するのはまた、違う問題でもあるけどな。一部の御方達からすると、嫌うことと差別が一緒くただが。ま、そんな糞みてーな奴等に俺の小説は叩かれまくったから、その手の連中は反吐が出るほど大嫌いだよ」

「叩くのはやりすぎかもしれんが、嫌う人間の気持ちはわかるぞ。正直俺はお前の小説、あんまり好きじゃねー所もあるからな。たまに差別を肯定的に書いているのが、読んでてしんどいぜ。特にひどかったのが、『移民差別推奨委員会』だ」


 バイパーが読んだその本は、移民と差別をテーマに扱った小説であったが、過激なタイトル通り、移民への差別を否定せずに肯定的に書くという、とんでもない代物だった。

 移民の犯罪率は実際高い。移民に関わって犯罪に巻き込まれたくないと、差別的な接し方をする人を責める権利など、誰にも無い。それは自身の安全の確保のためなのだからと力説する内容が、差別の肯定であるとされ、犬飼の書いた本の中でも、かなり問題視された本である。そして売れた本でもあった。


 バイパー自身も移民の血を引いているせいで、散々嫌な想いをした立場からすると、読んでいて非常に気分が悪くて仕方が無かった。


「あの小説は冗談半分、本気半分だ。差別がいけないことだなんて当然だけどさ、その一方で、差別と安全を秤にかけたら、大概の人間が安全を選ぶだろ。脳みそお花畑な奴等の非難なんざものともせず、平然と差別を行うようになっちまう。それを皮肉ったわけだよ。命と天秤にかけても差別しないという人は御立派かもしれないが、そんな命知らずの善人をデフォルトにされても困る」

「その皮肉に一理あるからこそ、そういう立場の者からすると辛いんだよ。で、で、いつまでくっちゃべって、ここをうろうろしている気だ?」


 いつまで経ってもロビーから動かず、何かを探しているかのようにうろうろしている犬飼を訝るバイパー。


「俺の行動はそこら中にあるカメラで始終監視されてるから、なるべく焦らしていく方向でいく。制限時間もオーバーしまくってな」

「制限時間オーバーして刺客が増えても、俺に対処させるってことか」

「刺客増える云々のルールも、バイパーが来てくれたおかげで、わりと無意味になったぜ。ま、奴等もそれら合わせて何か対策組んでくるだろうが」


 言いつつ、犬飼は受付のテーブルの内側に入り込んだ所で足を止め、置いてあったメモをバイパーに見せる。


「次のミッションは……会議室だとよ」

「血恵の実とやらは読んでないけど、どういう流れなんだ?」

「後半になるに連れ、わりと危険なミッションになっていく。ただ移動するだけなのは最初のチュートリアルだけだ。で、毎回デスゲームさせるんだが、その間に、俺に順番に会わせたい奴がいると思われる。多分、俺に恨みを抱いている奴。多分そいつらとも対戦することになる」


 その戦いのためにこんな舞台を用意されたのではないかと、犬飼は見ている。


 それから二人は二階会議室へと移動した。移動の途中、犬飼は部屋を見て回っていた。ヴァンダム達か、あるいはその私兵が潜んでいないかと、気配を探っていた。


(簡単にわかるような場所にはやっぱりいないか……? しかし潜むとすればどこに? 俺だったら隠し部屋を作るか、部屋に穴を開けてちょくちょくと拠点を移動するが)


 しかしそんなことをやられては、潜んでいる部屋を探り当てるのは、非常に困難になる。しかも探していることを悟られずに、探さなくてはならない。もし自分が探っていることがわかれば、潜んでいる部屋を急襲するのはほぼ不可能だ。


(とはいえ、そんなことをしなくても、向こうから果し合いをしに来てくれるなら……)


 いろいろ考えているうちに、会議室へと着いた。ドアの内側からは、人の気配がある。

 扉を開け、中にいた人物を見て、犬飼は驚いた。犬飼のよく知る人物に酷似している。若いし、少しスマートな体型をしているし、雰囲気や人相は別物だが、顔の造詣はそっくりだ。


「ようこそ……。随分遅いな」


 犬飼を睨みつけ、肝杉遥善は口を開く。


「お前……まさか肝杉の息子とか?」

「そうだ。肝杉遥善。よく似ているって言われるよ。中味は……多分似てないと思うけど」


 驚いている犬飼に、遥善が自己紹介する。


「父親の仇討ちか……」


 後ろめたさを覚える犬飼。父親の肝杉柳膳は、殺した所で良心の呵責などまるでなかったが、その身内が恨んでいるとなると、犬飼も良心が疼いてしまう。


「俺の父親は、俺が十二の頃に離婚して、家を出て行った。家にまで嫌がらせしてくる奴がいて、それが理由で母親とよく喧嘩するようになって……。でも離婚した後も、よく俺に会いにきてくれた。父がどういう人間かは俺も知っている。でも、仕事の父はともかくとして、父親としては、とてもいい父親だったんだ」

「そっかー。でも、いくらお前にとっていい父親だろうと、お前の父親がやったことの数々は、とても最低だったんだ。今頃間違いなく地獄に落ちてるだろうよ」


 内心の後ろめたさを塗りつぶすかの如く、嘲笑を浮かべて罵る犬飼。


「そうだろうな。でもあんたも地獄に落ちてほしいよ。あんたは俺の父親よりずっと悪党じゃないか」


 真顔のまま、遥善は吐き捨てる。


「ま、いずれは死ぬさ。そして、ろくな死に方しねーとも思ってるよ」

「今死んでくれ。ここから本番のミッションだ。あんたが苦しんで死ぬ前に、肝杉柳膳の息子も、あんたを恨んで、この復讐に参加していることを、あんたに知らせたくてここに来た」

「そんなこと堂々と言っていいのか? この会話は録音してあるぜ? 俺が死んでもバイパーに渡して全部曝露してもらうのもいいかもな」

「……」


 会話が録音されていることすら頭が回っていなかったようで、遥善は言葉を失っていた。あからさまに表情にも動揺の色が見えている。


(うろたえてる顔も、父親そっくりだな)


 そう思った犬飼だが、そこまで言うと意地が悪すぎる気がしたので、口にするのはやめておいた。もっともそれ以前に、散々意地の悪い発言をしているような気もしたが。


(しかし顔は似ていても、まるで別人だわ。嫌な奴ってのは大体、嫌なオーラを放ってるし、口を開かなくてもわかっちまう。人相や所作にも現れる。もちろん言動にもな。あの肝杉にはそれらが有りまくりだったが、息子のこいつには、それが一切無い。父親としては良い奴だったからこそ、まともに育ったのかな……)


 そう意識すると、いろいろと複雑な犬飼であった。

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